小沢幹事長に「申し入れ書」を突き付けた頃、海部首相は何をし
ていたのでしょうか。
海部首相は外務省と組んで、多国籍軍への非軍事面の輸送、物
資、医療などの援助を柱にした「中東における平和回復活動にか
かわる貢献策」を決定しているのです。しかし、あくまで自衛隊
は使わず、「国連平和協力法」を作り、青年海外協力隊のような
ものを考えていたのです。
海部首相はこの案を米大統領ジョージ・ブッシュに電話で相談
したところ、大統領は失望感をあらわにしたというのです。あわ
てた海部首相は翌朝に10億ドルの財政支出を決断し、さらに9
月14日には泥縄的にさらに10億ドルの財政支出の追加を表明
しているのです。
1990年9月末日に訪米した首相は、米議会からも自衛隊の
艦船や輸送機の派遣を含むもっと目に見える貢献――を要求され
自衛隊の派遣を検討せざるを得なくなったのです。
しかし、政府部内の合意形成は大変だったのです。問題は自衛
隊をどのように扱うかで難航し、結局自衛隊は「併任」という中
途半端なかたちで協力隊に加わるという内容の「国連平和協力法
案」が、1990年10月12日から始まった臨時国会に提出さ
れたのです。
しかし、国会審議は難航をきわめ、憲法解釈をめぐってぐちゃ
ぐちゃになったのです。とくに外務省を中心とする政府答弁が二
転三転し、自民党とともに国際貢献策に対して前向きに取り組も
うとしていた公明党や民社党までもが反対し出して、成立の見通
しは絶望的になっていったのです。
この間小沢幹事長は、戦闘行動に関与しない自衛隊派遣の方法
について知恵を絞っていたのです。小沢としては多国籍軍への自
衛隊派遣は憲法違反にはならないと考えていたので、具体策を検
討していたのです。
前線の野戦病院に自衛隊の医療班を派遣することや、エジプト
の空軍基地を使って自衛隊の大型輸送機C−130で物資や難民
輸送を行うことを実現しようと日本大使館を通じて関係国の了解
までとっていたのです。
しかし、C−130の使用には外務省と防衛庁が反対し、実現
できなかったのです。民間の貨物船を利用する案も検討したので
すが、こちらは海員組合の反対でできない──まさに八方塞がり
の状態だったのです。
ペルシャ湾には日本のタンカーが多くいるのに、なぜ輸送船を
出さないのか。商売なら危険でも行くが、国際社会の平和目的で
はだめだというのか――米国はこのように日本に対して怒りを隠
さなかったのですが、日本は沈黙を守るしかなかったのです。
こうした小沢の努力と平行して臨時国会では国連平和協力法案
の審議が進められたのですが、小沢は早くから廃案を予測し、公
明党、民社党の協力の下に代替法案の制定を進めていたのです。
1990年11月8日に小沢幹事長は社公民と幹事長・書記長
会談を開いて国連平和協力法案を廃案にすることを表明し、新た
な国連平和協力の具体策を作るための協議を提案したのです。
しかし、社会党は反対を表明して協議には加わらないことを表
明したので、自公民三党間で「国際平和協力に関する合意覚書」
がまとめられたのです。その骨子は、次の6つであり、社公民で
同意が図られたのです。
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1.憲法の平和原則を堅持し、国連中心主義を貫く
2.資金や物資だけでなく、人的協力も必要である
3.自衛隊とは別の国連平和維持活動の組織を作る
4.国連決議に基づいて人道的救援活動に協力する
5.あわせて災害救助活動も行う
6.上記を早急に立法化すること
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この合意によって、日本は国連の平和活動に参加できる道が開
かれたのです。そして、これが海部内閣を救ったのです。本来で
あれば、国連平和協力法案が廃案になった時点で海部首相の政治
責任は免れなくなる。それを小沢は、この三党合意をまとめるこ
とによって救ったのです。
この三党の覚書に基づいてまとめられた法案は、1991年夏
の臨時国会に「国連平和維持活動協力法案――PKO法案」とし
て提出され、2回の継続審議を経て1992年6月に成立してい
るのです。そして、この法律に基づいて自衛隊のPKO部隊は、
1992年9月からのカンボジアの活動に参加したのです。
しかし、この法案の成立に小沢が深くかかわっていることをど
のくらいの人が知っているでしょうか。これは小沢がかねてから
主張していた「国際社会で日本はどう生きるべきか」を進めるう
えでの第一歩になったのです。
国連平和維持活動協力法にかかわる小沢の努力を自民党はどう
とらえたのでしょうか。渡辺乾介氏はこれは小沢の嫌われる伝説
をひとつ増やしたとして次のように述べています。
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国連平和協力法案の廃案は海部の政治責任が問われる重大事で
はあったが、政府と自民党内にはいつのまにか「小沢が力ずく
で海部に自衛隊派遣を承諾させ、無理な法案をつくらせた」と
小沢に責任転嫁する理屈が罷り通っていた。大メディアは外務
省と自民党内の小沢批判派の情報に乗り、小沢批判の論調を繰
り広げた。かくしてまた一つ小沢の嫌われる伝説が増えた。真
相は、小沢が三党合意を成立させて内閣の責任問題に発展する
ことを食い止めたわけだが、小沢批判は往々にして、頭と尻尾
を逆にしたような大真面目の滑稽話になる。
──渡辺乾介著、『小沢一郎/嫌われる伝説』より/小学館刊
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―――[小沢一郎論/16]
≪画像および関連情報≫
●自衛隊のカンボジア派遣について
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自衛隊カンボジア派遣とは、1992年9月以降、自衛隊が
国際平和協力法に基づいて国際連合平和維持活動――PKO
の一環としてカンボジア王国へ派遣されたことをいう。自衛
隊からは施設大隊及び停戦監視要員が派遣された。同時に、
自衛隊以外からは文民警察要員及び選挙監視要員の派遣も行
われた。自衛隊にとっては、自衛隊ペルシャ湾派遣に続く2
度目の海外派兵であったが、陸上自衛隊にとっては初、国連
の枠組みで活動するPKO活動としても初の試みであった。
また、日本がカンボジアに部隊を展開させたのは、旧日本陸
軍の仏印進駐(1941年)以来のことであった。
――ウィキペディア
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国連カンボジア暫定機構


