2005年12月01日

戦争回避に動いたニコライ二世(EJ1728号)

 11月30日のEJ第1727号で、日本に対するロシア側の
回答が届いたのは2月7日のことである――このように述べてい
ます。しかし、その回答がどのような内容であったかについては
今まで公表されてこなかったのです。
 なぜなら、日本政府は2月5日にロシアに国交断絶を伝え、ロ
シアには6日に正式に届いています。そのうえで日本は直ちに戦
争状態に入ったので、ロシアからの回答の内容など、もはやどう
でもよかったからです。
 しかし、最近になっていろいろな史料からそのときのロシア側
の回答の内容が明らかになったのです。その内容は次のような意
外なものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 日本が朝鮮半島を軍事上の目的で使用しなければ、朝鮮半島に
 おける日本の勢力圏を認める。中立地帯に関する条件について
 は撤廃する。      ――2月7日のロシア側回答の要旨
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 その前のロシア側からの回答と比べると、驚くべき変化です。
確かに「朝鮮半島を軍事上の目的で使用しなければ」という条件
は入っていますが、朝鮮半島を事実上、日本が支配することを認
めるという内容です。
 新しい史料によると、ニコライ二世は1月27日にアレクセー
エフ極東総督に対して「朝鮮半島全域を日本の支配にまかせよ」
という電報を打っているのです。しかも、29日には「予のメッ
セージを即刻日本政府に通告せよ」という内容の電訓を重ねてア
レクセーエフ総督に送っているのです。
 しかし、アレクセーエフ総督はニコライ二世の指示をわざと自
分の手元に据え置き、皇帝のメッセージがロシア側回答として駐
日公使のローゼンに届いたのは、日本の国交断絶宣言の翌日の7
日になってしまったのです。時既に遅しです。
 それにしてもニコライ二世はなぜ心変わりしたのでしょうか。
 実はニコライ二世としては、本気で日本と戦争する意思などな
かったのです。また、満州におけるロシアの権益については鉄道
建設ということもあってわかっていたものの、朝鮮半島のロシア
における重要性などはよくわかっていなかったのです。
 したがって、皇帝としては、日本の朝鮮半島の権益とロシアの
満州におけるそれを交換してもよいとかなり前から考えていたの
です。しかし、小国日本が生意気にも強気の要求を突きつけてき
たので皇帝はアタマにきて、それがロシア側の強硬回答となって
日本に突き返えされたのです。
 それに加えて、ニコライ二世はウイッテやクロパトキンが苦手
であり、ベゾブラゾフにそそのかされたということもあり、アレ
クセーエフを極東総督に選んでしまったのです。アレクセーエフ
は十分な情報もないまま、日本をなめ切っており、日本が大国ロ
シアに戦争を仕掛けてくることなど、100に1つもないと考え
ていたのです。
 しかし、ニコライ二世は少しずつ不安になっていたのです。そ
れはなかなか日本が折れてこないからです。それに1904年が
明けると、満州各地から日本人が続々と引き上げはじめていると
いう情報も耳にしており、もしかすると、本当に日本は戦争を仕
掛けてくるかもしれない――つまり、皇帝も疑心暗鬼に陥ってい
たのです。皇帝というのは、現体制に対して保守的であり、軍人
と違って戦争は可能な限り、避けようとするものなのです。
 しかし、ウィッテやクロパトキンを冷遇し、アレクセーエフを
極東総督に選んだのは、皇帝としては失敗だったのです。なぜな
ら、アレクセーエフによる皇帝のメッセージを日本に伝える遅れ
――故意であるとも考えられる――によって日本が開戦に踏み切
る結果を招いたことと、日露戦争に突入した後からもアレクセー
エフとクロパトキンの対立は解けず、作戦の乱れから、そこを日
本軍に攻め込まれるという二重の失敗を重ねたからです。
 こんな話があります。1904年2月6日、日本から日露外交
関係の断絶が告げられると、ロシア政府は直ちにそれを旅順にい
たアレクセーエフ極東総督に伝えています。当然のことです。
 しかし、アレクセーエフはごく内輪の者にしかこのことを知ら
せていないのです。彼は、2月9日に要塞司令官などの幹部を集
めた会議を予定しており、そのときに日本との外交関係の断絶を
伝えようとしたものと思われます。しかし、9日を待つまでもな
く、旅順のロシア艦隊は攻撃を受けているのです。これをみても
アレクセーエフがいかに日本を低く見ていたかがわかります。
 アレクセーエフがどのような人物であり、とくにウィッテがど
のようにアレクセーエフを見ていたかを示す興味深い逸話が司馬
良太郎の『坂の上の雲』にあります。
 将軍クロパトキンは、野戦軍の司令官として戦地に赴くときに
挨拶のためウィッテの邸を訪れています。そのとき、ウイッテに
自分の戦略・戦術について話したところ、ウィッテは全面的にク
ロパトキンの戦略・戦術を支持してくれたというのです。
 クロパトキンは邸を去るに当って「何か工夫があればこのさい
漏らして欲しい」と頼んだところ、「ひとつある」といって次の
ようなことをウィッテは話したというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 アレクセーエフは、いま奉天にいる。君はむろん着任の挨拶を
 すべく奉天に直行するだろう。そこでもし僕が君の立場なら、
 部下の士官数人をアレクセーエフのもとに派遣し、有無をいわ
 さず逮捕する。その捕縛したアレクセーエフに厳重な監視をつ
 け、君が乗ってきた列車にほうりこみ、そのまま本国にかえし
 てしまうのだ。同時に陛下に電報する。――このように。
    ――司馬遼太郎著、『坂の上の雲』第3巻、文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ウィッテはアレクセーエフがロシアのがんであることを見抜い
ていたのです。実際は逮捕などできなかったのですが、ウイッテ
の予想通り、ロシアは敗れたのです。 ・・・ [日露戦争22]


≪画像および関連情報≫
 ・ウイッテがクロパトキンに対して陛下に打てといった電報の
  中身は次のようなものである。
  ―――――――――――――――――――――――――――
  陛下が私に命じられた重大任務を完全に遂行するために、私
  は当地に到着してただちに総督を捕縛しました。なぜならば
  この処置なくして戦勝はおもいもよらないからであります。
  陛下がもし私の専断を罰せられるならば、私を銃殺する命を
  下されよ。しからずんば、国家のためにしばらく私を許され
  んことを請う。
    ――司馬遼太郎著、『坂の上の雲』第3巻、文藝春秋刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

1728号.jpg
posted by 平野 浩 at 08:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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