2006年01月17日

ポーツマスでの朝河の言動(EJ1754号)

 日露講和交渉の全権大使として、桂首相が最初に打診したのは
伊藤博文だったのです。伊藤は全権を引き受けてもよいと考えた
ようですが、側近が猛反対したため断ったといいます。
 どうしてかというと、ロシアとの戦争に勝った栄誉は桂が握り
講和交渉の結果によって起こる国民の不満は伊藤が引き受けるの
は馬鹿げているというのが伊藤の側近の意見だったのです。
 それほど、日露講和交渉は日本にとって不本意なものになるこ
とは最初からわかっていることだったのです。講和交渉がはじま
る時点での日本国民は戦勝気分に浮かれていたのです。
 とくに「主戦7博士」といわれ、対露強硬論を唱えた東京帝国
大学法科大学の富井政章、金井延、寺尾亨、中村進午、小野塚喜
平、高橋作衛、戸水寛人は新聞に現実的ではない講和の最低条件
などを書き立てていたのです。
 とくに戸水寛人は、ローマ法の教授として碩学の名が高かった
学者であったため、日本国民が浮かれ気分になるのも無理からぬ
ものがあったといえます。
 そのとき、新聞に書き立てられた絶対譲れない講和の条件とは
次のようなものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  樺太・カムチャッカ、沿海州全部の割譲と償金30億円
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 桂首相としては、その本心は償金など取れる自信はなかったの
ですが、だめもとで入れたといわれています。これを知った児玉
源太郎は「桂の馬鹿が償金を取る気になっている」と語ったとい
う話はあまりにも有名です。
 そういう難しい講和交渉を引き受けた小村寿太郎は駐米公使の
高平小五郎と随員8人を引き連れ、米国に向かう船に乗るために
新橋を横浜に出発したとき、新橋停留場には大勢の人々が集まり
「万歳!」の大歓声で見送ったのです。そのとき、小村全権は次
のようにいったといわれます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    新橋駅頭の人気は、帰るときは反対でしょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実は講和交渉に同行した記者団にしても国民と同じ期待を持っ
ていたのです。案の定講和交渉が「償金」と「領土割譲」で行き
詰ると、全権団と記者団との間にはとげとげしい雰囲気になって
いったのです。
 そういうときに全権団の宿舎のホテルに詰めていた日本の記者
団と同じホテルに滞在していた見事な英語をしゃべる怪しい日本
人の男とのトラブルが起こったのです。東京朝日新聞の通信員福
富は、そのときの模様を次のように振り返っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 われわれ同士の中には大いに憤慨し、彼をののしり、腕力に訴
 えんとまでに及びしも、いかんせん彼は日本語を一言もつかわ
 ざるを以ってののしり合えば、多数の外人に内部を知られ、か
 えって恥となるを以って、余らは紳士の体面も保ちて、腕力に
 は訴えざりしも両三時(二、三回)彼を戒めたることあり。
  ――清水美和著、『「驕る日本」と闘った男/日本講和条約
              の舞台裏と朝河貫一』、講談社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実はこの怪しい日本人こそ朝河貫一だったのです。彼はウエン
トワース・バイ・ザ・シーに宿を取り、しきりと外国の記者団に
対して流暢な英語で次のように話していたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本は決して償金を望まず。償金は必ず撤回すべし。しかして
 償金を撤回するについては国民の意見と全然反対なりとの説を
 なすものあるも、かかる大問題の際、国民の意志うんぬんを問
 うの要なし。政府は思う通り断行すべきのみ。必ずわが政府は
 余の言のごとく断行すべしと。
                ――清水美和著の前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そのとき朝河は絶対に日本語をしゃべらなかったのです。ただ
ひたすら外人記者に訴えていたのです。確かにこれを日本の記者
団から見ると、あいつは何者だ、政府の回し者ではないかと疑わ
れるのに十分であったのです。それに当時ウエントワース・バイ
・ザ・シーの宿泊料は一日につき5ドルもかかり、夏季に避暑が
できる身分とは思えない日本人に疑惑が広がったのも当然である
と思います。
 要するに朝河は、いわゆる黄禍論によって偏見をもたれている
日本という国家を学者らしい客観的な事実に基づいて日本に対す
る偏見を欧米の記者団に訴えようとしたといえます。
 清水美和氏は、こうした朝河と日本人記者団との関係をあたか
も現在の小泉政権とメディアの関係を皮肉るように次のように述
べています。ちなみに、清水氏の本は2005年9月に出版され
ています。
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 しかし、賠償金と領土との要求で頭に血が上った日本の記者た
 ちの目には、(朝河は)日本の立場を弱めかねない、許せない
 言説と映ったようだ。いつの時代にも、マスコミで力を得るの
 は事実に基づく冷静な言論よりも、敵味方を図式的に分ける感
 情論であり、朝河をののしる福富(東京朝日新聞)の姿は現代
 のメディアで踊る一部「言論人」の姿に重なる。
                ――清水美和著の前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように、ロシアに勝利したという興奮に国内世論のみなら
ず、ポーツマス現地の全権団や記者団までがとらわれる中で、弱
冠31歳の青年学者朝河一人が冷静に事態を見つめ、日本のため
にがんばったといえます。  ・・・・・・・ [日露戦争48]


≪画像および関連情報≫
 ・朝河貫一(1873〜1948)について
  1948年8月11日、朝河死去。AP電,UPI電も「現
  代日本が持った最も高名な世界的学者朝河貫一博士が・・」
  と弔意を世界に知らせ,横須賀米軍基地では弔旗をかかげら
  れたのである。これに反し,日本の新聞は片隅に訃報電文を
  3,4行割いて知らせたものの、名前の綴りかたすら知らな
  かったという。朝河は書いている。
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  「国家はその国民が人間性をもっているかぎりにおいてのみ
  自由な独立国である。しかし,その政治体制が民主主義の組
  織をそなえているというそれだけでは,自由な独立国とはい
  えない.自由主義にあっては,その国民が世界における人間
  の立場を、すべてにわたって意識するまでに進歩しているか
  どうか、それこそが重要である」と。
  http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6030940/top.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

1754号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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