テーマは、本日が最終回(全52回)になります。過去に取上げ
たEJのテーマとしては最長記録です。
19世紀の末、米英両国は西洋列強が争奪戦を演じる中国(清
国)に対して2つの原則を確立しています。
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第1原則:中国の領土保全
第2原則:商業機会の均等
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朝河貫一は、東洋政策に関して「旧外交」と「新外交」を次の
ように対比させています。
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≪旧外交≫
・列強が中国を苦しめながら相争って自利を計る政策を展開
≪新外交≫
・中国の主権を尊重し、機会均等に各国が経済的競争をする
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日露戦争において日本が米英の協力を得られたのは、ロシアが
満州で旧外交を展開したのに対し、日本が東洋の正義を掲げて戦
いを挑んだからなのです。
しかし、戦後日本は基本的にはロシアと同じことをやっている
のです。朝河の言葉でいうと、次のようになります。
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満州に新外交を強制したる日本が、同じ戦勝の功により、同じ
満州において自ら旧式の利権を作為し、また自ら請いて露国よ
り旧外交の遺物を相続したること
――清水美和著、『「驕る日本」と闘った男/日本講和条約
の舞台裏と朝河貫一』
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米英両国は、日本が戦前に公言していたことは一時世を欺くこ
とばに過ぎず、ひとたび戦いに勝利すると、満州および韓国にお
いて、私意をたくましくしている――といって厳しく日本を批判
したのです。
日本が戦前と考え方を変えた具体的な例を上げるとしたら、米
国の鉄道王エドワード・ハリマンが、日本に提案した南満州鉄道
共同経営計画の中止があります。この計画については桂首相自身
は前向きだったのですが、小村外相の強硬なる反対によって頓挫
したのです。せっかく苦労して手に入れた経営権を米国などに渡
してなるものかという小村の偏狭な考え方が原因です。
さらに日本は満州で軍政を継続し、日本企業を優遇して米英両
国から非難されるという一幕もあったのです。軍政は桂内閣が代
わる1906年まで続いたのです。
このようにして、日本はしだいに米英両国から距離を置くよう
になり、その関係はだんだん悪化していくのです。これについて
朝河は自分の米国留学を支援してくれた大隈重信に対し、次の手
紙を送っています。朝河の母校は東京専門学校(現早稲田大学)
であり、大隈重信は彼が最も期待した政治家だったからです。
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米国将来の対清利益は、清国が独立富強、自ら主権を遂行する
を得るに至りて、始めて最も増進すべし。故に清国の開進独立
を妨ぐるものは、米国の利益を害するものなれば、(中略)清
国を助けて侵害者(日本のこと)に抗せざるべからず。
1909年9月27日、朝河貫一
――清水美和著の前掲書
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朝河が頼りにしていた大隈重信は、第2次内閣を組閣後、第1
次世界大戦が起こると強引に参戦し、敵の備えのないことに乗じ
て、かつてドイツが清国から強引に99年間租借した膠州湾を占
領してしまい、朝河の期待を大きく裏切るのです。
朝河は「膠州湾を中国に返してやることによって日本は大きな
利益を得る」と大隈に説いたのですが、大隈は聞く耳を持たなか
ったのです。本当に当時は日本全体がおかしくなっていた暗黒の
時代であったといえます。かくして朝河のいうように日本は「東
洋平和を乱す張本人」になっていったのです。
このように、日露戦争の勃発前の時期から戦争終了までの日本
の動きを逐一追ってみると、太平洋戦争が起こった原因、現在の
日本とロシア、中国、韓国との関係が見えてきます。
それにしても朝河貫一は、日本から遠く離れた米国の地にあっ
て、ひたすら祖国日本のために研究生活のかたわら講演や論文に
よって日本の進むべき正しい道を説き続けたのです。
1948年8月11日、朝河はバーモント州の静養先で心臓発
作を起こし他界しています。朝河の訃報はAPやUPIなど外国
通信社がわざわざ「現代日本で最も高名なる世界的学者」と紹介
して世界に打電したのに対し、当の日本のプレスは、外電として
片隅に小さく報道しただけだったのです。それも「朝河」を「浅
川」と姓を間違って伝えたのです。日本人がいかに朝河について
何も知らなかったかを物語っています。
当時の政治家で朝河を知り、比較的その意見を買っていたのは
伊藤博文です。伊藤は1901年にニューヘイブンを訪れ、朝河
に会っているのです。イェール大学から名誉法学博士号を受賞し
たときのことです。しかし、その伊藤も韓国併合を結局は推し進
め、ハルピンの駅頭で暗殺されてしまったのです。そのとき、伊
藤は朝河の著書『日本之禍機』を持っていたといわれています。
日露戦争のテーマで書き出した途中の時点で、何回も引用させ
ていただいた清水美和氏の著作『「驕る日本」と闘った男/日本
講和条約の舞台裏と朝河貫一』
とは幸いであったと思っています。EJの読者にぜひ一読をお勧
めするしだいです。
50回にわたる長期連載にもかかわらず、最後まで読んでいた
だいた読者に感謝の意を捧げます。 ・・・・ [日露戦争52]
≪画像および関連情報≫
・エピローグ――1905年12月28日・・・
一人のみすぼらしい男が、新橋の駅に降り立った。くたびれ
た外套、つぶれたような帽子、時代遅れのトランクを提げた
男は、懐かしそうにあたりを見回した後、改札を出ようとし
た。そのとき、声をかけた男がいる。
「明石さん、お帰り・・・」
「おう、田中君か・・・満州では大変だったろう」
「いや、明石さんこそ縁の下の力持ちで・・・」
そういったのは明石より2期後輩の田中義一中佐である。
田中は明石の前に参謀本部からヨーロッパ担当の諜報将校と
して、活躍した敏腕の若手参謀である。――豊田穣著『情報
将校/明石元二郎――ロシアを倒したスパイ大将の生涯』
り。光人社刊
ビックプロジェクトには、明石、金子、阪井、末松、朝河
など、縁の下の人たちのたくましい活躍があって、はじめて
実を結ぶものである。
