2005年12月02日

金子と末松/戦時広報を担った2人(EJ1729号)

 1904(明治37)年2月4日の午後6時頃のことです。時
の貴族院議員をしていた金子堅太郎男爵の家に、1本の電話がか
かってきたのです。電話は枢密院議長の伊藤博文からであり、今
から家に来て欲しいというものだったのです。
 30分後に伊藤邸に着いた金子は書斎に通されたのです。しば
らくして伊藤は用件を次のように切り出したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 突然であるが、これからアメリカに行ってある使命を果たして
 もらいたい。                ――伊藤博文
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 驚く金子に伊藤は、「米国に行ってルーズベルト大統領をはじ
めとする米国の要人に会って、米国国民に対して日本への理解を
深めるもらうよう工作し、適当な時期に米国に日露両国の講和の
調停役を務めてもらうよう働きかけて欲しい」といったのです。
 金子堅太郎は福岡藩士の家に生まれ、1871(明治4)年の
岩倉具視使節団と一緒に渡米して以来、全部で4回の渡米歴があ
り、ルーズベルト大統領とも面識がある米国通として知られてい
るのです。大臣の経験もあり、伊藤の懐刀ともいわれています。
 しかし、最初金子はこの伊藤の依頼を断っています。「それは
不可能である」というのです。金子が指摘した理由には、次の4
つがあります。
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 1.ロシアは大事なときに米国を援助し米国は感謝している
 2.ロシア大使カシニー伯爵は実力者、政財界に通じている
 3.米国の大企業はロシア政府と親密、ロシアは有力な市場
 4.米国の富豪はロシアの名門貴族と姻戚関係多く親ロシア
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 しかし、伊藤は熱心に金子をくどいたのです。その場での即答
を避けた金子は2日間熟慮して伊藤の要請を引き受けます。しか
し、官職は持たず独力でやるという条件付きです。そして、19
04年2月24日、金子は随行員2人を連れて、横浜港を出発し
3月11日にサンフランシスコに到着しています。
 金子堅太郎と同じ役割を担って欧州に派遣された男がもう一人
います。末松謙澄その人です。末松謙澄といえば、「源義経」の
テーマのときご紹介しています。2005年7月26日(火)付
EJ第1641号がそうです。
 末松謙澄は、旧豊前国前田村――福岡県行橋市の出身であり、
19歳のときに『東京日日新聞』(現在の『毎日新聞』)の記者
になり、その縁で伊藤博文と知り合うのです。8年間の英国留学
の後、伊藤博文の次女と結婚。35歳で第1回衆議院議員選挙に
初当選し、法制局長官、逓信相、内務相を歴任。また、『源氏物
語』の英訳を行い、日本最初の文学博士にもなるきわめて有能な
文化教養人です。
 日露開戦の一ヶ月前のこと、末松は伊藤博文と山縣有朋に手紙
を書いて、日露戦争になったら、関係国への戦時広報をやらせて
欲しいと申し出ているのです。末松の申し出の意義を悟った伊藤
と山縣は、これを政府に働きかけ、政府はこれを受けて1904
年2月10日に末松を英国に派遣したのです。
 金子のケースからご紹介しましょう。米国は金子の一行がサン
フランシスコに到着する3月11日の1日前に、ルーズベルト大
統領が、局外中立宣言をしているのです。これは日本にとっては
マイナス材料です。
 それに、金子としては当初シカゴを工作拠点として考えていた
のですが、既にロシアの工作が相当進んでいたので、急遽ニュー
ヨークを工作拠点にすることに決めたのです。それほど、ロシア
の対米工作は進んでいたのです。
 ロシアは米国の新聞社を買収してロシアに都合が良いことを中
心に報道すると共に、あわせて新聞記者の接待に大金を投じてお
り、米国の世論はロシアに傾きつつあったのです。
 ロシアの米国のメディア工作のポイントは、次の2つがあった
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.日本は宣戦布告をしないで国交断絶だけで戦争を開始した
   卑怯にして、野蛮な国であること。
 2.日露戦争は白人と黄人の戦争であり、あわせてキリスト教
   対非キリスト教の宗教戦争である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 宣戦布告をする前に国交断絶だけで戦争に入る――これはモル
トケの考え方なのです。敵の態勢の整わないうちに相手に一大痛
撃を与え、その後はそのダメージを回復させないうちに先手先手
を打って敵を弱めながら、包囲して殲滅する――これがモルトケ
の戦法なのです。これは、国際法上も違反ではないのです。
 まして、日本は国交断絶の通告に加えて、次の文言を付けてい
たのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本はこれをもって最良と思惟する独立の行動を取ることの
 権利を保留する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 金子は米国の知人を通じて、あるいはマスメディアを徹底的に
利用して、チャンスあるごとに日本の正しさを語る作戦を地道に
続けたのです。
 金子の主張は一部では同情を買ったが、他方、多くの脅迫状や
投書が舞い込んだので、ニューヨーク市警は護衛を付けることを
提案したのです。しかし、金子はこれを丁重に断っています。そ
して、金子はこういったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私が暗殺されれば、一億数千万のアメリカ人の、半分くらいは
 私へ、日本へ同情を寄せてくれるだろう。ならば、自分は喜ん
 で死のう。                ――金子堅太郎
−−−−−−−−−−−−−−−−− ・・・ [日露戦争23]


≪画像および関連情報≫
 ・金子堅太郎について
  福岡生まれ。官僚、政治家。父は福岡藩士。藩校修猷館で学
  ぶ。明治4年(1871)藩主黒田長知に随行し渡米。ハーバ
  ード大学で法律学を修める。13年(1880)元老院に出仕
  する。権大書記官、首相秘書官等をつとめる。明治憲法の草
  案起草に参画し、諸法典の整備にも尽力。23年(1890)
  貴族院書記官長、貴族院勅選議員。第3次伊藤内閣農商務相
  第4次伊藤内閣司法相を歴任。日露開戦時米国に派遣され、
  外交工作にあたる。39年(1906)枢密顧問官。晩年は臨
  時帝室編修局総裁、維新史料編纂会総裁として史料編纂にあ
  たったのである。
  http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/57.html?c=0

1729号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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