2001年06月08日

真珠湾攻撃と米軍の報復空襲(EJ633号)

 日米開戦のことに触れたので、今朝も同じテーマを続けます。
 日本軍が真珠湾を空襲するという情報がワシントンにもたらさ
れたとき、ワシントンはもちろん直ちにハワイの艦隊司令官に電
報を打っています。しかし、この電報は、不運とお役所仕事の怠
慢とが重なって、ハワイの艦隊司令官のハズバンド・キメル大将
に届いたのは、真珠湾攻撃がはじまってから、何と5時間もあと
だったのです。
 それにしても当時は急を知らせる連絡は電報だったのですね。
キューバ危機のときのケネディとフルシチョフとの連絡はテレッ
クスでした。それにしても電話はどうしたのでしょうか。いずれ
にせよ、ハワイは何もわからないまま、いきなり日本軍に攻撃さ
れたことは確かです。今なら、メールですぐ急を知らせることが
できますね。改めてインターネットの便利さというか、凄さがわ
かります。
 それでは、米軍のレーダーはどうだったのでしょうか。当時す
でにレーダーは配備されていて、使えたはずなのにどうして機能
しなかったのでしょうか。
 確かに米軍のレーダーはオアフ島に大挙して飛来する日本軍の
戦闘機(353機)の機影をちゃんととらえていたのですが、レ
ーダーを読むことに慣れていなかった当直士官のカーミット・タ
イラーは、その機影を本土からやってきた味方の戦闘機と間違え
てしまったというのです。このタイラー氏は現在88歳で健在だ
そうです。
 ルーズーベルト大統領は、真珠湾攻撃の直後、ホワイトハウス
の書斎でその知らせを受けたそうです。エレノア夫人によると、
その一瞬大統領は凍りつき、氷山のようになったといいます。
 しかし、当時の米国は、インターネットのような通信システム
がなかったので、米国内ではさまざまな誤情報が流れて騒然とな
ったといわれます。「日本軍がワイキキビーチに上陸している」
とか「日本軍がサンフランシステコを侵略中」とかいうウワサが
流れたといわれます。日本軍が米国の西海岸に上陸して、中部の
シカゴに攻め込む可能性があるとみていた人は多いようです。
 映画には、こういうシーンがあるそうです。
 車椅子に座ったフランクリン・ルーズベルト大統領が海軍幹部
に対して「即刻日本に報復せよ」と命じます。「それは不可能で
す」と答えると、大統領は必死の形相で力を振り絞って車椅子か
ら立ち上がってこういうのです。「この私に向かって『不可能』
などということばを使うな!」と。フランクリン・ルーズベルト
大統領は脚が不自由であり、車椅子の生活を送っていたのです。
 実は大統領の命じた報復は実際に行われています。真珠湾攻撃
のあった翌年の1942年4月18日、12時30分のことです
が、米軍によるはじめての東京空襲が行われたのです。
 ジミー・ドゥーリトル中佐率いるB25戦闘機の一隊16機が
太平洋上の空母から飛び立って東京を空襲したのです。
 作家の伊藤整氏は、当日の日記にこう書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『初めての本当の空襲であるが、晴れて明るい日のこととて、
 のん気である。あの飛行機が敵機というのだそうだが、ふだん
 の日本の飛行機を見るのと変らない気持。今まで受け身でばか
 りいたアメリカ人も初めて少しは仕事らしいことをしたと、ほ
 めてやりたい位の気持ちである。昼間の東京に入って来るなど
 なかなかやるわい、といかにも冒険好きなアメリカ青年の顔が
 目に浮かぶやうだ』。(伊藤整著、『太平洋戦争日記』新潮社
 刊、1983年105ページ)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、ドゥーリトル隊は装備を最低限にし、帰還するための
燃料を十分に積んでいなかったので、空襲を終えたあとは中国に
不時着せざるを得なかったようです。それでも、日本にとってこ
の空襲はかなりショックだったのです。日本の当局としては、本
土が空襲を受けることは絶対にないと明言していたからです。
 そして、これ以上空襲されることを防ぐために、日本は中部太
平洋のミッドウェー島の制圧にかかるのですが、暗号を解読され
ていた日本の連合艦隊はここで大敗し、貴重な空母を失ってしま
うことになります。1942年6月のことです。
 ところで日本の教科書は、真珠湾攻撃をどのように教えている
のでしょうか。
 現在、中学校の歴史教科書には7社のものが採用されているの
ですが、いずれも真珠湾攻撃を「奇襲」と位置づけています。し
かし、今年の4月に文部科学省の検定に合格した「新しい歴史教
科書をつくる会」の教科書には、次のように奇襲であっことは述
べられていないのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 『日本の海軍機動部隊が、ハワイの真珠湾に停泊する米太平洋
 艦隊を空襲した。艦は次々に沈没し、飛行機も片っ端から炎上
 して大戦果をあげた』。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、これはどのように考えても「奇襲」です。奇襲は奇襲
とありのままを表現すべきです。実は、開戦の最後通牒は日本政
府としては、キチンと所定の手続きを踏んで攻撃をする前に行っ
ているのに、当時の野村駐米大使は、それを85分間手渡すのが
遅れてしまったのです。
 現在、外務省の体質が厳しく問われていますが、当時からダメ
だったのです。他国でしたら、こういう国の名誉や国益を損ねる
ことをやった人は銃殺ですが、日本の場合はお咎めなしで、むし
ろ出世しているのですから、あきれてしまいます。外務省の堕落
はいまはじまったことではないのです。
 実は日本が開戦に踏み切った経緯については、いろいろな疑問
があるので、これについては一度EJで取り上げます。「ハル・
ノート」をつきつけられたのが1941年11月26日。翌日に
は政府は交渉打ち切りを決意し、その11日後の12月8日、午
前3時過ぎに日本はハワイを攻撃しているのです。
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
卒業生が外務省に合格すると、先生は校長室に飛び込み、「今年わが高校より2名外務省に入りました。我が高校の名誉です!」と言って出てきて、走り回った。・・・・それなのに今も昔も国益にかなった働きをしていない。政治家が悪いのか?外務省が悪いのか?・・・・陸奥宗光や小村寿太郎に聞いて見たい。
Posted by N・Furukawa at 2015年08月21日 18:46
山本五十六は米国と通じていたのではないかと言われていますね。彼ばかりではなく上層部のかなりのメンバーがそうだったとか。
以下のサイトや他のかなりのサイトでそのような主張が為されていますが、あなたはどのようにお考えですか。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6946278.html

http://www.asyura.com/2002/dispute3/msg/413.html

http://www.asyura.com/2002/dispute3/msg/413.html
Posted by 東 at 2015年10月23日 17:11
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