あるのです。実は、ゲオルギー・アポロヴィッチ・ガボンという
僧侶の正体に次の2説あるからです。
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≪第1の見方≫
労働者の味方であり、立派な宗教家として宗教のみならず、
新しい共済制度を政府に採用させ、労働者の地位と経済的な
力を向上させようと尽力した若い僧侶
≪第2の見方≫
非常に腹黒く、自己顕示欲が強いところがあり、弁舌さわや
かである。強いカリスマ性があり、人を扇動してひとつの方
向に向わせる能力を有している革命家
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興味深いことは、既にご紹介済みの『動乱はわが掌中にあり』
の著者である水木楊氏は第1の見方を取り、『情報将校/明石元
二郎』
水木楊氏の描くガボンは、冬宮殿のロシア軍の襲撃によって負
傷し、パリに逃れているのです。後にシリアスクを介して明石に
会い、ロシア大衆の一斉蜂起を手伝うようになるというのです。
これに対して、豊田氏は血の日曜日のデモ自体に明石の工作が
あったという説を取っているのです。話の筋からいうと、豊田氏
の説の方がいろいろな点でつじつまが合うのです。そこで、ここ
では、豊田氏の説に沿って解説することにします。
1905年の正月に旅順が陥落すると、明石は直ちにペテルブ
ルグに侵入するのです。この頃「ムッシュー・アカシ」の名はロ
シアのオフラーナには知れ渡っており、この潜行は非常に危険な
ものだったのです。
ペテルブルグのネフスキー通りの裏小路にある酒場で、明石は
社会革命党の幹部とガボンに会っているのです。豊田氏はガボン
のことを「一種異様な風貌とムードを持った怪僧」と表現してい
ます。しかし、これが水木氏の手にかかると「深い神秘的な瞳を
持つ、背筋の伸びた、髭の濃い美しい僧」となるので、まるで別
人のようです。
怪僧ガボンは明石に会うと、次のようにいったのです。
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革命は成功する。そのためには犠牲が必要ですぞ。私は予言す
る。神は私に民衆の犠牲になるようお命じになった。まさにイ
エスキリストのように・・・その日取りは神のお告げによると
1月9日(新暦の22日)なのだ。
――豊田穣著、『ロシアを倒した
スパイ大将の生涯/情報将校/明石元二郎』
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このとき、社会革命党の幹部は明石に対して、次のようにいっ
たのです。1月19日に冬宮殿でキリスト洗礼祭があり、皇帝が
出席する。そのさい、21発の礼砲が上がるが、その内の1発に
実弾を仕込んで冬宮殿上で爆発させるというのです。砲兵隊員の
中に社会革命党員がおり、それは可能であるというのです。
これをやると、宮廷側は軍部のなかの不穏分子の仕業であると
考えて疑心暗鬼になる――そこにガボン率いる大規模な民衆のデ
モ隊を突入させ、宮廷側の心胆を寒からしめる作戦であるという
のです。そのとき、民衆側と宮廷側の軍隊がぶつかって流血騒ぎ
が起きると、皇帝の信用は一挙に地に落ちるというのです。
ガボンがいう「民衆の犠牲」とはこれを指しているものと考え
られます。実際に宮廷側は冬宮殿を厳重に軍隊で囲み、民衆に向
って発砲したのです。そのため、多くの死者が出て、ガボン自身
も負傷するのですが、それは革命を成就させる犠牲であるという
わけです。
確かに事態はガボンのいう通りになったのです。これによって
皇帝の権威は失墜したからです。民衆から最後の拠りどころにさ
れていた皇帝は雇い主と何ら変わらない存在であることを思い知
らされたからです。
このことを独自の情報網から事前に知っていたのがあのウィッ
テなのです。だからこそ、彼はニコライ皇帝に会って民衆を冬宮
殿に入れて、しかるべき人物が請願書を受け取るべきであると忠
告したのですが、受け入れられなかったのです。
既に何度も述べているように、宮廷内には反ウィッテ派がたく
さんいて、ウイッテと皇帝とを遮断しようとしたのです。そのた
め、21日に開かれた政府首脳の会議にはウイッテに声がかから
なかったのです。ニコライ二世という人は、他人の意見に左右さ
れやすく、ましてウイッテ自身は煙たい存在だったのです。その
ため、ウイッテの申し出は採用されなかったのです。
水木氏の本によると、21日の夜、ウイッテの家にある訪問者
があったと記述されています。訪問者は、作家マクシム・ゴーリ
キーを含む一団だったのです。ゴーリキーには、名作「どん底」
という作品があります。
彼らのウイッテに対する頼みというのは、このままでは流血の
惨事になるので、皇帝を何とか労働者に会わせるように計らって
欲しいというものだったのです。
しかし、ウイッテは自分は閑職に追いやられていて、主要な会
議に呼ばれていないので、皇帝に伝えるすべはないと悲しそうに
答えたというのです。
1月2日の旅順陥落に引き続き、19日の冬宮殿での銃弾の爆
発騒ぎ、そして22日の冬宮殿でのデモ隊の大量の流血事件――
このように事件が続いたのです。これはロシア皇室にとって、相
当なショックであったはずです。明石元二郎の工作がどんなに恐
るべきものかわかると思います。
それにこの一連の事件がムッシュー・アカシの仕業であること
が当のペテルブルグのその筋では既に知られていたのです。いま
や明石はパリはもちろんのこと、ペテルブルグでもスコットラン
ドでも有名人になっていたのです。 ・・・・ [日露戦争39]
≪画像および関連情報≫
・社会革命党の元老の言葉/明石の評価
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私たちはロシア民族のために、現ロシア政府という悪魔と数
十年戦ってきたが、何一つ満足な打撃を敵にあたえたことが
ない。それなのに、ロシアの敵であるはずの日本人が、われ
われに力をかして、悪魔退治の応援をしてくれている。まこ
とに恥ずかしい話だ。
――豊田穣著、『ロシアを倒した
スパイ大将の生涯/情報将校/明石元二郎』
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