2005年12月26日

ロシア革命の前奏曲/血の日曜日(EJ1744号)

 アレクセイ・キリチェンコ氏という人がいます。日露戦争にお
ける日露の諜報機関の対決を描いたテレビドキュメンタリーフィ
ルムの台本を書いた人です。
 キリチェンコ氏は、明石元二郎が金を使って反政府勢力を操っ
たことには批判的ですが、明石が「民族問題こそがロシア帝国の
脆弱な部分である」と見抜いていたことを高く評価して、次のよ
うにいっているのです。
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 明石はレーニンより早く、民族問題の重要性に目を向けた。レ
 ーニンは後になってこれを理解し、民族自決権をスローガンに
 掲げてロシア革命を遂行したと指摘し、明石はレーニンの師に
 なったというのである。 ―― 読売新聞取材班著、『検証日
               露戦争』より。中央公論新社刊
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 しかし、レーニンの狡猾なところは、彼自身は民族自決権を理
解したもののそれを誰にも与えなかったという点です。その結果
が、後年ソ連の崩壊を招いたのです。
 1904年の日露開戦から11ヶ月後の1905年1月2日、
乃木将軍の第3軍は、多くの犠牲を積み重ねて旅順の203高地
を落としたのです。
 ニコライ二世は日記をきちんとつける人だったそうですが、そ
の1月3日の日記を紹介しましょう。
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  未明、ステッセルから日本に旅順を明け渡したとの衝撃的な
 報告を受けた。甚大な(将兵の)損失、守備隊内部の病的な状
 態、弾丸の枯渇のためだ!・・・つらく悲しい。――読売新聞
      取材班著、『検証日露戦争』より。中央公論新社刊
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 日露戦争当時は、日本もロシアも戦況の報告はウソや誇張がな
かったのです。したがって、日本国民は旅順で苦戦していること
はよく知っており、それだけに旅順陥落のときは日本中が沸いた
のです。街には提灯行列が出ましたし、旅順開港と白旗を掲げた
敵の将軍ステッセルをテーマにした歌まで流行ったのです。ロシ
アの将軍たちも、戦況に関しては逐一正確に皇帝に電報を打って
いたようです。
 ニコライ二世が旅順陥落の原因を「弾丸の枯渇のため」といっ
ているのは、ロシアも日本と同様にその頃は戦費の調達がままな
らなかったからです。日本軍は各会戦でロシアを打ち破っていま
すが、全般的に弾丸が不足しており、そのため追撃できず、決定
的な勝利が勝ち取れなかったといわれます。
 さて、旅順は落としたものの、1904年10月5日には世界
最強といわれるロシアの誇るバルチック艦隊はバルト海のリバウ
を出発し、一路日本に向っていたのです。旅順攻略で浮かれてい
るときではなかったのです。
 実は、旅順陥落後、米国大統領ルーズベルトは日本の依頼を受
けて、フランス大統領エミール・ルーペを通してロシア皇帝に和
議を打診しているのです。しかし、瀋陽(奉天)にはロシア軍が
集結してきているし、バルチック艦隊もやってくる――負けるは
ずがないと、皇帝は和議を拒否したのです。
 そういうとき、ロシアでは明石の仕掛けていた謀略のひとつが
炸裂したのです。その中心人物はゲオルギー・アポロヴィッチ・
ガボンという若き僧侶です。
 旅順陥落のニュースが伝わると、ロシア国内ではあちらこちら
で、ストが発生したのです。このストは明石がパリにいる革命グ
ループを扇動して起こさせたものなのです。
 1月19日にキリスト洗礼式の式典が冬宮殿であり、ニコライ
二世が出席していたのです。式典の最中に礼砲が上がったのです
が、故意か偶然か1発の実弾が冬宮殿を襲ったのです。空砲であ
るべき礼砲の中に1発だけ、実弾が入っていたためです。
 1905年1月22日――ある一団が冬宮を目指して行進をし
ていたのです。その先頭に立っていたのは、若き僧侶ガボンだっ
たのです。何のために冬宮殿を目指していたのかというと、皇帝
に請願するためです。
 ロシアでは、ストが起きると、工場労働者は先頭に僧侶を立て
て冬宮で皇帝に請願し、あこぎな雇い主に労働条件の改善をして
もらうことがならわしとなっていたのです。したがって、ガボン
が先頭に立って冬宮殿に向っても、とくに異例のことではなかっ
たのです。僧侶はロシアでは影響力は大きく、国民の味方である
と考えられていたのです。皇帝に請願すれば何とかなる――皇帝
の権威はまだ辛うじて保たれていたのです。
 しかし、この日は皇帝側の様子はいつもと少し違っていたので
す。冬宮殿の門の前には、歩兵1万2千人のほか、コザック騎兵
も3千人出動しており、物々しく守りを固めていたのです。
 実はこの日の冬宮請願をあのウィッテは事前に知っており、皇
帝に対して「群集は門の中に入れ、請願書だけを受け取る。皇帝
は自ら姿を現すことを避け、追って適切な措置を取ることをメッ
セージとして与える」案を示しています。しかし、ウイッテはそ
の後の会議から外され、この案は無視されてしまったのです。
 やがて冬宮殿の門に到着したガボン率いる群集は停止命令を受
け、押し問答がはじまったのです。そこで連隊長は、群集に叫ぶ
のです。「帰れ!命令にしたがわないと撃つぞ!」――しかし、
群集の力は凄く、門を押し破って入ろうとします。
 「撃ち方はじめ!」――連隊長は命令すると、ラッパの音とと
もに100梃以上の鉄砲が一斉射撃を行ったのです。しかし、最
初は空砲でした。それがかえっていけなかったのです。撃つ気が
ないと誤解した群衆は一斉に前進しようとしたのです。ところが
本当に銃が発射され、大勢の人が血にまみれて死んだのです。こ
れが「血の日曜日」と呼ばれ、5ヵ月後の戦艦ポチョムキンの叛
乱とともにロシア革命の前奏曲として、長く歴史に刻まれること
になるのです。         ・・・・・ [日露戦争38]


≪画像および関連情報≫
 ・血の日曜日の翌日労働者の歌った歌
  ―――――――――――――――――――
  極東で征服されたロシアの上の勝利者よ
  呪われてあれ、血で染まった
  残忍なツァー(皇帝)よ
  ―――――――――――――――――――
 ・サンクトペテルブルグ「冬宮殿」

1744号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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