2005年12月06日

金子成功/末松不成功という司馬評(EJ1731号)

 昨日のEJで金子堅太郎とルーズベルトはハーバート大学の同
窓生であると書きましたが、加来耕三氏は自著で別の説を唱えて
おられるので紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  よく二人(金子とルーズベルト)はハーバード大学の同窓生
 だと述べたものをみかけるが、それは正しくない。
  金子とルーズベルトは、確かに明治9年(1876)にハー
 バートに入学している。が、金子がロー・スクール(2年制)
 であったのに対して、大統領はカレッジ(4年制の教育学部)
 に入学したのであって、卒業年次が異なる。また、二人は学生
 時代、出会っていない。
   ――加来耕三著、『真説/日露戦争』より。出版芸術社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 加来氏によると、金子が大統領に会ったのは、ルーズベルトの
親友のビゲローという日本美術愛好家が来日したおり、金子と会
い、ルーズベルトに紹介状を書いてくれたことによるそうです。
2人がはじめて会ったのは、明治23(1890)年4月のこと
であり、以来交際が続いていたのです。
 それから金子は、広報外交のため米国に行き、大統領に会った
さい、新渡戸稲造の英文著書『武士道』と英国人イーストレイキ
の著作である『ヒロイック・ジャパン』を贈呈したという説もあ
るのです。しかし、新渡戸稲造の『武士道』は当時米国ではかな
り有名になっており、ルーズベルト大統領は金子から贈呈を受け
る前からこの本は持っていたはずです。
 さて、金子堅太郎と並んでヨーロッパの広報外交を担当した末
松謙澄の活躍についてお話ししましょう。
 末松に期待されたのは、ロシアに隣接する欧州の主要各国の世
論を「黄渦論」から隔離させることだったのです。ロシアとして
は、現実に黄渦によって戦争を強いられていると被害者的立場を
PRし、日本はその勢いを駈って仏領インドシナの占領を狙って
いるという根も葉もないことを吹きまくっていたからです。末松
の戦略は次のようなものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1.できるだけ講演をする機会を持つよう努力
   2.論文を書いて英仏両国の雑誌に掲載させる
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 末松はもともと新聞記者であり、講演をしたり、論文を寄稿す
るのはお手のものであったのです。それに末松は『源氏物語』の
最初の英訳者として欧州では名前を知られており、当時の著名な
英国外交官の記録には「末松は欧州中で有名だった」と記されて
いるのです。
 末松がヨーロッパにいたのは2年ほどでしたが、その間に4回
の大きな講演会に招かれ、執筆した論文のうち英仏両国で掲載さ
れたものだけで20本を超えているのです。いずれも大きな反響
を呼んでおり、広報外交は成功したと考えてよいといえます。
 末松が講演や論文で訴えた内容としては、次のような項目が上
げられるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.日露戦争の原因とロシアの野望
      2.ロシア兵捕虜の処遇と扱い方法
      3.ロシアのデマ報道に対する反論
      4.日本人の性格論とものの考え方
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 まず、日露戦争の原因は、あくまでロシアの極東進出の野望に
あると説き、日本は目下勝ち進んでいるが、ロシア兵の捕虜は国
際法にのっとり人道的な待遇をしていることを強調――さらにロ
シアが盛んに吹聴している仏領インドシナへの占領など日本は考
えていないし、デマであると斬り捨てています。
 その一方で日本人と欧米人は文化的に異なるが、日本人は伝統
に裏打ちされた道徳と知性を持っている民族であると説く日本人
性格論は、当時の欧州世論を主導する英仏の知識階級の要求に応
える時宣にかなったテーマだったのです。
 しかし、この末松謙澄のヨーロッパ工作――とくに英国工作は
失敗であったという人もいます。司馬遼太郎がそうです。彼は金
子については成功を収めたと書いていますが、末松についてはか
なり厳しいことを書いているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  英国に行った末松謙澄の場合は、成功といえるような成果は
 えられなかったといっていい。
  末松は、幕末における長州藩の革命史である「防長回天史」
 の著者として知られている。明治型のはばのひろい教養人で、
 文学博士と法学博士のふたつの学位をもっている。
  かれは「源氏物語」を英訳してはじめて日本の古典文学を海
 外に紹介したことで知られ、さらには新聞記者時代に多くの名
 文章を書き、つづいて官界に転じ、伊藤博文に見こまれてその
 娘むこになり、つづいて衆議院に出、のちに逓信大臣や内務大
 臣にも任じたといういわば一筋縄ではとらえがたい生涯をもっ
 ているが、外交をやる上での最大の欠点はその容姿が貧相すぎ
 ることであった。
  さらにはこの小男が説くところが誇大すぎるという印象を英
 国の指導者や大衆にあたえた。末松は「昇る旭日」といったふ
 うの日本宣伝をぶってまわった。不幸なことに英国人は日本が
 「昇る旭日」のごとく成長することを好まなかった。末松はそ
 の講演速記を本にして刊行した。(一部略)英国人はかれの無
 邪気さを冷笑し、ほとんど黙殺した。
   ――司馬遼太郎著、『坂の上の雲』第7巻より。文春文庫
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 末松謙澄、気の毒なくらいけちょんけちょんです。しかし、高
く評価している向きもあるのです。司馬遼太郎の人物描写には問
題があり、末松は犠牲者といえます。 ・・・ [日露戦争25]


≪画像および関連情報≫
 ・司馬遼太郎の末松酷評について
  日露戦争を通して「明治の栄光」を活写した小説「坂の上の
  雲」は、作品発表から30年以上たった今も評価は高いが、
  人物描写では、作者の司馬遼太郎の思いこみや過度の単純か
  による偏りも指摘されている。末松謙澄もその被害者といっ
  てよい。――源氏物語の最初の英訳者。モーツァルトを日本
  に紹介した「たぶん最初の評論家」。末松の業績は探求する
  ほど面白い。
   ―――読売新聞2004.6.28朝刊「肖像」より抜粋

1731号.jpg
  末松謙澄
posted by 平野 浩 at 08:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。