2005年12月22日

明石/レーニン会談(EJ1743号)

 社会民主党の機関誌に「イスクラ」というのがあります。この
機関誌はヨーロッパの社会主義者や反ロシア運動、抵抗運動に従
事する人たちの間で圧倒的に売れ、社会民主党の有力な資金源と
なっていたのです。
 レーニンは、この機関紙に力を入れており、社会民主党のプレ
ハーノフ党首との間に意見の違いが起こった出獄以後の時期にお
いても「イスクラ」には書いていたのです。
 ちょうどその頃、明石はパリにいたのですが、シリアスクとカ
ストレンの紹介で、レーニンに会っています。
 明石がレーニンに会った場所は、レーニンのジュネーブの自宅
なのです。その頃、レーニンは、イワン・イリーチ・ウリヤーノ
フと本名を名乗っていたのです。
 当時、レーニンは35歳、明石は40歳です。自宅に招き入れ
られた明石は、パリから持ってきた上等のコニャックを出すと、
レーニンは「いや、私は酒はやりませんので・・」と断ったので
明石は自分で栓を抜くと、手酌で飲み出したのです。
 レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助する話で
あるということは、あらかじめシリアスクからレーニンに伝えら
れていたのですが、レーニンはそれを断ってきたのです。
 レーニンが日本政府の資金援助は受けられないという理由は、
次のような根拠に基づいていたのです。
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 1.日本政府が社会主義運動に理解があるとは考えられない
 2.日本はロシアの敵国、敵国から資金援助は受けられない
 3.資金援助を受けて革命が成就したとき自分は非難される
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 明石はきっとそうくると考えていたのです。ここから先の対話
は、豊田穣氏の著書から引用させていただきます。
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 「レーニンさん、あなたはまた肝心のところで、大きな認識の
 間違いを冒していますぞ!」
 「認識の間違いだと?」
 レーニンは眼を大きくして明石をにらんだ。そのいくらか茶色
 を帯びた黒い瞳をみて、
 ――この男はやはり東洋人だ・・・と明石は考えた。
 「レーニン君、君の祖国は果たしてどこなのかね?」
 「・・・・」
 「君は祖国を裏切ることは、革命の同志やロシア人に具合が悪
 いというようなことをいう。しかし、君はロシア人ではない。
 タタール人ではないのか? タタール人の君が、ロシア人の大
 首長であるロマノフを倒すのに、日本の力を借りたからといっ
 て、何が裏切りなのかね?」――豊田穣著、『ロシアを倒した
 スパイ大将の生涯/情報将校/明石元二郎』より  光人社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで、明石はレーニンにロシア史をぶつのです。そして、次
のようにレーニンに迫ったのです。
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 「レーニン君、君がどこかの国の援助を受けて、イワン雷帝の
 子孫であるロシアの宮廷を倒しても、それは当然の権利回復で
 あって、なんら道義にもとるものではない。かつてフランス、
 ドイツ、デンマーク、スウェーデンは、みな失地回復の戦争を
 やっている。それはすべて正義の戦いなのだ。力を奪われたも
 のは、力を取り戻す・・・それが国際紛争解決の法則なのだ。
 そうではないかね。レーニン君?」    ―― 上掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 レーニンは驚いたのです。彼はこれほどまでに率直にものをい
う人間に会ったことがなかったからです。やがて、レーニンは明
石の申し入れを理解し、次のようにいって、この歴史的会談が終
わったのです。
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 「とにかくムッシュー・アカシ、よくきてくれたよ。われわれ
 は社会主義運動、君は国家のために金をつかう・・・キブ・ア
 ンド・テイクでゆこうじゃないか」。   ―― 上掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように、革命家たちのスイスでの活動が盛んになると、ロ
シアの秘密警察組織――オフラーナの活動は一段と激しいものに
なっていったのです。このオフラーナの頂点にいた人物が内務大
臣プレーヴェなのです。
 プレーヴェは、歴代内務大臣の中でも際立ったタカ派であり、
1902年に大臣になると、強硬な方法で農民蜂起などを取り締
まったのです。彼は、あのペゾブラゾフと結託して、国民の間に
高まりつつある革命機運を弾圧するためには「小さな、さして金
もかからぬ戦争」――日露戦争のこと――を起こし、これに圧勝
して皇帝の威信を示せばよいという考え方で、ウィッテなどと反
対の立場をとってロシアを戦争に導いた張本人でもあるのです。
 もともとロシアの秘密警察――オフラーナは、イワン四世がリ
ボニア(現在のラトヴィアとエストニアの一部)を併合したとき
1200人あまりで組織する「秘密調査隊」を編成したときに始
まるのです。
 このイワン四世の死後、摂政になったのが、オペラで有名なボ
リス・ゴドノフなのです。彼は、秘密調査隊を1万人以上に増強
して、モスクワに本部を移し、外国でのスパイ活動に力を入れる
ようになったのです。
 このプレーヴェ内相――革命組織から見ると、目の上のタンコ
ブであり、なにかとうるさい存在なのです。そこで、プレーヴェ
を暗殺しようという計画が持ち上がったのです。中心になって動
いたのは、社会革命党です。
 周到な計画が練られ、実行に移されたのです。1904年7月
28日――内相プレーヴェの乗った馬車はダイナマイトで爆破さ
れ、暗殺は成功したのです。   ・・・・・ [日露戦争37]


≪画像および関連情報≫
 ・歌劇『ボリス・ゴドノフ』とは・・・
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   16世紀末、イワン雷帝なき後のロシアの帝位についたの
  は重臣ボリス・ゴドノフだった。しかし、ボリスの皇座には
  血に塗られた秘密が隠されていた。イワン雷帝の子、ドミト
  リー皇太子を暗殺していたのである。
   ボリスは、権力保持の欲望と良心の呵責にさいなまれる。
  一方、ロシア史の編纂に携わる老修道僧ピーメンに仕えるグ
  リゴリーは、ドミトリーの復讐を決意する。彼は、自らをド
  ミトリー皇太子と名乗って、リトアニアの国境近くへと向か
  う。やがて、偽ドミトリー皇太子は、ポーランドの支持を得
  て叛乱軍を組織しモスクワへと進軍してくる。ボリスの苦悩
  は、クレムリンを錯乱と狂気にかりたてていくのだった。
  http://www002.upp.so-net.ne.jp/kolvinus/Douran/rosia1.htm
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1743号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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