2006年01月20日

不本意な妥結/日露講和交渉(EJ1757号)

 1905年8月28日、日本政府はポーツマスの全権団に対し
経済的理由から、償金、割地の2問題を放棄して講和をさせよと
いう訓令を打電しています。しかし、この電報を打って1時間後
に外務省の石井通商局長が英国大使からの情報――ニコライ二世
は樺太の南半分の割譲は認める意思ありという情報――を入手し
てきたのです。あわていたのは外務省です。
 外務省電信課長の幣原喜重郎はとりあえず独断で次の電文を小
村に送っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   前の電信の執行は次の電信が着くまで延期されたい
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 幣原といえば後に外務大臣、首相になった人物ですが、彼は改
めて桂首相以下の指示を仰ぎ、決定をもらって樺太南部を要求す
る訓令を再び打電し、翌29日、遂に日露講和交渉は妥結にいた
るのです。しかし、この経緯は非常にわかりにくいのです。
 小村としてはウイッテから樺太南部の割譲の提案は何度も受け
ていたのです。しかし、小村はそれに加えて、どうしても償金を
獲得したかったのです。小村としては出発のさい、新橋停留場の
多数の国民の万歳による見送りを思い浮かべていたのでしょう。
 「樺太南部割譲」はロシアから見たいい方ですが、既に樺太は
日本が合法的に占領しているのです。したがって、日本から見る
と、「樺太北部返還」になるわけです。この違いはとても大きい
ものがあります。
 小村としては、日本が樺太北部を返還するにはそれなりの金銭
が必要であるとして、それを強く求めていたのです。そのため、
ロシアの提案を本国に伝えていなかったのでしょう。しかし、本
国は全権団ではなく、英国大使から情報を得て「樺太南部割譲/
償金なし」で同意するよう求めてきたのです。これを受けて小村
はやむなく講和を妥結させるしかなかったわけです。
 しかし、国民は納得しなかったのです。新聞各紙には次のよう
な記事が載ったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  大阪毎日新聞 ・・・
   ・軍事費弁済の要求放棄/樺太北部も捨てられる
  万朝報
   ・千古の大屈辱に弔旗を
  大阪朝日新聞
   ・陛下の聖意にあらざる和約の破棄を
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 考えてみれば、日清戦争では三国干渉で国民は悔しい思いをし
ているのです。そして、軍備拡張のための増税や公債の割り当て
などの重い負担に耐えた結果がこれではと一気に政府に対する怒
りが燃え上がったのです。その結果、条約破棄を要求する国民大
会がを日比谷公園で開催され首都は大混乱となったのです。19
05年9月5日のことです。結局、近衛師団などから歩兵3個中
隊が出動し鎮圧に当るという騒ぎとなったのです。
 民衆は警官隊とは戦いましたが、軍隊が出動すると一斉に抵抗
をやめ、「万歳」を叫んでやまなかったといいます。大国ロシア
を相手に戦って連戦連勝を積み重ね、帝国の光栄を輝かせた軍隊
とは対決したくなかったのでしょう。怒りは政府に対してのみ向
けられたのです。
 講和条件を検討し、日本に提案したイェール大学のストークス
は、ポーツマス条約に「清国の領土保全」、「列強の機会均等」
「償金支払いや領土割譲を避ける」というイェール大学の提案が
ほぼ盛り込まれた点を高く評価しています。しかし、提案に掲げ
た「満州と韓国における商業的な機会均等」においては、条約で
は満州での機会均等を明記したものの、韓国については触れられ
ていない点に懸念を表明しています。
 ストークスのこの懸念は、1910年の日本の韓国併合という
かたちに立ってあらわれるのです。韓国についても清国と同じよ
うに「領土保全」と「機会均等」を貫くべきだったのです。
 朝河貫一は、韓国の扱いについては、次のように述べて、日露
戦争後の祖国に一抹の不安を抱いていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本は韓国を効率的な前進部隊とすることによって外国の攻撃
 に対し、日本の立場を強化しようとするのか、それとも韓国は
 弱く、頼りにならないので韓国を日本帝国の一部であるかのご
 とく武装し統治するのか。(一部略)いずれが改革の指導原則
 になるかによって政策の実際の差異は、長い間には巨大な差異
 になるであろう。
  ――清水美和著、『「驕る日本」と闘った男/日本講和条約
              の舞台裏と朝河貫一』、講談社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 朝河の懸念は不幸にして的中するのです。日本はポーツマス条
約で賠償金も領土割譲も得られなかったことの反動から、朝鮮、
中国大陸の権益獲得にのめり込んでいき、米国との関係が緊迫の
度を増していったからです。
 朝河は、この日本の動きを国運の危機と称して次のように述べ
ています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 東洋の平和と進歩とを担保して、人類の文明に貢献し、正当の
 優勢を持して永く世の畏敬を受くべき日本国が、かえって東洋
 の平和を攪乱し、世界憎悪の府となり、国勢とみに逆運に陥る
 べきことこれなり。(中略)日本もし不幸にして清国と戦い、
 また米国と争うに至らば、その戦争は明治37、8年のごとく
 世の文明と自己の利害との合わせる点にて戦うにあらず、実に
 世に孤立せる私曲の国、文明の敵として戦うものならざるべか
 らず。            ――清水美和著、前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 朝河貫一、まさに慧眼であるといえます。・ [日露戦争51]


≪画像および関連情報≫
 ・「私曲」とは何か。
  朝河貫一の文中の「私曲」とは、よこしまで不正なる態度と
  いう意味である。

1757号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック