スの未公開株を譲渡したのかという疑問があります。普通の経営
者であれば、これほど幅の広い人脈は持っていないでしょう。こ
れについて、当の江副氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
私は社員に「外飯・外酒」を推奨し、自らも財界人に誘われ、
日本YPO以外に、稲山嘉寛さんを囲む会、永野重雄さんを囲
む会、三重野康さんを囲む会、眞藤恒さんを囲む会などに参加
していた。稲山さんは「政治献金は企業にとって必要なことで
ある」と強調されていた。永野さんは「政治家は嘘が許される
が、経営者は嘘は許されない。そのことを君たちは誤解しない
ように」などと言われ、私は先達から多くを学んでいた。それ
らの会のなかに政治家を囲む会があった。 ──江副浩正著
『リクルート事件・江副浩正の真実』/中央公論新社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
このようにして増えた多くの知人に江副氏は、いずれも一流人
ばかりであったので、今後の親交を深めるため未公開株の譲渡話
を持ちかけたのです。当時のリクルートは堅実な成長を遂げてお
り、とくに政界工作など必要ではなかったし、ましてそれが賄賂
を意図したものではなかったのです。
リクルートとコスモスの会長を辞任した後江副氏は、帝国ホテ
ルにこもっていたのですが、7月にリクルートの広報室に『AE
RA』からインタービューの申し込みが入ったのです。しかし、
広報担当の生嶋誠士郎常務が断ったのですが、それは執拗に何回
も申し入れてきたのです。
1988年7月7日に広報担当役員で社長室長の松原弘氏から
次の連絡が入ったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
『AERA』編集長の富岡隆夫氏から「単独インタビュー」に
応じてくれたら、「打ち方やめ」にするといっている。
──松原弘社長室長
―――――――――――――――――――――――――――――
江副氏は、富岡編集長と朝日新聞の中江利忠専務とは、ときに
は酒を飲んで歓談する間柄だったのです。松原社長室長も2人と
親交があったというのです。
このとき「打ち方やめ」という言葉は江副氏にとって魅力的で
あったのです。さんざん迷ったあげく『AERA』限りなら引き
受けてもいいと返事をしたのです。しかし、念のため、中江専務
にも電話を入れ、「本当に『AERA』限りということを守って
くれますね」と念を押したのです。中江専務は「富岡から聞いて
了解している」といったので、引き受けることにしたのです。し
かし、これは江副氏の大失敗のひとつだったのです。
インタビューの日は、1988年7月23日午後3時、場所は
当時リクルートがフロアの半分を借りていた大手町の日本鋼管ビ
ルの応接室だったのです。
『AERA』限りという事前の約束であったにもかかわらず、
実際にやってきたのは次の面々だったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
『AERA』編集長富岡隆夫氏 副編集長田岡俊次氏
朝日新聞横浜支局鈴木啓一氏 社会部次長落合博美氏
朝日新聞の遊軍記者数名とカメラマン4名
―――――――――――――――――――――――――――――
対するリクルート側は、江副相談役、生嶋常務、深谷広報室課
長の3名だったのです。「約束が違う」と生嶋常務は徹底的に反
対したが、先方が一歩も引かない。そこで「30分限り」と時間
を決めてはじめたが、約束は破られ、インタビューが終了したの
は、午後5時を回っていたのです。その間、間断なくフラッシュ
が焚かれたのです。
後日、江副氏は、朝日新聞が誇らしげにまとめた『ドキュメン
ト/リクルート報道』を読んで愕然としたのです。そこには、信
頼していた編集長富岡隆夫氏自身が朝日の他の記者を誘ってイン
タビューを行ったと書いてあり、最初から騙すつもりだったこと
がわかったからです。江副氏は、ジャーナリストにも信義がある
と信じていた自分が不明であったと述懐しています。
もうこの時点で「江副は悪者」という先入観というか、イメー
ジができてしまっており、マスコミ自身がそうしておきながら、
悪い奴には何をしてもよいと考えるようです。そうなると、自分
の出世のためなら、信義など平気で踏みにじる輩があまりに多く
なっているようです。
その同じ7月23日には、日本の重大海難事故とされる「なだ
しお事件」が起きるのです。「なだしお事件」とは、横須賀港を
基地とする海上自衛隊所属の潜水艦なだしおと遊漁船・第一富士
丸とが、7月23日午後3時38分ごろ横須賀港東部海域におい
て衝突し、30人の人が亡くなった事件です。
24日の朝刊では各紙この記事を全面に取り上げたのですが、
25日になると、他紙が「なだしお事件」が中心だったのに対し
朝日新聞だけはトップに次の見出しを掲げたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
リクルート関連株で江副氏語る
『政治家への譲渡』の認識否定せず
──1988年7月25日付、朝日新聞より
―――――――――――――――――――――――――――――
この朝日新聞の報道を契機に各紙一斉に江副攻撃の火蓋が切ら
れたのです。中でも一番情報を握っている朝日新聞は、最もセン
セーショナルな報道で他紙をリードしたのです。「打ち方やめ」
は大ウソで「打ち方はじめ」のサインであったのです。現在の小
沢幹事長と同様に、これではすぐ「天下の極悪人」になってしま
うでしょう。 ――──[ジャーナリズム論/10]
≪画像および関連情報≫
●池田信夫氏の批評/『正義の罠』(田原総一朗著)について
―――――――――――――――――――――――――――
自戒をこめていうと、当時のメディアは、検察をまったく批
判しなかった。それは、この種の事件を立件することがいか
にむずかしいかを知っているからだ。政治家のスキャンダル
は、永田町には山ほど流れているが、事件になるのはそのう
ち100件に1件ぐらいしかない。特にリクルートのように
「ブツ」の出てくる事件は非常に珍しいので、やれるときは
徹底的にやって「一罰百戒」をねらうことになりがちだ。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292854.html
―――――――――――――――――――――――――――
当時を述懐する江副浩正氏