2005年12月14日

第1回戦時公債の成功/1904(EJ1737号)

 日本の第1回戦時外債(1000万ポンド)は、1904(明
治37)年5月1日にロンドンとニューヨークで売り出されたの
ですが、購入希望者が募集額を上回ったのです。
 逆に開戦当初は高値を呼んでいたロシア公債の人気は急落した
のです。開戦前の1月の時点で額面の97%であったものが、5
月には額面の89%まで下がってしまったのです。
 そのため、ロシアはさらに多額の戦時公債を売り出すことが困
難になったのです。なぜなら、それをすれば、金融市場に混乱を
引き起こす恐れがあると、ロシアの最大の債権国フランスが反対
したからです。
 どうしてこういう結果になったかというと、5月1日に陸軍大
将黒木為禎率いる第一軍が、鴨緑江の渡河作戦を成功させたから
なのです。実にタイミングがよかったのです。少し戦局のことを
書きましょう。
 宣戦布告した日本軍がまず目指したのは、朝鮮半島上陸作戦で
あり、戦略拠点のソウル(京城)の確保だったのです。2月6日
に先遣隊が佐世保で輸送船に乗り込み、朝鮮半島に向ったのです
が、途中抵抗らしい抵抗に遭わずに8日にあっさりと仁川に上陸
し、そのままソウルに入っています。
 その日の午後、瓜生外吉の率いる第2艦隊とロシアの砲艦「コ
レーエッツ」と「ワリャーク」の2隻が遭遇したのですが、ロシ
ア艦は仁川港口に逃げ込んでしまいます。しかし、次の日に港か
ら出てきたところを瓜生艦艇に攻撃され、被弾の後、自沈してし
まいます。
 この戦況によって、大本営は、先遣隊に続いて第12師団が上
陸する予定地であった朝鮮半島の南端の馬山を変更し、中央部の
仁川にしたのです。第12師団は2月半ばから10日間かけて、
仁川に無事上陸し、朝鮮半島のソウル以南を日本の支配下に置い
たのです。ここまでは実に順調に進んだのです。
 これは黄海における制海権の確保が予想を上回るスムーズさで
確保できたことによるのです。制海権の確保には、ロシア太平洋
艦隊と相当激しい戦闘を予想していたのです。しかし、ロシア艦
隊は黄海には出てこないので、2月8日に連合艦隊はロシアの主
力艦が集結する旅順港に接近し、旅順港外に停泊中のロシア太平
洋艦隊を攻撃しています。
 続く9日も連合艦隊は旅順港を攻撃したのですが、その攻撃が
すさまじかったので、ロシア艦隊は旅順港に閉じこもり、出てこ
なくなってしまったのです。このとき、マカロフ司令官は旅順に
おらず、その着任をひたすら待っていたようなのです。
 このようにして、不十分ではあるが、一応黄海の制海権は日本
の手に落ちたのです。当初の作戦計画では黄海にロシアの太平洋
艦隊が出てくることを予想し、第12師団は朝鮮半島の南端に上
陸して北上する予定でいたのですが、制海権を得たので、作戦は
急ピッチで進み、次の目標値は平壌に絞られたのです。
 このとき、鴨緑江左岸の昌城、義州方面からロシア軍が南下し
平壌北方付近まで達しているとの情報が入ったのです。大本営は
第12師団長の井上中将に直ちに平壌占領の命を下したのです。
当時平壌には在留邦人が300人ほどいたのです。
 大本営の命を受けて、小泉義男大尉を中隊長とする先遣隊は、
仁川港を軍艦で出港し、海州に上陸、そのまま北上して2月24
日に平壌入りを果たしています。以下、続々と第12師団司令部
をはじめ、残る各部隊も平壌入りし、3月18日までに防御を固
め、第一軍主力の上陸を待ったのです。そして、主力の近衛師団
と第2師団は3月29日までに第12師団と合流したのです。
 黒木大将率いる第一軍は、韓国内に残るロシア軍を掃討しなが
ら北進を続け、4月21日までに全部隊が鴨緑江右岸の義州一帯
に兵を展開させたのです。その目の前には鴨緑江が横たわり、対
岸にはロシア軍が守る九連城――国境線随一の名城が見えていた
のです。ロシア軍2万6000の兵力を率いる将軍は、ワルシャ
ワから着任したウラジミール・ザスリッチ中将だったのです。
 ザスリッチ中将は着任前にクロパトキン大将と参謀長のサハロ
フ中将から、次のように指示されていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 優勢な敵との不利な戦いを避けて、敵の編成、配備および前進
 方向を確かめながら、できるかぎり徐々に退却して敵との接触
 を保つように。           ――クロパトキン大将
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、ザスリッチは「彼ら(クロパトキンとサハロフ)は、
日本軍を欧州諸国の軍隊と同一視している」として日本軍をみく
びり、クロパトキンの指示を無視して、2万6000の兵力を、
275キロにおよぶ鴨緑江岸に分散配置してしまったのです。日
本軍の力を過小評価したからです。
 これに対して黒木大将率いる第一軍は3個師団を集中配置して
いたのですから、日本軍の優勢は誰の目にも明らかです。なお、
1個師団は約1万1600名ほどの兵力です。
 4月29日午後2時、渡河一番手を担う第12師団は架橋作業
に着手します。この作業は30日の午前3時に終了し、第12師
団部隊は渡河を開始し、夜明け前には全軍渡河したのです。
 これと平行して近衛師団と第2師団は鴨緑江本流の架橋作業に
着手、九連城のロシア砲兵隊はこれを阻止しようとして攻撃を加
えてきたのですが、架橋作業は午後8時に終了し、5月1日午前
5時に全軍が渡河を完了し、敵と対峙したのです。
 集中した日本軍と分散したロシア軍――その差は歴然としてい
ました。日本軍の総攻撃にロシア軍は総崩れになり、5月1日、
午後5時39分に黒木軍は九連城を占領したのです。
 九連城を落とした日本軍は直ちに追撃戦に入り、5月6日、先
陣の近衛師団はほとんど無抵抗のまま鳳凰城を占領したのです。
旅順の極東総督府から「退却せよ」との命を受けたからです。ま
さにこういうときに、ロンドンとニューヨークで日本の戦時公債
が売り出されたのです。       ・・・ [日露戦争31]


≪画像および関連情報≫
 ・1904年5月1日に黒木大将の大本営への報告
  ―――――――――――――――――――――――――――
  軍は予定のごとく天明をもって砲戦を開始し、午前7時5分
  楡樹溝西方高地に在る敵の砲兵を沈黙せしめ、同7時30分
  より各師団は攻撃前進に移り、8時15分より9時の間にお
  いて、九連城より馬溝、楡樹溝北方にわたる高地線を占領せ
  り。委細は後より。            ――黒木為禎
  ――平塚柾緒著、『図説/日露戦争』より。河出書房新社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

1737号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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