2016年03月22日

●「トルーマン元米大統領の重大な罪」(EJ第4241号)

 次の文章は、「モスクワ教育出版社」によるロシアの中学校教
科書に掲載されているものです。
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 8月6日と9日に、アメリカ軍の航空隊は日本の都市、広島と
長崎に原子爆弾を投下した。これは人類史上初の大量殺戮兵器の
使用だった。アメリカでは、これは日本上陸とそれに引き続く戦
闘によってもたらされるであろう多大な損害を回避するためにや
むをえなかったのだ、という正当化がなされている。
 しかし実際のところは、原子爆弾は平和的な市民に対して多大
な物質的、人的損害をもたらすものであって、軍事的になんらの
必然性をもたないものだった。
 その後の核開発競争の発端ともなったこの非人道的な行為は、
アメリカの戦略的優位を誇示するものだった。原子爆弾の一時的
な独占状態を手にして、アメリカは戦後世界におけるヘゲモニー
を確立しようと狙ったのである。    http://bit.ly/22qpaqQ
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 他国の教科書を読む機会は少ないですが、この教科書では、日
本への原爆投下やその後の米国の対応について、かなり強い、厳
しい表現で書かれています。日本への原爆投下は「平和的な市民
に対して多大な物質的、人的損害をもたらすもの」と切り捨て、
米国は、原子爆弾の一時的な独占状態を利用して、世界の覇権を
握ろうとしたとして米国を非難する内容になっています。
 その最大の責めを負うべきはトルーマン大統領です。彼は原爆
の広島と長崎への投下の命令を直接下しただけでなく、終戦後に
行うべき核の国際的な管理を怠ったからです。
 太平洋戦争中の1945年といえば、日本はあらゆる面で疲弊
していたのです。米軍は日本の兵器製造工場をピンポイントに爆
撃しており、そのなかにはHAARPによる地震攻撃もあったと
思われます。1月29日付のEJ第4206号で指摘しているよ
うに、1944年末から45年はじめの東南海地震と三河地震は
兵器の製造工場を狙った地震攻撃であると思われます。
 明らかに当時の日本は兵力も兵器も弾薬もない状態であり、抵
抗不能の状態であって、日本の降伏は時間の問題だったのです。
米国もそのことは十分わかっており、ましてわざわざ原爆を、し
かも2都市に対して投下する必要などなかったのです。
 当然のことながら、日本への原爆投下の是非については賛否両
論があり、反対意見が多かったといわれますが、大統領になった
ばかりのトルーマン大統領はそれを押し切り、ゴーサインを出し
たのです。彼は副大統領の頃からこの新兵器の原爆をあれこれ利
用することを考えていたのです。
 日本がポツダム宣言を受託し、降伏した後、スチムソン陸軍長
官は、トルーマン大統領に対して、次の提案をしています。
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 原子爆弾の管理と使用の制限について、ソ連と協定を結ぶべ
 きである。      ──ヘンリー・スチムソン陸軍長官
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 当時、米国以外は原子爆弾の製造に成功しておらず、この時点
で原爆の国際的管理を呼びかけることは、核を制限するひとつの
チャンスだったのです。それに、米国は「世界最初の原爆保有国
/使用国」として、世界に原爆を拡散させないよう手を打つ責任
があったからです。
 それだけではないのです。マンハッタン計画に参加した科学者
たちは、戦争が終結したことで原爆製造の役割は終わったとして
軍管理体制の解除を要求したのです。原子力の研究を平和時のそ
れに戻そうとしたのです。
 しかし、トルーマン大統領は、そのいずれも認めなかったので
す。もし原爆の国際管理をすると、当然のことながら、米国の製
造も制限されることになるからです。彼にはもっと強力な原子爆
弾を作るという野心があったのです。おそらくトルーマン大統領
はソ連の力を見くびっていたものと思われます。
 つまり、トルーマン大統領の考え方は、世界各国が原爆の開発
に手間取っている間に、できるだけ多くの原発を作り、世界の覇
権を確かなものにするという計画だったようです。
 そのため、トルーマン大統領は、原爆の開発を軍の指揮下で進
める「サンドストーン計画」を発足させたのです。1948年の
ことです。これは原爆大量生産計画そのものです。1949年に
ソ連が原爆の開発に成功すると、トルーマン大統領は水爆の開発
を命じたのです。1950年のことです。このトルーマン政権以
降、米国とソ連は激しい核軍拡競争に明け暮れ、世界中に核兵器
が拡散することになってしまうのです。
 トルーマン政権になってから、マンハッタン計画に参画した中
心的学者である所長のオッペンハイマー博士とテラー博士のポジ
ションに大きな変化があったのです。
 もともとオッペハイマー博士とテラー博士は仲が悪く、そのた
めテラー博士は原爆を捨て、水爆の開発を目指したという経緯が
あるのです。そして、1950年代に起きた“赤狩り”、すなわ
ち、マッカーシー旋風によって、オッペンハイマー博士とテラー
博士は、核コミュニティの世界から追放されてしまうのです。
 マッカー旋風というのは、反共産主義に基づく政治運動のこと
です。米国上院議員のジョセフ・レイモンド・マッカーシー議員
の起こした運動で、共産主義者であるとの批判を受けた政府職員
やマスメディアの関係者などが指弾されたのです。
 このマッカーシー旋風で、オッペンハイマー博士はソ連のスパ
イではないかと告発され、テラー博士はそれを一部裏付ける証言
を行ったとし、その仲間を売る行為を忌避されて、ともに核コミ
ュニティの世界から追放されてしまったのです。
 しかし、テラー博士は、その後ネルソン・ロックフェラーに近
づき親友になり、その関係でニクソン副大統領と親密になるなど
権力者に近づき、ニクソン政権になったとき、政権はテラー博士
の研究を支援したのです。──[現代は陰謀論の時代/054]

≪画像および関連情報≫
 ●マッカーシズム/赤狩り
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   マッカーシズムの嵐が吹きまくった1950年代はじめよ
  りも前、大戦直後の冷戦の進行の中で、マスコミなどでも共
  産主義の脅威が宣伝され、いわゆる「赤狩り」が始まってい
  た。その結果、1945年には10万人近くの党員がいたア
  メリカ共産党は、10年間に4分の1の数に落ち込んだ。
   その活動の中心となったのは下院に設けられた非米活動委
  員会(HUAC)であった。これは1938年に設置され、
  共産主義やファシズムのアメリカ浸透を調査するものであっ
  たが、46年から共和党保守派の主導下に置かれ、民主党が
  共産主義を許容しているという攻撃が始まった。特にハリウ
  ッドの映画産業の中にソ連のプロパガンダが入り込んでいる
  という告発が行われた。
   民主党のトルーマン政権も自己の疑惑を払うため積極的に
  共産主義の弾圧に動き、連邦公務員に「忠誠」審査を強行し
  212人を解雇、2000人以上の辞職者を出した。FBI
  も共産主義の摘発に動き、50年に共産党員のローゼンバー
  グ夫妻をソ連のスパイとして告発し、真相究明されないまま
  夫妻は翌年死刑となった。この風潮の中で出てきたのがマッ
  カーシーによる国務省内部の共産主義者を告発すると言う動
  きだった。            http://bit.ly/1pxMIfI
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ハリー・S・トルーマン米大統領.jpg
ハリー・S・トルーマン米大統領
posted by 平野 浩 at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 現代は陰謀論の時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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