2006年04月06日

ドルを基軸通貨にする戦略(EJ1810号)

 「マサチューセッツアベニュー・モデル」という為替理論があ
るそうです。この為替理論はかつての米クリントン政権の第T期
において、日本に対して使われた為替理論なのです。この理論を
簡単にいうと、次のようになります。
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  2割の円高を2年続ければ、経常収支のバランスは2割
  改善する。 ――マサチューセッツアベニュー・モデル
   ――谷口智彦著、『通貨燃ゆ/円・元・ドル・ユーロ
           の同時代史』(日本経済新聞社刊)
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 『通貨燃ゆ/円・元・ドル・ユーロの同時代史』『通貨燃ゆ/円・元・ドル・ユーロの同時代史』(日本経済新
聞社刊)の著者である谷口智彦氏は、上記において経済学が説明
できる部分は「れば」以降だけであり、その前の部分である「2
割の円高を2年続ける」については、国家の意思が決める――そ
のようにいっているのです。
 実際に1990年代の前半において、史上最高値の円高が現実
のものになっています。1995年夏の1ドル80円を切るあの
円高です。当時の日本は不況色を強めつつあり、円高にならなけ
ればならない状況ではなかったのです。つまり、経済学では説明
することのできない円高であったといえるのです。
 谷口氏は、この円高を「米国の強い意思」によるものであると
し、市場関係者がみなそれを前提として受け入れ、その期待を実
現するために行動したから起こしえたもの――そのようにいって
います。それは経済行為ではなく、権力行為そのものであるとい
うわけです。
 このように通貨の動向を左右するのは、市場の力ではなく、そ
の国の意思としてとらえる見方も必要であるということになりま
す。そして、このとき通貨は対日制裁のための武器として使われ
たのです。ちなみに「マサチューセッツアベニュー・モデル」は
あのポール・クルーグマン教授の考えたものなのです。
 「マサチューセッツアベニュー・モデル」が政策として実施さ
れた結果、日本の輸出企業の輸出採算は悪化したのです。そのた
め、輸出企業は東南アジア諸国や中国などに直接投資をはじめ、
製造拠点を移動させはじめたのです。まさに、クルーグマン学説
が説く通りに日本経済の構造変化がはじまったのです。
 さて、通貨を上記のような観点から考えたとき、ドルは過去2
回にわたって、米国の意思で大きく変貌しています。
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        第1回:ブレトン・ウッズ会議
        第2回:ニクソンの歴史的決断
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 このドルについての米国の2つの戦略によって、米国は覇権国
家としての基礎を築いたといえるのです。それはドルを「基軸通
貨」にする戦略であり、そのためのプランニングは、1941年
12月――日本軍による真珠湾攻撃の頃からはじめられたという
のですから驚きです。
 1941年12月14日のことです。当時の米財務長官であっ
たヘンリー・モーゲンソーが、ハリー・デクスター・ホワイト財
務省金融調査局長に対して、「連合国間安定基金」の青写真を書
くよう命じているからです。この「連合国間安定基金」は後に国
際通貨基金(IMF)になるのです。12月8日に日本との戦争
状態に突入した一週間後のことです。この事実を知るだけでも米
国という国が恐るべき国家であることがわかると思います。
 谷口氏によると、通貨というものは、強制的通用力があっては
じめて通貨になるといいます。いいかえると、それは権力があっ
てはじめて通貨になるわけです。
 ましてや「基軸通貨」ともなると、世界に受け入れられる強制
的な通用力を持つ必要があり、その力の淵源は経済学の対象とい
うより覇権分析の対象となる――谷口氏はそういっています。そ
れをまざまざと、ドラマチックに見せてくれたのが、ブレトン・
ウッズ会議だというのです。
 ブレトン・ウッズ会議では、金だけを国際通貨とする金本位制
ではなく、ドルを基軸通貨とする制度を作り、ドルを金と並ぶ国
際通貨としたのです。それは同時に、英国の覇権の終末を印象づ
ける会議であり、英国が米国に「マネー敗戦」を喫した会議でも
あるといえます。
 ところで、ブレトン・ウッズとは、どこにあるのでしょうか。
 ブレトン・ウッズは、米国北東部のニューハンプシャー州にあ
ります。ニューイングランドと呼ばれる地方の中でも、マサチュ
ーセッツ州と共に、イギリス文化、特に英国の農村地方が強く残
る場所です。ニューハンプシャーは、英国のハンプシャー地方か
ら名前をとっているのです。
 このように書くと、日露戦争終結時に、その講和条約交渉の舞
台となったあのポーツマスを思い出す人がいると思います。そう
なのです。ポーツマスもニューハンプシャー州にあるのです。
 もう一つ、覚えておくとよいことがあります。それは、ニュー
ハンプシャー州の名前が一番多くテレビから流れるのが、4年に
一度大統領選挙のときで、50州の中でも、一番最初の予備選挙
がここニューハンプシャー州で行われるからです。
 ブレトン・ウッズは、ニューハンプシャー州の東端にあり、標
高1917メートルのワシントン山のふもとに位置するホテルと
ゴルフ場以外何もないところです。
 米国が独立前の1772年、この地域を支配していたのは英国
人のジョン・ウェントワースという人で、彼によってこの地域は
当時植民地であった米国に払い下げられたのです。つまり、ここ
はもともと英国の領地だったのです。
 そのブレトン・ウッズで開かれた会議によって、英国が覇権を
失うとは歴史の皮肉というべきでしょう。通貨の歴史に影響を
与えたブレトン・ウッズ会議が開かれたのは、1944年7月の
ことです。          ・・・・・[日米関係の謎05]


≪画像および関連情報≫
 ・ブレトン・ウッズ協定とは何か
  ブレトン・ウッズ協定(Bretton Woods Agreements)とは、第
  2次大戦末期の1944年7月、米国、ニューハンプシャー
  州北部の行楽地のブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金
  融会議(45ヵ国参加)で締結され1945年に発効した国際
  金融機構についての協定である。国際通貨基金(IMF)、国
  際復興開発銀行(IBRD)、の設立を決定した、これらの組
  織を中心とする体制をブレトン・ウッズ体制という。この協
  定は、1930年代の世界大恐慌により各国がブロック経済
  圏をつくって世界大戦をまねいた反省によっている。
                   ――金融用語辞典より

1810号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日米経済関係の謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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