2005年12月07日

資金不足の中での重点投資(EJ1732号)

 ドワイト・D・アイゼンハワー――第2次世界大戦中にヨーロ
ッパ方面の連合軍総司令官で後に米国の大統領になった人ですが
彼がこんなことをいっています。
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 兵力と武器弾薬が滞りなく戦場に送り込まれるならば、誰が指
 揮しても戦争は勝てる。 ――ドワイト・D・アイゼンハワー
    ――瀧澤中著、『10倍の大国に日本はなぜ勝ったか/
         日露戦争が遺した9つの戦略』、中経出版刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アイゼンハワーは経済(兵站)という立場から戦争を見ている
のですが、軍人としては優れた考え方であるといえます。だから
こそ大統領になれたのでしょう。
 日露戦争当時の日本は超貧乏国家であり、どのようにして日本
は戦費を調達したのでしょうか。この面から少し日露戦争を分析
していきたいと思います。
 最初に当時の日本がどのくらい貧乏であったかをアタマに入れ
ておく必要があると思います。
 日本海海戦で大活躍した日本の連合艦隊の旗艦である戦艦「三
笠」は英国から購入したものです。英国の西海岸にあるバーロー
という港にあるヴィッカース社で製造されたのです。
 当時日本は軍艦を作る能力はなく、すべて輸入によって艦艇を
手に入れていたのです。戦艦「三笠」の建造費は880万ポンド
だったのです。当時、1ポンドは9.7円――したがって、日本
円にして8500万円になりますが、当時の国家予算が3億円の
時代ですから、途方もない価格だったのです。
 ですから、そんなお金は日本にはなかったのです。このとき資
金の調達で大活躍したのは、海軍大臣の山本権兵衛です。山本は
内務大臣であった西郷従道に頼んで内務省からお金を回してもら
うなど、お金をかき集めて戦艦「三笠」だけでなく、巡洋艦「日
進」「春日」を購入しています。これは、アルゼンチンがイタリ
アに発注していたものを日本に回してもらったのです。ぼんやり
していると、ロシアに買われてしまっては大変――山本のアタマ
にはそれしかなかったのです。
 日露戦争で使ったお金と明治37年度の国家予算を次に示して
おきます。
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   日露戦争費用総計 ・・・ 19億8000万円
   明治37国家予算 ・・・  2億5000万円
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 国家予算が3億円足らずのときに、どうやって19億円もの資
金を調達することができたのでしょうか。
 結論からいうと、19億円という戦費の多くが外国から借りる
かたちで調達されたのです。とかく日露戦争というと、乃木将軍
であるとか、東郷連合艦隊司令長官といった軍人が英雄として焦
点を浴びてしまいますが、戦費の調達という面はほとんど注目さ
れていないし、そのために活躍した人のことは知られていないと
思うのです。EJはそこに重点を置いて書いていきます。
 明治政府ができたとき、政府にはお金がぜんぜんなかったので
す。戊辰戦争――王政復古で成立した明治新政府が幕府の勢力を
一掃するための内戦――のとき、官軍の動きを分析すると、官軍
はときどき、その進軍スピードを落としているのがわかります。
これは、お金が足りなくなって動けなかったためです。
 記録によると、慶応3(1867)年12月から明治元(18
68)年12月までの間に、明治新政府は383万両のお金を調
達しています。どこから調達したのかというと、当時の金持ちた
ちから借りたのです。東京、京都、大阪、大津などの富豪から、
いろいろな名目で資金をかき集めたのです。
 そういう資金を調達しながら戦争をやっていたのですから、と
きどき資金不足になって進軍が止まってしまったのです。しかし
そのような金欠病であったにもかかわらず、明治新政府は徳川幕
府の頃から建設を進めていた横浜製鉄所に40万両もの大金をつ
ぎ込んで完成させているのです。横浜製鉄所は後の横須賀造船所
のことであり、日露戦争で重要な役割を担うのです。
 この造船所の計画責任者は小栗忠順という幕臣です。彼は当時
としてはきわめて先進的な考え方を持っており、造船所の必要性
を時の幕府に説いて建設を進めたのです。
 当時の海戦は、軍艦ですべてが決まるのです。お金が極度に不
足する中で、一方においては輸入で軍艦を導入し、他方船舶を補
修し、整備し、修繕するために造船所を建設する――こういう手
を打っていたために日露戦争後に船舶の国産化が進んだのです。
 日本海海戦の前、日本海軍は横須賀造船所で軍艦を整備して出
撃しています。そのとき、船底にこびりついた貝殻をきれいに落
としているのです。
 船底にこびりついた貝殻は船足を遅くするのだそうです。海戦
では艦隊が敏速に動く必要があり、スピードが出ないと命取りに
なってしまうのです。連合艦隊司令長官の東郷平八郎という人は
船舶の整備にも詳しい人で、自ら指示して、貝殻落としを徹底さ
せたそうです。
 日露戦争のあとで東郷は、小栗忠順の子孫を招いて次のように
感謝の言葉を述べて、「仁義礼智信」の五文字の書を贈ったとい
われます。
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 今度の海戦で勝てたのは、あなた方の父上が横須賀造船所を日
 本のために建設しておいてくれたおかげです。――東郷平八郎
    ――瀧澤中著、『10倍の大国に日本はなぜ勝ったか/
         日露戦争が遺した9つの戦略』、中経出版刊
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 逼迫した財政ではあるが、重要なものには思い切った大金を重
点投資する――現在の小泉政権もぜひ見習って欲しいものだと思
います。             ・・・・ [日露戦争26]


≪画像および関連情報≫
 ・小栗忠順(おぐりただまさ)
  1827年(文政10年)、江戸駿河台邸に誕生。徳川家に
  仕え、旗本だった。8歳の頃から文武両道に興味を持ち、抜
  き出た才能を発揮していた。17歳で登城し将軍直属の親衛
  隊となる。アメリカへ修好通商条約交換のため、咸臨丸で他
  の遣米使とアメリカへ行った帰路、彼は日本人で初めての世
  界一周を果たす。帰国後、1860年から1868年(慶応
  四年)までの八年の間に外国奉行、陸軍奉行、海軍奉行など
  を歴任。慶応元年(1865)にはフランスから240万ド
  ルを借款し、フランス公使ロッシュと組んで横須賀海軍工廠
  (製鉄所・造船所・修船所)の建設を開始する。翌年にはさ
  らに600万の借款契約を結ぶが、その後幕府は瓦解。戊辰
  戦争での混乱による暴徒が村へ押し寄せてきたのを追い返し
  たことが東山道総督府に抵抗の意志ありと誤解されたため、
  同年4月6日に烏川ほとりにて斬首。享年42歳。
  http://contest.thinkquest.jp/tqj2000/30061/oguri.htm

1732号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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