2019年03月19日

●「銭三強と銭学森による核実験成功」(EJ第4970号)

 中国の核実験を成功させた立役者としては、銭三強の他にもう
一人の人物が必要です。それは、銭学森(センガクシン)という
人物です。銭学森は弾道ミサイルの専門研究者です。
 銭学森とはどのような人物でしょうか。
 銭学森は、世界的に有名な中国の科学者であり、アーサー・ク
ラーク原作の映画『2001年宇宙の旅』に出てくる中国の宇宙
船「チェン号」は、銭学森の名前からとられています。ネット上
に出ている銭学森の経歴を引用します。
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 銭学森は1911年、杭州生まれ。1935年に渡米してマサ
チューセッツ工科大学に留学後、カリフォルニア工科大学に移っ
て、数学者セオドア・フォン・カルマンの下で研究を始める。カ
ルテクでは後にジェット推進研究所(JPL)の母体となった学
生ロケット研究グループ「スーサイド・スクワッド」に参加して
いた。そのままフォン・カルマンが初代所長となったJPLに加
わり、陸軍の資金を受けて、JPL初期の活動である「コーポラ
ル」といったミサイル開発に関わる。
 銭自身が優れたロケット研究者であったのみならず、ナチス・
ドイツのロケット工学者ウェルナー・フォン・ブラウンが、ペー
パークリップ作戦後に合衆国に移送された際には、最初の面談を
行い、その技術をアメリカのミサイル(ロケット)開発に融和さ
せる役割も果たした。        https://bit.ly/2FcgPCz
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 ウェルナー・フォン・ブラウンについては、こんな話がありま
す。ドイツ軍が、連合軍に対して劣勢に傾いていた1943年、
ヒットラー総統の命令で、ナチス・ドイツにおいて、当時の究極
兵器として、長距離弾道ミサイル「V2ロケット」を開発し、ロ
ンドンを攻撃する準備をフォン・ブラウンが中心になって進めて
いたのです。
 しかし、根っからのエンジニアであるブラウンは、ロケットに
ついての壮大なプラン──地球を回る軌道に乗せるロケットや、
月ロケットのことをあちこちで話し過ぎるとして、SS(ナチ親
衛隊)とゲシュタポ(国家秘密警察)は、国家反逆罪としてブラ
ウンを逮捕してしまうのです。
 しかし、V2ロケットの開発中であり、ブラウンは必死に釈放
を求めましたがうまくいかず、最後にはヒトラー総統自身がSS
とゲシュタポを説得してやっと釈放されたのです。
 1945年5月になると、ドイツの敗戦は確実な情勢になった
ので、ブラウンたちの仲間は、亡命先としてどの国にするかを検
討したのです。彼らにはロケット技術があり、それを亡命先に高
く売ってよい条件での亡命を勝ち取ろうとしたのです。
 科学者たちのほとんどはロシアを恐れ、フランスは奴隷のよう
に扱うから嫌だという者が多く、英国はいいのだが、ロケット計
画を賄う資金がないということで、結局米国が一番良いというこ
とになったのです。そして、ブラウンが実際に米国に赴いたとき
銭学森はブラウンと面談し、彼らの有する技術を米国のミサイル
開発に融合させる技術的な貢献を果たしています。
 しかし、1950年、折からの「赤狩り」で、銭学森は共産主
義者のスパイであるとして逮捕され、米国の自宅に軟禁されてし
まうのです。それを知った毛沢東と周恩来は、あらゆる外交の手
立てを駆使し、銭学森の奪還を図ります。結局、1955年に朝
鮮戦争の米軍捕虜との引き換えに銭学森を取り戻し、中国に帰国
させたのです。
 毛沢東は、銭学森を銭三強のいるソ連に向わせ、合流させるの
です。これによって、中国としては、原子爆弾製造のための磐石
な体制を作ったことになります。しかし、ソ連との関係は最初か
らあまりよくなかったのです。おそらくスターリンは中国に原子
爆弾を保有させたくなかったものと思われます。そのため、ソ連
との関係悪化は加速し、1959年6月にはソ連から中国への援
助は完全に打ち切られています。
 一方、フランスとの関係はうまくいっていたのです。フランス
のキューリー研究所に留学していた放射能科学者、楊承宗は帰国
に当って、キューリー研究所から素晴らしいプレゼントがもたら
されたのです。遠藤誉氏の本から引用します。
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 楊承宗は、1947年にフランスのキューリー研究所に留学し
て博士学位を取得したのだが、新中国誕生後、毛沢東の呼び掛け
に応えて中国に帰国しようとした。するとイレーヌ・キューリー
夫妻が、炭酸バリウムによって純化された10グラムのラジウム
標準資料を楊承宗にプレゼントしたのである。これは世界的に見
ても、誰もが喉から手が出るはど欲しいものだった。彼女は中国
の成功を祈ると言い、原爆成功と同時にフランスは中国と国交を
結ぶにちがいないと言って、毛沢東に1つの「言葉」を送ってく
れと頼んだのである。それは「もし原子爆弾に反対するのなら、
自分の原子爆弾を持ちなさい」という言葉だった。
   ──遠藤誉著/PHP/『「中国製造2025」の衝撃/
            習近平はいま何を目論んでいるのか』
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 毛沢東は、1960年に中華人民共和国第9局(核兵器製造機
関)を設置し、チベット族自治区に核開発のための第9学会(北
西核兵器研究設計学会)を設立しています。第9学会のコードナ
ンバーは「211」です。そして、1964年に中国は、次の2
つの核に関する実験に成功しているのです。
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 1.第9学会で開発された初の中国核兵器(コードネーム=
  596)が、核爆発に成功したこと
 2.核弾頭を装備した東風2号Aミサイルが発射され、標的
  上空569メートルで爆発したこと
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           ──[米中ロ覇権争いの行方/051]

≪画像および関連情報≫
 ●金正恩より恐ろしい核指導者は毛沢東―米外交専門誌
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   2017年7月18日、米華字メディアの多維新聞による
  と、米外交専門誌ナショナル・インタレストはこのほど、北
  朝鮮の最高指導者である金正恩氏より恐ろしい核指導者は、
  中国の毛沢東だと指摘している。
   北朝鮮は、2017年7月4日、大陸間弾道ミサイル(I
  CBM)の発射実験を行った。米国、韓国、日本などは金正
  恩の核武装計画により絶え間ない脅威にさらされている。だ
  が歴史上、金正恩が及ばない核指導者が少なくとも1人は存
  在した。それが中国の毛沢東だ。
   毛沢東が数十年間戦争と混乱に陥った中国に統一をもたら
  した変容的で歴史的な指導者であることは疑いようのない事
  実だ。だが彼は権力を引き受けた瞬間から、核戦争に「無邪
  気な」態度を取るようになった。
   この中国の革命的指導者は、米国と敵対するだけでなく、
  重要な大国のソ連との力比べも惜しまなかった。中ソの紛争
  は1969年、中国軍がソ連の国境警備隊を襲い、50人の
  兵士を殺害した際に頂点に達した。毛沢東ははるかに強力で
  核武装した国との戦争の危険にさらされた。毛沢東の最も恐
  ろしい側面は、中国が1964年に最初に実験した核兵器に
  関する彼の見解であった。ソ連は当初、中国が独自に核兵器
  を建設するのを支援することに同意した。だが、毛の核戦争
  に対する「遠慮のない」態度に対する懸念から、支援を打ち
  切っている。          https://bit.ly/2Fijyvm
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銭学森と毛沢東.jpg
銭学森と毛沢東
    
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | 米中ロ覇権争いの行方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする