し、圧倒的な軍事力は相手側を威圧し、外交などでは有利に働き
ますが、実際にそれを行使することは、大きなデメリットも伴う
ので、簡単にはできません。そこで、米国は「経済力」という武
器を多用しています。現在、トランプ米政権が中国に仕掛けてい
る「関税戦争」がまさにそれです。米国にこれを仕掛けられると
どこの国でも、まず勝ち目はありません。
「プラザ合意」が結ばれるまで、米国にとって日本は、その経
済力において、脅威的な存在だったといえます。現在の中国と同
じです。何しろ、安いコストで優れた製品を製造し、怒涛のよう
に輸出してくるからです。これに歯止めをかけるため米国は「プ
ラザ合意」による経済戦争を日本に仕掛けてきたのです。まさに
問答無用であり、日本はそれを拒否できなかったのです。
1985年のプラザ合意によって、「1ドル=240円」だっ
た対ドル為替レートは、2年後の1987年末には、「1ドル=
120円」の超円高になっています。これは、日本から輸出する
製品に対して、一律100%の関税をかけるのと同じ影響を日本
にもたらしたといえます。
あまり知られていないことですが、終戦後の沖縄で日本はプラ
ザ合意と同じような体験をさせられています。それは、1946
年4月に、米軍が発行する「B円」という軍票が沖縄での公式通
貨になったことです。はじめのうちはB円と日本円は等価の扱い
でしたが、その2年後の1948年7月には日本円の使用が禁止
され、沖縄で使える通貨はB円だけになっています。
そして突然1950年4月から、「1B円=3円」に切り上げ
が行われたのです。これは、米軍が日本から資材などを輸入する
さいのコストを下げるのが、狙いだったと思われます。
1958年にB円は廃止され、沖縄ではドルが使われるように
なりましたが、この8年間の「B円高」によって、沖縄の製造業
は国際競争力を失い、壊滅状態になります。現在でも、沖縄の製
造業は、他の地域に比べると、きわめて脆弱であり、産業全体の
GDPに占める製造業の割合は、全国平均の20・8%に対して
沖縄は4・9%程度です。通貨高の影響はとても大きいのです。
このプラザ合意による超円高により、当然のことながら、日本
の輸出産業は、大きなダメージを受け、日本経済は深刻な景気後
退に突入します。政府と日銀は、この景気後退を食い止めるため
大規模な財政出動を行い、それに大胆な金融緩和を重ねる経済政
策を展開します。しかし、これが後になって、巨大なバブルを発
生させる原因になったといわれます。
日銀は、そのとき「5・0%」だった公定歩合を1986年中
に4回も連続して下げています。
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1986年 1月 ・・・・・ 4・5%
3月 ・・・・・ 4・0%
4月 ・・・・・ 3・5%
11月 ・・・・・ 3・0%
1987年 2月 ・・・・・ 2・5%
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しかし、経済アナリストの森永卓郎氏は、バブルを発生させた
真の原因は、日銀の「窓口指導」にあることを指摘して次のよう
に述べています。
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日銀は、それぞれの銀行ごとに貸し出しの伸び率の上限を指示
する窓口指導をずっと行ってきた。バブル期には、窓口指導は表
向き廃止されたことになっていたが、現実には続いていた。銀行
は窓口指導で示された融資の伸び率を何が何でも達成しなければ
ならない。万が一達成できないと、翌年の伸び率を減らされてし
まうからだ。役人が予算を使い切ろうとするのと、同じ構造だ。
ところが、いくら融資を増やしたくても、円高不況で融資を受け
たいという資金ニーズがない。
そこで、銀行がのめり込んでいったのが、不動産融資だった。
表向き、銀行は、不動産投機のための資金を貸してはならないこ
とになっている。しかし、体裁を整えることは難しいことではな
い。銀行は、不動産投機をビジネスに偽装して、不動産融資を拡
大していったのだ。不動産市場に投機資金が大量流入するのだか
ら、当然、不動産価格は、急上昇していくことになった。しかし
そのことは銀行にとって願ってもない変化だった。地価の上昇に
よって、不動産投機への融資が焦げ付くことがなかったからだ。
──森永卓郎著/角川新書K−241
『なぜ日本だけが成長できないのか』
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森永氏によると、バブルを発生させた犯人は、一応大蔵省と日
銀であるとしていますが、そのバックには“本当の犯人”として
の米国の存在を指摘しています。それは「前川レポート」と呼ば
れる日本としての構造改革レポートによって明らかであるとし、
次のように結論づけています。
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(米国の意図は)プラザ合意によって日本を超円高に追い込み
円高不況に陥った日本に、景気対策としての大規模公共事業を実
施させる。さらに「海外資本による投資環境」という名の日本企
業の売却環境を整えさせる。私は、もうこの時点で、米国は、日
本経済の乗っ取り計画をきちんと整えていたのではないかと考え
ている。 ──森永卓郎著の前掲書より
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このようにして発生したバブルの崩壊によって、日本経済は深
刻なデフレに陥り、その後「失われた30年」といわれる経済成
長しない長いトンネルに入ってしまうのです。そして日本経済は
まだその長いトンネルから、完全に抜け出せないでいます。経済
政策のどこが間違ったのでしょうか。
──[消費税増税を考える/018]
≪画像および関連情報≫
●「1・57ショック」を打ち消した「バブル崩壊」
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エコノミストの立場から平成という時代を考える場合、振
り返ってみて非常に重要な意味があったのが、平成元年(1
989年)の日本の合計特殊出生率が、午(ひのえうま)の
昭和41(1966年)の1・58を下回り、1・57まで
低下していた「1・57ショック」である。
平成2年(1990年)6月に人口動態統計から明らかに
なった。人口減・少子高齢化が進む厳しい時代に突入してい
く日本の将来像が、この時点で人々の知るところとなったわ
けで、政府が危機感をテコにしながら人口対策を強力に推進
していれば、現在の日本の経済および社会の姿は、良い方向
で大きく違っていたはずである。
ところが、平成元年の年末(終値3万8915・87円)
をピークに、日経平均株価は急落した。さらに、不動産価格
も大きく下落するという巨大バブル崩壊の衝撃によって、日
本経済は暗くて長いトンネルに入ってしまった。大規模な公
的資金の投入などによって銀行の不良債権問題への対処が進
み、金融システムにまつわる不安感がなくなるまでに、相当
な時間が必要だった。日本経済の「血液循環」を早急に回復
させることが経済政策の焦点になり続ける間、人口の問題が
顧みられる機会は大きく減り、長い時間が過ぎ去ってしまっ
た。観光客誘致・少子化対策・女性や高齢者の活躍推進とい
うメニューだけでは、人口面からの日本経済の「地盤沈下」
を食い止めるのは、物理的にもはや困難である。
──上野泰也氏 https://bit.ly/32ZFhSf
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森永卓郎氏