2006年04月07日

基軸通貨としてのドルの誕生(EJ1811号)

 ブレトン・ウッズ会議は、米国のニューハンプシャー州ブレト
ン・ウッズのワシントン山ホテルにおいて、1944年7月1日
〜22日までの22日間、文字通り連日連夜徹底的に真剣な討議
が行われたのです。
 米国は会議に先立つ3年5ヶ月前――日米開戦の一週間後から
そのための準備に着手し、構想を練りに練って会議に臨んでいる
のです。用意は周到だったのです。
 それにしても、1944年といえば、まだ対独、対日戦とも熾
烈を極めていたまさにそのさなかに、米英ら連合国側は、既に戦
争の勝利を見越して会議を開き、戦後の国際金融・経済秩序を論
じていたことになります。
 ブレトン・ウッズ会議の主役は、もちろん英国と米国ですが、
何といっても中心人物は次の2人だったのです。
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     英国:ジョイン・メイナード・ケインズ
     米国:ハリー・デクスター・ ホワイト
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 英国を代表するケインズは、この会議で米国代表のホワイトと
激しく渡り合い、結局ケインズ率いる英国は、圧倒的な国力を背
景にしたホワイトに完敗したのです。
 このとき、米国と英国の国力の差は米国が圧倒的であり、それ
に戦争でもドイツに英国は飢餓線上まで追い詰められ、国力を費
消しつくしていたのです。米国はそういう窮状にある英国から残
る力の大半を奪い取ったのです。
 その象徴ともいうべきものに、英国に対する「武器貸与法」が
あります。これは、英国首相チャーチルがドイツのUボート攻撃
から英商船を守るために、米大統領ルーズベルトに対し、50〜
60隻の駆逐艦を貸して欲しいと頼んだことがきっかけとなって
作られた法律です。
 武器貸与法は、歴史の教科書などでは米国の同盟国英国に対す
る寛大な援助策として描かれていますが、本当のところはそんな
キレイ事ではなく、このさいに英国から取れるものは取るという
米国のしたたかな計算があったのです。
 谷口氏の本によると、この法律は「1776号」という番号が
ついています。この番号はアメリカ合衆国独立・建国の年号なの
です。英国はかつての米国の宗主国であり、その宗主国を助けて
やる法律にわざわざこの番号を振るのは、それなりの思いがある
わけです。
 実際に米国は英国に対し、代償に英国領西インド諸島全部を寄
越せと迫るなどして、チャーチル英首相を激怒させているのです
が、1941年3月にこの法律が成立した後に英国はニューファ
ウンドランド島、バミューダ諸島、並びに西インド諸島における
基地使用権などを米国に譲り渡しています。さらに、米国に助け
てもらったことが、ブレトン・ウッズ会議における米国との交渉
にも大きな影を落としているのです。
 それは、会議が開催されて一週間後の1944年7月8日に米
英の間でひそかに歴史的な合意が行われたことによってもそれと
わかるのです。合意の内容は、IMF協定草案「第4条第1項」
の改正です。それは、金との兌換をドルについてのみ保証すると
いう内容です。
 それは基軸通貨がポンドからドルに変更されることを意味して
いたのです。それはその後続くことになるブレトン・ウッズ体制
の一番重要な骨格であったといえます。おそらくこれは会議が始
まる前から合意されていたものと思われます。このようにして、
ドルはこの時点で基軸通貨になったのです。
 それまで、英国が支配下に置いていたスターリング・ブロック
――自国通貨をポンドと連動させている国においては、ポンドの
信用は高く、文字通りポンドが基軸通貨だったのです。
 これに対してドルはその背後に巨額の金と対外投資能力は持っ
ていたとはいえ、ポンドの世界的信用には勝てない地域通貨に過
ぎなかったのです。それがブレトン・ウッズ会議においてはじめ
て基軸通貨として認知されたことになります。
 ところで、ブレトン・ウッズ会議の主役であるケインズとホワ
イトには、いくつかの点で共通項が多いのです。しかし、知名度
からいえば、当時も現在もケインズは著名な大経済学者であり、
この会議のメンバーは、委員会ではケインズと激しく渡り合って
もケインズに対して一定の尊敬の念を抱いていたと思われます。
 谷口氏の本にそれを示す描写があるので、ご紹介しておくこと
にします。
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 7月1日に始まった会議はほぼ所期どおりの成果を収め、22
 日土曜には打ち上げの夜会が大宴会場で催された。ケインズは
 一人、遅れて会場に入った。顔には疲れがにじみ出ている。普
 段以上に緩慢な動きで主賓席に歩み寄るのを、集まった数百人
 はしわぶき一つたてずに見つめている。と、誰言うとなく一人
 また一人立ち上がり、遂に会場全体が起立しケインズが席につ
 くまで見守った。
     ――谷口智彦著、『通貨燃ゆ/円・元・ドル・ユーロ
             の同時代史』(日本経済新聞社刊)
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 3週間続いた会議の期間中にケインズが目を通した書類はおよ
そ1000種類に及んだといわれます。そして、ロンドンの財務
省に出した長文の電報は100通以上になったといいます。ケイ
ンズは、文字通り体を張って祖国英国のために戦ったのです。と
くに「パックス・ブリタニカ」の光芒を最後まで絶やすまいとし
て、ケインズは全力を尽くしたのです。
 「パックス・ブリタニカ」というのは、19世紀半ばから19
世紀末にかけて、英国の覇権の下で、ヨーロッパが比較的平和で
あった時代のことをいい、古代ローマの「パックス・ロマーナ」
にならってこう呼ぶのです。  ・・・・・[日米関係の謎06]


≪画像および関連情報≫
 ・ウィンストン・チャーチルについて
  チャーチルは第2次世界大戦時の指導者として、非常に国民
  から敬愛されていた政治家であった。ビートルズなどで活躍
  したジョン・レノンのミドルネームである「ウィンストン」
  は、チャーチルのファーストネームを取ったものである。ま
  た、チャーチルは文才に優れ、『第2次世界大戦回顧録』な
  どの著作活動でも評価を受けた。2度目の首相在任中の19
  53年にはノーベル文学賞を受賞している。しかし、チャー
  チルは経済的関心を全く持たない人物であり、当時の英国に
  とっては大きなマイナスになった面がある。

1811号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日米経済関係の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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