2016年10月20日

●「ウィスキーへの課税で内戦に発展」(EJ第4384号)

 米国の独立戦争後に顕著になったのは次の2つの勢力の対立構
図です。再現します。
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     「フェデラリスト」VS「ポピュリズム」
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 1789年4月に合衆国憲法の発効による連邦政府が発足し、
ジョージ・ワシントンが初代大統領に就任します。この政権の最
大の悩みは、独立戦争の戦費だったのです。ところで、米国はど
のようにして独立戦争の戦費を調達したのでしょうか。
 もともと独立軍には大した財源はなかったのですが、当時米国
の最大の都市であったフィラデルフィアの豪商たちが戦費を用立
てたのです。つまり、民間資本で戦費を賄ったことになります。
その代表的な人物の一人がロバート・モリスです。モリスは、米
国の財政を立て直すためにいろいろな努力をしているのですが、
最大の貢献はそれを託す人物として、アレクサンダー・ハミルト
ンを初代の財務長官に指名したことです。
 通常の国家の独立は、独立前の反乱軍の全ての債務を破産処理
して、新生国家は借金ゼロでスタートするのが普通です。しかし
ハミルトン財務長官は、独立戦争の戦費(債務)を新生のアメリ
カ合衆国が継承する決断をしたのです。これによって、アメリカ
合衆国はマイナスからのスタートになったのです。
 何とかカネを稼ぐ必要がある──ハミルトン財務長官はウイス
キーに目をつけます。当時米国の主要な産物は小麦だったのです
が、出荷した後で余った小麦で、ウイスキーを作っている農家が
多かったのです。当時の米国農家のウィスキー作りについて書い
てあるサイトから引用します。
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 酒はもともと、作物の余剰生産物により生産される。生きるた
めに必要な穀物の他に、余った穀物を、簡単な構造の単式蒸留機
により、家内工業的に少量生産された。その蒸留酒となり付加価
値を持った酒が、市場に出て、貨幣との交換価値を得る。農民た
ちの汗の結晶から、僅かばかりの酒が生まれ、その酒を売却する
ことにより、多くの農民は生活必需品を得たのである。
                   http://bit.ly/2dxk1Mn
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 ワシントン大統領とハミルトン財務長官は、このウィスキーに
対し連邦税をかけることを決断します。しかし、その税制は大農
業主よりも小規模農場主に対して厳しかったのです。それに大統
領のワシントン自身が大農業主であり、ウィスキーも作っていた
ので、中部から南部の州を中心として、連邦政府に対して不公平
だという声が強く出てきたのです。
 とくにウイスキー生産のメッカであるペンシルベニアでは、重
税反対運動が盛り上がり、大勢の人が集結し、連邦政府と一戦も
辞さずという不穏な空気が広がります。これに対して、ハミルト
ン財務長官の方も、反乱は断固鎮圧するという強い意思を示しま
す。これが「ウィスキー税内乱」です。1794年のことです。
これについて冷泉彰彦氏は、次のように述べています。
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 これに対して、ハミルトンは強硬だった。「今こそ、連邦政府
の権威と権力を見せつけるとき」だという決意をしたのである。
独立戦争直後の時点ということもあって、同じような「民兵の召
集」が行われ、一万二千の軍隊が投入された。政府軍と反乱側の
規模の差は圧倒的なものとなった結果、戦闘らしい戦闘にはなら
ず、代表者数十名が逮捕され、その中の数名が病死するなどした
というだけで事件は収束、国家の分裂というような事態にはなら
なかった。        ──冷泉彰彦著/日本経済新聞社刊
          『民主党のアメリカ/共和党のアメリカ』
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 冷泉彰彦氏の指摘で重要なのは、ハミルトンが1万2000人
の軍隊を出した理由が、このさい連邦政府の力を見せつけて、連
邦制に反対させないようにしたという点です。その時点では、連
邦制に反対の州はまだ多かったからです。
 実際に連邦制が定着したのは、初代大統領のワシントンと2代
大統領のアダムズがともにフェデラリスト(連邦派)であり、ワ
シントンの8年間、アダムズの4年間の計12年間で、何とか連
邦制そのものに対する反対はなくなったのです。
 しかし、2代大統領のジョン・アダムズにとって気の毒だった
のは、副大統領が、リパブリカンのトーマス・ジェファーソンで
あったことです。リパブリカンは州権派、すなわち、民主共和党
であり、大統領とは党が異なるのです。なぜこんなことになった
のかについて、『大統領たちの通信簿』のオブライエン氏は次の
ように説明しています。
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 さらに事を面倒にしたのは、副大統領のトーマス・ジェファー
ソンが、フェデラリストではなく、リパブリカンだったことであ
る。1804年に選挙法が修正されるまで、副大統領の地位は大
統領選挙で第2位になったものが獲得していたのだ。当然アダム
ズとジェファーソンは折り合いが悪く、ジェファーソンはあらゆ
る機会を捉えて、大統領の反対派をマスコミを通じて応援した。
        ──コルマック・オブライエン著/平尾圭吾訳
             『大統領たちの通信簿』/集英社刊
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 3代大統領は、2代大統領の副大統領であったジェファーソン
が就任します。ここからがリパブリカンの天下となります。以来
4代から6代大統領までは、リパブリカンの出身者で占められ、
第7代大統領は、リパブリカンを「民主党」に名称変更して、ア
ンドルー・ジャクソンが就任します。
 このジャクソン政権において、ポピュリズムが明確に姿をあら
わすことになります。これについては、明日のEJで述べます。
            ──[孤立主義化する米国/069]

≪画像および関連情報≫
 ●ジョン・アダムズについて
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   アダムズはアメリカ革命の初期に著名になった。大陸会議
  には、マサチューセッツ湾植民地の代表として出席し、17
  76年に大陸会議がアメリカ独立宣言を採択するときに指導
  的な役割を果たした。大陸会議からヨーロッパに派遣され、
  イギリスとのパリ条約締結では交渉の主役となり、またアム
  ステルダムから重要な借款を得る中心人物だった。
   アダムズは独立に貢献したことで、ジョージ・ワシントン
  の下で2期副大統領を務め、また第2代大統領にも選出され
  ることになった。この大統領としての任期の間、自身の連邦
  党(アレクサンダー・ハミルトンが率いる一派)内部での抗
  争と、新しく頭角を現したジェファーソン流共和主義者との
  党派抗争に悩まされることになった。また論争の多かった外
  国人・治安諸法に署名した。大統領任期中の最大の功績は、
  1798年にフランスとの擬似戦争危機を平和的に解決した
  ことである。
   1800年大統領選挙で、トーマス・ジェファーソン(当
  時の副大統領)に再選を阻まれた後は、マサチューセッツ州
  に引退した。妻のアビゲイル・アダムズとともにアダムズ政
  治一家と呼ばれる政治家、外交官および歴史家の家系を作り
  育てた。彼の息子ジョン・クィンシー・アダムズは第6代ア
  メリカ合衆国大統領になった。アダムズの功績は当時他の建
  国の父ほどは評価されなかったが、現代ではより大きな評価
  を受けるようになってきた。    http://bit.ly/2eEKhH6
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ジョン・アダムズ米2代大統領.jpg
ジョン・アダムズ米2代大統領
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 孤立主義化する米国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする