2006年01月11日

賠償金と領土割譲で日露激突(EJ1750号)

 1905年8月9日、米国の東海岸ニューハンプシャー州の小
都市、ポーツマス――ここで日露講和会議の予備会議がはじまっ
たのです。日本側の全権大使は小村寿太郎、ロシア側のそれはあ
のセルゲイ・ウィッテだったのです。
 小村寿太郎は1901年から外務大臣を務め、日露戦争の開戦
時から日本の外交を取り仕切ってきた人物です。おそらく当時に
おいて、この全権大使が務まる人物は小村しかいなかったと思う
のです。
 これに対してセルゲイ・ウィッテは、1903年8月に蔵相を
解任され、その後閑職にあったはずですが、どうして全権大使に
なることができたのでしょうか。
 ニコライ二世は当初別の外交官2人を指名したのですが、彼ら
が大役に怯えて固辞したので、ウィッテ以外にロシアを代表でき
るほどの人物がいなくなったのです。
 ポーツマスという都市は、米国の建国の祖である清教徒たちが
初めて降り立ったニューイングランドの伝統をたたえる美しい街
並みといかめしい軍港という2つの顔を持っているところです。
 両国の代表団と100人を超える新聞記者たちの宿舎はホテル
「ウエントワース・バイ・ザ・シー」、講和交渉の場は、そのホ
テルから数キロ離れた海軍工廠の中にある会議室がセットされた
のです。
 ウイッテは、ポーツマスへの出発に当たって、ニコライ皇帝か
ら、次の指示を受けていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1コペイカも、一寸の土地も譲ってはならない
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは、無賠償、無割譲で講和をまとめてこいというものであ
り、厳しい内容です。しかし、ウィッテ自身が真に講和が必要と
考えていたので、講和交渉の前途はかなり期待できるものだった
といえます。
 日本側としては、賠償金の獲得はかなり厳しいと考えて、合意
が得られ易い要求項目と可能であれば勝ち取りたい要求項目に分
けて提案したのです。
 合意が得られ易い要求項目とは、次の4項目です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.韓国を日本の自由処分に任せることをロシアは応諾する
 2.ロシアの軍隊と日本の軍隊は、速やかに満州へ撤退する
 3.遼東半島においてロシアが有する租借権の日本への譲渡
 4.旅順からハルピンまでの鉄道に関する権利を日本へ譲渡
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 結論からいうと、これらの4項目は、意外にも10日足らずの
交渉で決着をみたのです。
 韓国についての項目は、もともとこの戦争がこれが原因で始ま
っただけに、日本としては絶対に譲れない線だったのです。その
点はウィッテもよく理解しており、日本の指導による韓国の保護
国化は合意に達したのです。
 日本軍とロシア軍が満州から撤兵し、さらにこの地を清国に還
付することも合意されたのです。これら2つの合意によって日本
の安全保障はかなり確固たるものになったわけです。
 遼東半島の租借権と東清鉄道の支線の譲渡についても、日本側
が旅順からハルピンまでと要求しているところを日本が実効支配
をしている旅順から長春までの鉄道を譲渡するということで合意
に達したのです。交渉相手がウイッテであったからこそできた合
意であるといえます。
 しかし、可能であれば勝ち取りたい要求項目については大変難
航し、一時は交渉決裂寸前まで行ったのです。それは次の3項目
なのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.ロシアは極東の海で5万トンを超える海軍力を持たない
 2.賠償金の支払いと中立国に逃げたロシア艦艇を引き渡す
 3.樺太(サハリン)の割譲と沿海州沿岸での漁業権の獲得
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 東アジアの海域におけるロシア海軍力の制限については最初か
ら難しいことはわかっていたのです。この項目は小村が駆け引き
として入れていたものであり、ほとんど意味を持たなかったので
す。また、中立国に逃げたロシア艦艇を引き渡しもとくにこだわ
る必要のないことであったのです。どちらもロシアの威厳を傷つ
けるものであって、ロシア側が飲むはずはなかったのです。
 このとき、小村寿太郎は、ポーツマスにおける講和交渉の間、
対米工作に関わっていた金子堅太郎とその随行員である阪井徳太
郎をニューヨークに滞在させ、ルーズベルト大統領の意向をつね
に探りながら交渉するという作戦をとったのです。それほど、こ
の講和交渉におけるルーズベルト大統領の意向の影響力はとても
大きかったのです。
 ロシア全権団は、オホーツク海、ベーリング海での漁業権は認
める意向は示したものの、賠償金と樺太割譲に関しては強硬に反
対したのです。
 賠償金を協議した8月17日の会議では、小村とウイッテの間
に次のやりとりがあったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 小村  :あなたの言は、あたかも戦勝国を代表するもののよ
      うに聞こえますね。
 ウイッテ:待ってもらいたい。ここには戦勝国なんかない。し
      たがって、戦敗国もないのだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 こうして講和交渉は完全に行き詰まったのです。8月22日に
ウイッテはラムズヘルド外相から、日本の要求に屈せず、交渉を
打ち切るようニコライ皇帝が命じているとの電報を受け取ったの
です。交渉決裂の危機と感じたルーズベルト大統領は、日本に賠
償金と領土割譲の断念を迫ったのです。・・・ [日露戦争44]


≪画像および関連情報≫
 ・ポーツマス会議での小村寿太郎に関するエピソード
  ポーツマス会議でのこんなエピソードがあります。ロシア側
  は会議中フランス語を使用していました。もちろん、日本側
  が誰もフランス語を習得していないからであろうという推測
  からでした。しかし、勉強熱心な寿太郎はフランス語を習得
  していたのです。もちろん、ポーツマス会議でフランス語が
  必要になるとは彼自身、その当時予想しえなかったことでし
  ょう。常日頃から勉学に勤しんでいた寿太郎だからこそ成し
  得た奇蹟です。寿太郎は敵の戦略などを得て会議を有利に進
  めるため、最後までフランス語を使用しませんでした。会議
  の数日後、ロシア全権ウィッテがフランス語で挨拶した際、
  初めて通訳を介さずに、流暢なフランス語で話をし、ロシア
  側を驚かせたそうです。
  http://www.miyazaki-cci.or.jp/nichinan/ijin.htm

1750号.jpg
posted by 平野 浩 at 12:08| Comment(0) | TrackBack(1) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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