2006年04月10日

米が英に突きつけたハル・ノート(EJ1812号)

 ブレトン・ウッズ会議の結果、為替レートを安定させて自由貿
易を発展させるために、次の2つの機関が設立されたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.国際通貨基金 ・・・・・・・・  IMF
   2.国際復興開発銀行(世銀) ・・ IBRD
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 国際通貨基金は短期的な資金を、国際復興開発銀行−−世界銀
行は長期的な資金を援助する機関です。そしてこの体制をブレト
ン・ウッズ体制というのです。ブレトン・ウッズ体制では、金だ
けを国際通貨とする金本位制から、ドルを基軸通貨とする制度を
作り、ドルを金と並ぶ国際通貨としたのです。
 1930年代から40年代にかけて、世界のほとんどの金は米
国に集中しており、米国は圧倒的な経済力を誇っていたのです。
したがって、その金をベースにして発行されたドルは、金と同等
の価値があったといえます。このブレトン・ウッズ体制のことを
「金・ドル本位制」というのです。
 ブレトン・ウッズ会議において、米国は英国に対して非常に攻
撃的であり、その要求は呵責のないものだったということについ
ては既に述べました。われわれ日本人から見ると、米英両国は仲
の良い一枚岩の国のように見えますが、当時の状況はそうではな
かったようなのです。
 谷口智彦氏は、1930年代の米英の関係を次のように表現し
ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 現実の米英は、およそ一枚岩などではなかった。緩やかな利益
 共同体ですらなく、ワシントンとロンドンの間にくすぶってい
 たのは、一つのあからさまの敵対感情である。32年、オタワ
 会議によってつくられた体制によって、大英帝国は「情緒の帝
 国」から「通商政治同盟」へ脱皮したと言われる。以来太西洋
 の両岸をはさんで、貿易戦争、通貨切り下げ戦争は熾烈に戦わ
 れていた。
     ――谷口智彦著、『通貨燃ゆ/円・元・ドル・ユーロ
             の同時代史』(日本経済新聞社刊)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうしてこうなったのでしょうか。
 それは、上記のオタワ協定――1932年に英国が植民地諸国
に対して実施した「帝国特恵関税システム」が原因であったとい
えます。このシステムはカナダのオタワで行われた会議で決まっ
たのでので、「オタワ協定」と呼ばれているのです。
 1930年代というと、米国発の世界恐慌に対応するために、
世界の指導的な資本主義諸国は、自国の経済圏をブロック化し、
自国の製品の販売や原料・食糧を確保し,植民地や従属国への支
配と結合を強めたのです。英国の「帝国特恵関税システム」もそ
の一環なのです。
 米国は1930年代半ば以降になると、雇用問題を解決する方
策として、貿易の拡大に力を入れようとしたのですが、その目の
前に立ちふさがったのが、「帝国特恵関税システム」によって守
られた大英帝国のブロック経済圏だったのです。
 当時の米国の国務長官はコーデル・ハルという人物です。彼は
日本に対していわゆる「ハル・ノート」なるものを突きつけた人
物であり、これによって日本は「日米開戦やむなし」という決断
をするにいたったのです。ハル国務長官は徹底的な自由貿易主義
者として知られ、彼の指導力によって米国の「互恵通商協定法」
は実現したのです。
 米国の憲法は「通商に関する権限は議会にある」と定めている
のですが、「互恵通商協定法」では、関税に関する交渉権を期限
付きで議会から大統領に付託できるようになったのです。大統領
がこの権限を持つと、迅速に他国との通商協定が結べるようにな
ります。そして、政権が2国間や多国間で合意した通商協定につ
いて、議会は部分的な修正ができなくなり、一括して承認するか
どうかの賛否だけを審議することになるのです。
 日本が対米貿易摩擦において、何かというと米国にこの伝家の
宝刀をちらつかされ、窮地に立たされたことが何度もある、あの
通商権限です。現ブッシュ政権においてもこの権限は「トレード
・プロモーション・オーソリティ」として残っています。かつて
は「ファスト・トラック」と呼んでいた権限です。
 ところが欧州で戦争が勃発し、ナチス・ドイツによって英国は
苦戦を強いられるのです。英国の首相のチャーチルは、米国に対
し、参戦を促すとともに武器の貸与を申し出てきたのです。しか
し、このとき米国の世論は、欧州の戦争に介入することには一貫
して「ノー」の姿勢だったのです。
 英国からの武器貸与の申し入れに米国はこれを千載一遇の好機
としてとらえたのです。困窮している英国を支援する武器貸与法
によって、英国の通商に関する特権を剥奪し、英国の金とドル準
備を奪う絶好の機会であると考えたのです。
 1941年7月28日、米国から英国へ武器を貸与する協定を
結ぶにあたっての「考慮事項」に目を通したケインズは次のよう
にいったといいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     これはハル氏の狂気じみた提案である
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 その内容は、「帝国特恵関税システム」を米国商品に関しては
無効とし、通貨の自由な切り下げを許さないとするもので、平時
であれば英国が絶対に飲めない内容だったのです。しかし、その
ときの英国はそれを受け入れないと、国が崩壊しかねない危機に
あったのです。まさに米国による英国への最後通牒であり、「ハ
ル・ノート」だったといえます。
 1942年2月23日、英国は米国の要求をほぼ受け入れ、米
英相互援助協定が成立します。この日こそ米国が英国の通商覇権
を剥奪した日として記録されるべきです。 [日米関係の謎07]


≪画像および関連情報≫
 ・コーデル・ハル(1871〜1955)について
  米国の政治家。アメリカ合衆国国務長官(在職/1933〜
  1944)。弁護士・テネシー州議会議員・裁判官を経て、
  1907年、連邦下院議員に初当選。1931年には連邦上
  院議員に当選し、1933年から、ルーズベルト大統領の下
  で、11年間にわたって国務長官を務めた。この間、同大統
  領の意を体し対日交渉において、有名な『ハル・ノート』を
  日本政府に突き付け、日本政府をして「対米開戦止むなし」
  と言う方向へと誘導した。戦時中の1943年には、「国際
  連合」(The United Nations:「連合国」と邦訳するのが正
  しい)の設立宣言をしたモスクワ三国外相会議に出席し、そ
  の実現に尽力、「国連の父」と呼ばれた。1945年、「ノ
  ーベル平和賞」を受賞。

1812号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日米経済関係の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック