2006年01月06日

日本海海戦の完全勝利(EJ1748号)

 ロジェストヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊――ここま
で、このように記述してきましたが、「バルチック艦隊」とは実
は正しい名称ではなく、日本が日露戦争について記述するときに
独自に付けた名前なのです。
 正しくは「バルト(海)艦隊」というのです。ロシア海軍のバ
ルト海に展開する艦隊を意味しています。ニコライ二世は、この
バルト艦隊から主力の戦力を引き抜いて日本と戦うための艦隊を
編成したのです。これが第2艦隊です。
 当初はこの第2艦隊と旅順艦隊を合流させる作戦だったのです
が、旅順艦隊が全滅してしまったので、皇帝は急遽第3艦隊を編
成して、第2艦隊の後を追わせたのです。
 第2艦隊と第3艦隊は現在のヴェトナム周辺の海域で合流し、
1905年5月14日に極東に向けて出発したのです。この第2
艦隊と第3艦隊が合流した艦隊が日本の連合艦隊と戦ったのです
が、日本ではこの艦隊――輸送船を含めて38隻――をバルチッ
ク艦隊と呼んでいるのです。
 さて、日本海海戦については、それが講和の引き金になっただ
けに、少し詳しく記述することにします。日本の連合艦隊の推測
では、バルチック艦隊には次の2つの作戦が考えられたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.戦闘を覚悟の上で1日も早くウラジオストック軍港に直航
   し、ここを拠点に反転作戦を開始する。
 2.台湾か清国南岸またはさらに南方に根拠地を獲得し、日本
   の背後を脅かし、時期を見て反撃する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、第2の作戦は実現が困難であり、ロシアは第1の作戦
を取ることが考えられたのです。
 ここで、当時のバルチック艦隊の内情について説明しておく必
要があります。結論からいうと、バルチック艦隊の将兵はあまり
にもスローペースな長旅に疲れ切っていたのです。というのは、
バルチック艦隊の航路の大半は英国海軍の勢力下にあって、港に
停泊することはもちろんのこと、燃料や食料の補給ですらままな
らない状態だったのです。辛うじて得た補給も洋上補給という困
難にして疲弊する作業をしなければならなかったのです。
 しかし、フランス領マダガスカル島北岸のノシベ泊地とインド
シナ半島カムラン湾だけが、40数隻、1万2000名の将兵か
ら成る大遠征軍の休養・補給地であり、バルチック艦隊はここを
目指してあえぐようにしてやってきたのです。
 しかし、昨日のEJで述べたように、フランスは英国に対する
配慮と日本からの抗議を考慮して、バルチック艦隊に対してカム
ラン湾は利用させず、食料や石炭の補給までも拒否したのです。
そこで、ロジェストヴェンスキー中将率いる第2艦隊は、第3艦
隊が到着する間、カムラン湾北方のワン・フォン港周辺海域を彷
徨しながら、洋上で約20日待っていたわけです。
 このため、将兵の健康状態は急速に悪化、軍紀は極端に緩んで
しまったのです。しかも、アフリカ海岸沿いの海図は不正確なも
のが多く、艦船の故障も相次いだのですが、補修もできない状態
だったのです。寒さには強いロシア人も灼熱の地は耐えがたいも
のがあり、運送船「マライア」では暴動まで起こったのです。
 このように疲れ切って士気が落ちているバルチック艦隊が対馬
海峡を通ってくることは明らかだっのです。なぜなら、一刻も早
くウラジオストックに入るには、最短距離である対馬海峡を通過
するのが一番早いからです。連合艦隊司令長官東郷平八郎は、そ
のように考えて、対馬海峡で待機していたのです。
 長旅で極端に将兵の士気が落ちていたバルチック艦隊と、長期
間にわたる訓練を重ねて手ぐすねをひいて待っていた日本の連合
艦隊との差はあまりにも大きいものだったのです。戦いは、午後
2時8分のロシア戦艦スワロフの砲撃開始から、たったの30分
で連合艦隊の勝利は動かないものになったのです。東郷は、後に
次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 10年かかって築いた艦隊は、海戦当初の30分の決戦に用い
 るためだった。             ―――東郷平八郎
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 バルチック艦隊の戦艦11隻のうち7隻が撃沈され、1隻が自
沈、4隻が拿捕。巡洋艦は8隻のうち4隻が撃沈され、1隻が自
沈、3隻はマニラで抑留されたのです。駆逐艦は7隻のうち、2
隻がウラジオストックに逃げ込んだものの、4隻が撃沈され、1
隻が上海で抑留されています。
 ロシアは、兵員は戦死4830人、捕虜7000人、中立国抑
留1862人であったのに対し、日本艦隊は水雷艇3隻の損失、
戦死が107名という日本の完全勝利であったのです。
 司令長官であるロジェストヴェンスキー中将は、頭部に重症を
負い、参謀長コロン大佐、セミョーノフ中佐以下の幕僚とともに
駆逐艦「ベドーヴィイ」の降伏に伴い捕虜となり、直ちに佐世保
海軍病院特等室に入院しています。衣食ともに日本海軍の将官級
よりもはるかに高待遇をしたといわれています。
 東郷は、敗北した敵軍人に武人としての名誉を尊重し、ロジェ
ストヴェンスキー中将とネボガトフ少将に対してロシア皇帝への
戦況報告の打診を許可しているのです。これは戦時下にあって極
めて異例のことなのです。また捕虜に対する待遇も人道的なもの
であり、ここでも武士道精神が発揮されたといえるでしょう。
 造船技術水準が高く、新鋭戦艦を続々と自国で進水させている
世界一流の海軍国ロシアが、主要軍艦の多くを外国に発注してい
る技術後進国日本に大敗したという事実――これは世界を驚愕さ
せるものだったのです。ここにきてはじめて、日本が旅順や奉天
で勝利したことが本物であったことを世界は認めたのです。
 日本の同盟国である英国や米国のプレスは「20世紀のうちに
日本は、間違いなく世界のトップに立つだろう」と報道し、絶賛
したのです。         ・・・・・・ [日露戦争42]


≪画像および関連情報≫
 ・東郷平八郎について
  明治期の日本海軍の司令官として、日清・日露戦争の勝利に
  大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。日露戦争に
  おける日本海海戦でロシア海軍を破り、「黄色人種が初めて
  白色人種に勝利した」として世界の注目を集め「東洋のネル
  ソン」と賞賛された。日本海海戦での敵前回頭戦法(丁字戦
  法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督と評価され、
  日露戦争の英雄として乃木希典と並び称された。
                    ――ウィキペディア

1748号.jpg
posted by 平野 浩 at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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