2019年07月02日

●「小粒な秀才の集団指導体制の確立」(EJ第5038号)

 6月29日にG20大阪サミットで開催された米中首脳会談は
本質的な議論を何もしないまま、関税第4弾は先送りになり、協
議は再開されることに決まったようです。さらに、5月に輸出を
禁止する「ELリスト」に加えた華為技術(ファーウェイ)との
取引を容認することも伝えられていますが、これも協議を通じて
決めることのようです。決まったのは、米国側の都合で関税第4
弾が一時的に先送りになったというだけのことです。
 毛沢東という人は、経済のことがまるでわかっていない人とい
われています。毛沢東は建国後の1949年、「大躍進」と呼ば
れる計画経済を人民公社を軸に推進します。しかし、この政策は
経済合理性を欠いていたため、数千万人の餓死者を出して、大失
敗に終わります。人民公社というのは、農村における農業の共同
経営を行う経済的主体であると同時に、「村」とか「鎮」などの
地方行政組織でもあったのです。
 1960年代になり、時の劉少奇国家主席とその配下のケ小平
は、人民公社方式を改め、農業などに個人経営の要素を取り入れ
経済の発展を図っています。毛沢東は、大躍進政策の失敗の責任
を取って、国家主席の地位を劉少奇に譲っていたのです。これに
よって、中国経済は少しずつ成長をはじめます。
 これに激怒したのがあくまでも思想にこだわる毛沢東です。毛
沢東は、劉少奇やケ小平らのやっていることを「資本主義の道を
歩むもの」として糾弾し、追放します。そして、以後10年に及
ぶ「文化大革命」が始まったのです。これによって、せっかく少
し持ち直した中国の経済はまた低迷に逆戻りします。
 1970年代に入ると、時の周恩来首相が、失脚して地方に追
いやられていたケ小平を北京に呼び戻し、文革路線の修正をはじ
めたのですが、毛沢東が生存している限り、やれることはどうし
ても限られていたのです。そのとき打ち出したのが、次の「4つ
の近代化」です。
─────────────────────────────
        1.  工業の近代化
        2.  農業の近代化
        3.  国防の近代化
        4.科学技術の近代化
─────────────────────────────
 しかし、1976年にケ小平にとって絶好のチャンスが訪れた
のです。その年の1月に周恩来が、9月に毛沢東が死去したので
す。そこでケ小平は、依然として毛沢東路線を主張する勢力と戦
い、勝利して権力を掌握します。
 そして、1978年からはじめたのが改革開放政策です。これ
によって、中国経済は急速に回復し、中国の4つの近代化が、ス
タートしたのです。しかし、1989年に天安門事件が発生し、
改革開放は一時中断されることになります。天安門事件は、学生
たちによる民主化の高まりという側面がある一方で、その背後に
は権力闘争があることは、既に述べた通りです。
 そこで、ケ小平は考えたのです。それまでの中国の歴史は権力
闘争の歴史であるといえます。それは、きちんとしたルールがな
いことが原因です。そこで作ったのが「ケ小平ルール」です。目
指したのは、「小粒な秀才による集団指導体制」です。
 なぜ、小粒な秀才なのでしょうか。
 これについて、中国に詳しいジャーナリスト、福島香織氏は次
のように解説しています。
─────────────────────────────
 小粒な人間は、一人ですべての責任を負うような決断はできま
せん。ケ小平は、そこで集団指導体制という、小粒ながら、そこ
そこ優秀な人間が7〜11人ぐらいで役割分担して、責任を分け
て国家運営を行うシステムを作り上げました。これを「集団指導
体制」と呼び、その最高指導部が政治局常務委員会です。
 政治局常務委員会に入れば、「刑不上常委」という暗黙の不逮
捕特権が与えられました。これは政治局常務委員の最高指導部内
でお互いを失脚させるような権力闘争を防ぐ狙いがあります。権
力闘争は相手に罪(反革命罪だとか汚職だとか)をかぶせて失脚
させるのが常套手段でした。
 かといってそれで権力闘争が完全になくなるわけではありませ
ん。5年ごとの党大会のときに政治局常務委員会(最高指導部)
メンバーを入れ替えます。このメンバーに誰を入れるか、序列を
どうつけるか、という派閥闘争のような権力闘争は行われてきま
した。ですが政治局常務委員会に入れば、みんなで権力と責任を
分担し合って協力し合うという暗黙の了解ができました。
                      ──福島香織著
   『習近平の敗北/紅い中国・中国の危機』/ワニブックス
─────────────────────────────
 このようなルールに適合する人材がケ小平の周りには2人いた
のです。江沢民氏と胡錦濤氏の2人です。江沢民氏は実の父親が
汪兆銘政府のスパイであり、育ての親が中国共産党革命烈士とい
う複雑な血統を持つ「凡才児(福島氏の表現)」です。ちなみに
汪兆銘政府は、1940年〜45年に存在した中華民国の国民政
府のことです。これに対して、胡錦濤氏は、茶葉の行商売りの息
子で、「勉強ができるだけが取り柄の真面目な秀才(福島氏の表
現)」といわれています。
 いずれも、一人で中国を担えるほどの人物ではないが、集団指
導体制で政治を行えば、十分やっていけるとケ小平は考えたので
す。しかも、政治局常務委員ですから、事実上の不逮捕特権を有
しており、これによって、誰かの足を引っ張ることができにくい
システムになっています。これがケ小平ルールです。
 しかし、それでも長くやると、どうしても腐敗するとして、任
期は「1期5年/2期10年」と制限します。そして、ケ小平は
新制度の最初の10年は江沢民政権、その次の10年は胡錦濤政
権と決めています。ケ小平が決めたのはここまでです。
              ──[中国経済の真実/037]

≪画像および関連情報≫
 ●いずれにしても共産党の一党支配は揺るがない
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   もちろん2人(毛沢東とケ小平)には共通点もある。最も
  重要なことは、中国共産党一党支配を大前提として考え、そ
  れを脅かすものへの強硬な対応である。毛沢東時代はもっぱ
  ら党内権力闘争が中心だった。しかし、ケ小平時代にはさま
  ざまな形で西側の思想や文化が入り込み、民主化を求める動
  きが繰り返し出てきた。1989年の天安門事件が代表例だ
  が、ケ小平は民主化の動きに対しては妥協を許さない対応を
  した。「中国の特色ある社会主義」という言葉はケ小平が提
  起したものだが、この意味するところは、経済分野は改革開
  放路線で西側同様の市場経済を取り入れるが、政治システム
  はあくまでも共産党一党支配を維持し、民主主義的制度は排
  除するという考えだ。
   またケ小平は集団指導体制を取り入れたにもかかわらず、
  表の役職からはずれた後も実質的に最高実力者として権力を
  握り、意思決定の中枢に君臨した。胡耀邦や趙紫陽ら総書記
  を失脚させるなど、人事権も手放さなかった。その点も結果
  的には毛沢東と同じだった。
   では、習近平はどうだろうか。「報告」から浮かび上がる
  のは、ケ小平路線の終焉、あるいは否定という側面と、ある
  種の毛沢東路線への回帰だ。習近平は「党、政、軍、民、学
  の各方面、東・西・南・北・中の全国各地で、党はすべての
  活動を指導する」として、政治、経済、文化と中国社会のあ
  りとあらゆる分野への中国共産党の関与、指導を鮮明に打ち
  出した。専門家の間には「まるで文革時代を思い出させるよ
  うな言い回しだ」という人もいる。https://bit.ly/2Xfi0wY
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トップ交代のルールを決めたケ小平.jpg
トップ交代のルールを決めたケ小平
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | 中国経済の真実 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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