2006年01月19日

小村全権の真意は戦争継続か(EJ1756号)

 日露講和交渉の小村寿太郎全権は、交渉が賠償金と領土割譲を
めぐって行き詰ると、会談ではかなりイライラしてミスを冒して
いたことがわかっています。
 彼は対清国にしても対ロシアについても、名うての主戦論者で
あっただけに、最初から勝ち取ることが困難であることがわかっ
ていた賠償金と領土割譲に執拗にこだわったのです。
 ロシアの全権ウィッテは、何としても戦争は終結させなければ
ならないと考えており、どうしても決着がつかないときは、最後
の譲歩プランともいうべきものを用意していたのです。それが、
「樺太南半分の割譲」です。しかし、「賠償金なし」は絶対に譲
れない条件であると考えていたのです。
 「樺太南半分の割譲/賠償金なし」はロシア側から妥協案とし
て示唆されたものですが、小村は首を縦に振らなかったのです。
ウィッテは、ニコライ皇帝に樺太南半分はかつて日本領であった
歴史もあり、これは譲るべきだと説得し、暗黙の了承を得ていた
のです。ロシアとしては、これが譲れる最後の線だったのです。
 読売新聞取材班による『検証/日露戦争』には講和交渉の席上
の小村とウイッテのやり取りが紹介されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウイッテ:ロシアがもしサハリン全島を譲渡するといったら、
      日本は賠償金要求を撤回するか。
 小村全権:日本がサハリン全島返還に同意することの困難さは
      賠償金放棄の困難さと同じだ。
 ウィッテ:当方の質問の意味がわかっているのか。
 小村全権:わかっている。
 ウィッテ:それでは日本は賠償金抜きの提案では、絶対に承知
      しないということか。
 小村全権:その通り。
       ――読売新聞取材班編、『検証/日露戦争』より
                      中央公論新社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウイッテは、日本側の腹を探る目的で「サハリン全島譲渡」の
話をしたのです。しかし、それに対する小村の応対は明らかに意
味不明です。だから、ウイッテは「わかっているのか」と聞き返
しているのです。
 小村はこれを肯定し、そのあと「日本は賠償金抜きの提案では
絶対に承知しない」というメッセージをロシア側に与えてしまっ
ているのです。これは賠償金獲得と領土分割については絶対条件
にしないという本国の訓令にも背いているのです。
 決着3日前の8月26日のことです。ロシア側は小村があまり
に強硬なので、もう一人の全権である高平公使に非公式面談を申
し入れ、その席で「樺太南半分の割譲、賠償金なし」でなんとか
まとめて欲しいと申し入れているのですが、小村は「ロシアはい
ささかも譲歩せず」という電報を東京に打っています。どうやら
小村はロシアの本心を探れなかったようなのです。
 そのため、政府としては、賠償金も領土割譲もあきらめて講和
交渉をまとめるよう小村に指示したのですが、そのあとなぜか、
「樺太南半分の割譲、賠償金なし」を改めて要求に盛り込んで提
案しています。これは一体どういうことでしょうか。
 それは、当時外務省の通商局長をしていた石井菊次郎が駐日英
国公使に呼び出され、公使から、8月23日の時点でロシア皇帝
ニコライ二世は、マイヤー駐ロシア米公使に対し、樺太の南半分
の割譲は、かつて日本領であった歴史を考慮して認めてもよいと
いったという情報を知らされるのです。
 それにしても小村はどうしてこう頑なだったのでしょうか。い
ろいろな説がある中で、外交評論家の岡崎久彦氏は、次のように
いっています。
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 小村は早く交渉をつぶし、戦争継続にもっていきたかったの
 であろう。               ――岡崎久彦氏
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 小村が全権に選ばれたとき、政府関係者の一部には小村の強硬
姿勢を懸念する人もいたのです。しかし、この岡崎氏の主張には
反対する人も多く、真相はよくわからないのです。
 もうひとつ不可解なのは、この情報がなぜ米国からもたらされ
なかったということです。実は米国に滞在してメディア工作に当
たっていた金子堅太郎と随行員の阪井徳太郎は、交渉経過を逐一
ルーズベルト大統領に打ち明け、いわば手の内をすべてさらして
相談に乗ってもらっていたのです。
 日本海軍がバルチック艦隊を破ったとき、金子に「万歳!」と
いう電報を打ち、この機に樺太を占領せよというアドバイスをす
るなど、ロシア側からも「日本の弁護人」とまでいわれたルーズ
ベルト大統領は、なぜか肝心の8月23日のマイヤー駐ロシア米
公使とニコライ二世との会見の中の一番重要なことを金子に話し
ていなかったのです。
 ルーズベルト大統領は金子に次のように話したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 2時間以上面談したるも、終わりに露帝は曰く、かの妥協案
 に到底賛成するを得ず。これに同意するよりは、むしろ露国
 人民全体に訴え、みずから陣頭に立ちて満州に出陣すべしと
 して、痛くせられたり。
 ――清水美和著、『「驕る日本」と闘った男/日本講和条約
              の舞台裏と朝河貫一』、講談社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このことばによれば、ロシア皇帝は全面拒否であるように見え
ます。しかし、ロシア皇帝は樺太南半分の割譲はやむを得ないと
いっていたのです。後でこのことを知った金子はルーズベルトに
対し、非常に怒ったといわれます。ルーズベルト大統領はなぜ日
本に対し、情報を隠したのでしょうか。これは後でルーズベルト
の裏切りとして伝えられることになります。・ [日露戦争50]


≪画像および関連情報≫
 ・小村寿太郎について
  宮崎県日南市飫肥出身。藩校振徳堂に学び、大学南校・現東
  京大学卒業後、文部省留学生として米国ハーバード大学に留
  学。帰国後司法省を経て外務省に入り翻訳局長、清国代理公
  使、外務次官を歴任しさらに、米、露、清の公使となる。
  1901年(46歳)、桂内閣の外務大臣に就任。1905
  年、首席全権大使として米国ポーツマス市で日露講和条約を
  結び日本に平和をもたらす。1908年(53歳)外務大臣
  に再任。1911年、米英独仏と、幕末以来の不平等条約を
  改正し関税自主権を回復。以後、わが国は諸外国と対等な国
  際関係になる。勲功により侯爵位を授けられる。同年、神奈
  川県葉山町にて永眠(56歳)。
                ――日南市ホームページより
  http://www.city-nichinan.jp/kyoutsu/nichinan-ijin.asp

1756号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:41| Comment(1) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
平野さま、ブログ読ませていただきました。
大変に参考になりました、
ポーツマスでの交渉に関する本を
何冊か以前読んでいますがまさに
熾烈で劇的な交渉でしたね!
ありがとうございました。

▼小村の故郷に行ったとき
http://www.murauchi.co.jp/mobsaku/h160225_01.htm
Posted by ブログ社長 ムラウチ at 2006年01月19日 12:19
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