2017年07月05日

●「日本橋魚河岸からの築地への移転」(EJ第4556号)

 「東京市」といっても若い人にはピンとこないかもしれません
が、東京も現在の大阪と同じように、「東京府」の東部に「東京
市」が存在する時代があったのです。1889年(明治22年)
から、1943年(昭和18年)まで東京市だったのです。
 なぜ、東京市のことを取り上げたのかというと、東京市は東京
の心臓部ともいうべき日本橋に、日本橋魚河岸が広大な地域を占
有して存在していることに一貫して反対だったからです。つまり
移転を促していたのです。
 ここで市場を構成する人々について、若干の予備知識が必要に
なります。簡単にいうと、市場には次の2種類の業者がいます。
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           1.卸売業者
           2.仲卸業者
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 1の「卸売業者」は、漁師などの生産者や出荷者から依頼され
た魚の販売を引き受けて、市場でセリにかけ、仲卸業者などに卸
売りする業者です。中央卸売市場の卸売業者になるには、農林水
産大臣の許可が必要です。次に述べる「仲卸」に対して「元卸」
とも呼ばれます。
 2の「仲卸業者」は、卸売業者からセリなどで買った魚を市場
内にある店で小分けして、魚屋や料理屋などの買出人に販売する
業者です。築地市場の扇形の建物のなかの約800店がこれに当
たります。
 さて、東京市の再三に当たる移転勧告に対して、仲卸業者の大
半は移転に賛成していたのですが、卸売業者は頑強に反対し聞く
耳を持たなかったのです。卸売業者の多くは、日本橋に地所や家
を所有していたので、移転に反対していたのです。
 これは、築地市場のケースとは逆です。築地市場の豊洲移転で
は、卸売業者は豊洲への移転に賛成し、仲卸業者はほとんど全員
築地再整備を主張しているからです。
 この市場の移転問題はなかなか決着がつかないのです。何かと
すったもんだして、20年余りの月日が流れたのです。しかし、
その決着をつけたのは、1923年(大正12年)9月1日に起
きた関東大震災です。
 時の東京市長は第7代の後藤新平市長です。後藤市長は、この
大震災を奇貨として、東京の大胆な大改造を実施したのです。現
在の東京は、後藤市長の描いたプランが実現したかたちで存在し
ているといっても過言ではないのです。
 後藤新平氏といえば、今回のテーマには関係ありませんが、次
の名言で知られています。
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 よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中
だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ。 ──後藤新平
          ウィキペディア  http://bit.ly/2tAl1YZ
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 この震災によって、日本橋界隈は一面の焦土と化し、卸売業者
も仲卸業者もすべて焼け出されたのです。日本橋に土地を持つ卸
売業者はあくまで日本橋での復興を望んだのですが、東京市の意
向を受けて、政府は戒厳令を発令して日本橋への立ち入りを禁じ
たのです。これによって、300年を超える歴史を持つ日本橋魚
河岸は、歴史の幕を閉じたのです。
 中川新一氏は、その後の日本橋魚河岸について次のように述べ
ています。
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 東京市は大震災を好機として、魚河岸を中央卸売市場として整
備する計画を実行に移した。このとき新しい中央卸売市場の場所
は、築地の海軍学校跡と決められた。まだ建物もできていない築
地の更地に仮市場を開いて、仲買たちはさっそくに商売を開始し
た。問屋たちもしだいに戻ってきて、日本橋魚河岸さながらの店
舗街が立ち並び、その脇で建設工事が進行した。
 東京市専属の建築技師らによって、築地の新市場の設計が決め
られた。汐留駅からの貨物車を乗り入れるために、築地本場の全
体構造は扇型をとることになった。この設計プランは、まことに
「天才的」なものであり、扇型をしたこのユニークな近代建築の
構造によって、市場内部で展開される物流の流れがみごとにコン
トロールされることになった。
 またそれによって、仲買人(仲卸)の間で伝えられてきた暗黙
の身体知が、確実に保存され、次世代へと伝えられていくことが
可能になった。まさしく築地市場の建築は「モダン」と「伝統」
を結び付けることに成功したのである。    ──中沢新一著
                「築地アースダイバー」より
           『現代思想』2017年7月臨時増刊号
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 中央卸売市場としての築地はこのようにして誕生したのです。
重要なことは、中沢新一氏のいう「扇型をした近代建築の構造」
という点と「仲買人の間で伝えられてきた暗黙の身体知が確実に
次世代へと伝えられる」という点にあります。
 これは何をいっているのでしょうか。実はこれは、築地か豊洲
かについて議論するさい、きわめて重要な論点です。これについ
ては、明日のEJで述べることにします。
 築地市場は、空襲によっても大きく破壊されることはなく、建
物の大半が戦後まで残っています。敗戦後の一時期において、青
果棟の一部が米軍に接収され、そこがクリーニング工場として使
われたことがあります。
 しかし、それをもって「築地も土壌が汚染されている」と豊洲
移転の正当性を宣伝する向きがありますが、青果棟の床のコンク
リートは破壊されておらず、排水はそのまま海に流されており、
問題はないと考えます。何が何でも豊洲へと政治的ともいえる強
い動きがあるのは確かです。
              ──[中央卸売市場論/003]

≪画像および関連情報≫
 ●日本橋魚河岸は、築地市場の前身
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   魚は日本人の食生活に深くかかわってきた。魚自体はさほ
  ど進化しているとは思えないので、大昔の人が食べていたも
  のと同じものを我々は食べていることになりそうだ。好まれ
  る食べ方は時代によって違ったり、基本的には鯵(あじ)なら
  鯵、鮭(さけ)なら鮭で、まったく同一のもの食べ続けてきた
  という点で、めずらしい食材、また貴重な食料といえる。
   江戸に幕府が開設されて以来人口は急増し、将軍吉宗の時
  代には百万都市となっていたようである。その需要を満たす
  ために魚の流通システムがだんだん整備され、魚市場が出来
  上がっていった。いわゆる魚河岸である。代表的なのが日本
  橋、この図会には日本橋の魚市場の活況の様子がこと細かく
  描かれている。
   威勢のいい掛け声が聞こえてきそうな図会をよく見てみる
  と、魚の種類の多さとその大きさに驚く。どうしてこんなに
  大きいのか、絵だから多少の誇張はあるにせよ、出典先であ
  る『江戸名所図会』は、当時をもっとも忠実に描いたものと
  して定評ある書物であることを考えてみると、やはり今より
  魚は全般に大きかったのではないかと思う。当時の江戸前の
  海(江戸湾)は現在の東京湾よりずっと広く、環境もよく魚の
  宝庫だった。自然の生け簀状態で、遠くの海まで行かなくて
  も大きな魚がたくさん捕れたのではないか。
                   http://bit.ly/2ugk8Co
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日本橋魚河岸の風景.jpg
日本橋魚河岸の風景
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 中央卸売市場論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする