2006年01月10日

樺太(サハリン)占領作戦(EJ1749号)

 「ツシマ」――これはロシア側で日本海海戦のことをあらわす
言葉です。今でもバルチック艦隊の悲劇としてこの言葉は年配の
ロシア人には記憶されているのです。
 さて、日本海海戦に歴史的大勝利を遂げた日本はその後どのよ
うに行動したでしょうか。
 ロシアの惨めな敗北によって国際世論は、ロシアは講和を受け
入れるべきであるとの声が強くなったのです。それは、開戦以来
の戦闘でロシア軍はことごとく日本軍に敗れていたからです。
 しかし、ロシアは次のように主張して戦争継続の強い意思を示
そうとしたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシアは戦争に敗れていない。なぜなら、「極東に張り出した
 軍事力プレゼンス」を一時的に失っただけだからである。ロシ
 アは現時点でも50万人を超える陸軍力を保有している。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 要するに、ロシア固有の領土は取られておらず、したがって負
けていないという理屈です。しかし、このロシアの主張は世界に
通用するものではなかったのです。
 ロシアは日本と戦争をしているのです。ロシアが島国の日本を
降伏させるには、日本周辺の海域の制海権を握ることが必要条件
となりますが、その制海権をロシアは完全に日本に奪われてしま
っています。したがって、ロシアは日本を降伏させることはでき
ないのです。
 そのような状況の下でいくら陸軍が健在だといっても通らない
のです。現にその陸軍もことごとく日本軍に破れており、一度も
勝っていないのですから、著しく説得力に欠けています。
 6月5日、日本の要請を受けたルーズベルト米大統領は、駐ロ
シア大使マイヤーを通じて、日露講和交渉の件で直接ロシア側に
米国政府の意向を伝えるよう命じています。
 ニコライ二世は、6月6日に重臣たちを集めて御前会議を開い
たのです。会議ではリネウィッチ総司令官が戦争継続を主張して
歩兵13万5000人の増派を要求しましたが、アレクサンドロ
ヴィッチ大公は早期講和交渉をすべきであると強硬に主張したの
です。大公は、このまま、ずるずると事態を引きずっていると、
ウラジオストックやアムール河口、さらにカムチャッカ半島まで
日本軍に占領されることになると警告したので、会議は一気に早
期講和に傾いたのです。
 確かに、バルチック艦隊は全滅し、日本が制海権を握っている
ので、日本軍がその気になれば、ウラジオストックやアムール河
口の占領は十分可能だったといえます。
 6月7日、ニコライ二世はマイヤー大使にルーズベルト大統領
の申し出を受け入れることを伝えています。6月9日、ルーズベ
ルト大統領は、正式に日露両政府に対して、戦争を終結させ、講
和交渉をはじめるよう勧告したのです。
 実はこのとき、日本の首脳陣はある計画を実行に移そうと考え
ていたのです。それを勧めたのはなんとルーズベルト大統領だっ
たのです。日本が制海権を取った時点で、金子堅太郎を通して提
案しています。それは樺太占領計画です。
 なぜ、樺太占領なのでしょうか。
 それは樺太が疑義はあるものの一応ロシア固有の領土であるか
らです。ロシアはつねづね「ロシアは固有の領土は奪われていな
い」といい続けていたからです。つまり、講和交渉を有利に進め
るために、樺太を占領するわけです。占領の対象がウラジオスト
ックやアムール河口ではなかったのは、それらを占領すると講和
交渉そのものが壊れかねないと考えたからでしょう。
 しかし、日本政府は、ひとまず樺太占領は一時延期することに
したのです。せっかく手に入れかけている終戦の機会を失いたく
なかったからです。そして、ひたすら、ロシアが講和交渉勧告を
受け入れるときを待ったのです。
 6月12日、ロシア政府は正式にルーズベルト大統領の勧告を
受け入れることを米国に伝えています。しかし、この時点では戦
争は継続されています。時は来れりです。
 そこで7月4日、樺太南部上陸部隊を青森から出発させている
のです。実は3日にロシア側が密かに休戦協定の提案を米国側に
しており、日本は情報としてその事実を知っていたのですが、ロ
シア側がロシアから休戦協定を求めるのではなく、ルーズベルト
大統領から日本へ提案するかたちをとって欲しいということを求
めていたので、日本側はロシア側の意向を無視することにして、
樺太上陸作戦を進めたのです。
 7月11日、ルーズベルト大統領から休戦協定の締結が望まし
いという提案があったのです。高平公使はかつてロシアが清国に
やった前例を上げて、休戦を軍事的に利用する恐れがあるので、
これを受け入れることはできないと拒否したのです。
 ロシア側は、もし屈辱的な条件なら交渉決裂だと述べるばかり
で、休戦協定の提案を日本に一切してこなかったので、これを逆
手にとって、日本側は樺太占領作戦をどんどん進めたのです。
 7月9日、新設第13師団の部隊から成る最初の上陸部隊が進
撃して、27日までにアレクサンドロフスクとルイコフを占領し
たのです。そして、8月1日までに樺太全土が日本軍によって占
領されたのです。そして、休戦協定が締結されたのは、講和条約
直前の9月1日のことだったのです。
 休戦協定が結ばれていない以上、これは国際法上合法なのです
が、ロシアはこのときの屈辱をよく覚えていて、太平洋戦争終結
時に、日本は利息をつけたかたちでソ連軍によって仕返しをされ
ているのです。それが現在も解決していない北方領土問題です。
 しかし、このソ連軍の行為は、日ソ不可侵条約を破っての行為
であり、日露戦争時の日本軍の行為と同一視すべきではないと考
えます。ちなみに、日露講和交渉は休戦協定のないまま、8月9
日から、米国のニューハンプシャー州の小都市、ポーツマスにお
いてはじまったのです。    ・・・・・・ [日露戦争43]


≪画像および関連情報≫
 ・樺太について
  樺太(からふと)の名は、アイヌ語でこの島を「カムイ・カ
  ラ・ブト・ヤ・モシリ」と呼んだことに因んでいる。この名
  前は、アイヌ語で「神が河口に造った島」を意味し、黒龍江
  の河口からみて、その先に位置することに由来する。江戸時
  代は、北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷(地)」
  と呼ばれていた。後に、明治政府が北海道開拓使を設置する
  にあたり、北蝦夷地を「樺太」に改称、日本語に樺太の地名
  が定着した。近年、日本の報道機関各社は樺太という名称を
  使わず、「サハリン」という名称を使っている。
                    ――ウィキペディア

1749号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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