に10進数を使うなど、コンピュータとしては問題のあるマシン
ではありましたが、その開発の様子を伝える米国「ニューズウィ
ーク」/1946年2月号の記事を見て、世界中でコンピュータ
開発競争が巻き起こったのです。
日本においてもそれは同様で、数学者で、大阪帝大工学部精密
工学科教授だった城憲三(以下、敬称略)は、「ニューズウィー
ク」の記事を読んで、コンピュータの具体的な研究開発に着手し
ます。そして、1950年にENIACの追試実験装置を試作し
2進数による本格的な真空管コンピュータの開発に着手したもの
の、その後トランジスタコンピュータの商用機導入が決定された
ので、開発を中止しています。
真空管式コンピュータの第2弾は、「TAC」といわれるプロ
ジェクトです。「TAC」は次の言葉の頭文字です。
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◎TAC
Tokyo Automatic Computer
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TACは、その名称から、東京大学のコンピュータということ
になっていますが、これには東芝が参加しています。そもそもE
NIACに強い興味を持ったのは、東芝の真空管業務に携わって
いた三田繁で、東大の山下英男などと共に真空管による論理回路
や、ウィリアムス管(ブラウン管式メモリ)などの研究を行って
いたのです。彼らは、ノイマンのENIACの改革レポートなど
を入手して、1951年にコンピュータの組み立てをはじめてい
ます。この世代は東芝が主導権を持っていたので「東芝TAC」
と呼ばれています。
その同じ1951年に、文部省(文部科学省)科学研究費によ
る電子計算機研究班が立ち上げられ、東大の山下英夫が班長に就
任し、文部省に申請し、当時のお金で1011万円という国内と
しては、巨額の予算がついたのです。ちなみに東大の山下英夫に
ついて、ウィキペディアでは、次の紹介があります。
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◎山下英夫
東大教授。当時理系一の頭脳と呼ばれていた。早くから電子計
算機の重要性を見抜いており、パンチカードに代わるシステム開
発を1940年に着手、1947年にデジタル動作の「山下式画
線統計機」を完成させていた。 https://bit.ly/41tIVT5
──ウィキペディア
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この1011万円という巨額予算は、当時大蔵省の相澤英之主
計官の力が大きかったといわれます。相澤英之氏は、2019年
に亡くなっていますが、彼は2人の息子に先立たれた経済企画庁
官房長だった1969年、女優の司葉子と再婚しており、多くの
人に知られています。
このように国の資金が投入されたことによって、このTACプ
ロジェクトは国策プロジェクトに変身しています。その目的は、
日本初のコンピュータの開発です。東大と東芝の役割分担は、東
芝がハードウェア、東大がソフトウェアを担当することになって
います。東大の総括は、雨宮綾夫東京大学教授です。雨宮教授は
音響分析、分子積分表など分子構造に関する研究や電子計算機の
開発に尽力し、東大のTAC開発に関わっています。また、原子
力専門委員会委員なども務め、放射線高分子研究所の設立にも貢
献しています。
しかし、このプロジェクトは難航を極めるのです。半年も経つ
と、東芝だけではハードウェアが作れないことがはっきりし、東
芝は、東大に協力を求めてきます。そのとき、東京大学が、東芝
に派遣したのは、村田健郎という人物です。村田健郎について、
ウィキペディアは次のように紹介しています。
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鳥取県生まれ。工学部航空原動機工学科卒業・理学部数学科再
入学などの学歴を経て、前述の時期には、数学科大学院に再入学
(同大最終履歴は助教授)。大学院二年の時「コンピュータ開発
のため、雨宮先生が若い数学者を探しているが、村田は工学部出
身だな。アメリカではフォン・ノイマンがコンピュータをやって
いて、コンピュータ開発にも工学者が必要だ」と言われ、雨宮の
元に移動した。当記事の主要な出典の一つ「日本人がコンピュー
ターを作った!」は、村田がTAC関連のインタビューで答えて
いるもの。 https://bit.ly/41tIVT5
──ウィキペディア
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当初は、2年かけて研究し、技術レベルを上げるのが目標だっ
たのですが、文部省と大蔵省にさらに予算を出させるため、「2
年で実用化する」というノルマを課せられたといいます。
しかし、開発陣が危惧した通り、開発はきわめて難航し、試作
機は一向に動かなかったのです。その難航要因は次の通りです。
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@ウィリアムス管が設計通りの性能を出せず不安定だった。これ
は最後まで尾を引いたという。主記憶装置について、水銀遅延
線でなくウィリアムス管を選んだ理由は、村田いわく、「今と
なっては誰の考えか、わからない」。東芝が当時作ったウィリ
アムス管は、アメリカが国家計画で作り、アメリカ国立標準局
(今のアメリカ国立標準研究所)が評価した、RCA社製のブ
ラウン管より優れていたという。
A動作周波数の目標を200KHzと高く設定した。
B論理回路がうまく動かなかった。 https://bit.ly/41tIVT5
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しかし、事実上の国家プロジェクトであるTACは、年数を重
ねても、なかなか動かなかったのです。
──[メタバースと日本経済/032]
≪画像および関連情報≫
●日本初の計数形電子計算機/TAC
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米国製コンピューターが8時間かけてできない計算を2時
間で完了できる「TAC」を開発。現在のコンピューター産
業の礎を築く。
世界初のコンピューター「ENIAC」は、1945(昭
和20)年に米軍の弾道計算用に開発され、18000本の
真空管が使用された。このニュースは1946(昭和21)
年2月号の『Newsweek』に掲載された。
マツダ研究所(現:研究開発センター)の三田繁は、この
記事からコンピューターについて考え始めていた。演算回路
や制御回路の開発を行い基礎データの収集を始め、1951
(昭和26)年には文部省初の研究費による「電子計算機製
造の研究」へと発展し、東京大学(以下:東大)と共同で、
「TAC」開発がスタートした。
当初は実験機の開発を目指し、ハードを当社がソフトを東
大が担当し、実用に可能な大型コンピューターを2年間で製
造する計画だった。
ハード製作では、計算機用の高信頼性部品がなく、ラジオ
用真空管を桁違いの高信頼性製品に開発した。この他、コン
ピューターの心臓部であるブラウン管メモリーの開発、ブラ
ウン管蛍光面の物性的均一性、電子ビームの太さ、ビーム駆
動特性の安定性の確保など開発は困難を極めた。
https://bit.ly/3IYWJ0A
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TAC