てきます。革命グループは大別すると次の2つになります。
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1.帝政ロシア本国から発生したグループ
2.支配された小国から発生したグループ
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第1のグループは、帝政ロシアそのものを理想のかたちに変え
たいと考えているグループです。その実現手段によって次の4つ
に分かれています。
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1.社会革命党 ・・・ 過激集団
2.社会民主党 ・・・ 穏健路線
3.自 由 党 ・・・ 段階移行
4.ブ ン ト ・・・ ユダヤ人
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社会革命党は、農村や地方を基盤とするグループで、皇室の廃
止、土地の国有化、農民の開放などの実現を目指す過激路線をと
るグループです。
社会民主党は、工場労働者を基盤とし、比較的穏健な路線をと
るグループです。レーニンはこのグループに属していたのです。
自由党は、社会民主党よりも穏健であり、帝政ロシアを段階的
に立憲政治に移行させようとするグループです。
ブントは、ユダヤ人の集団であり、正式な名称としては、次の
長い名前を持っていたのです。
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リトワニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟
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これに対して第2グループは、帝政ロシアの支配下にある小国
で発生したグループです。傘下には、次のような集団が含まれて
いるのです。
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1.ポーランド国民民主党 ・・・ ドムスキー党首
2.ポーランド国民進歩党
3.フィンランド過激反抗党 シリアスク党首
4.フィンランド憲法党 ・・・・ カストレン党首
5.アルメニア革命連合
6.小ロシア党
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これ以外にも小さい集団はたくさんあるのです。既にEJで取
り上げているシリアスクはフィンランド過激反抗党の党首であり
カストレンはフィンランド憲法党の党首、ポーランド兵士戦線離
脱作戦の実施担当のドムスキーは、ポーランド国民民主党の党首
なのです。
しかし、これら大小さまざまの集団はお互いに反目し合ってい
て、ひとつにまとまるという考え方はなかったのです。本来の敵
である帝政ロシアを協力して倒すという考え方はまったくなかっ
たといえます。それをひとつにまとめる――そのためにはその前
提として秘密統一集会を開催する必要がある――シリアスクと明
石はこの作戦をストックホルムで、練りに練ったのです。そして
シリアスクは、スイスに向ったのです。
この当時本国から追われた革命分子は、スイスのジュネーヴに
集まっていたのです。余談ですが、スイスには次の面白い悪口が
あるのです。
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スイスにスイス人がいなかったらとても良い国になるだろう
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スイスは風光明媚な土地です。しかし、そこに住むスイス人は
自分の生活基盤を脅かす参入者に対しては断固排除するところが
あるのです。つまり、排他的なのです。
しかし、そうではない一時的な滞在者に対しては、驚くほど寛
容なところがあるのです。そのため、革命者やスパイなど、一時
的に滞在しようとする者には便利な国なのです。お金についても
スイスの銀行は、どのような性格のお金でも詮索をしないで預か
るし、どんなに圧力をかけても顧客の口座については秘密を守っ
てくれるのです。これがスイスの特徴といえます。
明石とシリアスクは、統合の鍵を握っているのは第1グループ
の社会民主党であると考えたのです。社会革命党は統一集会を提
案すれば、一も二もなく乗ってくると考えたのです。そして、ス
イスにいた社会民主党の党首であるプレハーノフに会いに行った
のです。
プレハーノフに会ってシリアクスは、秘密統一集会のことを提
案します。しかし、プレハーノフは、シリアスクの説明には耳を
傾けたのですが、「参加する」というと返事はなかったのです。
かつて社会民主党には、ウラジミール・ウリヤーノフ――つま
り、若きレーニンがいたのですが、プレハーノフと意見が合わず
既に党を脱退していたのです。
シリアスクは、続いて自由党の党首、ストルーベに会っていま
す。彼は積極的な人間ではないのですが、秘密統一集会には賛同
したのです。
続いて、社会革命党、ブント、ポーランド国民民主党などの党
首に次々と会って、秘密統一集会を説いたのです。最も積極的に
賛成したのは、社会革命党の党首、チョルノフだったのです。彼
は、秘密統一集会だけではなく、デモも敢行すべきであるという
過激な提案をしてきたのです。
レーニンは、一時危険分子として逮捕され、シベリアに流刑に
なっています。しかし、3年後の1900年7月にヨーロッパに
きて、1904年3月にはジュネーヴに落ち着いたのです。やが
て、レーニンは、本拠地をジュネーヴからチューリッヒに移し、
ボリシェヴィキを結成したのです。明石はどのようにして、レー
ニンに会ったのでしょうか。 ・・・・・ [日露戦争36]
≪画像および関連情報≫
・ウラジミール・レーニン
ウラジミール・レーニンは、本名はウラジーミル・イリイチ
・ウリヤノフ。「レーニン」は「レナ川の人」の意である。
レーニンの名を用いるまで、地下活動の間に約150もの偽
名を用いていた――カルポフ、ヤーコプ・リヒテル、フレイ
バシル、ニコライ・レーニンなど。 ――ウィキペディア
