2005年12月12日

高橋是清に託された戦費調達(EJ1735号)

 不足する8億円は「外債」で集めるしかなかったのです。外債
とは、国債と仕組みは同じものであり、額面いくらという国債を
発行して外国に買ってもらい、期限がきたら利子をつけて返すと
いうものです。
 しかし、平時ではなく戦時なのです。ロシアも外債でお金を集
めようとしていたのです。超大国のロシアと小国の日本が戦争を
はじめて、外国向けの国債を出したとします。自国民なら話は別
ですが、戦争に関係のない外国はどちらの国債を買うと思います
か。どうみても日本がロシアに勝てるとは思えない時点でです。
 元老会議の席上、松方正義は次のようにいったそうです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   「この任を果たせるのは彼をおいてほかにいない」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで「彼」とは、時の日銀副総裁・高橋是清のことです。松
方は大蔵卿の頃から高橋を評価しており、高橋の意見をよく聞い
ていたといわれます。
 高橋是清は、明治37(1904)年2月24日に後に日銀総
裁になる秘書役の深井英五と一緒に日本を出発しているのです。
成算があっての外国行きではないのです。やってみなければわか
らない困難な仕事だったのです。
 松方財政によって日本の財政はかなり立ち直ってはきたものの
ロシアと戦争するとなると、大変なお金がかかるのです。実際問
題として、戦争がはじまってからは、毎月1000万円くらいの
お金が武器購入などで外国に支払われていたのです。時間をかけ
てじっくりやる仕事ではないのです。すぐに成果を上げる必要が
あったのです。
 この高橋是清という人は実に波乱万丈の人生を送った人です。
彼は幕府御用絵師の川村庄右衛門の子として生まれ、仙台藩士の
高橋是忠の養子となったのです。高橋是清は12歳の時に英学修
行の生徒に選ばれ、横浜のヘボン夫妻のところへ送られたのです
が、その後、慶応3年に米国のサンフランシスコに給費学生とし
て渡りました。ところが、英語がよくわからないままにうっかり
サインしてしまったために、なんとオークランドの農園主に3年
契約でボーイ(奴隷)として50ドルで売り飛ばされてしまった
のです。こんな経験をした日本人は少ないと思いますが、結果と
して、この異常な経験が高橋の英語力を磨いたのです。
 さて、高橋一行は最初米国に行ったのですが、まったく相手に
されなかったといいます。その当時の米国は、自国の産業を発展
させるためにはむしろ、外国資本を誘致しなければならない状況
にあり、米国内で外国公債を発行するなどということは実現性に
乏しかったのです。
 高橋はそういう状況を悟ったので、米国には4、5日いただけ
で、英国に向ったのです。当時、世界の金融センターはロンドン
であり、まして英国は日本の同盟国ですから、英国の方が可能性
としては大きかったからです。
 高橋是清に課せられた当面の要請は、英国のお金で1000万
ポンド――当時の日本円で1億円、現在の貨幣価値に直すと35
00億円の外債を募集することだったのです。
 高橋は大富豪のロスチャイルドに会って話をしますが、話は聞
いてくれるものの手ごたえがないのです。何のことはない、同盟
国の英国でさえ、日本が勝つとは露ほども考えていなかったので
す。しかし、こんなことでめげる高橋ではないのです。
 彼はパース銀行ロンドン支店長のアレクサンダー・シャンドに
会いに行くのです。パース銀行は横浜正金銀行の取引銀行であっ
たことと、シャンドは高橋のかつての雇い主でもあるということ
で高橋が内心あてにしていた人物だったからです。
 シャンドは横浜で、バンキング・コーポレーション・オブ・ロ
ンドン・インディア・アンド・チャイナの支配人をしており、高
橋は英語の勉強のため、シャンドの使用人として働いていたこと
があったのです。
 高橋はシャンドの紹介で、パース銀行頭取のバー、本店支店長
のダン、香港=上海銀行の取締役支配人サー・ユウエン・カメロ
ン、仲買商パンミュール・ゴールデン商会のコッホ、レビタらと
会見したのです。
 しかし、彼らは口々に日本公債の発行は難しいというのです。
それは、日露戦争開始以来、パリやロンドンでのロシア公債の下
落幅が小さいのに比べて、日本の公債は暴落しているという点に
あります。それに加えて英国の王室はロシアの帝室と縁戚関係に
あるため、英国が単独で日本の軍費調達に動くことに内心、心苦
しく感じているということもあったと思われます。
 しかし、ここにきて日本に順風が吹いてきたのです。それは次
の2つのことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.マカロフ司令官戦死に関する金子堅太郎の追悼コメントが
   大評判を呼び、日本びいきが増えてきた。
 2.日本軍の緒戦の連戦連勝によって、日本絶対不利の風向き
   が少しずつ変化する兆しが出てきたこと。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここにきて金子の工作が高橋による外債引き受けに効いてきた
のです。高橋は、この戦争は自衛のための戦争であり、日本国民
は確固たる信念に基づく覚悟をもって臨んでいるなどと力説した
のです。この高橋の説得によって、英国の銀行団の姿勢が変わっ
てきたのです。
 資金力に余裕のなかった日本は、戦争に踏み切っても最初のう
ちに戦勝を重ね、なるべく早く講和に持ち込む戦略を立てていた
のです。戦争というと、どうしても軍隊の動きにばかり焦点が当
たってしまいますが、その裏で戦時広報として金子堅太郎を米国
に、末松謙澄をヨーロッパに派遣し、最も重要な戦費調達は高橋
是清に託すというように、明治政府は適切な手を打っていること
は評価できると思います。      ・・・ [日露戦争29]


≪画像および関連情報≫
 ・高橋是清について
  幕府御用絵師川村庄右衛門の不義の子として生まれ、仙台藩
  士高橋是忠の養子となる。1867(慶応3)年に藩留学生と
  して渡米、意味も分からずサインをし奴隷となる。翌年脱出
  し帰国。本場仕込みの語学力が認められ、16歳で開成学校
  (東大)の教師。しかし、酒と芸者遊びに溺れ教師をクビにな
  り、幇間になる。その後1887年に初代特許局長に就任。
  1889年、一攫千金を狙いペルーの銀山開発にのりだした
  が失敗し失意の底に沈んだ。1892年、才覚を認められ日
  本銀行へ。日露戦争中13億円の外債募集成功。1905年
  貴院議員。1907年男爵。1911年日銀総裁を経て、
  7度の大蔵大臣・農商務大臣・内閣総理大臣などを歴任。し
  かし、2.26事件で暗殺。その後、高橋是清邸宅は「仁翁
  閣」は多磨霊園休憩所として活躍。
  http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/takahashi_ko.html

1735号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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