2023年11月14日

●「ゼロ金利から量的金融緩和へ」(第6045号)

 おっかなびっくりで、世界で初めてゼロ金利を実行し、慌てて
解除した感のある速水日銀総裁。2000年8月のゼロ金利解除
は長く日銀にトラウマとして傷を残すことになります。なかでも
痛烈な日銀に対する批判は、「あのときの拙速な利上げが、その
後の長期デフレの要因になった」とするものでしょう。
 2001年3月19日、日銀政策決定会合が世界同時株安が進
むなかで行われています。日銀としては、金利を下げることに失
敗した以上、世界的にも前例のない「量的金融緩和」を発動する
しかない状況に追い込まれていたのです。
 何をどうしようとしたのでしょうか。要点を簡単に述べるため
政策の骨子を明らかにしておきます。
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 @金融調節の誘導目標を、無担保コール翌日物金利から日銀当
  座預金残高に変更
 A日銀当座預金残高を1兆円程度積み増し、5兆円程度にする
 B日銀当座預金の円滑な供給に必要な場合は、長期国債の買い
  入れを増額
 C量的緩和により、翌日物金利は従来の誘導目標の0・15%
  から低下し、ゼロ%近辺で推移
 D新しい金融調節は消費者物価指数の前年比上昇率が安定的に
  ゼロ%以上になるまで継続
 E今回の措置が効果を発揮するには、不良債権問題の解決など
  金融・経済・産業面の構造改革が必要
             ──河浪武史著/日本経済新聞出版
         『日本銀行/虚像と実像/検証25年緩和』
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 重要なポイントは、金融調節の誘導目標を「金利」から「日銀
当座預金残高」に変更したことです。日銀当座預金というのは、
民間銀行が、資金の決済や預金の支払いに備えて、日銀に預けて
おく資金のことです。当時の資金量は「4兆円」でしたが、量的
緩和で、銀行にあと1兆円分の余剰資金を積ませて、6兆円にす
ることにしたのです。
 目的は、日銀当座預金には原則として利息は付かないので、当
座預金に積み上がる量的金融緩和で膨らんだ資金を引き出し、貸
し付けや投資に回して利回りを得られる資金は回るだろという甘
い判断がそこにあったのです。要するに、日銀当座預金を増やせ
ば、いわゆる市中に出回るマネーストックは増加すると考えてい
たのです。
 しかし、その人の決定会合では、審議議員たちの間では、次の
ような不安が渦巻いていたのです。
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植田委員:期待インフレ率が上がって、金利が上がっていったり
 景気がよくなっていくとなれば良いが、ならないと地獄になる
武富委員:そう、地獄だ。もっともっともっとということになる
植田委員:願わくは、このようなことを意味がないなと途中で納
 得してくれることを期待することではないか
       ──河浪武史著/日本経済新聞出版の前掲書より
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 これら審議員たちの不安は的中するのです。まさに「地獄」が
はじまったのです。日銀当座預金の目標は、当初は5兆円でした
が、その後追加策が次々と求められるようになり、当座預金残高
の目標(当初5兆円)や長期国債のむ買い入れ額(当初月400
0億円)は、徐々に引き上げられ、2003年の速水日銀総裁の
退職時には、次のようになっていたのです。
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  当座預金残高目標目標 ・・・  17兆円〜22兆円
  長期国債買い入れ総額 ・・・   1兆2000億円
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 速水日銀総裁の任期は1998年〜2003年の5年です。任
期中の2001年の量的緩和の発動以降、「ミセス・ワタナベ」
という名前が世界中を席巻するようになるのです。「ミセス・ワ
タナベ」──このような言葉を聞いたことがあるでしょうか。
 日本人を指すのは間違いありませんが、なぜ、「タナカ」でも
「スズキ」でもなく、「ワタナベ」なのでしょうか。その「ミセ
ス・ワタナベ」が何をしたのでしょうか。この名前が出てきたと
き、円が投機マネーとして、大きく使われるようになっていたの
です。そういう2003年月3月、日銀総裁は早見優氏から、福
井俊彦氏に交代したのです。
 福井俊彦氏は、1957年日銀に入行し、1998年に施行し
た新日銀法の詳細設計を日銀側で担った人物です。福井俊彦総裁
は総裁に就任するや5日後の2003年3月25日に、新日銀法
下で初めての臨時の金融政策決定会合を開催しています。この時
期、日銀と政府──小泉純一郎政権との間がどうなっていたかに
ついて、河浪武史は次のように書いています。
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 速水前体制で政府と日銀の関係はぎくしやくしていた。00年
8月のゼロ金利解除と、その後の景気後退が最大の要因だ。01
年2月に量的緩和を導入したが、2年たっても、日本は止まらぬ
デフレに苦しんでいた。速水氏は金融緩和に慎重姿勢をみせるこ
ともあり、政府は「動かぬ日銀」へのいらだちを募らせていた。
 臨時会合の表向きの理由は、イラク戦争による市場混乱の回避
だった。其の目的は、前体制からの転換をアピールし、デフレ脱
却へ小泉純一郎政権との協調を演出することにあった。臨時会合
ではこんなやりとりがなされたという。
       ──河浪武史著/日本経済新聞出版の前掲書より
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 福井総裁の特色は動く日銀」です。資金供給の強化を決めると
ともに、執行部に対して量的緩和の枠組みの強化に向けた論点整
理を指示し、実行する──こういう点において、小泉政権と息は
合っていたといえます。──[物価と中央銀行の役割/055]

≪画像および関連情報≫
 ●ゼロ金利導入後も、急激な円高への対応策を幅広く議論=
  日銀政策会合99年9月議事録
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   [東京/28日=ロイター] 日銀は2010年1月28
  日、1999年7月から12月までの金融政策決定会合議事
  録を発表した。日銀は99年2月にゼロ金利政策に踏み切っ
  たが、9月21日の決定会合直前には、急激な円高に対して
  何らかの追加的緩和措置が発表されるのではないかとの強い
  期待感が市場から出ていた。同日の議事録では、円高への強
  い危機感のもと、マネタイゼーションの可能性も含めて、幅
  広く活発な議論が行われていたことがわかった。
   当時は小渕政権のもとで、8月後半に1ドル=110円を
  割れ、円高が急激に進んだ。9月16日には、速水優日銀総
  裁と宮沢喜一蔵相の会談が行われ、共に事態に対処していく
  ことで意見の一致をみたが、その直前には103円台となっ
  た。会談後は108円台に戻したが、日銀金融政策決定会合
  直前には106円台へと再び円高が進んだ。
   こうしたなか、市場からは、量的緩和や為替介入の非不胎
  化など、何らかの緩和策を日銀が発表するのではないか──
  との観測が強まった。しかし日銀は「当面の金融政策運営に
  関する考え方」との異例のステートメントを発表したものの
  追加策は発表しなかった。会合直後から、失望感からさらに
  円高が進行、9月後半には7カ国財務相・中央銀行総裁会議
  (G7)も開催されたが、円高は止まらず、11─12月に
  平均で102円台を付けたのち、2000年1月にようやく
  106円台に戻した。     ──リクルートのリポート
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福井俊彦元日銀総裁.jpg
福井俊彦元日銀総裁
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 物価と中央銀行の役割 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする