2010年01月27日

●「湾岸戦争開戦早朝の不毛の議論」(EJ第2741号)

 1991年1月17日午前0時――首相官邸で政府・与党首脳
会議が開催されたのです。政府からは、総理大臣、外相、蔵相、
官房長官、与党からは幹事長以下の4役が出席する、政治方針を
決める最高会議なのです。
 午前0時という異常な時間に会議が開かれたのは、日に日に深
刻化する湾岸情勢の分析と日本としての対応を決めるためです。
この席で、小沢と外相の中山太郎の間で大論争があったのです。
 小沢はこの時点で、米国が既に40万人の兵力を展開している
ことや独自の非公式ルートを通じた独自の情報分析から、もはや
戦争は避けられず、かつそれは間近に迫っているとして、せめて
自衛隊輸送機の派遣を主張したのに対し、中山外相は「戦争はな
い」という正反対の主張を展開したのです。
 誠にお粗末きわまるものながら、戦争をめぐって、小沢の「あ
る」と中山の「ない」の言い合いになり、何の結論も出せないま
ま会議は終わってしまったのです。
 そして首脳会議からわずか4時間後の17日午前4時になって
米国から「開戦」を通告してきたのです。実際に戦端が開かれた
のは、その5時間後の午前9時のことであったのです。
 日本という国は、開戦のその日の午前0時に戦争のあるなしの
議論をしているのです。しかも、国際情報の収集を預かる外務省
自身が「開戦なし」として情報収集を怠っている――こんな情け
ない話はないと思います。中山太郎外相は、その外務省の情報を
鵜呑みにして小沢に対し「開戦なし」と反論したのです。外務省
は許すまじ、と小沢が思ったとしても当然と思われます。
 しかしそれよりも、小沢は米国が同盟国である日本に開戦のわ
ずか5時間前に通告してきたことに衝撃を受けたのです。日本は
米国にとってその程度の国であったのか、それほど頼りにされて
いない国なのかという現実に愕然としたのです。
 既出の渡辺乾介氏は、そのときの小沢一郎の心情について次の
ように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 直前の開戦通告の一事は、国連の平和維持活動に自衛隊を派遣
 できなかったことと併せ、その後の小沢の政治思想、国際安全
 保障論の核心を形成する原体験的意味を持つ。その時の小沢の
 目に映った日本の外交、国際情報の収集能力の実態はどんなも
 のだったか。開戦の直前にいたってもなお「戦争はない」と見
 ていた外務省は情報を入手する努力すらせず、情報をくれる国
 も友人もなく、外交官とはせいぜいパーティの進行役程度かと
 いう猜疑心を募らせた。小沢が外務省に見たものとは、日米同
 盟の真実の姿、言い換えれば戦後政治の欠陥そのものだったの
 だ。官僚における国家の仕組みの欠如した部分が象徴的に現れ
 たと、小沢は解釈した。国家に対する忠誠心、使命感なき官僚
 像を癒しがたく結んでしまったのである。
 ──渡辺乾介著、『小沢一郎/嫌われる伝説』より/小学館刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、戦争が始まった以上、日本としての支援策を一刻も早
く決める必要があると考えた小沢は、蔵相である橋本龍太郎に直
接談判し、90億ドルの支援を決めたのです。
 自衛隊の派兵はできない、輸送機も飛ばせない――ないない尽
くしでは通らない。ここにきて金を出すのなら大きく出す必要が
ある。何とか90億ドルを認めてくれと主張したのです。結局、
90億ドルは増税で賄うことになったのです。
 問題は国会承認です。増税で90億ドルを賄うことになるので
当然のことながら社共は真っ向から反対したので、自公民体制で
この国際公約の実現に取り組むことにしたのです。その代わり、
自公民三党体制で国政運営を行うことを約束せざるを得なくなっ
たのです。その結果、1991年2月15日に国会承認を得るこ
とができたのです。
 しかし、自民党も一枚岩ではなかったのです。もともと小沢主
導の国際貢献に反対の者は多く、それに加えてこの若い幹事長の
強引なやり方にも批判が集まっていたのです。それらの不満が噴
出したのは、折からの東京都知事選挙の候補者選びなのです。
 自民党東京都連は現職で80歳の鈴木俊一氏を擁立することを
決めていたのですが、小沢は公明党が推薦する元NHK特別主幹
の磯村尚徳氏を擁立したのです。自公民三党体制で国政運営をす
ると決めた以上、そうせざるを得なかったのです。
 このときの都知事選挙は、さながら「小沢対反小沢」の激しい
戦いとなったのです。自民党内、霞が関の反小沢勢力が一斉に選
挙戦に雪崩れ込み、そこに大マスコミが煽って、一大政治決戦の
様相を呈したのです。
 その結果、都知事選が鈴木俊一の勝利で終わると、小沢は躊躇
わず幹事長を辞任したのです。湾岸戦争は、1991年2月27
日に停戦し、4月11日に終結していますが、90億ドルという
世界最大級の資金援助をしながら、戦後クウェート政府が支援国
に感謝を捧げるリストに日本は入っていなかったのです。
 小沢は、その著書である『日本改造計画』の中で、こういう結
果になったことについて、次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 一人前の国家として国際的な安全保障に協力できず、資金提供
 だけで、お茶を濁そうとするとこういうことになってしまう。
 韓国やフィリピンは要員を派遣してそれなりの評価を受けた。
 日本はどんなにカネを出しても尊敬されない。それが国際政治
 の冷厳な現実である。           ――小沢一郎著
              『日本改造計画』より 講談社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 その小沢が現在は与党民主党の幹事長なのです。その政治姿勢
は以前と変わらず、まったくブレていないのです。官僚中心の政
治を政治主導に変える――そうはさせじと官僚機構がなりふり構
わず、小沢潰しにかかっているような気がします。
                ―――[小沢一郎論/17]


≪画像および関連情報≫
 ●湾岸戦争とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  当初の目的であった火祭りが実施不可と見たイラクのサダム
  ・フセイン大統領は、その代わりとしてクウェート湾岸の油
  田を手当たり次第に放火した。また、イスラエルに向けてロ
  ケット花火を打ち上げた。結果的にはイラク軍がクウェート
  から駆逐されたため連合国が勝利したように見えるが、勝負
  的には辺り一面を火の海にし、世界各国からスタンディング
  オベーションで迎えられたイラクの勝利である。パパ・ブッ
  シュはこれに激怒し、これが2003年のイラク戦争への伏
  線となった。        ―― アンサイクロペディア
http://ansaikuropedia.org/wiki/%E6%B9%BE%E5%B2%B8%E6%88%A6%E4%BA%89
  ―――――――――――――――――――――――――――

渡辺乾介著/「小沢一郎嫌われる伝説」.jpg
渡辺乾介著/「小沢一郎嫌われる伝説」
posted by 平野 浩 at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 小沢一郎論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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