2006年01月05日

戦争継続か講和か(EJ1747号)

 日本は、日露戦争を開始した時点からいつ幕引きをやるかを窺
いながら戦争をやってきたのです。そういう意味で旅順の陥落は
ひとつの大きな節目であったことは確かです。
 旅順陥落は国際的にも知れ渡り、日露講和の可能性が各地で議
論されるようになってきたのです。これまでに戦争の継続につい
て終始あいまいな態度を取ってきたドイツ皇帝ヴィルヘルム二世
も、米国のルーズベルト大統領に対して領土の割譲を前提としな
い講和を働きかけるべきであると伝えています。
 しかし、本音はドイツも米国もあまり日本が領土を取り過ぎる
ことは危険であると考えて、講和を調停しようとしたのです。と
ころが、当の日本の満州軍総司令部は、戦争継続で一致していま
した。それには、次の3つの理由があったからです。
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 1.兵力が充実していたこと
   ・旅順が陥落したため、乃木将軍率いる第3軍が使えるよ
    うになったことと、機関銃などは日本がロシアを上回っ
    ていたこと
 2.作戦に対する自信がある
   ・参謀本部としてはクロパトキン将軍の中途半端な采配を
    打ち破り、奉天(瀋陽)攻略に対して相当の勝算を持っ
    ていたこと
 3.両軍の士気の差が大きい
   ・開戦以来連戦連勝の日本軍と連敗と失敗を重ねたロシア
    軍との士気の差は大きく、ロシア軍には厭戦気分が満ち
    ていたこと
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 クロパトキン将軍は奉天を日本軍から守るには、100万人の
兵が必要であるとして、本国に兵の増派を要求していたのです。
しかし、1905年の1月22日に「血の日曜日」が起きて、軍
の増派どころではなかったのです。こういうところに明石工作が
効いているのです。
 結局、奉天の戦いは日本軍の勝利に終わるのですが、クロパト
キンは、異常に乃木の第3軍が背後に回られるのを恐れ、鉄嶺に
向って総退却をはじめたのです。しかし、日本軍はその時点で既
に弾薬の補給が底をついており、決定的勝利を勝ち取れなかった
のです。これが講和条件に大きく響いたのです。
 奉天陥落の報を聞いたニコライ二世は、直ちにクロパトキンを
解任し、リネウィッチ将軍を任命するのです。リネウィッチ将軍
は、攻撃型の勇将として知られ、直ちに日本軍に反転攻勢をかけ
るために、欧州の一流師団を中心にハルピンに50師団を集結さ
せはじめたのです。この頃には、シベリア鉄道の輸送能力は開戦
当時の倍近くになっていたのです。
 「これはいかん!ここが限界だ」――参謀長の児玉源太郎は、
このようにつぶやくと、3月22日に奉天を出発し、大連を経由
して東京に向かったのです。そして、児玉は3月30日に明治天
皇に会い、満州の現状を報告、それを受けて次の31日に大本営
で会談が行われたのです。
 この会談の名目は作戦会議だったのですが、次のことが話し合
われ、もはや戦争継続は困難であることが確認されたのです。そ
して、水面下で講和に向けて努力する方針が決定されたのです。
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 1.ハルピン会戦をやるには、さらに戦費が9億円必要である
 2.46歳までの日本男子を動員して、13万人の新兵を作る
 3.6ヶ月以内に戦わなければならないので、準備が不足する
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 しかし、ロシアが講和に応じなければ戦争を続けざるを得ず、
あくまで、表面上は、ハルピン、ウラジオストック、カムチャッ
カ半島の3点を奪取するという方針で臨むことになったのです。
 しかし、あくまで戦争継続の考え方を変えないニコライ二世も
開戦以来の負け戦の連続と国内の革命運動の懸念もあってかなり
弱気になっており、条件さえ整えば講和してもよいと考えはじめ
ていたことは事実です。
 しかし、皇后のアレクサンドラが戦争継続を主張して譲らない
のです。彼女はバルチック艦隊が極東に到着すれば、戦局は一変
すると主張しているのです。確かにアレクサンドラのいうように
もし、日本海軍がバルチック艦隊に破れれば、一挙に戦局が変わ
ることは間違いなかったのです。そういうわけで、戦争継続か講
和かの判断は、日本海海戦の結果に委ねられたのです。
 ロジェストヴェンスキー海軍中将に率いられた艦隊は、マダカ
スカルに着いたときに旅順陥落の報を受け取ったのです。ロシア
にとってそれは明らかに、来るべき海戦の意義を問い直す出来事
であったはずですが、ニコライ二世はこの海戦で日本に勝つこと
によって戦局を逆転させることしか頭になかったのです。
 こうしてバルチック艦隊は、4月初頭にマラッカ海峡に入り、
4月末にフランス領インドシナ(ヴェトナム)のカムラン湾に艦
隊を停泊させようとしたのです。しかし、フランスはこれを拒否
したので、やむを得ず、カムラン湾の北方ワン・フォン港周辺海
域に艦隊を停泊させたのです。なぜ、カムラン湾が使えなかった
のか――それは日本がフランスに対し、猛烈な抗議をしたからで
す。カムラン湾はフランス領であり、中立国が日本の交戦国であ
るロシアのために自国領の港湾を利用させることは許されないと
主張したのです。英国との関係改善を進めていたフランスは、こ
の日本の抗議を無視できなかったのです。
 5月14日、バルチック艦隊は航海を再開します。このように
この艦隊は非常にスローペースで日本に近づいてきたのです。そ
の間、日本の連合艦隊はさまざまな作戦とその演習にたっぷりと
時間をかけることができたのです。
 バルチック艦隊の目的地はウラジオストック、航路には3つの
選択肢があったのです。対馬海峡か、宗谷海峡か、津軽海峡か、
このどれかです。       ・・・・・・ [日露戦争41]


≪画像および関連情報≫
 ・奉天会戦
  奉天会戦はは、1905年3月1日から10日にかけて行わ
  れた、日露戦争最後の会戦。参加兵力は日本軍25万人、ロ
  シア軍37万人。司令官は日本側大山巌、ロシア側アレクセ
  イ・クロパトキン。奉天は現中国遼寧省の瀋陽。クロパトキ
  ンを総司令官とするロシア軍は100万に動員令をだしてい
  たが、ロシア国内は血の日曜日事件のように革命前夜の状況
  であった。ニコライ二世への国民の忠誠心は後退していた。
  一般的には、奉天を占拠しロシア軍を敗走させた日本軍の勝
  利と認識されているが、十分な追撃を行えなかったために、
  日本側の優勢的な引き分けに近いと評する者も多い。
                    ――ウィキペディア

1747号.jpg
posted by 平野 浩 at 05:44| Comment(1) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
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Posted by Noriko Morita at 2006年01月06日 15:02
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