2011年06月01日

●「新政府軍による3ルート攻略作戦」(EJ第3067号)

 明治2年(1869年)4月9日、新政府軍は江差の北約10
キロのところにある魚港、乙部に上陸したのです。そのとき江差
には500人を超える榎本軍がいたので、江差奉行の松岡四郎次
郎は3小隊を率いて乙部に向かったのです。
 しかし、新政府軍の軍艦、とりわけ甲鉄の艦砲射撃はすさまじ
く歯がたたなかったのです。もし、榎本軍に開陽が健在であれば
輸送船はことごとく粉砕できたし、軍艦同志でも甲鉄を除けば、
あとは開陽の敵ではなかったのです。
 新政府軍は、榎本の率いる艦隊には相当警戒していたのです。
しかし、榎本軍の軍艦は3隻しかなく、榎本艦隊は箱館を動けな
いと判断して、あえて乙部に上陸したのです。上陸作戦の部隊は
三軍まであって次の通りです。総兵力は1400人です。
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 第一軍 参謀/ 山田顕義(長州) 松前、津軽、長州、大野
     大野藩兵
 第二軍 参謀/ 黒田清隆(薩摩) 松前、津軽、薩摩、備前
     長州、水戸、福山藩兵
 第三軍 総督/清水谷公考(箱館府知事、公家) 松前、水戸
     筑後、薩摩、備前、徳山、福山藩兵
              ──星亮一著/中公新書2108
        『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』
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 これを見ると、どの軍も土地に精通した松前軍が中心になって
いることがわかります。まして彼らは昨年末に榎本軍に攻め込ま
れ、青森まで撤退した悔しさがある。その分、怒涛のように攻め
込んだのです。兵の数も装備も弾薬も士気にも勝る新政府軍に榎
本軍は勝てるはずがないのです。そのため、江差を明け渡し、兵
を松前城まで引いたのです。
 新政府軍は、乙部に上陸してから箱館にいたる作戦として、次
の3つを決めていたのです。
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          1. 松前口作戦
          2.木古内口作戦
          3. 二股口作戦
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 最初のうちこそ榎本軍は優勢だったのです。しかし、何といっ
ても多勢に無勢、陸上の銃撃戦では負けないが、それに海上から
の軍艦による艦砲射撃が加わると、勝負にならなかったのです。
 まず、松前口作戦における緒戦の模様について、菊地明氏の本
から紹介します。
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 松前では地蔵山に陸軍隊、折戸台場に遊撃隊を配し、新政府軍
 を迎撃するため一聯隊五小隊・遊撃隊二小隊・砲兵隊一分隊が
 根部田方面へと出陣した。その夜七時ごろ彼ら拝札前村(松前
 町)に進出していた新政府軍斥候隊と戸長川付近で衝突する。
 新政府軍には援兵があったものの、旧幕軍の優勢のうち、翌早
 暁には小砂子まで撃退し、旧幕軍は砲三門と小銃・弾薬を押収
 したうえ、江長町を回復した。
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
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 それでは木古内(きこない)口ではどうだったでしょうか。
 大島圭介は伝習一小隊と仙台藩額兵隊の三小隊を率いて、箱館
から木古内に出撃したのです。木古内は戦略上の重要拠点であり
ここを落とされると、松前や福島が孤立化してしまうのです。こ
こも緒戦の模様について菊地明氏の本から紹介します。
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 午前三時三十分、間道警備の彰義隊とのあいだで銃撃戦が始ま
 り、「未明、間道口彰義隊の番兵走り来たり、敵既に近くに攻
 め来たれり、早く兵を出して防ぐべし」との報知が本営にあり
 大鳥は額兵隊二小隊と、伝習歩兵隊一小隊を率いて出陣する。
 「彰義隊は山上に備えたる大砲をしきりに放ちて防戦す」──
 『蝦夷錦』という状況のなか、山上に構築していた胸壁から額
 兵隊が、平地に散開した伝習歩兵隊が銃撃したが、新政府軍は
 迂回して胸壁の額兵隊を攻撃した。待機していた彰義隊は別の
 山に登り、迂回兵を背後から挟撃して撃退したため新政府軍は
 敗走し、一時間余におよんだ戦いは終わった。
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
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 二股口は険しい山間を抜けて五稜郭にいたる重要路であり、土
方歳三は冬の間に、こつこつと防衛のための手を打っていたので
す。箱館戦争でおそらく榎本軍が最も新政府軍と対等に戦ったの
は二股口の攻防戦なのです。この戦闘について、星亮一氏は次の
ように述べています。
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 江差から箱館に向かうもう一つのルートは二股口だった。土方
 は冬の問にもここに出かけ、胸壁作りに励んで来た。ここには
 土方歳三と大川正次郎が衝鋒二小隊、伝習二小隊を率いて出張
 した。四月十三日、ここに長州、福山、松山、薩摩の兵、数百
 人が押し寄せた。土方は胸壁から峠を登っている敵兵を乱射、
 十六時間に及ぶ戦闘を繰り広げ、敵を撃退した。敵の様子を一
 望できるところに胸壁を築いていた。兵士の中には一人で千発
 も射撃した者もおり、顔は硝煙で真っ黒だった。守備兵の一小
 隊は、昨年十二月末、箱館で募集した兵士で、はたして戦闘に
 耐えられるか疑問もあったが、訓練の結果、勇猛果敢な兵士と
 なっていた。着剣して胸壁を飛び出し、敵兵を二人も刺し殺し
 戦死した兵士もいた。 兵の強弱は、新しいか古いかではなく
 訓練にあると、大鳥は思った。  ──星亮一著の前掲書より
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          ─── [明治維新について考える/77]


≪画像および関連情報≫
 ●新政府軍から見た「二股口の戦い」
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  4月16日、新政府軍の第二陣2400名が江差に上陸する
  と、二股方面には薩摩・水戸藩兵などからなる援軍が派遣さ
  れ、弾薬と食糧も補給された。一方で、二股の堅塁を抜くこ
  とが容易ではないことを痛感した新政府軍は、4月17日以
  降、厚沢部から山を越えて内浦湾に至る道を山中に切り開き
  始める。ここから兵と銃砲弾薬を送り込んで、旧幕府軍の背
  後から二股口を攻める作戦であったが、この作業も困難を極
  めた。この間、旧幕府軍でも滝川充太郎率いる伝習士官隊2
  個小隊が増強されている。      ──ウィキペディア
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 ●図出典/二股口の戦いを描いた古地図/ウィキペディア

二股口の戦いを描いた地図.jpg
二股口の戦いを描いた地図
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2011年06月02日

●「箱館湾内における矢不来の海戦」(EJ第3068号)

 箱館戦争の緒戦において榎本軍は勝利したものの、新政府軍は
圧倒的な人数であり、守備するだけで手一杯になって、ほとんど
反撃する余裕などなかったのです。
 慶応2年(1869年)4月17日、新政府軍は松前に対して
総攻撃をかけたのです。午前中から甲鉄をはじめとする新政府艦
隊が松前沖に姿をあらわし、江差からは大軍が松前に向けて南下
してきており、それを春日が護衛していたのです。
 榎本軍は、松前城下の西方にある折戸台場から新政府艦隊に砲
撃を加えたのですが、艦隊は台場からの射程圏外に出て相手にな
らなかったのです。艦隊は榎本軍が十分な弾薬を持っていないこ
とがわかっているので、無駄な弾薬を使わせることと、松前に向
かう新政府軍の進撃を待っていたのです。
 午後4時になって、新政府艦隊は一斉に艦砲射撃を行ったのて
す。榎本軍も折戸台場から応戦したものの、艦砲射撃に守られた
新政府軍の攻撃にとうてい勝ち目がなかったのです。
 午後4時40分頃、前線を突破された時点で指揮を執っていた
松岡四郎次郎は、日章旗を下ろし、大砲を爆破して兵を引いたの
です。味方の消耗は激しく、これまでと判断したからです。新政
府軍が松前を占拠したのは、午後6時過ぎのことです。
 松前を退いた榎本軍は、福島、知内、木古内、泉沢──ここは
何とか榎本軍が押えていたのですが、もし、新政府艦隊があらわ
れて艦砲射撃が行われると、榎本軍は一段と箱館に追い詰められ
ることになります。
 4月20日になると、新政府軍は第2次上陸兵を含む勢力を木
古内に投入してきたのです。榎本軍の木古内陣地には激しい銃撃
が浴びせられ、額兵隊と遊撃隊が応戦したものの、そのままずる
ずると泉沢まで退却し、木古内が占領されるところまで追い込ま
れたのです。
 しかし、木古内の戦闘には、会津遊撃隊と神木隊が応援に駆け
付け、それに加えて海上から蟠龍が艦砲射撃を加えて支援したの
で、新政府全軍が笹子屋というところまで引き上げたのです。こ
のように、当時は軍艦による艦砲射撃が攻撃にはきわめて有効で
あったことをあらわしています。
 新政府軍を押し返した榎本軍は、追撃をかけようとしたのです
が、五稜郭から応援に駆け付けた大鳥圭介は、次のようにいって
全軍が、21日午前8時までに茂辺地に引き、兵を少し休ませる
ことにしたのです。
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 木古内もとより地利悪しく、今これを保つも我れにおいて益
 なし。                ──『感旧私史』
   菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
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 木古内を退却したので、榎本軍に残された戦略拠点は、矢不来
(やふらい)しかなくなったのです。添付ファイルを見ていただ
くとわかりますが、ここを押さえておかないと、二股口を守り、
一兵も新政府軍を入れさせていない土方歳三の部隊を見殺しにす
ることになります。
 矢不来は、箱館湾の一角にあり、正面には箱館山が見えます。
現在は北斗市、かつて旧福山街道の関所のあったところであり、
箱館湾を一望できる戦略拠点です。実は矢不来は、大鳥圭介が最
後の防御地として指定した場所でもあるのです。矢不来の守りに
ついて、菊地明氏の記述です。
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 当初より、大鳥は松前を突破された場合の迎撃地として矢不来
 を想定しており、「天神の森」こと矢不来天満宮に会津遊撃隊
 と、鷲ノ木方面より派遣されてきた衝鋒隊半隊を配すると、す
 でにその北方の山の頂上部と中腹に設けられていた二十六の胸
 壁に大小六門の大砲を備え、伝習歩兵隊・神木隊・砲兵隊・工
 兵隊に守らせると、自身も中腹の胸壁に入った。そして、矢不
 来入口の砲台と海岸沿いの間道を額兵隊の、矢不来正面の胸壁
 を彰義隊の部署とする。           ──菊地明著
        『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
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 慶応2年(1869年)4月24日、午前5時20分、新政府
艦隊は箱館湾に姿をあらわし、途中茂辺地と矢不来に艦砲射撃を
行い、午前8時10分に港内に入り、榎本軍の回天、蟠龍、千代
田形との間で砲撃戦が始まったのです。
 このときは榎本軍の弁天台場からの砲撃も加わり、正午前には
新政府艦隊は港内からは撤退したのです。しかし、午後になって
再び海戦は再開されたのですが、榎本軍は約2時間後に新政府艦
隊を追い払ったのです。しかし、新政府艦隊の被害は少なく、ほ
とんど無傷で矢不来攻撃に投入されることになったのです。
 榎本軍は矢不来に三重の台場を築いていたのです。海浜、中段
上段の3つです。大鳥圭介はここに兵460人を配置して、敵艦
隊と向き合ったのです。
 新政府軍艦隊は、4月29日午前2時30分、矢不来沖に5隻
の軍艦──朝陽、陽春、甲鉄、春日、丁卯を配置したのです。そ
して、朝陽、陽春は茂辺地に、甲鉄、春日、丁卯は矢不来に艦砲
射撃を行ったのです。
 新政府艦隊は、この攻撃は大型弾を使い、その轟音は耳をつん
ざくばかりであったといいます。『南河紀行』は次のように状況
を伝えています。
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 軍艦より飛来る大弾(砲弾)雨のごとくにて、或は谷に落ち、
 或は樹を倒し、又胸壁を崩し、土を四方に飛散し、勢甚だ猛烈
 なり。   ──『南河紀行』/星亮一著/中公新書2108
        『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』
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          ─── [明治維新について考える/78]


≪画像および関連情報≫
 ●矢不来台場について
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  矢不来台場(第1台場、第2台場)はすでに町文化財指定され
  ているが、今まで考えられていた以上に縄張りは広大であり
  旧福山街道を中に取り込み、関所の役割を果たしていたらし
  い。重要な施設の付近を通るところでは街道を深く掘込み両
  側が見えないようにしていたと思われる場所もある。第3の
  台場?かつて矢不来天満宮のご神木の松ノ木──JR江差線
  工事で伐採された──があった辺り、国道228号線沿いの
  パーキング向いの張り出し部分が「新政府軍の攻撃を受けて
  土塁もひっくり返る程の被害を受けた」と記録に残る箱館戦
  争激戦地の矢不来台場ではないか。
  http://www.asahi-net.or.jp/~dg8h-nsym/yafurai-daiba.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

箱館戦争地図.jpg
箱館戦争地図
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2011年06月03日

●「新政府軍総攻撃と土方歳三の死」(EJ第3069号)

 矢不来の戦いは榎本軍の惨敗だったのです。隊長が2人とも戦
死し、上等士官6人も負傷、死傷者は70人を超えたのです。そ
のとき七重浜にも敵兵があらわれたとの情報が五稜郭にもたらさ
れます。榎本武楊は二股口を死守していた土方歳三に五稜郭に戻
るよう指示を出したのです。
 七重浜といえば、五稜郭の目と鼻の先であり、榎本軍はいよい
よ追い詰められたことを意味します。そこで榎本は自ら800人
の兵を率いて七重浜に出陣したのです。慶応2年(1869年)
5月8日のことです。そのときの榎本隊の先鋒は、後から箱館に
やってきた仙台の見国隊なのです。
 作戦としては、先鋒を見国隊、側面を伝習隊と衝鋒隊が担当し
て三方から攻め込むというものであったのです。しかし、見国隊
は勇敢に戦ったものの、すさまじい銃撃によって多くの死傷者が
出たのです。とくに士卒がほとんどやられ、敵の呼び掛けに応じ
て投降する者も多数出たのです。この七重浜の敗戦によって榎本
軍は、完全に五稜郭に追い詰められたのです。
 新政府軍は5月11日に五稜郭と箱館市中の総攻撃を決意した
のです。この情報が榎本軍にも入り、榎本軍の幹部は別れの会を
開いています。このときの模様を松前奉行だった人見勝太郎は次
のように書いています。
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 明日は官軍が総攻撃をするということで、別れを告げんために
 箱館の「武蔵野」という妓楼がござりましたが、それに榎本武
 楊、松平太郎、大島圭介を始め将校皆集まって、別れの盃を致
 しました。         ──「史談会速記録」126編
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
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 新政府軍は、午前3時に5隻の軍艦を使って箱館湾に進入し、
陸兵を輸送し、上陸させる作戦です。甲鉄と春日、陽春の3艦は
弁天台場に、朝陽、丁卯は蟠龍に向かってきたのです。ここまで
負け続けであった榎本軍にひとつだけ胸のすく快挙があったので
す。それは蟠龍の健闘です。その模様を星亮一氏の本からご紹介
します。
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 「蝦夷島の興亡、この一戦にあり」──蟠龍艦長松岡盤吉は、
 捨て身の覚悟で舵を握った。操艦にかけては自信があった。松
 岡は右に左に転舵し、敵の追跡をかわした。すべての水兵は、
 神経を研ぎ澄まして、命令を聞き、おのれの持ち場を守った。
 (中略)海戦はいかに太陽を背負うかにあった。相手は眼が眩
 んで見えなくなる。逆にこちらからは手に取るように見える。
 その瞬間に大砲を放つのだ。キラキラと陽光を浴びて朝陽が近
 づいた。松岡の狙いははじめから朝陽だった。「永倉、弾丸を
 込めろッ」と大声をあげた。永倉伊佐吉は蟠龍丸の二等士官、
 三十二ポンドナポレオン砲の砲手である。永倉は照準を合わせ
 た。目の前に朝陽があった。松岡は充分に狙って発射した。一
 瞬の問があった。「ド、ド、ドーン」、百雷がいっペんに落ち
 たような轟音か、湾内にこだました。     ──星亮一著
   『大鳥圭介/幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者』/中公新書
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 蟠龍は朝陽を仕留めたのです。朝陽はまるでもがくように沈ん
でいったのです。新政府軍、榎本軍の多くがこの海戦を見守って
いたのですが、朝陽が沈むと榎本軍の将兵は歓喜の叫び声を上げ
たのです。それはこれまでまけ続けてきたせめてもの、うっぷん
晴らしになったと思われます。
 しかし、蟠龍めがけて甲鉄、春日、陽春が襲いかかってきたの
です。とくに甲鉄からの攻撃はすさまじく、蟠龍は70発の砲弾
を受けて船体がばらばらになり、浅瀬に乗り上げて焼失したので
す。歓声を上げるのは、今度は新政府軍の方だったのです。
 そのとき土方歳三も五稜郭で蟠龍の快挙を見ていたのです。土
方は足を痛めて治療していたのです。そこに弁天台場が危ないと
いう情報が入ったのです。そこを守っていたのは新選組隊士島田
魁であり、土方歳三はすぐさま馬に乗り、僅かな兵を率いて出陣
したのです。そのときの模様について、ウィキペディアは次のよ
うに書いています。
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 新政府軍艦朝陽が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て「こ
 の機会を逃すな!」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役
 大野右仲に命じて敗走してくる仲間を率いて進軍させ、「我こ
 の柵にありて、退く者を斬る!」と発した。歳三は一本木関門
 を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦、馬上で指揮を
 執った。その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急
 いで駆けつけた時にはもう絶命していたと言う。
                    ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 この土方歳三の死は、榎本政権の最後を象徴する出来事であっ
たといえます。この土方の死については別説があるのです。既に
五稜郭では降伏の話は出ていたし、榎本も降伏の時期を探ってい
たといいます。なぜなら、惨敗は必至であるからです。
 しかし、土方は榎本に対し、「降伏は絶対にしない」と明言し
ていたのです。そのため、降伏の妨げになるとして味方に暗殺さ
れたのではないかといわれているのです。土方と榎本の間には少
しずつ亀裂が生じていたのです。辞世の句は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん
―――――――――――――――――――――――――――――
 土方歳三の死を契機に、5月13日から薩摩藩から和議の動き
が頻繁に行われるようになったのです。箱館戦争はいよいよ最終
章終局を迎えることになるのです。
          ─── [明治維新について考える/79]


≪画像および関連情報≫
 ●土方歳三の最後の地
  ―――――――――――――――――――――――――――
  新選組副長として京都の街に勇名をはせた土方歳三は鳥羽伏
  見の戦い後新選組を率いて各地を転戦して北上し仙台で旧幕
  府海軍副総裁榎本武揚が指揮する脱走兵と合流した。明治元
  年10月蝦夷地に上陸した榎本軍は箱館を占拠して新政権を
  樹立したが、明治2年4月新政府軍の総攻撃で榎本軍は敗退
  したが、土方が守ったニ股口だけは最後まで落ちなかった。
  5月11日に箱館も新政府軍に落ちたため、箱館奪回を目指
  し50名の兵を率いて一本木の関門を出て箱館市中に向った
  が、銃弾に当たりこの地で倒れてと言われている。住所/北
  海道函館市若松町
  ―――――――――――――――――――――――――――

土方歳三の最後の地.jpg
土方歳三の最後の地
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2011年06月06日

●「榎本政権の崩壊/無条件降伏」(EJ第3070号)

 箱館戦争は勝敗の決着がついていたのです。問題はどのように
して、この戦争を穏便に終わらせるかです。慶応2年(1869
年)5月13日になると、新政府軍側から和議の働きかけが次々
とはじまっていたのです。
 五稜郭の中で高松凌雲によって開かれている箱館病院に会津藩
遊撃隊長である諏訪常吉が入院していたのです。その諏訪に薩摩
の池田次郎兵衛が見舞いたいという申し出があり、榎本側は了承
したのです。池田次郎兵衛は京都に役人として在勤しているとき
諏訪常吉と親交があったといいます。
 このとき、諏訪は見舞金25両を贈るとともに、榎本軍による
早期謝罪を求め、戦争終結を勧めたのです。そして、池田は、高
松凌雲院長、小野権之丞病院掛と相談し、和議の書を作成して、
五稜郭と弁天台場の双方に書簡を送ったのです。このとき、榎本
軍が支配していた拠点は次の3つになっていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.   五稜郭
          2.千代ヶ岡陣屋
          3. 弁天台台場
―――――――――――――――――――――――――――――
 この和議の書を受け取った榎本武楊は、新政府が蝦夷地の統治
を認めない限り、恭順の意思はないとして断ったのですが、池田
次郎兵衛の尽力には謝意を示したのです。そして、自分がオラン
ダで入手した『万国海律全書』を薩摩の参謀衆に贈るとして、池
田に託したのです。この『万国海律全書』は海事に関する国際法
と外交に関する書物であり、当時貴重なものだったのです。榎本
としては、どうせ戦争になれば、燃えてしまうので、ぜひ日本海
軍のために生かして欲しいと考えたのです。
 このとき新政府軍参謀の黒田清隆は、これによって榎本が国際
法に精通していることに感銘し、その後、その知見を生かそうと
し、榎本の助命嘆願に奔走することになるのです。
 新政府軍の反応は非常に早かったのです。榎本のところに海軍
参謀衆の名前で酒樽数個が送られてきたのです。榎本と大鳥らの
士官はこの酒を飲み、ここは降伏しかないと考えたのです。
 新政府軍は、津軽陣屋の番所に軍監の田島敬蔵を派遣し、黒田
清隆と榎本武楊の面談を申し入れてきたのです。これについて榎
本は了承し、千代ヶ岡の郊外の民家でその会談は実現します。
 民家には黒田清隆が待っていて、2人は酒を酌み交わしながら
和気あいあいと話し、時折笑い声が聞こえたといいます。黒田と
しては、幕臣として戦いを起こし、ここにいたっても戦いを続け
ようとする榎本に感服していたのです。自分がもし幕臣だったら
同じことをしただろうという思いからです。
 戦いの帰趨は明らかであったのですが、榎本は降伏勧告を拒絶
し、五稜郭にいる傷病者の搬送を申し入れ、了承されたのです。
新政府軍は攻撃を中断し、傷病者はその日のうちに湯の川へ送ら
れ、新政府軍の捕虜である松前、津軽藩兵11名も送り返された
のです。
 5月15日に弁天台場は正式に降伏し、籠城兵は20日に市内
の寺院に移送されることになったのです。榎本は千代ヶ岡陣屋を
守る中島三郎助に五稜郭に入るよう説得したのですが、中島は首
を縦に振らず、最後まで陣屋を死守して玉砕しています。
 新政府軍の千代ヶ岡陣屋に攻撃について、菊地明氏は次のよう
に書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 新政府軍の千代ヶ岡陣屋への攻撃は十六日午前三時より開始さ
 れ、わずか一時間で陣屋は陥落し、『函館戦記』には「この日
 暁、敵大挙千代ヶ岡に殺人す。我が伝習士官隊・渋沢隊・陸軍
 隊等、血戦ついに放らる」とある。中島も中島に従っていた二
 人の実子も戦死し、諸隊士二十数人も最期をともにした。「渋
 沢隊」の在陣が記されていたように、そのなかには小彰義隊の
 飯塚吉太郎・萩原次三郎・長谷川鉢三郎の姿もあった。
    菊地明著『上野彰義隊と箱館戦争史』/新人物往来社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによって、榎本軍の拠点は五稜郭だけになったのです。し
かし、榎本は降伏しようとしなかったのです。榎本を何とか救お
うとした黒田清隆はここでひとつ手を打ったのです。五稜郭に使
者を遣わし、「弾薬や兵糧に不足しているならお届けする」とい
うことを伝えたのです。兵糧ならまだわかりますが、弾薬まで送
るというのは、まさに「敵に塩を送る」行為そのものです。
 どうしても五稜郭を死守するというのなら、正々堂々と戦おう
という意思表示なのです。そのため、食べるものはしっかりと食
べて、十分な弾薬を使って雌雄を決しようではないかという黒田
の好意だったのです。しかし、そのとき五稜郭に籠城する兵士は
約700人、もはや降伏するしかなかったのです。
 慶応2年5月17日、榎本武揚、松平太郎らの榎本政権軍幹部
は、亀田の斥候所に出頭し、陸軍参謀の黒田清隆、海軍参謀の増
田虎之助らと会見したのです。そして、幹部の服罪と引き換えに
兵士たちの寛典を嘆願したのです。
 しかし、黒田清隆はこれを認めなかったのです。なぜかという
と、幹部のみに責任を負わせると榎本を始めとする有能な人材の
助命が困難になるからです。しかし、これ以上の戦闘継続は困難
であった榎本自身が折れ、無条件降伏に同意したのです。そして
榎本は降伏の誓書を亀田八幡宮に奉納して五稜郭へ戻り、夜には
降伏の実行箇条を作成しています。
 慶応2年5月18日の早朝、榎本は全兵士を整列させ、挨拶を
していまいす。ここまで本当にがんばってもらったが、その勤労
に酬いることができなかったことをお詫びするといい、いつの日
か、「青天白日になる日が来る」と訓示したのです。そういうと
榎本は、亀田の屯所に降伏のために改めて出頭し、収監されたの
です。       ─── [明治維新について考える/80]


≪画像および関連情報≫
 ●黒田清隆についての情報
  ―――――――――――――――――――――――――――
  鹿児島生まれ。政治家、元老。父は鹿児島藩士。薩長連合の
  成立に寄与。戊辰戦争では五稜郭の戦いを指揮。敵将榎本武
  揚の助命に奔走。維新後は開拓次官、のちに同長官として北
  海道経営にあたり、札幌農学校の設立、屯田兵制度の導入な
  どを行う。明治9年(1876)特命全権大使として日朝修好
  条規を締結。明治14年の政変により開拓長官を辞任。第1
  次伊藤内閣の農商務相をつとめたのち首相となり、大日本帝
  国憲法の発布式典にかかわった。その後枢密顧問官、枢密院
  議長等を歴任した。        ──近代日本人の肖像
        http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/71.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

黒田清隆.jpg
黒田 清隆
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2011年06月07日

●「大久保利道は何をしていたのか」(EJ第3071号)

 明治2年(1869年)5月18日、榎本武楊が降伏・収監さ
れ、1年5ヵ月にわたる戊辰戦争は終りを遂げたのです。今回の
テーマは、次のタイトルで2011年2月7日(月)から書き始
めたので、戊辰戦争が終って明治新政府の時代に入るこれからが
本番ということになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
   明治維新について考える/明治維新は「革命」なのか
    ── 官僚による政治支配の構造に迫る ──
―――――――――――――――――――――――――――――
 今回のテーマの狙いは上記サブタイトルの「官僚による政治支
配の構造に迫る」にあります。日本政治の背後に横たわる官僚支
配の構造が形成されたのは明治維新であり、それを究明するため
歴史という視点から迫ってみたのです。
 しかし、今回のテーマは、本日で81回です。前回のテーマの
「新視点からの龍馬伝」が85回の連載であり、実際的には今回
テーマと続いているので、166回も歴史ものが続いていること
になります。
 実は多くの読者から、現在の政治状況に関するテーマを取り上
げて欲しいという要望が寄せられているのです。そこで、今回の
テーマは今週中で終了し、6月13日から現在の政治状況につい
て書くことにします。そのタイミングはけっして悪くないと考え
ております。そして、今回のテーマの続編は、その後にさらに資
料を収集して連載することにします。
 大久保利道──実は大久保利道こそ今回のテーマの第2部の主
役なのです。ここまで166回も幕末の出来事を書いてきました
が、大久保利道について書いたのはごくわずかです。これまでの
テーマで「大久保」といえば、旧幕臣の大久保一翁のことです。
まして戊辰戦争ではまったく登場していないのです。いったい彼
は何をしていたのでしょうか。
 大久保利道は、戊辰戦争の終った後の新しい日本のプランニン
グに専念していたのです。そのようにして出来上がったのが官僚
主権国家構想です。彼は壮大なグランドデザインが描ける能力を
持っているのです。この官僚主権制度が明治維新以来140年間
にわたって現在も生き残っているのです。
 これに比べると、現在の菅政権には国のグランドデザインを描
ける人材がいないと思います。だから震災復興が大幅に遅れてい
るのです。西郷隆盛は大久保利道と自分を比べて次のようにいっ
ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もし一軒の家をつくろうとした場合、わたしは造築することに
 おいて大久保よりはるかにすぐれている。しかし、建て終わっ
 たあとに、造作をほどこして室内の装飾を整え、家らしく整備
 するのは、大久保の天稟(天性)であって、わたしなどは雪隠
 (トイレ〉の片隅を修理することすらできないだろう。ところ
 が、この家屋をふたたび破壊することになったならば、大久保
 もわたしに及びはしまい。         ──加来耕三著
            『大久保利道と官僚機構』/講談社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 大久保利道は制度の草案を書くなど理屈が必要なときは、佐賀
藩出身の副島種臣の深い漢学素養を借り、法律を定める必要に迫
られると、副島と同じ佐賀藩出身の江藤新平にたのみ、軍事に関
しては、盟友西郷を使ったのです。そういう意味で大久保の周り
には人材が豊富にいたといえます。
 大久保は大局を見る能力に優れていたのです。そして人材の能
力を見抜く力を持っていたのです。こんな話があります。戊辰戦
争の上野戦争のとき、指揮官が西郷ではなく大村益次郎に代った
のですが、薩摩藩の中ではこれに反対する者も多かったのです。
しかし、大久保は次のように大村を支持したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (上野戦争は)吉之助どんより、大村さのほうがふさわしい
               ──加来耕三著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 なぜ、西郷よりも大村の方がよいかは、上野戦争は局地戦であ
り、大村の方が優れていると判断したのです。西郷のスケールの
大きさは局地戦向きではないと考えたのです。
 確かに大村は大久保の期待に応えて上野戦争に快勝し、東北戦
争では西郷のスケールの大きさが生かされたのです。大久保は軍
事の専門家ではありませんが、司令官を選ぶときなどに実に的確
な人事を行っているのです。
 戊辰戦争についてかなり詳しく書いてきましたが、薩長を中心
とする新政府軍はまさに連戦連勝であり、向うところ敵なしの状
態であったのです。旧幕府軍自体が士気の面で大きく劣っていた
ということもありますが、それにしてもその強さは、半端ではな
かったのです。どうしてこんなに強いのでしょうか。
 これについて加来耕三氏は、次のように興味深い観点からその
ことについて述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「どうして薩摩藩はあんなに強かったのでしょうかね」と質問
 される。筆者は鹿児島県人ではない。答えは歴史的事実、「郷
 中制度」を語るにとどめるのがつねだった。ところがあるとき
 たぶん伊藤肇氏の著書だったと思うが、企業を「麻疹」にたと
 えたくだりを読んだことをかすかに記憶している。つまり、麻
 疹は人間が一度はかからねばならない病気であるが、企業にも
 麻疹のようなものがあって、これをひと通りやった企業は体質
 が強化され強くなれるという論法だ。企業の麻疹に、「赤字」
 「脱税の摘発」「深刻な労働争議」「お家騒動」の四つをあげ
 て説明していたように思う。  ──加来耕三著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
          ─── [明治維新について考える/81]


≪画像および関連情報≫
 ●大久保利道についてのエピソード
  ―――――――――――――――――――――――――――
  金銭には潔白で私財をなすことをせず、必要だが予算のつか
  なかった公共事業に私財を投じ、国の借金を個人で埋めるよ
  うな有様だったため、死後は8000円もの借金が残った。
  ただし、残った借財の返済を遺族に求める債権者はいなかっ
  た。政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費
  として寄付した8000円を回収し、さらに8000円の募
  金を集めてこの1万6000円で遺族を養うことにした。寡
  黙であり、他を圧倒する威厳を持ち、かつ冷静な理論家でも
  あったため、面と向かって大久保に意見できる人間は、少な
  かったと言う。桐野利秋も、大久保に対してまともに話がで
  きなかったので、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しようと
  したが、大久保に一瞥されただけでその気迫に呑まれ、すぐ
  に引き下がったといわれる。また、若い頃から勇猛で鳴らし
  た山本権兵衛さえも大久保の前ではほとんど意見できなかっ
  たという。             ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

大久保利道.jpg
大久保 利道
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2011年06月08日

●「薩摩藩はなぜ強いのか」(EJ第3072号)

 前回ご紹介した加来耕三氏の「人間と同様に麻疹にかかった企
業は強くなる」という説を詳しくご紹介します。薩摩藩が戊辰戦
争でなぜあれほど強かったのかについてのひとつの説明です。そ
のポイントは次の4つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.大きな「赤字」を経験している
      2.脱税の摘発をかわしてきている
      3.深刻な労働争議を経験している
      4.お家騒動を乗り越えていること
                      ──加来耕三著
          『大久保利道と官僚機構』より/講談社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1は「大きな「赤字」を経験している」です。
 薩摩藩(正しくは鹿児島藩)は、もともと赤字体質なのです。
外様大名でありながら、最高石高は90万石であり、幕府は加賀
藩に次ぐ大藩として扱ってきたのです。しかし、薩摩藩の石高は
「籾(もみ)高」であって、実際は約半分程度なのです。
 しかも、徳川幕府の有力藩弱体化政策の下で、薩摩藩は大規模
な御手伝普請を割り当てられ、とくに1753年(宝暦3年)に
命じられた木曽三川改修工事──宝暦治水の多大な出費により、
藩財政は危機に瀕したのです。
 このような藩財政逼迫のときには、島津斉彬のような革新派の
名君があらわれるものなのです。藩の専売制、琉球貿易、借財一
切切り捨て政策など、大変な努力をして赤字を処理したのです。
その結果、他藩に先駆けて貿易立国に目覚め、備蓄を心がけて赤
字を乗り越えているのです。
 第2は「脱税の摘発をかわしてきている」です。
 薩摩藩が財政を立て直した政策のひとつが琉球貿易です。しか
し、これは「抜け荷」といわれ、禁制なのです。幕府から密貿易
の疑いをかけられ、何度も危ない橋をわたっており、すれすれの
ところで切り抜けてきているのです。しかし、少しずつ幕府の力
も弱まってきたこともあり、しだいに幕府検閲から逃れるすべを
マスターするようになったのです。
 第3は「深刻な労働争議を経験している」です。
 島津家は関ヶ原の戦いで西軍についたことによって、領土を縮
小されたのです。しかし、家臣たちを整理できず、特殊な方法で
士分の者を管理するシステムを構築したのです。
 家臣を「上士」と「下士(城下士)」と「郷士」に分け、行政
上別区分にして家臣を統率したのです。上士は家老になれる家柄
で雲の上の存在です。城下士は城下に居住できましたが、郷士は
外城制といって鹿児島城下に集住させず、領内に分散した外城と
呼ばれる拠点に居住させたのです。
 しかし、城下士と郷士は仲が悪く、つねに対立し、いがみ合い
藩としては困り果てていたのです。これは労働争議そのものであ
ると加来氏はいうのです。
 しかし、薩摩藩の場合、このように反目しても、いったん戦争
などが起きると、一致団結してことに当たるという気風があった
のです。そのため維新後も城下士は近衛将校、郷士は警官となっ
てお互いに頑張っているのです。
 第4は「お家騒動を乗り越えていること」です。
 薩摩藩は上記の3つのポイントをすべて克服したうえで、有名
なお家騒動に巻き込まれているのです。激しいお家騒動を勝ち抜
いて藩主になった島津斉彬は、反射炉、溶鉱炉、洋式帆船の製造
やガラス工芸などの集成館事業と呼ばれる殖産事業によって薩摩
藩の発展の基礎を作りつつあったのですが、斉彬の急死によって
頓挫し、守旧派が復権します。
 しかし、斉彬の死後実権を握った島津久光は、幽閉されていた
西郷隆盛を解放し、西郷をリーダーと仰ぐ若手改革派集団を抜擢
して、一応斉彬路線に戻したのです。久光と西郷の仲は必ずしも
うまくいってはいなかったものの、重要な場面では西郷を立てた
のです。薩摩藩はこのようにしてお家騒動を乗り切ったのです。
 以上のような企業の麻疹の4つのポイントをすべてクリアした
薩摩藩は、とくに戊辰戦争など大事なときには一致団結して戦っ
たので、驚くべき強さを発揮して維新の主導権を握ったというの
が加来氏の見解です。
 王政復古のクーデターともいうべき戊辰戦争の重要性を一貫と
して主張し、一歩も引かなかったのが大久保利通です。土壇場で
土佐の山内容堂や後藤象二郎、それに坂本龍馬、こともあろうに
岩倉具視までが、徳川慶喜が辞官納地に応ずれば、議定に任命し
政府に迎え入れてもよいではないかという考え方に傾きつつあり
朝議で武力倒幕を主張するのは大久保だけになったときがあるの
ですが、大久保は断固として一歩も引かなかったのです。
 クラウゼウィッツ──対ナポレオン戦争にプロイセン軍の将校
として参加し、戦略、戦闘、戦術の研究領域において重要な業績
を示した人物──彼は戦いについて次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 戦いは推測の世界であり条件の4分の3までは不確実である
                  ──クラウゼウィッツ
―――――――――――――――――――――――――――――
 大久保利道も戦いが不確実なものであることはよく知っていた
が、ここは引けないと考えて、次善の策を考えていたのです。も
し、敗れれば、天皇を担いで広島へ、それでもダメなら山口へ、
鹿児島へと最悪の事態に備えた考え方を持っており、そのための
手を打っていたのです。驚くべき男です。こういう人材が危機に
瀕している今の日本になぜいないのでしょうか。
 結果として、大戦争に発展した戊辰戦争をやったことによって
新政府づくりは実にすばやく見事に行われたのです。このことに
ついては明日書くことにします。
           ───[明治維新について考える/82]


≪画像および関連情報≫
 ●何をもって石高とするか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  穀物の一種として米穀(べいこく)とも呼び、厚い外皮の籾
  殻を取り去ったものが玄米、玄米の表面を覆う糠層(ぬかそ
  う。主として果皮と糊粉層)を取り去ることを精白(精米、
  搗精)という。糠層も胚芽も取り去った米を白米(精白米、
  精米)といい、糠を除去したものを精米や白米という。収穫
  した稲穂から、種子(穎果)を取り離すことを脱穀(だっこ
  く)という。脱穀によって取り離した種子を籾(籾米)とい
  い、籾の外皮を籾殻(もみがら)という。籾から籾殻を取り
  去ることを籾摺り(もみすり)といい、この籾摺り過程を経
  たものを米という。幕府は島津家の石高が籾高とみとめてい
  たのである。            ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

加来耕三氏の本.jpg
加来 耕三氏の本
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2011年06月09日

●「戊辰戦争とその後の改革の関係」(EJ第3073号)

 明治維新は、世界にも類を見ない、幅の広い、きわめて短期間
で実現された構造改革であるといえます。外国が一番驚き、理解
できないといっているのが、版籍奉還と廃藩置県であり、その実
施の異常な早さなのです。
 版籍奉還というのは、明治2年(1869年)7月25日に日
本の明治政府により行われた中央集権化事業のひとつです。諸大
名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還するというも
のです。発案者は姫路藩主酒井忠邦であるといわれます。それと
藩を廃止し、県に置き換える改革が廃藩置県です。
 これは藩主という権力者が自分の権力を投げ出し、その基盤ま
で解体してしまうことを意味しています。西洋の改革では、権力
者が自分からそういうことをするのはあり得ないことであり、そ
のため、明治維新は理解できないというのです。
 これについて、元参議院議員の小島慶三氏は自著で次のように
述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 フランス人のマーシャルという評論家が書いたものを見ると、
 これはハッピー・デスパッチ(腹切り)であるというふうに理
 解している。それしか理解のしようがない。また『自死の日本
 史』という本を書いているパンゲも同様の考えで、明治一〇年
 の西郷南洲の西南戦争も、別に新政府を滅ぼすとかということ
 ではなく、やほり武士としての儀式であるというふうに見てい
 る。それくらい西洋人には明治維新の改革は理解しにくい点が
 ある(林屋辰三郎『文明開化の研究』)。
             ──小島慶三著/中公新書1316
       『戊辰戦争から西南戦争へ/明治維新を考える』
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は、そのあり得ないことを可能にしたのが戊辰戦争だったの
です。いろいろの要件がありますが、戊辰戦争によって次の3つ
のことが従来の藩体制に大きな影響を与えたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.戦争参加により藩の財政が破綻したこと
    2.君臣主従のイデオロギーが転換したこと
    3.農民が強くなり、従来の身分制度が崩壊
―――――――――――――――――――――――――――――
 明治維新を「無血革命」という表現をする人がいますが、そん
なことはないのです。戊辰戦争という大変大きな戦争をやってい
るからです。諸説がありますが、両軍の戦死者は約1万人、動員
されたのは新政府軍が12万人、旧幕府軍が5万人で、合わせて
17万人です。日清戦争のときの動員数である12万人を上回っ
ているのです。
 藩体制に影響を与えた第1は「戦争参加により藩の財政が破綻
したこと」です。
 藩財政はもともと逼迫しており、それが戦費の支出によって極
度に悪化したのです。それは、朝敵側に回った藩も新政府側の藩
も同様であったのです。それぞれの藩が自立してやっていくこと
が難しくなったのです。
 この藩の極度の財政逼迫が、版籍奉還と廃藩置県をスムーズに
進ませる原因になったのです。その結果、中央集権化が進行し、
有司専制という政治が行われるようになります。
 藩体制に影響を与えた第2は「君臣主従のイデオロギーが転換
したこと」です。
 戊辰戦争ではいわゆる1対1の構造のチャンバラは役に立たず
鉄砲を扱う兵隊が大活躍したのです。刀尊忠剣の考え方に立つ武
士たちは鉄砲を扱う兵を蔑視したのです。しかし、実際の戦闘で
は刀や剣や槍はほとんど役に立たなかったのです。戦死者のほと
んどが砲弾や銃弾による死者であったことからも、それは明らか
なことです。
 戦争では身分の上下があると、どちらが先に行くかというつま
らないことが問題になり、横列展開の近代戦ができないのです。
そこで兵には最下級の身分の者が選ばれ、大活躍したのです。全
員参戦の戦闘様式でなければ、外国に対抗できる軍隊は創設でき
ないということで、後に徴兵制が出てくることになります。
 その結果、従来の君臣主従のイデオロギーが崩れ、封建武士団
の特権が消滅したのです。
 藩体制に影響を与えた第3は「農民が強くなり、従来の身分制
度が崩壊」したことです。
 軍隊には農民が動員され、活躍したことによって農民が力を得
ることになります。その結果、明治10年(1877年)頃まで
は百姓一揆が頻発し、国内は乱れたのです。百姓一揆の数は幕末
よりも明治初期の方がはるかに多かったといわれます。
 このように戊辰戦争は、明治以後の世界に劇的な変化をもたら
したのです。このテーマの第2部に書くことですが、明治維新の
三大改革といわれるものがあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
           1.徴兵制度
           2.地租改正
           3.学制改革
―――――――――――――――――――――――――――――
 「徴兵制度」は軍隊の近代化の必要性から生まれてきたもので
す。「地租改正」は、武士社会の解体に伴い、社会福祉政策とし
ての秩録処分──武士という職業を離れることによる失業手当の
ようなもの──によってその資金が新政府財政の34%を占める
にいたり、財政上の必要性から実施されたのです。「学制改革」
は、天皇を中心とする体制についての思想教育を徹底させる必要
性から生まれた学制の導入を意味しています。
 このように戊辰戦争をやることによって、維新の改革がまるで
雪崩を打つように巻き起こったのです。詳細はテーマの第2部で
ご紹介します。   ─── [明治維新について考える/83]


≪画像および関連情報≫
 ●「藩」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  藩というと幕藩体制というように江戸幕府下の制度と思われ
  がちだが、厳密には江戸幕府下の体制で公式に「藩」という
  呼称はなかった(一部の学者などが書などで使用するのみで
  あった)。ただし、幕末になると大名領を「藩」と俗称する
  ことが多くなった。「藩」という名称は中国史による。明治
  維新後、初めて藩という呼称が公式に使用されたが廃藩置県
  で藩が消失するまでのわずか2年程度の行政区名称である。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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小島 慶三氏の本
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2011年06月10日

●「有司専制政治は今でも続いている」(EJ第3074号)

 既に予告しているように、今回のテーマは本日で終了します。
長い間のご愛読に感謝いたします。既にテーマの第1部で書くべ
きことは、昨日のEJで終っているので、本号は次のテーマとの
つながりについて書くことにします。6月13日から新しいテー
マになりますが、今回のテーマとは密接に関連しているのです。
 もともと「明治維新について考える」をテーマに選んだのは、
昨年の暮れに植草一秀氏の次の著作を読んだからなのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
                       植草一秀著
 『日本の独立/主権者国民と「米・官・業・政・電」利益複
                合体の死闘』/飛鳥新社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この本は、500ページを超える大書ですが、その中で次の一
文を見つけてハッと思ったのです。現在の日本の政治状況を解く
カギがここにあると・・・。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本の官僚機構が備える全体主義的傾向、権威主義的性格は、
 第二次大戦後も払拭されずに現代まで引き継がれている。これ
 らの基本性格が定着した原点が、「明治六年政変」であり、そ
 の延長上に成立した大久保利通「有司専制」政治であると私は
 判断する。歴史に仮定を持ちこんでも意味がないが、明治六年
 政変が異なる方向に転がったのなら、日本の歴史は恐らく異な
 る方向に進んだと考えられるのだ。それほどに、明治六年政変
 の意味は大きかった。     ──植草一秀著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで、「有司専制」とは何でしょうか。
 「有司」とは政府官僚を指している言葉です。具体的にいえば
事務次官クラスの官僚と考えればよいと思います。したがって、
有司専制とは、議員による議会政治によらずに官僚のトップの合
議だけで国家の方針を決めることを意味しているのです。
 この有司専制政治を作り上げたのが大久保利通なのです。その
政治体制が現在まで続いているというわけです。
 一体大久保利通はどういう経緯でそういう政治体制を作るにい
たったのでしょうか。それについては、幕末の歴史をていねいに
調べる必要がある──そう考えて、「明治維新について考える」
のテーマに挑んだのです。振り返ってみると、慶応4年(186
8年/9月7日から明治元年)1月から明治2年5月まで、83
回にわたり、ほとんど月と日を追うように、ていねいに書いたつ
もりです。
 しかし、既に述べているように、大久保利通はごくわずかしか
登場してこないのです。したがって、大久保利通は、戊辰戦争が
終るや否や、電光石火でいろいろな改革を行い、明治維新を成し
遂げているのです。そして明治6年(1873年)に有司専制政
治の基礎を作っています。そして、それを契機に西郷隆盛は政府
を去り、やがて西南戦争の悲劇が起きるのです。
 現在の日本の政治は何かおかしいと思いませんか。せっかく大
変な苦労をして政権交代を成し遂げた民主党は、今やボロボロの
状態です。どうしてこうなってしまったのでしょうか。
 これは民主党の議員が与党政治に慣れていないとか、経験不足
であるとか、やり方がよくないとかという以上の何かがあるとし
か思えないのです。どうしても民主党の進めようとする「国民の
生活が第一」に基づく政策を何としてもやめさせるという圧倒的
な力が働いている──そのように考えられます。
 政権交代の推進力となった小沢一郎元代表は、政権奪取の前か
らいきなり事務所に強制捜査を受け、秘書が逮捕されるという、
ほとんど選挙妨害のような仕打ちを受けます。誰でも事務所の秘
書が逮捕されれば主である小沢代表に問題があると考えます。選
挙直前のことですから、民主党にとって大打撃です。
 そこで小沢氏は代表を辞任し、選挙に専念して2009年の衆
院選に臨み、政権交代が成し遂げられたのです。しかし、政権交
代を成し遂げて幹事長に就任した小沢氏に対して攻撃はさらに続
き、今度は元秘書の石川氏らまでもが逮捕され、小沢氏も事情聴
取を何回も受けたのです。それでも小沢氏自身は不起訴にはなっ
たものの、秘書たちは起訴されています。
 この一連の小沢叩きは、マスコミの執拗きわまりないリークに
よって増幅され、「小沢=悪者」のイメージが完全に定着した感
があります。これによって小沢氏は評判を落とし、結局鳩山前首
相と共に辞任を余儀なくされるにいたったのです。
 そして鳩山氏の後継の菅政権はというと、いきなり消費税増税
を掲げて2010年の参議院選で惨敗し、衆参のねじれを作り上
げ、民主党政権の前途を暗くしています。
 さらに菅政権は、信じられないことに「国民の生活が第一」の
スローガンを下ろし、公約を次々と撤回しつつあります。そして
政権交代の最大の功労者である小沢氏とそのグループに対し、陰
湿きわまる「小沢切り」を行い、党内を混乱させているのです。
そして党勢を立て直そうと代表選に立候補した小沢氏を破った菅
政権は、ますます独裁の度を高めています。実は代表選にもウラ
があるのですが、これは機会を見て述べることにします。
 その小沢氏にとどめをさすように、不可解きわまる検察審査会
による強制起訴が行われるに及んだのです。あまりにも異常な政
治状況であるといえます。
 この国を動かしている者は何か。それは小沢一郎という政治家
を非常に恐れ、警戒しているようにみえます。どうして小沢氏を
恐れるのでしょうか。それには何か理由があるはずです。
 秘書たちを逮捕、起訴され、自らも強制起訴され、それを理由
に菅政権から党員資格停止を受けてもなお、菅政権は小沢氏を警
戒しています。依然として小沢氏を中心とする政治情勢が続いて
いるからです。小沢氏の見据えている敵とは何か。13日から探
っていきます。   ─── [明治維新について考える/84]


≪画像および関連情報≫
 ●愚樵空論/官僚専制国家
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「有司」とはすなわち官僚のことです。学校での歴史の学習
  では、この官僚専制批判が立憲の大きな要因になったように
  思い込まされてしまいますが、実際の所はどうか?明治憲法
  を立案したのは伊藤博文ら「有司」でしたし、その「有司」
  たちが作った憲法は天皇を玉として頂きながらも、実質的に
  は権限を与えない有司専制国家を形作るものだったと言って
  いいかもしれません。帝国議会という国政機関が設けられは
  しましたが、選挙で選ばれる衆議院より貴族院の方が上位に
  あったのは学習したとおりですし、さらには枢密院などいっ
  た機関もありました。
        http://gushou.blog51.fc2.com/?mode=m&no=231
  ―――――――――――――――――――――――――――

植草一秀氏の本.jpg
植草 一秀氏の本
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2011年06月13日

●「国民は民主党に何を期待しているか」(EJ第3075号)

 2011年6月2日──菅直人首相がきわめて曖昧ながら、期
限付きの退陣を表明した日です。その日に首都圏で行われた世論
調査があります。もちろん退陣表明後の調査です。
 この調査結果を見ると、非常に興味深いことがわかります。菅
内閣の支持率は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 『菅直人内閣を支持するか』
     支持する  ・・・・・・・ 37.4%
     支持しない ・・・・・・・ 58.4%
     分からない ・・・・・・・  4.2%
                 ──6月6日付、産経新聞
―――――――――――――――――――――――――――――
 支持率は菅政権にしてはやや高目に出ていますが、相変わらず
不支持率は高い状態のままです。他の世論調査と大きく変わると
ころはないのです。ただ、ひとつだけこの調査では今までの数値
と大きく違うところがあったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 『次の衆院選でどの党に投票?』
  民主党    25.0 %  みんなの党   6.8 %
  自民党    24.6 %  たちあがれ日本 0.8 %
  公明党     3.2 %  新党改革    0.0 %
  共産党     2.0 %  無所属・他   3.0 %
  社民党     1.4 %  棄権する    4.4 %
  国民新党    0.4 %  未定     28.0 %
  新党日本    0.4 %  ──6月6日付、産経新聞
―――――――――――――――――――――――――――――
 この調査は、日曜日午前7時30分からのフジTVの政治番組
「新報道2001」の最後にいつも表示されるのですが、この数
字は6月5日の同番組で公表されています。
 これによると、民主党に投票するという数値がわずかではあり
ますが、自民党を上回っているのです。私の記憶では29日の調
査では民主党は15.0 %であったので、10ポイントも回復し
たことになるのです。
 それだけではないのです。この数値は今年の1月20日の調査
(1月23日公表)で自民党が民主党を逆転して以来、実に18
週ぶりの再逆転なのです。突然のこの逆転は、何を意味している
のでしょうか。
 それは、国民の民主党への期待がまだ少しは残っていたことを
意味しています。しかし、2009年の政権交代以来、とくに菅
政権になってからの政権運営は、あまりにもひどいので、支持率
が下がってきたのです。
 それでも2011年の1月上旬までは、この調査『次の衆院選
でどの党に投票?』の1位は民主党だったのですが、1月20日
に遂に自民党に逆転されてしまったのです。
 しかし、菅首相が曖昧なかたちにせよ、退陣を表明したことで
民主党への期待が少し回復したのです。自党の首相が辞める時期
を口にしたことで、民主党への支持率が回復するのは皮肉なこと
ですが、それでも少しは期待をしたのです。けっして自民党政権
に戻したいと考えているわけではないからです。民主党に一票を
投じた国民は、民主党ならば日本政治の閉塞状態を少しは変えて
くれるのではないかと期待をかけていたのです。
 もっともその退陣時期を表明した菅首相は、その後、時期を明
確にするどころか、続投すら匂わせたので、12日の「新報道2
001」の数値を心配したのですが、民主党の25.0 %は変わ
らず、逆に自民党は23.6 %に減少しています。これは、民主
党への期待が消えていないことを示していると思うのです。
 それでは民主党に投票した国民は民主党に具体的には何を期待
したのでしょうか。
 自民党が「バラマキ4K」と揶揄する民主党の主要政策──子
ども手当、高校無償化、(農家の)戸別補償制度、高速道路無料
化が財源不足で菅政権はその撤回を画策していますが、これは国
民に対するとんでもない裏切りです。
 これらの政策自体は、けっして悪い政策ではないのです。経済
政策としても間違っているとは思えないのです。しかし、その実
現には、恒久的な安定財源が必要です。その財源は事業仕分けを
するぐらいでは出てこないのです。その実現には一にも二にも公
務員制度改革を実現し、予算そのものの基本的な組み替えが必要
になるのです。そのことについて、小沢一郎氏は代表時代に明言
しています。
 しかし、それはきわめて難しい事業なのです。少しオーバーに
いえば命がけでないとできないと思います。強力なリーダーシッ
プを持つ首相の下に党が一丸となって取り組んでも何年もかかる
はずです。
 民主党によるそういう改革が本当に進められると困る向きがた
くさんあるのです。やって欲しくないそういう連合体は、それを
実現させまいと、さまざまな妨害を仕掛けてきます。それは何で
もありです。現在の小沢一郎元代表がまさにそういう目に遭って
いるといえます。
 現在、日本の政治は混迷を極めています。今回の大震災にも政
治はきちんと対応できているとはいえません。根本的に何かが欠
如しています。何がどうなっているのでしょうか。何もかもおか
しいです。一体この国は何者によって支配されているのでしょう
か。明日から、次のテーマでこの問題についていろいろな角度か
ら書いていくつもりです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     この国は何によって支配されているのか
     ─ 日本政治の現況について考える ─
―――――――――――――――――――――――――――――
             ─── [日本の政治の現況/01]


≪画像および関連情報≫
 ●小沢一郎に対する人物破壊が行われている
  ―――――――――――――――――――――――――――
  小沢氏は日本が変わらなければならないことを知っている。
  しかも彼は本気でそれに取り組んでいる。そしてだからこそ
  日本の旧態依然とした体制を変えまいと固執する勢力から見
  れば、そんな小沢氏は脅威なのだという事実を我々ははっき
  りと認識しなけれ ばならない。そのときどきで程度の差こ
  そあれ、小沢氏に対する「人物破壊」の試みが、1993年
  当時から現在にいたるまでずっと続いてきたのはなぜか?そ
  れは彼が実際になにをしたかどんな過ちをおかしたかなどと
  いうこととはまったく関係がない。彼という存在が体制側に
  とって最大の脅威であることそれこそが理由なのである。
       ──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/井上実訳
         『誰が小沢一郎を殺すのか?』/角川書店刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

ウォルフレン氏の本.jpg
ウォルフレン氏の本
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2011年06月14日

●「官僚システムと政治家の関係」(EJ第3076号)

 「戦後レジームからの脱却」を掲げてスタートした自民党の安
倍政権ですが、期待を裏切り、一年もたずに政権を投げ出してい
ます。安倍政権は教育改革をはじめとするさまざまな改革をやろ
うとして発足したのですが、まったく何もできなかったのです。
 これについて、経済産業省大臣官房付の古賀茂明氏は、戦後レ
ジームの中核が官僚システムそのものであることを指摘したうえ
で、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 大きな改革を行えば、必ず現行のシステムに寄生した既得権グ
 ループが被害を受ける。業界も族議員も、そしてそれと一体と
 なった官僚も被害者になる。さらに、既得権グループが本気で
 抵抗してくるときに、抵抗のための理論的支柱を提供し、世論
 対策や国会対策等すべての面で高度な戦略を立て、事実上の司
 令部となるのが霞が関の官僚システムである、ということに改
 めて気づいたのではないか。大きな改革を成し遂げるには、な
 によりも抵抗勢力の中心的存在である官僚システムを変えなけ
 れば、結局、改革は絵に描いた餅に終わる。 ──古賀茂明著
               『日本中枢の崩壊』/講談社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 現在、日本の天皇は憲法上象徴天皇になっています。これは、
日本が太平洋戦争に負けたことによる、やむを得ざる政治体制と
考える人も多いですが、天皇が象徴天皇であった時代はかなり長
いのです。ちなみに江戸時代は、徳川家が政治を握っており、天
皇は象徴的存在であったといえます。
 しかし、明治維新は「王政復古」と呼ばれるように、天皇が中
心になって政治を執り行う「太政官制」と呼ばれる朝廷の伝統的
な政治体制が採用されたのです。
 この太政官こそ天皇を支える官僚であり、太政官制が現在の官
僚制度そのものなのです。つまり、当時の官僚は権力の中枢にい
て支配者の一翼を担っていたのです。そして最後は天皇の裁可を
仰ぐものの、実際に政治を行っていたのは官僚たちであったとい
えます。政党政治による政治家が登場するのは、明治14年(1
881年)になってからです。したがって、「官僚=公僕」とよ
くいわれますが、明治維新では官僚は天皇を支えるのが職務であ
り、体制側、すなわち権力側の存在であったのです。
 しかし、戦後になってGHQは天皇は象徴天皇にしたものの、
戦前の官僚機構はそのまま残したのです。これによって官僚たち
はそのまま権力側に居座ったのです。もちろん政治家はいるので
すが、長年にわたる情報の蓄積と経験、それに磐石な組織力を持
つ官僚には逆らえない構造がそこにはあるのです。
 この明治初期の日本の政治機構について、アムステルダム大学
教授であり、ジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレン氏
は次のようにいっています。ウォルフレン氏は2011年3月に
『誰が小沢一郎を殺すのか?』という書籍を上梓し、話題を呼ん
でいるオランダ人ジャーナリストです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 明治政府が発足すると、体制づくりにたずさわったこうした少
 数の権力者たちはおもな政治・経済機構のリーダーになった。
 彼らは省庁を率い、その発展に寄与した。あるいは枢密院とい
 う、明治憲法体制下での国政に関する天皇の最高諮問機関を創
 設した。初期の経済機構を率いた者もいた。要するに、彼ら自
 身が封建体制の大名に代わる、新しい日本の統治者となったわ
 けである。ただし明治維新後に治めたのは藩ではなく、それぞ
 れの管轄領域に分かれた官僚機構であり、その頂点に君臨した
 のが彼らだった。ただし自分が獲得した特権を政敵に奪われる
 ことのないよう、熱心に守りを固めたという点で、彼らは封建
 領主となんら変わらなかった。そんな彼らはもちろんのこと、
 選挙によって継承者が決定されるような民主主義へと日本が向
 かうのを、決して許そうとはしなかった。
       ──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/井上実訳
         『誰が小沢一郎を殺すのか?』/角川書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 こういう官僚システムが一応できた頃に、有司専制の批判から
板垣退助や後藤象二郎らによって「民選議院設立建白書」が提出
され、自由民権運動がはじまるのです。この建白書は、政府に対
して最初に民選の議会開設を要望した文書です。
 それは、政治権力が天皇にも人民にもなく、ただ官僚にあるの
を批判した文書であり、有司専制の批判なのです。これを解決す
るには、「天下ノ公議」を張ることにあり、「天下ノ公議」を張
るとは「民選議院」を設立することであるとしているのです。こ
れによって、有司専制を押えようとしたのです。
 木戸孝允はあくまで国民の意思に責任を持つ立憲政体が必要で
あるとは感じていたのですが、それが根付くには相当の時間がか
かると考えていたのです。
 これに対して大久保利通や伊藤博文らは、最初のうちは日本で
は欧米の議会制度は適さないと考えていたものの、西欧諸国の視
察を重ねるなかで、政党政治なくして日本は西欧諸国に追いつく
ことはできないことがわかってきたのです。
 ところで日本では、「党」というと児玉党や村上党などという
ように武士団を意味する用語であったのですが、幕末には「土佐
勤王党」などのように公論を主張した党派が誕生し、自由民権運
動の高まりによって、議会政治における政党システムに着目する
人が多くなっていったのです。
 このようにして登場した政治家は、国家の中枢を担う大久保利
通や伊藤博文ら官僚(有司)にとって、体制側を脅かす危険な存
在としてとらえられていたのです。したがって、その力をセーブ
するために官僚システムを強化しようとしたのです。この考え方
によって、とくに力のある改革政治家は危険な存在としてとらえ
らるようになったのです。 ─── [日本の政治の現況/02]


≪画像および関連情報≫
 ●自由党と立憲改進党の設立
  ―――――――――――――――――――――――――――
  勃興する自由民権運動に対して、明治14年(1881年)
  明治天皇の御名で「国会開設の勅諭」が下り、明治政府は、
  明治22年(1899年)に議会を開設することを国民に約
  束した。これにともない、明治14年自由党が板垣退助を中
  心として、翌明治15年(1882年)立憲改進党が大隈重
  信らによって結成される。また、福地源一郎ら親政府の要人
  による立憲帝政党も結党された。だが、政府は「超然主義」
  の方針を打ち出す一方、自由民権運動の弾圧強化に乗り出し
  た。このため、自由党は一時解散に追い込まれ、立憲改進党
  は分裂状態となり、立憲帝政党も政府から見捨てられる形で
  自然消滅を余儀なくされた。     ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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古賀茂明氏の本
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2011年06月15日

●「カレル・ウォルフレンとは何者か」(EJ第3077号)

 『誰が小沢一郎を殺すのか?』の著者、カレル・ヴァン・ウォ
ルフレン氏の考え方を中心にしばらく述べることにします。
 ウォルフレン氏といえば1994年にも次の本を上梓し、33
万部のベストセラーを記録しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   カレル・ヴァン・ウォルフレン著/新潮OH!文庫
      『人間を幸福にしない日本というシステム』
―――――――――――――――――――――――――――――
 驚くべきことにウォルフレン氏は、この本で小沢一郎氏の政治
家としての能力を高く評価し、その時点で、いずれ官僚側の抵抗
により、その手先である検察によって狙われるであろうと予言し
ているのです。そして、「日本のアドミニスレーターズ」として
中央官僚──とくに財務官僚、経団連、大銀行などの大企業・団
体複合体の存在を上げているのです。
 表向きは議員内閣制による政治家はいるものの、実際に国を動
かしているのは官僚であるということを証拠を多数上げて説明し
ています。官僚は「説明責任」(アカウンタビリティ)がないた
めに「非公式な権力」であるが、権力であることに変わりはない
としています。ちなみに、「説明責任」という言葉は、この本か
ら広く使われることになるのです。
 参考までに、この本についてのレビューをひとつご紹介してお
きます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 本書は極めて鋭い視点から理論的に日本の社会を斬っている。
 誰もが薄々と感じながらも具体的には把握できない日本の社会
 における「シカタガナイ」ことがおきる原因を指摘。著者は、
 オランダ人であるが故に西欧中心主義者のレッテルを貼られ、
 「外人の戯言」と一蹴されることもあるようだが、外国人であ
 ることを忘れて読めば、あまりに的を得た説明に驚かれるだろ
 う。自分の国、価値観、文化をかなり刺激する文章に抵抗感を
 感じるかもしれないが、冷静に読み解いていくと、なるほど、
 「シカタガナイ」と諦めることがいかに空虚で愚かなことなの
 か気づいてくる。読み終えたところで無力感に襲われるか、希
 望に満ち溢れるかは本人次第だが、本書は確実に日本をより良
 くするためのヒントを与えてくれるだろう。  ──CyberPunk
―――――――――――――――――――――――――――――
 ウォルフレン氏が『人間を幸福にしない日本というシステム』
を上梓した1994年といえば、その1年前に小沢氏が自民党を
離党して新生党を結成し、細川護煕氏を首相として非自民連立政
権を樹立しているのです。また、1993年5月に小沢氏は自身
政治ビジョンを示す『日本改造計画』(講談社刊)を上梓してお
り、自らの政治の道筋を明らかにしています。
 ウォルフレン氏は1993年の政変を日本の政治の歴史におけ
る一大変化としてとらえ、それを成し遂げた小沢一郎氏を希有の
政治家として評価しているのです。ウォルフレン氏は近著では、
そのときのことを次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 後でふり返ってみたとき、一九九三年の政治変動こそは連綿と
 受け継がれてきた日本の政治システムの仕組みに大きな風穴を
 開けた、歴史的な事件であったことがわかる。その結果、人々
 は日本の政治を新しい視点でとらえるようになった。つまり、
 小沢氏らの行動は、単に政党政治というシステムの構造を変え
 るにとどまらず、日本の一般の人々の政治に関する考え方まで
 も一変させてしまったのである。このときから、自国の将来を
 心配する心ある日本人たちは、日本の政治システムを変えるべ
 きだと考えるようになった。
       ──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/井上実訳
         『誰が小沢一郎を殺すのか?』/角川書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 さらにウォルフレン氏はかなり前から日本の首相は公式に認め
らけれているはずの権力を実際に有していないのではないかと考
えており、ウォルフレン氏のもう一冊の本では、次のことを主張
しているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本の権力システムには政治責任の所在としての中枢が欠如
 している。──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/篠原勝訳
            『日本/権力構造の謎』/早川書房
―――――――――――――――――――――――――――――
 前述したようにウォルフレン氏についていちばん驚くべきこと
は、何といっても1994年の時点で小沢氏がやがて検察に狙わ
れるようになることを指摘していることです。なぜなら、この時
点では小沢氏は剛腕ということは知れわたっていたものの、いわ
ゆる疑惑らしいものは何もなかったからです。
 ただ、小沢氏が田中角栄や金丸信という特捜部によって起訴さ
れた政治家の弟子であるということから、連想的に「きっと悪い
やつだろう」という憶測があったことは確かです。しかし、その
時点で彼は何もしていないし、何の疑惑も存在しないのです。
 これについては改めて述べるが、ウォルフレン氏は日本政治の
特殊性を実に的確に把握していて、小沢氏の政治行動がさらに強
化されると、中央官僚──とくに財務官僚、経団連、大銀行など
の大企業・団体複合体にとって都合の悪いことが起きるので、そ
の手先ともいうべき検察によって何らかの阻止行動が起きること
を予測したものと思われるのです。
 ウォルフレン氏の指摘、いや予言は見事に的中し、現在小沢氏
は二重三重にがんじがらめの状態にあります。しかし、それでい
て小沢氏は、6月はじめの自民党提出の不信任案賛成のための一
種のクーデターを成就させる寸前まで持って行っているのです。
本当に成立する可能性があったからこそ、菅首相は退陣表明をせ
ざるを得なかったのです。 ─── [日本の政治の現況/03]


≪画像および関連情報≫
 ●『日本/権力構造の謎』/早川書房のレビューより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  日本にいるとその中からは見えない「日本の“権力”が力を
  持つ構造」を、じつに明快にえぐり出してくれています。こ
  の本を読んで改めて「ほりえもん問題とは何だったのか?」
  「小沢対検察のせめぎ合い」といった現象を考え直すと、著
  者の指摘する日本の権力構造とは何か、また欧米との違いは
  といったことがあぶり出されてきます。さらには、今の民主
  党政権のアキレス腱は、この権力構造へのチャレンジとなっ
  ているにもかかわらず、有効な戦略を打ち出せないでいると
  ころにあることも見えてきます。      Bytsukihoshi
  ―――――――――――――――――――――――――――

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏.jpg
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏
posted by 平野 浩 at 04:09| Comment(1) | TrackBack(0) | 日本の政治の現況 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月16日

●「小沢一郎への人物破壊の異常さ」(EJ第3078号)

 2011年6月11日(土)の朝日新聞の「声」の冒頭に掲載
された意見です。
―――――――――――――――――――――――――――――
           農業 奥住高正(東京都日野市 60)
 今回の菅内閣不信任案を民主党内のごたごた・茶番劇などと評
 する向きがある。が、すべては小沢一郎元代表の政治家うんぬ
 ん以前の性向から起きていることではないか。なぜ彼のような
 政治家が日本に存在し得るのか。常々闇に隠れて配下の者にこ
 とを図らせ、人心を操る。(中略)菅直人首相が任期中になす
 べき最大の職務は、この元代表を民主党からたたき出すことだ
 と私は思う。野党と組んで政権を倒す構えを見せたことは許さ
 れざる反党行為である。執行部が直ちに元代表を除名しなけれ
 ば党としての体をなさず、民主党に未来はないと考える。
           ──2011年6月11日付/朝日新聞
―――――――――――――――――――――――――――――
 これが現在世間の多くの人が考えている小沢一郎という政治家
の評価であろうと思います。まるで「悪」を代表する政治家のよ
うです。明らかに新聞、テレビ、週刊誌などのメディアの伝える
小沢一郎像をストレートにそのまま取り入れています。
 私は小沢ファンでも支持者でもないのですが、あまり、小沢一
郎氏の評価がひどいことと、異常なほど何年にもわたって執拗に
続けられているので、小沢一郎について書かれた本や雑誌──好
意的に書かれたものも、そうでないものも含めてすべて丁寧に読
み、ネットなどからの資料も可能な限り集めて分析してみると、
事実とはかなり異なることが分かったのです。
 そこで、その資料を基にして2010年1月4日から4月14
日のウィークデイの毎日、71回にわたって「小沢一郎論」を書
いたところ大きな反響がありました。この連載はブログに掲載し
ておりますので、興味があればご覧ください。
―――――――――――――――――――――――――――――
 『小沢一郎論』/2010年1月4日〜4月14日
http://electronic-journal.seesaa.net/category/7466989-1.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 人物破壊──character assassination という言葉があるそう
です。ウォルフレン氏によると、標的とする人物を実際に殺さな
いまでも、その世間での評判や人物像を破壊しようとする行為の
ことです。小沢一郎氏や植草一秀氏などは、明らかにこの人物破
壊を受けていると思います。
 世界に目を転じてみると、そのような人物破壊は数多くあると
ウォルフレン氏はいいます。例を上げると、米国政府によるベネ
ズエラ大統領のチャベス氏への人物破壊、最近では「ウィキリー
クス」の創始者、ジュリアン・アサンジ氏に対する人物破壊キャ
ンペーンなどがあります。
 しかし、ウォルフレン氏は、こと小沢氏の人物破壊については
いささか常軌を逸しており、異常ですらあるとして次のように述
べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 だが小沢氏の人物破壊キャンペーンに関するかぎり、これは世
 界のあらゆる国々の政治世界でも目にすることはない、きわめ
 て異質なものだと結論せざるを得ない。その理由は、断続的な
 がら、このキャンペーンが実に長期にわたって続けられている
 ことだ。世界のどこを見回しても、ひとりの人間の世評を貶め
 ようとするキャンペーンが、これほど長期にわたって延々と繰
 り広げられてきた例はほかにない。しかも、再燃するたびごと
 に、それは強化されている。
       ──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/井上実訳
         『誰が小沢一郎を殺すのか?』/角川書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 小沢氏への人物破壊は、小沢氏が自民党を離党して新生党を結
成し、非自民連立政権を樹立した1993年から連綿として続け
られ、代表として率いる2009年にはそれが頂点に達したとい
えます。そして現在でも執拗に続けられています。
 なぜ、2009年が強化されたのかというと、小沢氏が代表を
務める民主党が衆院選で勝利するのはほとんど間違いがないとみ
られていたからです。もし、小沢代表のまま2009年の衆院選
に突入していたら、小沢首相が実現していたのです。しかし、そ
れだけは何としても避けたいと考えるある勢力が、あろうことか
証拠も明確でないまま、小沢氏の第一秘書を逮捕したのです。そ
してやっと小沢氏を代表から引きずり下ろしたのです。
 ウォルフレン氏は、日本の最有力紙の論説執筆者が、まるで個
人的な恨みでもあるかのように小沢氏を批判するのをみて、首を
傾げています。政治評論家のほとんどや雑誌の編集者、テレビの
コメンテーターなどにも小沢氏を誹謗する人が多いのです。
 なかには次のような本まで書く人もあらわれるなど、明らかに
異常そのものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
              西部邁著/飛鳥新社刊
     『小沢一郎は背広を着たゴロツキである』
―――――――――――――――――――――――――――――
 全編小沢氏のことを書くほどの情報もなく、それ以外の政治家
も取り上げているのですが、それにしてもこのタイトルで本にす
る神経には疑問を感じます。本人に対してあまりに失礼であるし
いささか品がなさ過ぎると思います。
 これほどの人物破壊を受けても小沢氏は依然として健在のよう
です。新聞は「小沢氏の影響力に陰り」とか「小沢氏の求心力は
低下」と連日書きまくっていますが、不信任案採決のときに70
人を超える同調者を集めたのです。この数には鳩山グループが含
まれていないことを考えると、影響力はまったく低下していない
ようです。        ─── [日本の政治の現況/04]


≪画像および関連情報≫
 ●文藝評論家/山崎行太郎氏によるゴロツキ本の批評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  西部邁といえば「大衆批判」とか「衆愚批判」等でお馴染み
  だが、七十二歳にもなった今でも馬鹿のひとつ覚えのように
  政治家や選挙民を捕まえて「大衆」だ、「衆愚」だ、「民主
  主義が政治家を真底まで腐らせた」と喚いているが、僕には
  むしろ、西部邁こそ衆愚の代表のように見えるし、西部邁の
  ような「評論家業者」に関して、「民主主義が評論家業者を
  真底から腐らせた」と思わないわけにはいかない。─中略─
  要するに、西部邁は、小沢一郎やその他の政治家達を論じ、
  罵倒するのに、完璧に情報不足であり、情報難民であること
  がわかる。つまりテレビや新聞のマスコミ報道しか情報源は
  ないらしいことが分かる。
  http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20100725/1280067487
  ―――――――――――――――――――――――――――

西部邁氏と本.jpg
西部 邁氏と本
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2011年06月17日

●「米英で出版された小沢一郎伝記本」(EJ第3079号)

 日系米人ジャーナリスト、岡孝氏による初めての英語での小沢
一郎民主党元代表の伝記が米英両国でこのほど出版されたという
記事が6月14日の産経新聞(ワシントン/古森義久記者)が伝
えています。すべての新聞をチェックしていないので、正しくは
わかりませんが、おそら産経新聞だけだったと思います。少なく
とも小沢一郎氏の問題点だけを針小棒大に書く朝日新聞には載っ
ておりません。
 最近アイフォーンで産経新聞を読むようになって、この新聞に
ついて少し私自身の評価が変わりました。現在では、アイフォー
ンで記事を読んで、残しておきたい記事があるときは会社に行く
途中のコンビニで産経新聞を買うようにしていますが、このとこ
ろ、毎日のように買うようになりました。
 産経新聞は小沢一郎氏をコテンパンに書く新聞社として有名で
すが、小沢氏をプラス評価する記事もちゃんと掲載するのです。
当然のことですが、新聞社としてフェアです。
 さて、米英で発刊された小沢一郎氏の伝記本の正式書名は次の
通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
              岡孝著者/ラウトレッジ社
    『日本の政策企業家と選挙=小沢一郎政治伝記』
―――――――――――――――――――――――――――――
 著者はクリスチャン・サイエンスモニターなど米大手紙の記者
として長年、活躍した日系米人の岡孝氏で、英オックスフォード
大学に出した博士論文を基礎としています。岡氏は1990年代
から小沢一郎氏の国際問題顧問をも務めており、直接の交流も深
いといいます。
 同書は小沢氏が検察審査会の議決で強制起訴されて、刑事被告
人となった経緯を説明しながらも、なお同氏が今後の裁判で無罪
を獲得し、今度こそは首相になるという可能性にも言及している
といわれます。
 「来栖宥子★午後のアダージョ」というブログの来栖宥子氏は
この本の出版について、次のように論評しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 賛否を超えて、小沢一郎氏という人物は長年にわたって、日本
 国内は無論のこと、世界に余程気になる存在であることに間違
 いない。首相であるのに顔すらも記憶されない菅氏とはえらい
 違いだ。今後の裁判で無罪を獲得し、今度こそは首相になると
 いう可能性も記している。胸が熱くなった。首相というポスト
 の成否はどうでもよい。小沢氏は政策の人であり、総理という
 椅子を望んでいないから(これも菅氏とは大違い)。無罪を獲
 得して戴きたいのだ。裁判所が正義の砦であってほしいのだ。
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/5ed3d376144bfdb679646c1cff7eb90e
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように世界でも注目されている小沢一郎という政治家に対
して、日本社会は、なぜ、異常なほど激しい人物破壊を続けなけ
れば、ならないのでしょうか。
 とくに理解できないのは、現在の民主党執行部の「脱小沢」い
や「殺小沢」の方針──醜いの一言に尽きます。とうてい理解で
きるものではありません。政権交代できたのは誰のおかげなの
でしょうか。そのことに少しは恩を感じないのでしょうか。政治
家というよりも人の道に反しています。
 さて、カレル・ウォルフレン氏は、このような小沢氏への人物
破壊がなぜ起きるかについて、日本の歴史──とくに近代史から
解こうとしています。彼は、明治維新後の日本という国家を非常
に的確にとらえており、そこから割り出して、小沢氏のような本
格的な改革派の政治家には、現在彼に対して行われているような
人物破壊が起きることを以前から予測していたのです。
 江戸時代──徳川幕府統治下の日本は、かたちのうえでは統一
国家ではあったのですが、その実態は徳川家を中心とする軍事独
裁体制であったといえます。全国の藩を強権をもって政治的にま
とめ、軍事的な脅しや人質をとることによって、国全体の秩序を
維持しようとしていたのです。
 しかし、幕府の権力が弱くなると、そういう体制の維持ができ
なくなるのは当然のことです。明治維新によって新しい時代を迎
えたとき、国を統一するには何が必要かを考えたのです。そして
何らかのイデオロギーが必要であることに気がつくのです。警察
権力をいかに強化しても無理であると考えたからです。
 そのイデオロギーについて、ウォルフレン氏は次のように述べ
ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 明治政府がみずからの権力保持のために行なったことは、彼ら
 にとって大いに役立ったばかりでなく、日本の生活と政治の大
 部分を今日にいたるまで決定づけている。彼らは完壁な体制と
 いう観念を以前にもまして明確に打ちだした。信じられないほ
 ど巧妙なイデオロギーをつくったのだ。このイデオロギーは、
 「調和」と「独自性」という概念にもとづいている。徳川幕府
 の権力構造を正当化するための理論からヒントを得ているもの
 の、その大部分は明治時代の政治家の頭脳の産物だ。これが、
 「国体」として知られるようになったイデオロギーである。
      ──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/鈴木主税訳
   『人間を幸福にしない日本というシステム』/OH!文庫
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本という国は調和がとれている──明治の支配者はイデオロ
ギーとして国民にそれを信じ込ませようとし、日本人の多くはそ
う信じているとウォルフレン氏はいいます。それは、聖徳太子の
十七条憲法における「和」の精神から来ているのです。しかし、
ウォルフレン氏はそれによって日本人は聖徳太子の時代から明治
時代まで政治的に抑圧されてきており、人々は調和を装うしかな
かったというのです。   ─── [日本の政治の現況/05]


≪画像および関連情報≫
 ●「古村治彦の酔生夢死日記」より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  小沢一郎代議士の英語で書かれた伝記が出版されたというこ
  とが産経新聞に記事として掲載されました。これは、小沢氏
  の国際問題顧問をしている岡孝(おか・たかし)氏(日系ア
  メリカ人)がオックスフォード大学に提出した博士論文を基
  にしているそうです。調べてみると、岡氏は2008年に博
  士号を取得しているそうです。小沢氏の伝記を書いただけで
  博士号が授与されるようなことはないでしょう。ここからは
  予測ですが、理論的な部分を除いて、実証の部分で書いた小
  沢氏の個人的な歴史と政治の歴史の部分を本にしたのではな
  いかと思います。政治学では、個人の分析をする研究をファ
  ースト・イメージと言います。今回の小沢氏についての岡氏
  の研究はこれに分類されます。そして中身は、典型的な日本
  の政治家である小沢氏が、どうして「改革者」としてこれま
  での日本政治では提起されなかった政策を提案してきたのか
  という問題提起をし、それを心理学や社会学、国際関係論的
  な手法を使って分析した内容ではないかと推察します。
    http://suinikki.exblog.jp/tags/%E5%B2%A1%E5%AD%9D/
  ―――――――――――――――――――――――――――

「人間を幸福にしない日本というシステム」.jpg
「人間を幸福にしない日本というシステム」
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2011年06月20日

●「明治以後日本を支配している思想」(EJ第3080号)

 日本の政治体制は明らかに異常であるといえます。その真の原
因を突き止めるには、明治維新以降の歴史を辿ってみる必要があ
ります。カレル・ウォルフレン氏の著書などを参考にして整理し
て行くことにします。
 徳川幕府はなぜ260年も続いたのでしょうか。それは支配者
にとっては、いわゆる幕藩体制が非の打ちどころがないほど完璧
な社会体制であったからです。また、その社会に住む多くの人た
ちもそれを当然のものとして受け入れたのです。
 徳川幕府が多くの人たちにその社会体制が最善のものであると
信じさせるためにはひとつの条件が必要であったのです。それは
「人々が自分たちの生活には多くの改善の余地がある」ことを分
からせないようにすることです。それは独裁体制国家が常套手段
してよく使う手法そのものです。
 それは、人々を外国人から遠ざけることです。その手段として
鎖国体制をひき、海外渡航を禁じ、違反者を処刑して口を塞いだ
のです。要するに、外国の情報を遮断して入れないようにするこ
とですが、これはほぼ完璧に実施されています。
 もうひとつ徳川幕府の為政者は、藩同士や家同士はもちろんの
こと、個人同士であっても深刻な対立を防止するため、「喧嘩両
成敗」という巧妙な方法を考え出したのです。それは、次のよう
な理屈に基づいています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 喧嘩においては片方が正しいという事はあり得ず、双方とも
 に非がある。            ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 この喧嘩両成敗の考え方は、江戸時代までは慣例法として継続
され、その後も日本人の精神観としては現在まで脈々と受け継が
れてきています。
 しかし、これは本来おかしなロジックなのです。「双方それぞ
れにどんな非があったかを吟味せずに同罪として処断する」とい
うやり方はかなり乱暴な考え方です。西欧ではとても考えられな
いことなのですが、一応理屈は通っているので、日本人の心に深
く浸透していったのです。
 さて、戊辰戦争が終結し、日本を統一した明治政府の為政者が
日本全体をまとめ、政治体制を維持するために必要としたものは
巧妙なイデオロギーであったのです。
 なぜなら、自らが否定した徳川幕府の政治体制を再現すること
はできないからであり、それに既に開国されており、世界からの
情報流入は止めようがないからです。さらに日本が西欧諸国に伍
していくために、議会制度を導入しなければならないので、それ
に伴い政治家が誕生し、新聞などのメディアの登場も、不可避に
なっていたのです。
 それらをすべて前提としたうえで、全国民をひとつのイデオロ
ギーで縛ろうというのです。ウォルフレン氏によると、そのイデ
オロギーを支える考え方のキーワードは次の2つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
            1.調 和
            2.独自性
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1のキーワード「調和」について、ウォルフレン氏は、日本
では、誰かが誤って足を踏んだら、踏んだ人と踏まれた人の両方
がお互いに謝るということを例えとして上げています。確かにそ
ういうことはあると思います。
 電車のシートに座っていて、足を少し前に伸ばしていたとき誰
かから足を踏まれたとします。そういうとき、足を踏んだ方は当
然謝るし、踏まれた方も自分がそういう場所に足を置いていたこ
とを反省し謝らないまでも寛容の態度をとる──そういうことは
ある一定の年齢を超えている人同士ではあると思います。
 これは「調和」の精神であり、江戸時代まで慣例法になってい
た喧嘩両成敗の考え方に基づいています。つまり、深刻な対立の
表面化を最小限に抑える慣例なのです。しかし、こういうことを
続けていると、当然欲求不満が累積してきます。それを日本人は
「仕方がない」という言葉に押し込めてしまう──ウォルフレン
氏はそのようにいっています。
 第2のキーワードの「独自性」とは、日本人は他の民族と違い
特殊な存在であり、単一民族で同質性があるので、日本人同士な
ら、多くの言葉を使わなくても以心伝心で伝わるというきわめて
日本的な考え方を意味しています。
 この2つのキーワードを極めて巧妙に織り込んでできたイデオ
ロギーが「国体思想」なのです。この国体思想についてウォルフ
レン氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 国体思想の基盤は日本は一つの巨大な家族になぞらえうるほど
 特別に恵まれた国だという幻想である。つまり、すべての日本
 人がこの家族の一員であり、家族国家の中心である慈悲深い天
 皇のおかげで、全員が大いに恩恵を受けているというわけだ。
 国体思想が確立されたあと、明治政府は明けても暮れてもこの
 思想を人びとに吹きこんだが、こんな国家体制をもつ国は日本
 だけだった。─カレル・ヴァン・ウォルフレン著/鈴木主税訳
   『人間を幸福にしない日本というシステム』/OH!文庫
―――――――――――――――――――――――――――――
 考えてみると、この国体思想があったため、日本はあの不毛の
戦争に突き進んだのです。この思想は、1945年の日本の敗戦
によって公式には放棄されています。
 しかし、国体思想の多くは生き残っています。日本人の国民的
記憶のなかに残っているのです。そしてそれを支える官僚体制は
ますます強固になって残っています。こういうものが異常な「小
沢外し」につながってくることになるのです。
             ─── [日本の政治の現況/06]


≪画像および関連情報≫
 ●「国体」とは何か/政治評論家・山本峯章氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  国体は、その国特有の国のかたちである。神話や歴史、伝統
  的価値観、民族文化などの背骨をもち、多くの場合、王政・
  君主制をともなっている。国体に対応するのが、国土の保持
  や治世、外交などをうけもつ政体である。政体(権力)は、国
  体(権威)の認証を得て初めて、権力としての正当性を発揮で
  きるのである。国体と政体の両方をそなえた先進国家は、日
  本のほかには、イギリスなどヨーロッパの王政国家があるだ
  けで、立憲君主国家は、国連に加盟している一九二の国のな
  かで、二十数国にすぎない。フランスやロシア、中国などは
  みずから歴史の連続性を断ち、アメリカは、歴史そのものを
  もたない。その他、多くの国々も戦争や植民地化などによっ
  て、国体を放棄しており、世界の大半は、民主主義を掲げた
  政体国家である。
http://www.kunidukuri-hitodukuri.jp/web/kikou/kikou_28.html
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●図の出典「国体とは、こんな感じ」
  http://www.tanken.com/kokutai.html

国体とは、こんな感じ.jpg
国体とは、こんな感じ
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2011年06月21日

●「調和イデオロギーが対立を押え込む」(EJ第3081号)

 日本は調和のとれた国である──ウォルフレン氏はこれについ
て、ナンセンスであるといい切り、日本は調和どころか並はずれ
て不調和の国であるといっています。そして、調和のイデオロギ
ーは日本にとって有害であるとまでいうのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 調和のイデオロギーが日本にとって有害なのは、それが嘘のか
 たまりだからだけでなく、日本社会における対立の正当な役割
 までも否定するからだ。私たちには対立が必要だ。この言い方
 に驚くとすれば、それは調和の達成を倫理的に必要なものと思
 わされている証拠だろう。すぐには信じられないかもしれない
 が、対立がなければ社会にしっかりした秩序をもたらすことは
 できない。──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/鈴木主税訳
   『人間を幸福にしない日本というシステム』/OH!文庫
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本人に植えつけられた「調和」のイデオロギーの問題点は、
対立を押え込んでしまうことにあります。権力に逆らっても勝て
るはずがないし、「仕方がない」とあきらめてしまうのです。こ
のように調和の精神は対立することを押え込むのです。これは権
力者に対して抵抗しないということにつながります。
 徳川幕府の時代においては、外国からの情報を遮断しただけで
なく、多くの人々がいろいろな物事を知ることを制限していたの
です。徳川の独裁政権を維持するためには、人々を無知の状態に
置いておくことが望ましかったからです。そのため、生まれたの
が次の言葉です。
―――――――――――――――――――――――――――――
      民は知らしむべからず、依らしむべし
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、明治維新になると、国民各層に広く教育を徹底させな
ければならなくなったのです。これは危険な賭けであったといえ
るのです。もし、国民の中の頭の良い人たちが多くのことを知る
ようになると、当局にとって厄介な存在になり、既存の体制を揺
るがしかねないからです。そこで、明治の為政者たちは、国民を
次の2つに大別し、別々に管理することにしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
           1.普通の国民
           2.  文化人
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここでいう2の「文化人」とは、専門家や知識人や学者などを
いい、こうした人たちには情報を与え、比較的自由にものをいわ
せたり、書かせたりしたのです。それはその人がどういう思想を
持っているかを調べるのに役立つからです。このように、彼らは
厳重に監視され、危険な思想を持っているとみなされる場合は、
それを発表させないよう細心の注意が払われたのです。
 しかし、それらの文化人の中で権力側の一員として使える者は
登用し、また、その思想によって既存体制の宣伝に使える者は宣
伝活動に従事させるようにしたのです。
 しかし、それでも十分なコントロールは効かなかったのです。
そのため、1925年には治安維持法を公布し、危険思想を取り
締まるようになります。3年後の1928年には同法は一段と強
化され、危険思想には無期懲役や死刑に処することができるよう
になったのです。なぜ、そこまでするのか。危険思想は権力機構
は崩壊させかねないからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本の官僚は、自分たちの属する権力機構をあからさまに分析
 されるのを好まない。いや、この言いかたは控え目にすぎる。
 官僚は、真の分析を恐れているのである。それもそのはずだ。
 なぜなら、彼らの権力機構がつねに正確に説明され広く理解さ
 れれば、絶えず非難されるようになり、やがては官僚機構が機
 能しなくなると思われるからだ。秘密主義は、日本の官僚独裁
 主義を成功させるために必要な条件なのである。
      ──カレル・ヴァン・ウォルフレン著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように明治の権力者たちは、政治や経済機関のリーダーに
なり、省庁を率い、その基礎作りに寄与したのです。そして枢密
院という明治憲法体制下での国政に関する天皇の最高諮問機関を
創設し、明治の官僚機構が出来あがったのです。そして官僚を天
皇に対して滅私奉公する存在として位置づけたのです。
 それでいて、彼らは一度手に入れた権力を政敵に奪われること
がないよう細心の注意を持って守りを固めたのです。そのため、
彼らは、国民に対して対立を押え込む調和のイデオロギーの徹底
に加えて、政治家たちの行動を忌まわしいものと感じさせるよう
な価値観を体制に植えつけたのです。
 彼らにとって選挙で選ばれた政治家は、体制側の秩序を乱し、
イデオロギーを踏みにじる存在として位置づけられるのです。こ
のように、官僚と政治家は最初から対立関係にあったのです。政
治家対官僚の対立は政治家誕生の瞬間から生じていたのです。
 この明治の権力者たちが国民の精神に植え込んだこのイデオロ
ギーは連綿と受け継がれ、現代の日本人の精神に何らかのかたち
で生きているといわれます。これに関して、ウォルフレン氏の本
にこういう話が出ています。
 もし、オランダ人が「あなたはオランダ人らしくない」といわ
れた場合、十中八九一笑に付するだけですが、アメリカ人が「あ
なたはアメリカ人らしくない」といわれるときっとうろたえる。
しかし、日本人が「あなたは日本人らしくない」といわれると、
大きなショックを受けて落ち込み、心の安定を失うといいます。
 そのため、日本人の行動を制する言葉として「あなたのやり方
は日本人らしくない」というほど効き目のある非難の言葉はどこ
にもない──とウォルフレン氏はいっています。
             ─── [日本の政治の現況/07]


≪画像および関連情報≫
 ●日本社会における「対立」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  日本の社会では、真の対立はすぐに表面の下に押しこめられ
  るので、対立が対立として適切に処理されない。見えないの
  だから、処理のしようもないのだ。対立が気づかれず、ある
  いは無視される場合、その当事者はたいへんな不幸におちい
  りかねない。日本の社会はある意味でとても貧しい社会だ。
  というのも、第三者の勝手な裁定に頼る以外、対立を解消す
  る効果的な手段がないからである。
      ──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/鈴木主税訳
   『人間を幸福にしない日本というシステム』/OH!文庫
  ―――――――――――――――――――――――――――

講演会で質問に応ずるウォルフレン氏.jpg
講演会で質問に応ずるウォルフレン氏
posted by 平野 浩 at 04:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の政治の現況 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月22日

●「姿なき権力者とは何か」(EJ第3082号)

 日本という国の最大の権力者は誰なのでしょうか。
 はっきりしていることは、それが内閣総理大臣ではないことで
す。今回の菅首相をめぐる騒動で、総理大臣がいかに大きな権力
を持っているかを再認識した人は多いと思います。その総理を辞
めさせようとしてもそれが果たせないからです。それでも総理大
臣よりもさらに強い権力を持っている組織があることは確かなこ
とです。しかし、その姿はよく見えないのです。
 まさに「姿なき権力者」という表現が的を射ています。姿が見
えないので、権力の行使に反対することも、抵抗することも何も
できないのです。これでは国民は泣き寝入りをせざるを得ないこ
とになります。
 この平成の世の中でも「姿なき権力者」は存在し、権力を行使
しています。そのほとんどは既得権者の利益を守り、国民に痛み
を押し付けるものばかりです。身近な例を上げましょう。
 現在日本は、東日本大震災で未曽有の危機に瀕しています。そ
の日本で被災地の支援がほとんど進んでいないのに、被災地支援
とはまったく関係ない消費税増税案が急ピッチで進められていま
す。これはきわめておかしなことですが、このプロジェクトだけ
がすべてに優先して急ピッチで進められているのです。それに加
えて、復興に関わる資金までも別の増税で賄おうとしています。
とんでもないことであると思います。
 それは菅首相率いる民主党現政権がやっていることであるとい
う人がいるかもしれません。確かに直接的にはそうです。しかし
現政権がそうさせられているという見方もあるのです。「姿なき
権力者」の力がそこに強く働いており、現政権はそうせざるを得
なくなっていると思うのです。
 「姿なき権力者」とは何か。
 カレル・ウォルフレン氏は、外国人であるのにその謎に果敢に
挑戦し、かなりその核心に迫っています。いや、外国人であるか
らこそ、日本を客観的に分析することができるのでしょう。
 しかし、どのように虐げられても日本人は、政治的なことには
無関心であり、おとなしいのです。もし、外国であれば確実に暴
動が起きるようなときにでも、日本ではほとんど反応しないので
す。それは調和のイデオロギーが「対立」を押え込んだ結果であ
る──このようにウォルフレン氏はいうのです。
 ウォルフレン氏は、1990年(原書は1988年)に上梓し
た著書において、日本人について、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 無数の政治的勢力が、しかも、それぞれがその気になれば国家
 を揺るがしうるだけの力を有し、自分の利益を守ろうとひしめ
 き合うなかで、責任をとるものがまったくいなくても社会的混
 乱が起こらない。それどころか、社会の秩序正しさと人びとの
 規律正しさというのが、日本の際立った特徴である。これでは
 どこか別のところになにか非常に有力な政治的勢力があって、
 それが結合力のもとになっているにちがいないと思ってしまう
 人もいるだろう。カレル・ヴァン・ウォルフレン著/篠原勝訳
            『日本/権力構造の謎』上/早川書房
―――――――――――――――――――――――――――――
 現在の日本の政治の原点は明治維新にあります。「太政官」と
いう制度を頭に入れておく必要があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
                I── 右大臣
      天皇──太政大臣──I── 左大臣
                I── 参 議
―――――――――――――――――――――――――――――
 明治政府は、主権者である「天皇」の下に政府の総責任者であ
る「太政大臣」が設置されています。その太政大臣の下に「右大
臣」「左大臣」「参議」という3つの職制が並列的に配置されて
います。この3つの職制の主座は「左大臣」です。これら4つの
職務全体を「太政官」というのです。
 本来太政大臣は具体的職掌がなく、功労者を処遇する名誉職で
あり、常設の職ではなかったのです。そのため、左大臣が太政官
の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催したのです。
 しかし、左大臣も常設の職ではなく、そういうときは右大臣が
その職務を代行をしたのです。右大臣の下には、次の10省から
成る行政機関が配置されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
         大蔵省     宮内省
         外務省     工部省
         陸軍省     文部省
         海軍省     内務省
         司法省     北海道開拓使
http://page.freett.com/sukechika/meizi11/05settei/meizi09-1-1.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 これら太政官の制度外に、各省庁の上位に元老院──上院と称
する法律案審議機関があります。そして、これと対になる下院と
いう立法機関もあるのです。しかし、欧米諸国の真似をして上下
両院を設置したのですが、かたちだけのもので終っています。
 立法機関としての元老院には、実際には省庁の役職からあぶれ
た土佐藩出身の維新志士が多く配置され、元老院議員はその肩書
を利用して自由民権運動に走ったのです。
 明治政府組織は、明治初年より何回も整備統合が行われ、2〜
3年で全く政府の機構が変貌してしまうこともたびたびあったの
です。しかし、組織は次第に強固なものになって行き、明治11
年(1878年)には、ほぼこのかたちの政府組織が編成された
のです。しかし、選挙で選ばれる政治家が登場するのは、自由民
権運動、国会開設運動を経て、明治23年(1890年)の帝国
議会まで待つことになります。その間に官僚機構はかなり緻密が
かたちででき上がっていたのです。
             ─── [日本の政治の現況/08]


≪画像および関連情報≫
 ●元老院とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  元老院は、明治初期の日本の立法機関。新法の制定と旧法の
  改定を行うこととしたが、議案は天皇の命令として正院(後
  に内閣)から下付され、緊急を要する場合は事後承認するだ
  けになるなど権限は弱かった。構成者は元老院議官。187
  5年に大久保利通・伊藤博文・木戸孝允・板垣退助らの大阪
  会議での合意に基づき、続いて出された立憲政体の詔書によ
  り、1875年4月25日左院にかわり設置された。当初は
  正副議長各1名が置かれ定員は無制限とされたが、程なく財
  政上の都合から同年11月25日に職制が改正されて正副議
  長各1名とこれを補佐する幹事2名(1886年廃止)、そ
  の他の議官28名の計32名が定数とされた。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

元老院.jpg
元老院
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2011年06月23日

●「『権力の最高裁決者』とは誰か」(EJ第3083号)

 「姿なき権力者」をさらに追及していくことにします。まず、
国──ネーションとは何でしょうか。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「国」とは何か。国(民族国家)とは、共通言語を使用し、
 ほかとは異なる独自の文化があるところ(場所)である。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この点に立つと、日本はネーションであることは間違いないと
いえます。それでは、「国家」とは何でしょうか。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「国家」とは何か。国家とはその国土の究極的な統治権を有
 し、権力の最高裁決者である。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで注目すべきは「権力の最高裁決者」です。ごく常識的に
いえば、これは「国会」ということになります。日本は議会制民
主主義の国であるので、主権は国民にあり、立法権は選挙で選ば
れた議員によって構成される「国会両院」にある──そういうこ
とになります。しかし、確かに法案を最終的に決めるのは国会で
すが、それをもって「権力の最高裁決者」といえるかというと、
大きな疑問があります。
 なぜなら、今や国会での法案についての議論や裁決はほとんど
儀式化しているからです。議論は噛み合わないし、法案は提出時
点で裁決の結論が出ているからです。
 これについて、権力があるように見える組織について、ウォル
フレン氏は次のように言及しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見
 える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらに
 も、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボ
 スといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボ
 ス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だと
 いう意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は
 パリやロンドンに負けず劣らず、〃すべてのものがある¢蜩s
 市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社
 あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに
 集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官
 僚に取り入らなけれはならない。
       ──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/篠原勝訳
            『日本/権力構造の謎』上/早川書房
―――――――――――――――――――――――――――――
 ウォルフレン氏は、事実上の「権力の最高裁決者」として中央
官庁の上級官僚と大企業を暗示していますが、これはきわめて興
味深い指摘であるといえます。
 そういう中央官庁の上級官僚と、主権者である国民とをつなぎ
政治的コミュニケーションを可能にするのが政治家の仕事なので
すが、ウォルフレン氏は、日本の政治家はその役割を果たしてい
るとはいえないとして次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 政治家の公式な役割は、「公僕」であるはずの官僚と国民との
 あいだを仲介することだ。だが、政治家はその役割をはたして
 いない。理論上は、公式の政府を形成するために選出された政
 治家たち(すなわち首相の率いる内閣の閣僚たち)だけが、官
 僚を支配する力をもっている。しかし、閣僚たちは長いあいだ
 その力を行使していない。彼らは、民主主義国で彼らの役割と
 されていること、すなわち政治的説明責任(アカウンタビリテ
 ィ)の中枢を形成する努力をしていない。
      ──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/鈴木主税訳
   『人間を幸福にしない日本というシステム』/OH!文庫
―――――――――――――――――――――――――――――
 公務員幹部の天下り問題が平然と続く中で、日本の政治権力は
拡散し、官僚の上層部と経済界のエリートの上層部、それに一部
の政界のエリートが結びつき、それはかなり厚い層を形成してい
るのです。この分散化している政治権力が政治システムを形成し
ているわけです。
 この政治システムにとって、この国の最も重要なことは、すべ
てこの層によって企画され、財源がつけられ、実行に移されてい
るのです。しかし、この政治勢力は表面から姿を隠しているので
国民には、はっきりとは見えず、どのように権力が行使されてい
るのかわからないのです。そのため、「姿なき権力者」といわれ
るのです。
 ウォルフレン氏は「社会の政治化」という言葉を使います。民
間部門と公共部門の境界がわからなくなっているからです。そこ
で、ウォルフレン氏は官公庁で働く官僚と、業界団体や系列企業
や系列銀行の高度に官僚化された幹部をまとめて表現する言葉が
必要になるとして、次の言葉を使っているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      管理者たち/アドミニストレーターズ
―――――――――――――――――――――――――――――
 この「管理者たち」にマスコミが加わった連合体が現在の日本
を動かしているのです。本来、マスコミの中心である新聞は「社
会の木鐸」といわれています。その意味は、世に警告を発し、社
会を正しい方向に導くということであり、新聞の代名詞であった
のです。「鐸」とは法令を宣布するときに振って鳴らした大型の
鈴のようのもので、文事には木の舌のもの(木鐸)、武事には金の
舌のもの(金鐸)を用いたとあります。
 本来であれば、おかしな政治システムの不正を暴いて広く国民
に知らせるのが役割であるのに、今のマスコミは明らかに権力側
についており、その権力を毀す恐れのあるものに対しては、事実
をねじ曲げることなどなんとも思っていないようにみえます。
             ─── [日本の政治の現況/09]


≪画像および関連情報≫
 ●池田香代子氏のブログ「社会の木鐸」/一読の価値あり
  ―――――――――――――――――――――――――――
  社会の木鐸。この言い回しがいつごろから使われるようにな
  ったのか知りませんが、最近は聞かないので、若い方はご存
  じないかも知れません。木鐸は「ぼくたく」と読み、「社会
  の」がつくと、新聞や新聞記者を指します。人びとに真実を
  伝えて警鐘を鳴らし、世論形成を助ける存在、というほどの
  意味合いです。歴史的オブジェとしての木鐸は、金口木舌─
  ─「きんこうもくぜつ」とも言われるように、金属の本体に
  木製の棒を打ち当てて音を出すもので、古代中国で人びとに
  情報を知らせる人が鳴らしました。為政者に遠ざけられた孔
  子が木鐸になぞらえられた故実から、権力とは一線を画し、
  社会のあるべき姿を示すオピニオンリーダー、というニュア
  ンスがあります。
http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51322671.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

「日本/権力構造の謎」/ウォルフレン著.jpg
「日本/権力構造の謎」/ウォルフレン著
posted by 平野 浩 at 04:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の政治の現況 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月24日

●「日本の官僚制度の特殊性がある」(EJ第3084号)

 ウォルフレン氏のいうところの「管理者たち/アドミニストレ
ーターズ」の中心は官僚です。日本の官僚制度は、何度もいうよ
うに、政治的野心を持った明治の強力な指導者──主として薩長
重鎮たちによって作られたのです。
 しかし、彼らは民主主義の信奉者ではなく、独裁的な支配者で
あったのです。彼らは自分たちの作った「天皇の下僕」の機構を
少数の人間で支配する寡頭制を選んだのです。しかし、それを次
世代に受け継ぐシステムを構築していなかったのです。
 そのためその権力者たちが死ぬと、彼らに任命された各省や枢
密院、それに軍の官僚たちは、そのあとを引き継いだのですが、
彼らは政治的に統一された新しい寡頭制度を構築しなかったので
す。そのため、それぞれの職務に権力が分散し、全体を取り仕切
る権力者がいなくなったのです。
 もとよりかたちのうえでは、最高の権力者は天皇ということに
なっており、官僚は天皇の下僕として位置づけられたのですが、
実際はそうではなかったのです。官僚たちは天皇の意思と称して
さまざまなことを勝手にやったのです。しかし、官僚を管理する
システムがないので、国全体としてはまるで政策の整合性がとれ
ず、ばらばらになってしまったのです。
 こういう日本の官僚制度について、ウォルフレン氏は次のよう
に述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本の官僚制度が注目を余儀なくさせる側面、同時にきわめて
 恐ろしい側面は、それを管理するものがいないことだ。日本の
 市民は、なかなかこれを実感できない。私は、日本が他の国と
 異なると主張しているとしばしば批判される。日本で見られる
 政治現象は、たしかに他の国でも見られる。だが、強大な権力
 が公的な権力として規定されないまま闇のなかに据えおかれて
 いる度合いや、日本の社会が政治化されている度合い、また官
 僚の権力が管理されていない度合いは非常に大きく、その点で
 日本はまったく異質である。日本の市民は、官僚が日本ほど放
 任されている大国はないという事実に気づくべきだ。
      ──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/鈴木主税訳
   『人間を幸福にしない日本というシステム』/OH!文庫
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、明治の権力者たちは議会制度を導入し、国民の選挙で
選ぶ政治家を登場させています。これは民主主義の制度です。こ
れと官僚制度をうまく組み合わせて機能させることは可能だった
のですが、彼らはそれをあえてしなかったのです。なぜなら、日
本の議会制度と法の仕組みは、日本を近代国家に見せかけるため
だけのものでしかなかったからです。
 明治の指導者たちの中には、巨大化する官僚機構の規制を強化
すべきと唱えるものもいたのですが、少数の権力者たちは、国民
を信頼せず、国民によって選ばれる政治家を警戒すべき対象とし
たのです。そのため、自由民権運動をはじめとする初期の政治活
動に対して徹底的に弾圧を加えたのです。これでは、徳川時代の
封建体制と何も変わらなかったわけです。
 ウォルフレン氏は、官僚の権力を野放しにして日本に起こった
悲劇として太平洋戦争を上げています。この戦争は、軍の官僚が
仕組んだものであり、それらの官僚へのコントロールが効かなく
なった結果起こったものなのです。
 日本が、当時の日本の国力の10倍以上の工業力を持つ米国に
対して戦争を仕掛けても勝てるはずがないのです。しかし、官僚
が暴走すると、こういう悲劇が生まれるのです。それはまさに自
殺行為であったとウォルフレン氏はいっています。「国民が慈悲
深いはずの権力者に裏切られたまさに悲劇である」と。
 問題なのは、日本の官僚制度は現在も野放しであることです。
なぜなら、官僚に対して政治的な管理がなされていないのは、昔
と何ら変わっていないからです。彼らは、強固な組織と情報と資
金を有しており、自分たちの身分と生活は法律で安全を保証され
ているのです。そして、彼らは日本を事実上コントロールしてい
るのです。しかし、国民にはその姿が確認されず、姿なき権力者
になっているわけです。
 そのため、政治家が革新的なことをやろうとすると、官僚側は
それが彼らにとって都合の悪いことであると、徹底的にそれを潰
そうとします。現在の民主党がやろうとした政策がことごとく実
現しないのは、野党ではなく、官僚──とくに財務省の協力が得
られないからなのです。自民党によって「バラマキ4K」と名づ
けられた民主党の主要政策は、それが継続されると、官僚が使え
るカネが減少し、財務省が危機感を感じたからなのです。
 かかる官僚機構に立ち向かうことは非常に困難なことです。公
務員改革制度が進まないことにそれがあらわれています。これに
ついては改めて取り上げるつもりです。
 1945年の終戦後において官僚制度はますます強固なものに
なります。それまで彼らの上には、絶対の権力者としての天皇が
存在していたのですが、終戦によって天皇は象徴天皇になったか
らです。それでいて、アメリカの占領軍は官僚制度をそのままの
かたちで残しています。これについて、ウォルフレン氏は次のよ
うに解説しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本にとって不幸だったのは、1945年の終戦後、アメリカ
 の占領軍が日本の実情を完全に誤解していたことだ。占領軍は
 日本の政治家もアメリカの場合と同様に官僚を支配すると思い
 込んでいた。(中略)そして民主主義の実現のために日本が何
 よりも必要としているものは中央政府の強力な指導力だという
 ことに、まったく思いいたらなかった。
        ──ウォルフレン著/鈴木主税訳の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
             ─── [日本の政治の現況/10]


≪画像および関連情報≫
 ●現在の日本の官僚システムは明治以来のもの
  ―――――――――――――――――――――――――――
  官庁の役人の天下り問題とか、今回の防衛庁人事での小池前
  防衛大臣と守屋次官の次官後任人事を巡る確執騒ぎとかで、
  最近特に官僚制に関しての論議が従来にも増して注目される
  ようになっているが、この官僚システムはいつに遡るかとい
  うと、明治初期につくられたシステムであることが内田通夫
  氏による週刊東洋経済の7月14日号の『このままの官僚制
  度を放置していいのか』という題名の記事に明解に描がかれ
  ている。以上の記事を要約すると以下のようになる。
   http://blogs.yahoo.co.jp/worldforum2007/35631149.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

憲法発布略図.jpg
憲法発布略図
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2011年06月27日

●「山縣有朋と日本の官僚制度」(EJ第3085号)

 最大の懸案であった特例公債法の成立の確約を含む50日の国
会延長──民主党執行部が必死になってまとめてきた野党との合
意案を蹴っ飛ばして70日延長で押し切った菅首相。これで特例
公債法の成立の見通しは不透明になりましたが、菅首相が一向に
ひるまないのにはワケがあります。
 今年度予算の財源の40%を占める赤字国債を発行するには、
特例公債法の成立が不可欠であり、6月中に決まらないと予算が
足りなくなってしまうのです。本来であれば、今年度予算案と同
時に成立していなければならない法案なのです。
 それにもかかわらず、菅首相が強気なのは財務省の幹部から次
の耳打ちがあったからなのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 10月〜11月ぐらいまで予算は持つ。特例公債法はそれま
 でに成立させればよい。
―――――――――――――――――――――――――――――
 予算の40%ですから、常識的には11月まで持つとは考えに
くいですが、どこからかカネを持ってくるのでしょう。財務省と
しては消費税増税のことがあるので、それまで何とか菅首相を続
投させたいのです。省益にかなう首相だからです。
 この財務省の耳打ちで菅首相はがぜん強気になったのです。要
するに内閣ではなく財務省が国をコントロールしているのです。
これは本来あってはならないことであり、異常な事態です。
 日本の官僚制度がこのようなかたちになっていることについて
ウォルフレン氏は、明治の元老のひとり山縣有朋の存在を上げて
いるのです。年配者や歴史に興味のある人は別として、山縣有朋
といってもピンとこないかもしれません。第3代内閣総理大臣、
日本陸軍の基礎を築いた「国軍の父」というエライ人という印象
を持っている人が多いと思います。しかし、ウォルフレン氏の山
縣有朋の評価は最悪であり、次のように述べているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 少数の独裁者のなかには国にとってまったく有害な者もいた。
 政治の健全性を損なった悪者を一人だけあげるとすれば、私は
 山県有朋を選ぶ。彼はまったくよこしまな人で、漠然とした不
 安からくる性格的な問題をかかえていた。それは彼が非社交的
 かつ陰険な態度で周囲の人びとに接したことからも明らかだ。
 また、日本の社会をいっそう閉ざされたものにしたやりかたか
 らも明らかだ。山県は、政治における代議制度という考えかた
 そのものを非常に嫌悪し、一連の複雑な規則をつくって、選挙
 で選ばれた政治家が日本の官僚を決して掌握できないようにし
 た。近代日本にとって、山県が「近代官僚制度の父」であり、
 「陸軍の父」であったことは、最大の不幸だった。彼が長生き
 したのも不幸だった。
      ──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/鈴木主税訳
   『人間を幸福にしない日本というシステム』/OH!文庫
―――――――――――――――――――――――――――――
 ウォルフレン氏の山縣有朋の評価はこのように厳しいものです
が、ほかの人はどう評価しているのでしょうか。山縣有朋が何を
やったかはあとで述べることにして、司馬遼太郎氏の著作から山
縣の評価を拾ってみることにします。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ◎山県に大きな才能があるとすれば、自己をつねに権力の場所
 から離さないということであり、このための遠慮深謀はかれの
 芸というべきものであったが、同時にこの新しい国家の建設の
 ためによく働きもした。それについての彼の芸は、官僚の統御
 であった。
 ◎いわゆる明示的な天皇絶対制の基礎をつくったのが大久保利
 通であり、それを憲法によって制度化して、大久保の思惑より
 も明朗なかたちにしたのが伊藤博文であり、その明色を暗色に
 しておもくるしい装飾をほどこしたのが山形だと思っている。
 いずれにせよ山形の帝王美学は日露戦争前のロシアゆきによっ
 て着想された。    http://zoompac.exblog.jp/13733154/
―――――――――――――――――――――――――――――
 初代内閣総理大臣の伊藤博文や第2代の黒田清隆は、官僚では
なく、政治家にもっと主導権を与えるべきであるという要望を取
り入れるべく努力したのですが、山縣有朋が総理になると、それ
を退け、官僚主導を強化したのです。まず、彼が手がけたことは
官僚機構を政権政党による政策決定の枠外に置くことによって、
官僚の人事から政治家から遠ざけたことです。官僚の人事は官僚
が決めるということです。これは現在まで続いています。
 山縣は、自分の決めた制度が自分の死後、変更されることを懸
念し、いくつか手を打っています。彼は、内閣は枢密院の命令に
遵守すべきものと定め、枢密院に自分が講じた仕組みの監視役と
して機能させたのです。
 こういう仕組みを作ったうえで山縣は、枢密院にはかられるべ
きいくつもの「勅令」を天皇に出させたのです。勅令とは、日本
においては天皇が発した法的効力のある命令のことです。山縣は
天皇の使い方が非常に巧妙だったのです。天皇の勅令に誰も逆ら
えなかったからです。このようにして、官吏登用試験、任命、規
律、解任、序列に関するさまざまなものがどんどん決まっていっ
たのです。
 山縣有朋は政治家の台頭を恐れており、過激な政治弾圧を行っ
ています。明治33年(1900年)3月には、政治結社・政治
集会の届出制および解散権の所持や軍人・警察官・宗教者・教員
・女性・未成年者・公権剥奪者の政治運動の禁止、労働組合加盟
勧誘の制限・同盟罷業(ストライキ)の禁止などを定めた治安警
察法を制定し、政治・労働運動などを弾圧したのです。
 山縣有朋のやり方は20世紀の最初の40年間、日本の政治や
省庁──とくに内務省の体質作りに決定的な影響を及ぼしたので
す。           ─── [日本の政治の現況/11]


≪画像および関連情報≫
 ●山縣有朋についての情報
  ―――――――――――――――――――――――――――
  明治の元勲として陸軍の基礎を作ったことから、軍部への影
  響力は大きなものがあった。山縣はこれと見込んだ軍人や官
  僚を要職につけて見捨てることがなく、これが自然と「山県
  系」ともいえる人脈を形成した。しかしこれは同時に元長州
  藩出身の人材ばかりを要職に就かせる手法にも見え、長閥と
  して嫌う者も非常に多かった。また近代日本初の大掛かりな
  汚職疑惑に絡み、江藤新平をいただく司法省の厳しい追及に
  あって一旦は辞職もしている(山城屋事件)。
                    ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

山縣有朋.jpg
山縣 有朋
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2011年06月28日

●「検察官はスーパーガーディアンか」(EJ第3086号)

 官僚は滅私奉公で天皇を支える重要な存在であるが、政党政治
家には疑わしい人物が多い──この考え方は明治時代から国民の
意識に植えつけられているとウォルフレン氏はいいます。
 そんなことはないという人がいるかもしれないが、検察の捜査
の手が政治家におよび、その政治家が逮捕でもされると、国民の
多くは喝采する人は多いのです。それは潜在的に「政治家=悪」
であると思っているからであるとウォルフレン氏はいうのです。
 ウォルフレン氏は、日本は法治国家であるのに、超法規的な慣
習というものがあるとして、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本の場合、経済や政治上の取り引き、関係性など、現実のな
 かで実際に利用されるやり方が、法律によって決められている
 わけではないのである。それを決定するのは慣習である。さら
 には現状維持をはかる勢力である。ちなみに個人やグループに
 みずからの行いを恥じ入らせる「辱め」は、日本の当局が秩序
 を維持するために用いる手口のひとつだ。体制を揺るがしかね
 ない人間を、辱め、世間の見せしめにすることで、超法規的な
 秩序を逸脱すれば、このような仕打ちが待っているとあらゆる
 人々に警告するのだ。その陣頭指揮をとるのはもちろん、日本
 の検察である。しかも、新聞はそんな彼らを大いに支援してい
 る。    ──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/井上実訳
         『誰が小沢一郎を殺すのか?』/角川書店刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 このウォルフレン氏のいう「体制を揺るがしかねない人間を、
辱め、世間の見せしめにする」という表現はきわめて重要です。
これはそういう政治家を人物破壊することによって体制(官僚制
度)を守ろうとしているからです。それは、具体的には検察とメ
ディアによって行われるのです。こういう仕組みを歴史的には山
縣有朋が作っていたのです。
 ウォルフレン氏は、検察官を「スーパー・ガーディアン」と呼
んでいます。「スーパー・ガーディアン」とは何でしょうか。
 ガーディアンとは「見張り人」のことです。統治機構に属する
官僚をはじめとして、自治体の長や政治家は、それぞれの領域に
おいてガーディアンの役割を果たすことが求められており、ガー
ディアンはどこの国にもあるのです。
 しかし、そういうガーディアンである官僚や政治家などを見張
るためのガーディアンも必要になります。それをスーパー・ガー
ディアンというのです。
 真の民主主義国家では、報道機関もこのスーパーガーディアン
的役割を担うのですが、日本の報道機関はきわめて特殊であり、
その役割を担うどころか権力側についているといえます。そうさ
せているのは、記者クラブの存在です。記者クラブの存在が諸悪
の根源であることは、何度も述べてきているところです。
 もともと民主党は「記者クラブの解放」を主張してきた政党な
のです。しかし、政権をとると手のひらを返したように記者クラ
ブを廃止するどころか、温存しています。
 ウォルフレン氏は、日本の検察官は多くの日本人にとっては神
聖な存在であり、神に近いとまでいっています。これはオーバー
な表現のように聞こえますが、日本の検察の特殊性を衝いている
鋭い指摘であると思います。
 現在検察はあの証拠改竄事件があって、その権威は地に落ちま
したが、ウォルフレン氏は1994年の時点で、日本の検察につ
いて次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本の検察官がこのように神聖視されているのは、きわめて残
 念なことだ。これは、日本の司法に関する偽りの現実の典型的
 な例だからである。実のところ、日本の政治システムが間違っ
 ていることを示す最たる例なのだ。あえて言わせてもらえば、
 日本の検察官は、民主主義の実現にたいする最後の、そして最
 も手強い障害になりかねない。検察官は、社会のスーパー・ガ
 ーディアンではない。民主主義を信奉する日本人は、検察官に
 喝采するべきではない。司法制度の独立こそが本当の正義と民
 主主義の維持を保証する最善の道であると知る者は、検察官を
 非難してしかるべきなのだ。
      ──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/鈴木主税訳
   『人間を幸福にしない日本というシステム』/OH!文庫
―――――――――――――――――――――――――――――
 1996年といえば、特捜部長は熊崎勝彦氏の時代(1996
年〜1998年)です。ロッキード事件、金丸信巨額脱税事件、
ゼネコン汚職事件などで検察が大活躍し、喝采を浴びていた時代
です。この時期にウォルフレン氏はこのような検察批判をしてい
るのです。それは先見性というより、日本の特殊性をウォルフレ
ン氏が見抜いていたというべきでしょう。
 ここで官僚サイドに立って考えてみよう。日本の古い慣習を残
し、事実上日本を支配する官僚制度を継続し、死守するために制
度的に政治家が変更できにくい状況を作り、その体制を揺るがし
かねない政治家が出現してきたときは、検察を使ってその政治家
を辱め、世間の見せしめにして政治生命を失わしめるというやり
方をするのです。
 さらに長期的には、一定の地位に達した上級官僚を政治家にし
てその者を当選させ、その数を増やし、政治家のなかに官僚を守
る政治家を増やして行き、官僚制度をガードする──その結果、
自民党のような政党ができたといえます。
 日本の検察庁は法務省の管理下にあるので、結局は官僚の下僕
なのです。そのため、官僚が強力な政治家に脅威を感じ、危険で
あると判断すると、検察はその政治家を始末する──このように
ウォルフレン氏は述べています。ウォルフレン氏の検察について
の考え方は明日以降のEJでもさらに取り上げていきます。
             ─── [日本の政治の現況/12]


≪画像および関連情報≫
 ●検察庁の沿革と組織について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  我が国の近代検察制度は,明治5年8月に司法職務定制が制
  定されたことにより始まりましたが,この制度は近代的なフ
  ランスの検事制度を採用しながらも,従前の律令系体制下の
  弾正台に似た機能を検事に求めたものでありました。明治政
  府は,明治6年パリ大学のボアソナード教授を招へいし,本
  格的に法律の編さん作業に取り組み,同13年「治罪法」が
  制定,同15年から施行しました。この法では国家訴追主義
  や起訴独占主義を宣明し,律令系法制の名残が一掃すること
  となりましたが,予審制が採用されており,予審判事が直接
  証拠収集に当たるというものでした。
      http://www.moj.go.jp/keiji1/keiji_keiji04.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

熊崎勝彦氏.jpg
熊崎 勝彦氏
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2011年06月29日

●「明治政府の法律の扱い方の特殊性」(EJ第3087号)

 日本の検察の役割は、ヨーロッパ諸国や米国の検察とは、明ら
かに異なるとウォルフレン氏はいいます。日本の検察は国の秩序
を守ることが任務であると考えています。しかし、それは明らか
に欧米の検察の守備範囲を超えており、そんなことはいわば余計
な任務であるとウォルフレン氏はいいます。
 明治の為政者は外国から成文法典を移入したのですが、肝心の
法の精神の部分は完全に欠落しており、かたちだけの導入になっ
ています。しかし、それでも徳川時代に比べると、国民は大幅な
権利と自由を手にしています。しかし、それには次の条件が付い
ていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 社会の安寧秩序を妨げず、臣民たるの義務に背かざる限りにお
 いて、(彼らの権利と自由に制限を加える)法律の範囲内にお
 いて・・・
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、山縣有朋は法律に頼り過ぎることの危険を肌で感じて
いたのです。そこで法律を導入しても、知識人が「悪い思想」を
抱かないように対策を立てています。山縣は法律を「政治に対す
る防護物」として活用することを考えたのです。その結果、法律
は権力者の有力な道具に変質したといえます。そのため、日本の
国民にとって法律というものは、政府が国民の行動を抑制するも
のとして受け止められたのです。
 この山縣有朋の考え方が、後の治安維持法の制定や思想警察の
誕生につながっていくのです。これによって警察や検察も当然そ
の影響を大きく受けます。そのため、日本人は1945年の敗戦
まで、政治的権利という概念を、身近なものとして感ずることは
なかったといえます。
 ウォルフレン氏は、日本の検察の特殊性として彼らが容疑者を
法廷に引き出すという公式の任務を果たすさい、ほとんどのケー
スで勝利を手にしていることを上げています。その有罪判決率は
99.9 %という高い確率であったからです。
 この有罪判決率について書かれている「金融そして時々山」の
ブログをご紹介します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 最近日本のことをほとんど取り上げなくなったエコノミスト誌
 が珍しく「検察か迫害者か」という記事で、日本の刑事裁判の
 問題を世界の読者に紹介していた。その話の内容は日本のマス
 コミに流れているものと重複するので、細かい紹介は省略する
 が、欧米諸国の有罪判決率と人口当たり弁護士の数を紹介しよ
 う。記事によると日本の有罪判決率は99.9%でこれは中国
 と同じレベルだ。米国、ドイツ、英国の有罪判決率は85%、
 81%、55%である。これについて日本は刑事訴訟に係わる
 人的資源が少ないので、検察は有罪の確信が持てる事件だけを
 訴訟に持ち込むと日本の法律家は擁護している。ある東京地検
 の元検事は、もしある検事が一回敗訴するとキャリアをひどく
 傷付けられ、二回の敗訴はキャリアの終わりにつながるだろう
 と述べている。
http://kitanotabibito.blog.ocn.ne.jp/kinyuu/2010/10/post_74d0.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 有罪判決率99.9 %ということを冷静に考えてみると、日本
の検察官は裁判官の役割も同時に果たしているということになり
ます。裁判にさえ持ち込めば有罪にはできるからです。
 もうひとつ大きな問題があります。日本の法律の条文は、検察
官が自らの目標(起訴)を達成しやすくするため、幅を持って解
釈できるようわざと曖昧な表現が使われていることです。つまり
そのときの状況に応じて起訴したり、不起訴にできるようになっ
ているのです。つまり、検察官は起訴するかしないかを恣意的に
決めることができることになります。
 その典型が政治資金規正法なのです。小沢一郎事務所は、他の
ほとんどのケースでは形式犯として訂正をするだけで済んでいる
事案であるのに、小沢事務所の場合は秘書全員が逮捕され、強制
捜査を受け起訴されています。これは検察の考え方ひとつでどの
ようにでもできることを示しています。
 これでは特定の政治家を狙い撃ちにしたといわれても仕方がな
いと思います。検察はそれに加えて記者クラブを通じて情報をリ
ークし、小沢一郎氏の政治生命を失わしめる試みを執拗に行って
いるのです。こんなことが現代の日本でも平然かつ堂々と行われ
ているのです。これについては、改めてその問題性を指摘するつ
もりでおります。
 ウォルフレン氏は1960年代から70年代にかけて日本の政
治や権力構造について研究し、『日本/権力構造の謎』という大
書をまとめています。そのなかで、日本の検察の特殊性について
「法を支配下におく」という章(8章)を設けて、このことにつ
いて詳しく述べています。
 この章のなかでウォルフレン氏は、検察官と裁判官の関係につ
いて、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本の検察権力の優位性は、一九二〇年代から受け継がれてい
 る。当時は、まるで裁判官が検察官の召使のように考えられる
 ほど、検察が司法界を支配していた。法廷では検察官が裁判官
 とともに高座についた。一九三〇年代には、「国体の本義」の
 思想を推進し、政治家も含め、この思想を脅かす危険性がある
 とみなされた者との闘いに検察官職が主要な役割を果たした。
       ──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/篠原勝訳
            『日本/権力構造の謎』上/早川書房
―――――――――――――――――――――――――――――
 現在と違って、検察官は裁判官と一緒に高座についていたとい
うことですが、それは当時の検察官がいかに力を持っていたかを
あわわしています。    ─── [日本の政治の現況/13]


≪画像および関連情報≫
 ●明治時代の法廷風景/【宮津裁判所法廷】
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  こちらは明治時代の法廷です。この、宮津裁判所は、外見は
  普通の家のようです。珍しく「欧米化!」されていない裁判
  所です。一番手前の長椅子に腰掛けているのが被告人です。
  その隣で、制服姿の男性が、被告人に逃走をさせまいと、厳
  しく監視しております。写真奥、壇上の左から、検察官(赤
  い唐草模様)、裁判官(紫)、書記官(襟だけ緑)です。行
  われているのは冒頭陳述か、はたまた論告なのでしょうか。
  写真右端、忘れられそうなぐらいに小さく座っているのが、
  被告人の味方である弁護人(白)です。
      http://chisai.seesaa.net/article/40678563.html
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明治時代の法廷風景.jpg
明治時代の法廷風景
posted by 平野 浩 at 04:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の政治の現況 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月30日

●「検察劣化の元凶/平沼騏一郎」(EJ第3088号)

 検察は他の官僚にも増して「天皇の忠臣」のような存在でした
が、それに伴い強大な権力が与えられていたのです。検察がその
権力を利用して司法制度全体の支配に向けて動き出したのは19
20年代のことです。そのとき、背後で権力を振るった人物がい
ます。平沼騏一郎がその人です。ウォルフレン氏は平沼騏一郎に
ついて次のように述べています。
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 我々は山縣有朋に続き、日本でのそういう状況の背後で権力を
 ふるった、あるひとりの人物を明らかにすることができる。平
 沼騏一郎である。平沼は当時、日本社会を支配するための仕組
 み作りにおいて、山県に勝るとも劣らぬ働きをなした。彼はマ
 ルキシズムやリベラリズムといった海外の理論に断固として反
 対した、つまりは民主主義の恐るべき敵であった。(中略)検
 察の政治家に対するあつかい方を確立したのが平沼であった。
       ──カレル・ヴァン・ウォルフレン著/井上実訳
         『誰が小沢一郎を殺すのか?』/角川書店刊
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 平沼騏一郎とはどういう人物なのでしょうか。
 平沼騏一郎は、保守的かつ国粋主義的な政治姿勢を持ち、民主
主義、社会主義、共産主義といった外来思想を危険視した人物と
して知られ、第35代内閣総理大臣を務めています。
 平沼騏一郎の思想には2つの柱があるのです。
 第1の柱は、天皇が統治の主体で、祭政一致の政治を行うべき
であるということです。そのため、大日本帝国憲法下で確立され
た憲法学説である「天皇機関説」に反対したのです。
 第2の柱は、わが国古来からの良さを確保した上で外国の美点
を採り入れるということです。そして、日本には他に誇るべき特
有の良さがあるとして「国本社」という思想的啓蒙運動団体を主
宰し、日本精神主義、国粋主義的な思想を宣伝したのです。
 天皇機関説というのは、統治権は法人としての国家にあり、天
皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの補
佐を受けながら統治権を行使すると説いたもので、憲法学者の美
濃部達吉らが唱えたものです。
 憲法学者の宮沢俊義氏による「天皇機関説」の解説をご紹介し
ておきます。
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 国家学説のうちに、国家法人説というものがある。これは、国
 家を法律上ひとつの法人だと見る。国家が法人だとすると、君
 主や、議会や、裁判所は、国家という法人の機関だということ
 になる。この説明を日本にあてはめると、日本国家は法律上は
 ひとつの法人であり、その結果として、天皇は、法人たる日本
 国家の機関だということになる。これがいわゆる天皇機関説ま
 たは単に機関説である。
  ──宮沢俊義『天皇機関説事件(上)』有斐閣、1970年
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 平沼騏一郎は、帝国大学法科大学(後の東京大学法学部)を卒
業した法律の専門家で、司法省と枢密院に大きな影響力を持って
いたのです。しかし、第2次若槻内閣や浜口内閣に対する攻撃や
天皇機関説排撃事件などにより、実力者ではあったが、明治の元
老のひとり西園寺公望に嫌われ、本人の強い希望にもかかわらず
首相候補にも枢密院議長にもなれず、副議長に据え置かれたまま
であったのです。
 そのため、平沼は検事総長のときに、西園寺と彼の育てた立憲
政友会を潰すための国策捜査を仕掛けます。これが「帝人事件」
です。この事件は昭和9年(1934年)4月に発覚した帝人株
取得をめぐる大疑獄事件です。
 平沼の意向を受けた検事たちの捜査は、立憲政友会幹部らの逮
捕を優先して、裏付けとなる証拠収集があまりにも杜撰であった
ために、起訴したものの、公判では全員無実無根であるとして無
罪判決が出されてしまったのです。
 しかし、平沼はその後も司法省を牛耳り、前例のない9年間に
わたる長期間、検事総長を務めています。そして、司法大臣に上
りつめ、西園寺が老齢により政治の表舞台から一歩引いた後に、
やっと枢密院議長になり、総理大臣に就任するのです。
 平沼騏一郎は、政治化した日本の検察官の典型であり、自分が
嫌う政党を捜査し、収賄事件に関わった政治家に有罪判決を下し
強制的に議員を辞職させたのです。しかし、自分の政治的キャリ
アのためには、政治家を起訴せず、その政治力を利用してポスト
を手に入れるという卑劣なことも平気で行なったのです。
 この平沼の手法を真似たのは元検事総長である馬場義続です。
彼は当時の自民党の実力者であった河野一郎をやり玉にあげ、河
野の懇願によって調査は中止し、河野の政治力を利用して検事総
長になったのです。ウォルフレン氏は1960年の時点で現在大
きな問題になっている検察による多くの冤罪事件が起きることを
次のように予測しているのです。
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 検察のほとんど無敵ともいえる地歩のために、誤審裁判はあと
 をたたないのではないかと考えられる。日本では、公の場で論
 駁されると顔に泥を塗られることになりかねないからである。
 法学者・野田が指摘するように、検察の活動は〃疑わしきは罰
 せず≠フ原則に従っていない。彼らに面目を失わせるようなこ
 とは裁判官もしない、ということを検察は知っているのだ。法
 廷において、弁護士が、検事ばかりでなく裁判官をも敵側とみ
 なすこともよくある。さらに、裁判官の下した判決が控訴審で
 覆されては株が下がるので、検察側の意向に沿うほうが得策だ
 ということもある。  ──カレルウォルフレン著/篠原勝訳
            『日本/権力構造の謎』上/早川書房
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             ─── [日本の政治の現況/14]


≪画像および関連情報≫
 ●「検察の劣化は帝人事件にはじまる」/EJ第2802号
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  これからしばらく戦前戦後の政治的大事件にからんで、当時
  のマスコミがどのように動いたかについて見て行くことにし
  ます。そうすることによって、検察に代表される官僚機構プ
  ラス政権与党(自民党)と大企業とマスコミがどのようにして
  連合軍を組むにいたったかが見えてくると思うからです。1
  934年のことです。「帝人事件」という事件が起こったの
  です。帝人──帝国人造絹絲株式会社は当時鈴木商店の系列
  下にあったのですが、1927年の恐慌で鈴木商店が倒産す
  ると帝人の株式22万株は台湾銀行の担保になったのです。
http://electronic-journal.seesaa.net/article/147779677.html
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平沼騏一郎.jpg
平沼 騏一郎
posted by 平野 浩 at 04:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の政治の現況 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする