2007年04月01日

EJバックナンバー「ビートルズの話題」(その3)

2000年6月16日に配信したEJ第402号(全4回連載
の内第3回)を過去ログに掲載しました。
○ 『ヘイ、ジュード』の謎を解く(EJ第402号)


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2007年04月02日

ネットで日本語が使えなかった理由(EJ第2051号)

 UNIXの国際語化――1984年以降、WIDEプロジェク
トの初期の頃ですが、村井氏はこの問題に没頭していたのです。
村井氏のこの努力が現在のインターネットの日本語化に結びつい
たといえます。インターネットは米国が開発したものであり、当
然のことながら、最初のうちは日本語が扱えなかったのです。
 そこで、村井氏が何をしたかを知っていただくために、少し面
倒な話をしなければならないのです。知っておくと後でいろいろ
なことに役立つので、ぜひ読んでいただきたいと思います。
 コンピュータの内部では、文字を数値として扱います。例えば
「A」という文字は「65」(16進数では「Ox41」)というコ
ードが割り当てられています。これを「文字コード」と呼んでい
るのです。
 コンピュータの黎明期においては、多くのメーカが独自の規格
でコンピュータを作っており、コンピュータ同士の互換性はまっ
たくなかったのです。
 しかし、それらのコンピュータが一つの企業、一つの大学、一
つの研究所で使われているうちは何も問題はなかったのですが、
それらのコンピュータをそれぞれ繋いで、企業間、大学間、研究
所間でデータを交換しようとすると、文字コードの互換性がない
ため、それはできなかったのです。
 こういう事態を受けて、米国の工業基準を定めているANSI
(アンシ)が乗り出し、データ交換用の標準的な文字コードとし
て定めたのが、ASCII(アスキー)です。
―――――――――――――――――――――――――――――
      ASCII
      American National Standard Code for
      Information Interchange
―――――――――――――――――――――――――――――
 ASCIIは本来はデータ交換時に使われる目的で作られたの
です。そのこと、ASCIIの最後の2文字――IIは「データ
交換用」という意味であることから明らかですが、多くの米国の
コンピュータメーカーは、データ交換時だけでなく、コンピュー
タ内部で文字を処理するさいの文字コードして採用したのです。
ASCIIは文字コードの中心的存在となのです。
 ここで、「ビット」と「バイト」の関係を知っておく必要があ
ります。「ビット」というのは情報の最小単位であり、具体的に
は「0」と「1」です。コンピュータではこの「0」と「1」し
か扱えないのです。コンピュータは2進数でできているのです。
 この「0」と「1」を8個集めた単位を「バイト」というので
す。つまり、次の式が成り立ちます。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1バイト=8ビット
―――――――――――――――――――――――――――――
 この8ビット、これは10進数で2の8乗(0〜255)をあ
らわしています。すなわち、256個の数字を文字コードとして
使うと、欧米の文字は、種類が少ないので、それで間に合ってし
まうのです。これを「シングルバイト(1バイト)文字」という
のです。
 これに対して、日本をはじめとするアジアの国の言葉――例え
ば漢字などは8ビットではとても足りないので、8ビットの倍の
16ビット――2バイトを使うのです。2バイトは10進法では
2の16乗(0〜65535)ですから、これだけあれば十分で
す。これを「マルチバイト(2バイト)文字」というのです。
 しかし、欧米の文字は8ビットですべてあらわせるのですが、
英語に限ると、もっと少ない数で足りてしまうのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    アルファベット大文字 ・・・・・ 26個
    アルファベット小文字 ・・・・・ 26個
    数字 ・・・・・・・・・・・・・ 10個
    記号その他 ・・・・・・・・・・ 30個
    ――――――――――――――――――――
                     92個
―――――――――――――――――――――――――――――
 92個の文字であれば、2の7乗(128個)で足りることに
なります。そこで、米国ではシングルバイト(1バイト)文字は
使うのですが、文字そのものは7ビットで済ませてしまい、残り
1バイトは別の目的で使うことにして、ASCIIコードを決め
てしまったのです。これがマルチバイト文字を使う国々にとって
は、大きな障害となるのです。
 もっとも8ビット目に特別な意味を持たせなければ問題はない
のですが、世界の多くのソフトウェアは文字を表すのに7ビット
を使い、8ビット目に固有な意味を持たせているのです。とくに
UNIXというOSでは、この8ビット目を使うソフトウェアが
多くあり、これにマルチバイト文字を通そうとすると、エラーに
なってしまうのです。
 UNIXというOSは、ここまで見てきたように、通信ネット
ワークに深い関わりのあるOSであり、これがインターネットで
日本語が使えない原因だったといえます。村井氏はこのOSを開
発したベル研究所に働きかける必要があると考えたのです。
 それではどのようにしたら解決できるでしょうか。村井氏は解
決策としては次の2つしかないと考えたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.すべてのソフトウェアにおいて、8ビット目に特別な意味
   を持たせないようにする
 2.日本語が7ビットを基準とした2バイトでも通るように何
   らかの工夫をこらすこと
―――――――――――――――――――――――――――――
 村井氏は、上記1についてはひたすら声を大にして世界に主張
するが、完全解決は難しいと考えて、とりあえず2に重点を絞る
ことにしたのです。   
        ―― [インターネットの歴史 Part2/18]


≪画像および関連情報≫
 ・文字コードの解説サイトから・・
  ―――――――――――――――――――――――――――
  文字コードは、間違いなく情報を交換するための「決まりご
  と」なので,正確を期すため厳密な仕様が規定されている。
  だが,その仕様そのものを実装するプログラムを作る場合を
  除けば,プログラマが仕様の詳細を隅々まで理解している必
  要はない。六法全書を読んでいなくても問題なく普段の生活
  ができるようなものだ。
  http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20061122/254626/
・ASCIIコード
  http://dennou.gaia.h.kyoto-u.ac.jp/arch/zz1998/mozi/zengaku.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月03日

ISO−2022−JP符号化方法(EJ第2052号)

 PCを使う日本人ユーザがぜんぜん気にしていないことですが
コンピュータにおける日本語化は実にやっかいな問題なのです。
いろいろな工夫が施されて現在に至っていますが、その結果とし
て現在でも文字化けを完全には防ぐことができないでいます。
 このあたりのことを勉強しようとして、文字コードやフォント
に関する書籍を読んでみると、これが実に難解で、何度読んでも
わからないのです。
 現在、コンピュータで日本語を表示させるための文字コードと
して普及しているものには、次の3種類があるのです。これを名
前だけでもまず頭に入れておいてください。
―――――――――――――――――――――――――――――
         1.JISコード
         2.シフトJISコード
         3.EUC
―――――――――――――――――――――――――――――
 コンピュータを最初に開発し、ASCIIを定めた米国――そ
のため、インターネット・メールでは、7ビットのASCII文
字だけが文字化けしないできちんと送受信できる保証が与えられ
ているのが現状です。
 村井氏は、この事実を踏まえてJUNETコードを7ビットに
変換して送る方法を検討したのです。メールの中のASCII文
字はそのままにし、日本語――漢字とひらがなについてはすべて
7ビットのASCII文字に変換して送信する方法です。この変
換のことを専門的に「符号化(エンコード)」というのです。
 この村井氏の考案した方法は、次のように正式にRFC化され
ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
     ISO−2022−JP符号化方法
     RFC−1468/1993年
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は、このISO−2022−JPによって7ビット化された
文字コードが上記1の「JISコード」なのです。現在、インタ
ーネット・メールのほとんどが、このJISコードなのです。
 それを確認するために実験をしてみましょう。本文を次のよう
に書き、タイトルを「テスト」として、自分宛にメールを送って
いただきたいのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          タイトル:テスト
          本  文:ASCII漢字
―――――――――――――――――――――――――――――
 メールが着信した状態でそれをクリックして選択します。メー
ルを開かない状態でです。その上にマウスのポインタを置いて右
クリック。そうするとプルダウンメニューが出てきますので、一
番下にある「プロパティ(R)」をクリックします。
 そうすると「テスト」のウインドウが表示されます。ウインド
ウの「詳細」のタグをクリックし、「メッセージのソース(M)」
をさらにクリックし、画面を拡大してください。下の方に次のよ
うなメッセージが出てくるはずです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        Content-Type: text/plain;
         format=flowed;
         charset="iso-2022-jp";
         reply-type=original
   ⇒    Content-Transfer-Encoding: 7bit
―――――――――――――――――――――――――――――
 この中に「7ビットで内容をエンコードしている」というメッ
セージがあるのを確認できると思います。ISO−2022−J
Pという文字も見えると思います。
 着信した他のメールでも同じ操作をやってください。7ビット
でエンコードのメッセージがないものもありますが、これはあま
りにも当然なこととして省略されているのです。
 さらにひとつ付け加えると、「テスト」文書の表示されたメッ
セージの一番下に、次のようなわけのわからない文字列が出てい
るはずです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         $B!! (BASCII $B4A;z (B
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは「ASCII漢字」がエンコードされた状態なのです。この
ようなかたちで送信され、着信時にデコードされ、メールの本文
に「ASCII漢字」として表示されるのです。
 しかし、JISコードの仕組みを簡単にいうと、漢字のコード
はASCIIとは別の場所に置いてあって、漢字が必要になると
きは、「エスケープ・シーケンス」という制御文字で切り替える
という方法をとっているのです。
 メールは上から順番に読んで行くものであり、エスケープ・シ
ーケンスで切り替える方法でもかまわないのですが、OSの内部
処理ということになると、メールのように順番に読むとは限らず
ランダムにデータをアクセスすることが多いのです。
 その場合、そのコードの並びが、1バイト文字なのか2バイト
文字なのかOSにはわからないので、直前のエスケープ・シーケ
ンスまで戻って確認するという面倒なことをしなければならない
のです。
 そこで、ちょうどMS−DOSの日本語化作業を行っていたア
スキー・マイクロソフト社では、MS−DOSの内部処理用コー
ドとして、ひらがなや漢字などの2バイト文字を1バイト文字と
重複しないコード領域にシフトさせた方法を採用したのです。こ
れが「シフトJIS」といわれるものなのです。
 「シフトJIS」は、現在のOSであるウインドウズでも使わ
れており、文書作成はシフトJIS、メールはJISコードが共
存しているのです。   
        ―― [インターネットの歴史 Part2/19]


≪画像および関連情報≫
 ・ISO−2022−JPについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ISO−2022−JPは7ビットで表現されており、AS
  CII文字と漢字など、文字の切り換えには、エスケープ・
  シーケンスを用いている。2000年版では漢字が2ヶ所に
  分かれており、これもエスケープ・シーケンスで区別する。
  ISO−2022−JPは7ビットで表現されているため、
  欧米などで開発された8ビット目を無視する電子メールシス
  テムでも問題なく使用することができる。このため、電子メ
  ールでの日本語送受信はISO−2022−JPによって行
  なうことが事実上の標準となっている。
                     ――IT用語辞典
           http://e-words.jp/w/ISO-2022-JP.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月04日

バイトとオクテットの違いは何か(EJ第2052号)

 ISO−2022−JPは、村井氏とその仲間が中心となって
開発したものであるので、JUNETコードといわれています。
これは1バイト(8ビット)のうち、7ビットの部分しか利用で
きないようにしているのです。
 電子メールを送信するとき、メール自体はシフトJISで作成
されているので、メール送信時には日本語部分はシフトJISか
らJISコードに変換されて送信されます。
 このメールを受信した側のメールソフトは、メール中に埋め込
まれているエスケープ・シーケンスに基づいて、それ以降の文字
コードの種類を判断します。ASCIIの部分はそのままの英数
字として、JISコードの部分はシフトJISに変換したうえ画
面に表示されるのです。
 日本語を表示させる文字コードのうち、JISコードとシフト
JISについては説明を終わっていますが、もうひとつ残ってい
ます。それは「EUC」です。EUCは漢字EUCともいわれま
すが、次の省略形です。
―――――――――――――――――――――――――――――
       EUC = Extended Unix Code
―――――――――――――――――――――――――――――
 EUCはUNIXの環境下で主として使われます。ASCII
とは違って8ビット文字です。日本語だけではなく、韓国語版、
中国語版なども存在する国際語対応です。
 村井氏は、ISO−2022−JPの開発のかたわらUNIX
の国際語化についての基本的な解決努力をしています。1バイト
――8ビットのうちの8ビット目に特別な意味を持たせないよう
にベル研究所に訴えることです。
 1986年に村井氏はベル研究所で講演をしています。そのと
き、村井氏は日本では電子メールの多言語化、マルチランゲージ
化に取り組んでいる――そのためには8ビット目を何かに使わな
いようにして欲しいと訴えたのです。
 それから半年後に村井氏はもう一度ベル研究所から講演を依頼
されます。そのときのことを村井氏は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 半年後にもう一度講演に呼ばれてベル研究所を訪れたら、驚い
 たことにケン・トンプソンをはじめとする一流のコンピュータ
 ・サイエンティストたちが夢中になってビット・マップ・ディ
 スプレイに日本語を表示する研究をやっていました。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ケン・トンプソンといえばUNIXの開発者です。それを助け
たのはC言語の開発者であるデニス・リッチです。そのケン・ト
ンプソンとデニス・リッチが、村井純氏の講演を聞き、UNIX
の国際語化をやらないと、日本に先を越されると考えたのです。
 それ以降、ベル研究所の中で、米国においてUNIXの国際語
化の取り組みが本格化するようになり、やがて彼らの手によって
実現します。それがEUCです。
 これは、JISコードとは異なり、8ビットです。また、シフ
トJISに似ていますが、それとも異なります。このように、ベ
ル研究所を動かしたのは村井純その人なのです。
 インターネットの歴史に関連して、ビットやバイトの話をせざ
るを得ないので、逡巡しながらもあえて取り上げています。なぜ
なら、この話をすると、とくに中高年層は嫌うのです。大して難
しくないのに難しいと考える人が多いからです。
 私は、EJと同じ内容の記事を2年前からブログに掲載してい
ますが、このテーマになる前は一日平均450人――一日平均ア
クセス1200回――の来訪者があり、未踏の一日500人来訪
の直前まで来ていたのです。
 しかし、このテーマになると来訪者は減りはじめ、現時点では
150人ほど減って300人前後――一日平均1000回アクセ
スになっています。メルマガとしてのEJも届いているのに、こ
のテーマに関しては読んでいない人が多いと思います。これは大
変残念なことです。
 興味のないテーマまで読むことはない――こういう意見を持つ
人は多いです。それが正しいと思っています。しかし、この考え
方に立つと、知識が限定され、判断できること、理解できること
が限られてしまうのです。これは大変残念なことです。
 しかし、コンピュータやインターネットの話をするのに、この
話を避けては通れないのです。したがって、これからもひるむこ
となく続けていきます。
 繰り返しになりますが、8ビットは1バイトです。これはコン
ピュータにおいて情報の大きさをあらわす単位です。しかし、既
に見てきたように、1バイトには8ビットの場合も7ビットの場
合もあるのです。
 しかし、通信ネットワークの世界では8ビットは8ビットとし
て扱うので、バイトという単位を使わないのです。それは次の別
の名前で呼ばれるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          8bit = 1 Byte
          8bit = 1 Octet
          Octet = Octopus
―――――――――――――――――――――――――――――
 オクテット――これはオクトパス(蛸)という意味であり、蛸は
8本足があるので、そう呼ばれます。
 文字コードにはもうひとつ「ユニコード」というものがありま
す。しかし、ユニコードについては、日本のインターネットの歴
史と離れるので、別の機会に取り上げることにします。
 とにかくインターネット上で日本語が使えるところまで話はき
ました。村井純氏とその仲間――もし、彼らの努力がなければ、
ここまできていないのです。
        ― [インターネットの歴史 Part2/20]


≪画像および関連情報≫
 ・オクテットとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  情報通信の分野で、8ビット単位の情報。バイトの大きさが
  対象となる情報系に依存する(すなわち8ビットの場合もあ
  ればそうでない場合もある)のに対し、「オクテット」は常
  に8ビットを意味する。特に通信関係でよく使われる。なお
  音楽の世界で8人の奏者による重奏、またはその曲。メンデ
  ルスゾーン作曲の『弦楽八重奏曲』が有名である。
                    ――ウィキぺディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月05日

日本初のプロバイダIIJの誕生(EJ第2054号)

 JUNETにおいて村井氏とその仲間が、電子メールを日本語
で送受信できるようにした1987年のことです。米国では世界
初の商用プロバイダUUNETが発足して、UUCP接続サービ
スを開始しています。
 1990年代のはじめ、村井氏が創設したWIDEプロジェク
トには加入希望が殺到して、さばき切れない状態になっていたの
です。なぜなら、WIDEは村井氏を中心とする若手研究者が手
弁当で支えていたのですが、既に限界を超えていたからです。
 この事態に、日本初のインターネット・プロバイダを創設する
必要がある――村井氏はそう考えたのです。しかし、資金をどう
するか、社長を誰にするか――難問山積です。
 プロバイダになるには、電気通信事業法に定められている特別
第2種通信事業者のライセンスを取得することが必要なのです。
通信事業者は次の2つに分けることができます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 自ら設備を持って通信サービスを提供――第1種通信事業者
 諸設備を借用して通信サービスを提供――第2種通信事業者
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1種通信事業者はNTTのように通信設備を持っている業者
であり、第2種通信事業者は第1種通信事業者から諸設備を借り
て通信サービスを提供する事業者のことをいうのです。
 プロバイダになるには、その第2種通信事業者の中で、一定規
模以上の事業者、特別第2種通信事業者になる必要があります。
ここで「一定規模以上」というのは、通信回線が500回線以上
といった条件です。
 何はともあれ会社を設立する必要があります。しかし、そのた
めには、最低資本金1000万円を用意する必要があります。こ
のお金をどうして作るかです。
 結局そのお金は、WIDEの主要メンバーに出してもらうしか
なかったのです。20人近いWIDEのメンバーを村井氏が訪ね
て会社設立の趣旨を説明し、一人20万円から100万円の資金
を出してもらい、総額1800万円の資本金が集まったのです。
 問題は実際に会社を設立する実務を誰にやらせるかです。村井
氏の仲間には優秀なエンジニアはたくさんいたのですが、法律な
どを含めて会社の実務のわかる人間などいなかったのです。
 そういうメンバーの中に一人だけ株式投資を趣味にしていた男
がいたのです。楠本博之という人物です。楠本氏は当時通産省工
業技術院電子技術総合研究所に勤務する公務員だったのです。
 もっとも楠本氏は単に株式投資を趣味として少しやっているだ
けであって、それは会社の実務がわかるということとは無関係の
ことだったのです。しかし、村井氏は、楠本は株をやっているか
ら経済がわかる、それに公務員だから法律のことがわかる、だか
ら、会社の実務がわかるはずである――こういう発想で楠本氏に
会社のことをすべてまかせたのです。
 最大の難問は社長を誰にするかです。こればかりは楠本氏にま
かせるわけにはいかなかったので、村井氏が乗り出したのですが
なかなか引き受け手はいなかったのです。いろいろな曲折を経て
深瀬弘泰氏が引き受けることになったのです。
 1951生まれ、埼玉大学物理学科卒、金融系のソフトウェア
会社を経てアスキーに入社、順調に栄進して、技術企画部長まで
昇りつめた人物です。村井氏が最初に深瀬氏に社長就任を要請し
て一度断られているのです。しかし、一通り候補者に当たってみ
て、すべて断られて、再度村井氏は深瀬氏に頼み込み、社長を引
き受けてもらうことになったのです。
 このようにして1992年12月3日、国産初のインターネッ
ト・プロバイダ、インターネット・イニシアティブ企画――II
J( アイ・アイ・ジェイ)が誕生したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    IIJ = Internet Initiative Japan
―――――――――――――――――――――――――――――
 IIJの意味は、「インターネットにおいてイニシアティブを
取り続ける」という気持ちを込めて付けた名前なのです。元祖と
しての気概がそこに込められているのです。
 ところがIIJはスタートしたものの、特別第2種通信事業者
のライセンスがなかなか取れなかったのです。申請書類を出すと
「書類不備」ということで突き返される――書き直して提出する
とまた突き返される。これの繰り返してです。
 100回以上これを繰り返して、やっとあることがわかったの
です。本当の原因は書類が不備なことではないということを、で
す。一体何が原因だったのでしょうか。
 1994年に深瀬弘泰氏から社長を要請されて引き受けた鈴木
幸一氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 通信事業というのは公共性の高い事業なので、不特定多数の人
 にサービスを提供しなければいけないとか、サービスを止めて
 はいけないとか、そういうルールがあるんですよ。それだけの
 基盤があるかどうかをきちんと申請書類に書け、とそれが郵政
 省の言い分ですよ。その基盤は何かといえば、はっきりいえば
 金ですよ。その金がなかったからライセンスがもらえなかった
 のですよ。大難航するわけですよ。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、数億円ないし数十億円の資金力がなければ、特別第
2種通信事業者のライセンスがとれないということです。鈴木社
長が銀行と折衝し、IIJは郵政省が許容するぎりぎりの融資を
引き出し、1994年2月にやっと特別第2種通信事業者のライ
センスを取得します。会社設立後、1年3ヶ月かけて、やっとプ
ロバイダのライセンスを獲得したのです。IIJの事業はやっと
スタートしたのです。  
       ―― [インターネットの歴史 Part2/21]


≪画像および関連情報≫
 ・IIJについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  IIJは、1992年、日本で初めてインターネットの商用
  化を目的とした会社として設立されました。 以来、ネット
  ワーク技術の分野においてイニシアティブを取り続け、日本
  のインターネット業界をリードしてきました。日本のインタ
  ーネットの歴史は、IIJの歴史でもあります。
        http://www.iij.ad.jp/info/point/index.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月06日

IIJに対抗するプロバイダ事業設立の動き(EJ第2055号)

 1992年2月――特別第2種通信事業者のライセンスを取得
したIIJは、日本初のプロバイダ事業を開始したのです。同年
6月に資本金を6億円に増やし、10月にはIIJ東海、12月
にはIIJ九州を設立して、順調に事業を拡大しています。
 経営はすこぶる順調で、3年目に単年度黒字を達成し、4年目
には累積赤字を一掃するという快進撃を続けたのです。そして、
7年目の1999年8月に米国ナスダック市場に上場し、株式を
公開しています。
 そのときIIJの株価は、実に額面の500倍になったといわ
れます。村井氏が頭を下げて出資を募ったとき、100万円を出
していた人は、その時点で持ち株の評価は5億円になっていたこ
とになります。驚くべきことです。
 しかし、IIJの接続サービスは、次のようにかなり高めの料
金設定が行われていたのです。一番安いサービスで、「1秒間に
64キロビットの速度で月額料金50万円」という高めの料金設
定であったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     64Kbps ・・・・・ 月額  500000円
    256Kbps ・・・・・ 月額 1005000円
     1Mbps ・・・・・ 月額 1750000円
―――――――――――――――――――――――――――――
 なにしろやっているところが1社しかないので、高くなっても
仕方がないですが、それにしてもこの金額は高過ぎるのです。こ
れについてIIJは、使っている機器がコンピュータであるため
高くなると説明しています。
 旧来の通信に使われている機器の償却期間は10年〜15年で
すが、コンピュータは3年も経つとマシンが陳腐化してしまい、
3年ごとに設備償却が必要になる――それを前提に料金を計算す
ると、上記の価格になってしまうというわけです。
 このIIJの料金の高さに着目して、IIJに対抗するプロバ
イダを立ち上げることを考えた人がいます。東條巌氏――後の東
京めたりっく通信社長です。ADSLの先駆けとして有名になっ
た会社(既に消滅)です。
 東條氏は最初IIJの第2次プロバイダとして、限られた地域
で料金の安いサービスを提供できないかと考えて、何回もIIJ
に提案したのですが、IIJにことごとく断られたのです。
 IIJよりも安くサービスするプロバイダ――この話に乗って
きた企業があるのです。セコムがそうです。セコムは全国展開を
条件として、数十億円出資してもよいといってきたのです。しか
し、話が大きくなってきたので、東條氏は自らは社長をやらず、
当時、日本インターネット協会(JAS)の事務局長を務めてい
た高橋徹氏に社長の話を持って行ったのです。
 この時期インターネットを巡って多くの事業が立ち上がるので
すが、いずれも一番苦労するのは社長選びなのです。そこで少し
でもふさわしい人がいると、その人に社長就任の要請が集中する
ことになります。その一人が高橋徹氏であり、彼にはその経歴か
ら複数の社長の話が舞い込んできたのです。
 ところが高橋徹氏は技術畑の人ではなく、東北大学文学部哲学
科出身で、美術史を専攻するというITの世界とは何も関係のな
い人物であり、異色の存在といえるのです。
 高橋氏はある出版社の仕事の関係でニューメディアのことを調
べはじめるのです。そして、高橋氏は未知の情報技術に関心を持
ち、その関係からDCL(デジタルコンピュータ)社に転職し、
UNIXのワークステーションとルータという通信機器を扱うよ
うになるのです。1986年のことです。
 DCL社に移った高橋氏は、ある日UNIXのセミナーに出席
したところ、たまたまそのときのセミナーの講師が村井純氏であ
り、それが縁で村井氏と付き合うようになるのです。当時、村井
氏は、東京大学大型計算機センター助手をしていたのです。
 そういう1987年のある日、高橋氏は、東京大学大型計算機
センターに村井氏を訪ねます。そして、自分はルータ(プロテオ
ン社製)の担当であると話したところ、村井氏は目を輝かせたと
いいます。そして、次のようにいったというのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これで日本のインターネットができる。高橋さん、一緒に日本
 のインターネットを作ろうよ!
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 そして、1988年の村井氏はWIDEを立ち上げるのですが
そんなある日、村井氏は高橋氏を訪ねてきて、いきなり次のよう
に切り出したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    高橋さん、お願いだからルータをちょうだい。
               ――滝田誠一郎著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 さすがの高橋氏もこれには絶句したといいます。何しろルータ
は当時1000万円はする高級品なのです。したがって、ちょう
だいといわれても困るのです。しかし、何とかしてやりたい――
高橋氏は本気でそう思ったといいます。村井氏の人柄がそうさせ
たのでしょう。
 さいわい、DCL社は、販売用とは別に研究開発用のルータを
扱っており、このルータは一年で減価償却されるのです。そこで
減価償却されたことにして新しいルータを仕入れ、余ったルータ
を村井氏に回す――これを何度か繰り返したのです。
 1992年、高橋氏に2つの大きなスカウト話が舞い込んでき
たのです。一つは、インターネットの国際見本市「INTERO
P」を運営しているINTEROPカンパニーからのオファーで
あり、もう一つは、村井氏からのIIJへの社長就任の要請なの
です。     ―― [インターネットの歴史 Part2/22]


≪画像および関連情報≫
 ・INTERROP(インターロップ)とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ネットワーク機器と情報通信サービスをテーマにした世界最
  大級の会議および展示会。展示会ではネットワークのシステ
  ム構築、情報通信関連企業が、多様化する企業の情報通信シ
  ステム・ニーズに対してさまざまなアイディアを提案する。
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ・高橋徹氏の経歴
        http://www.riis.jp/jp/takahashi/index.html

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2007年04月07日

EJバックナンバー「ビートルズの話題」(その4)

2000年6月19日に配信したEJ第403号(全4回連載
の内第4回)を過去ログに掲載しました。
○ ロッ音楽は何を狙っているか(EJ第403号)
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2007年04月08日

EJバックナンバー「ラストサムライ」(その 1)

2004年2月23日に配信したEJ第1294号(全10回
連載の内第1回)を過去ログに掲載しました。
○ 感動の根源には何があるか(EJ第1294号)
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2007年04月09日

東京インターネットの設立(EJ第2056号)

 1992年に村井純氏は高橋徹氏にIIJの社長就任を要請し
たのですが、高橋氏はこれを断っています。なぜ、断ったのかに
ついて高橋氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 WIDEのメンバーを中心に、みんなでお金を出し合って日本
 初のプロバイダを作ろうということになったときに、村井さん
 から「社長をやってもらえない?」という話があった。だけど
 残念なことにお金がなかった。みんながお金を出すというとき
 に、自分はお金を出さないで社長になるなんてあまりにも図々
 しい話だから、それで断った。        ――高橋徹氏
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 こういう経緯があって、高橋氏はIIJの社長を断り、INT
EROP(インターロップ)カンパニーに転身を決めたのです。
もちろん村井氏にそのことを話し、了解を得ています。村井氏と
してもINTEROPが日本で開催されれば、インターネットの
普及に拍車のかかることであり、賛成したのです。
 当時デジタル・ハイテク技術の見本市といえば、コムデックス
――春・秋開催――が有名であり、とくに秋に米ラスベガスで開
催されるコムデックス・フォールは文字通り、世界最大の見本市
だったのです。世界中のメーカによるPCやそのOS、それらに
関連するソフトウェアを中心とする見本市には、世界各国から多
くの人がラスベガスに集まったのです。
 しかし、そのコムデックスは2003年を最後に休止されてお
り、現在ではインターネットをはじめとするネットワーク技術の
見本市、INTEROPの方が盛んになっているのです。高橋氏
への話は、INTEROPの日本開催が行われる前のことです。
 このようにして高橋氏はINTEROPカンパニーに移ったの
ですが、その直後にINTEROPカンパニーが米コンピュータ
関連最大手のジフ・デービスのグループ会社に買収され、高橋氏
は、ジフ・デービス・ジャパンに移って日本初のINTEROP
開催に尽力することになったのです。
 そして、1994年7月に日本初のINTEROPは、次の名
称で開催され、期間中5万人近い入場者を集めたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         NewWorld+Interop94 Tokyo
―――――――――――――――――――――――――――――
 ちなみに、INTEROP東京は今年も幕張メッセで次のよう
に行われるので、お知らせしておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 Interop Tokyo 2007/幕張メッセ
 2007年6月13日(水)〜6月15日(金)
 主催:Interop Tokyo 2007 実行委員会/運営:財団法人
 インターネット協会・CMPテクノロジジャパン株式会社
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本初のINTEROPが終わって一息ついている1994年
9月に、既出の東條巌氏から高橋氏にIIJの対抗プロバイダ会
社の社長にならないかという話があったというわけです。
 高橋氏によれば、東條氏の話は面白いし、IIJの料金の高さ
にも疑問があったので、やるなら今しかない――正直そう考えた
といいます。しかし、自らは村井グループ――IIJのシンパで
ある自分が、そのIIJの対抗会社の社長になったら、村井氏ら
に対して弓を引くことになるのではないかと悩んだのです。
 そこで、高橋氏はそのことを正直にIIJの株主でもある村井
純氏と中村修氏に話して意見を聞いたのです。そのやりとりを、
他に本が一切ないのでたびたび引用させていただいている滝田誠
一郎氏の本からご紹介します。なお、この本は絶版です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 村井純と中村修を前にして、IIJのひとり勝ちではうまくい
 かない。健全な競争原理が働いてこそ市場は活性化するという
 ような話をした。(中略)私が話し終わったら、村井純は「ち
 ょっと考えさせてよ」といって、3分くらい考えて「それやっ
 てよ」といった。オサムちゃんは「IIJはどうなっちゃうの
 ?」なんて驚いていたけど、村井純のそのひと言で決まった。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで、その時点のインターネット市場についてもう少し詳し
く述べる必要があると思います。IIJを日本初のプロバイダと
書いてきましたが、正確には「国内企業初」あるいは「国産初」
とすべきかもしれないのです。というのは、1993年10月に
「インターSPIN」という名称でAT&TJensが、インタ
ーネット接続サービスを始めているからです。したがって、II
Jはプロバイダとしては2番目になるのであって、日本初ではな
いことになります。
 AT&TJensは、1985年の通信自由化を踏まえて、A
T&Tが日本市場開発の尖兵として、1994年に設立した会社
なのです。もともとVANサービス――大型コンピュータを活用
したネットワーク・サービス――の会社としてスタートしたので
すが、1993年に新規事業開発要員として同社に入社した松本
敏文という新人の提案によって、インターネット・プロバイダ事
業に踏み切ったのです。しかし、AT&Jensの経営陣は、イ
ンターネットの効用を十分に理解していなかったようです。
 もちろんこのSPINもIIJも料金は馬鹿高かったのです。
高橋氏はそこを衝けば十分商機はある――そう考えて、1994
年12月に「東京インターネット」を立ち上げたのです。資本金
は2億4000万円、セコムが51%出資し、残りの49%はU
BA(ユニックス・ビジネス・アソシエーション)加盟のソフト
ハウス35社が出したのです。
          [インターネットの歴史 Part2/23]


≪画像および関連情報≫
 ・COMDEX(コムデックス)とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  毎年アメリカで春と秋の2回開催される世界最大規模のコン
  ピュータ展示会。春季の展示会をコムデックス/スプリング
  秋季の展示会をコムデックス/フォールと呼び、前者は例年
  ジョージア州アトランタで、後者は例年ネバダ州ラスベガス
  で開かれる。1995年にソフトバンクがコムデックスの運
  営会社のイベント事業部門を買収し、傘下に収めたこともあ
  る。1993年を最後に現在休止中。
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月10日

東京インターネットの挑戦と失敗(EJ第2057号)

 高橋徹氏を社長とする東京インターネットが設立されたのは、
1994年12月――その頃一般人の間でインターネットを知っ
ている人はほとんどいなかったと思います。しかし、一部の先進
的なビジネスパーソンの間では、企業内LANによる電子メール
やニフティ・サーブなどによるパソコン通信がかなり普及してお
り、その便利さは知られていたのです。
 ところで、東京インターネットは日本で4番目のプロバイダに
なるのです。というのは、1993年10月に富士通が、「イン
フォウェブ(InfoWeb)」 を立ち上げ、法人向けのサービスを始
めているからです。
 東京インターネットの高橋社長は、次の3つの方針を掲げて、
先行するAT&TJensとIIJ、それにインフォウェブに対
して、猛アタックをはじめたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       1.オープン経営を心がける
       2.高品質なサービスを実施
       3.価格破壊し安い料金実現
―――――――――――――――――――――――――――――
 高橋社長は、価格をIIJとAT&TJensの約半分で提供
することにし、顧客数を増やして利益を上げる、いわゆる薄利多
売の戦略をとったのです。
 これを可能にするために、東京インターネットの営業に特化し
た新会社、セコム・インターネット・サービスを設立しているの
です。先行3社を上回る圧倒的な営業力で、3社の保有顧客数を
超えようとしたのです。
 しかし、AT&TJensの顧客はかなり切り崩すことができ
たものの、IIJの顧客――大手の大口ユーザについては攻め落
とすことは困難を極めたと高橋氏はいっています。IIJの鈴木
社長の政治力、人脈は強固であり、マーケティング戦略も巧妙で
あったということです。
 営業力を強化しただけあって、東京インターネットの顧客数は
9ヶ月後にIIJのそれを抜き、初年度の売上高は7億7000
万円、2年目は33億円、3年目は67億円と数字上は順調に売
上げは伸びています。しかし、利益が伸びなかったのです。
 その原因はNTTに支払う回線料の高さです。何しろ東京イン
ターネットの場合、回線料は売上げの58%を占めていたので、
いかにコストを切り詰めても、なかなか赤字から脱却することは
できなかったのです。
 赤字が嵩んで、セコムから借りる。それでも間に合わないと増
資をする。その繰り返しで東京インターネットの黒字化は一向に
見通しが立たない状況が続いていたのです。
 この東京インターネットに比べると、先行の理はあるとはいえ
IIJは3年で単年度黒字、4年目で累損を一掃しており、経営
としては、はるかに堅実であるといえます。IIJの財務戦略は
初代社長の深瀬弘泰氏が見ていたのですが、NTTの回線料の高
さを十分考えて価格を決めていたと思われます。だからこそ価格
を高く設定したのです。そうしないと、経営が厳しくなると考え
ていたのです。
 AT&TJensは、スタート当初は松本敏文氏を含めて営業
3人、技術7人の体制だったのです。商用インターネットがまっ
たくないときにビジネスをはじめたので、そもそもインターネッ
トがどういうものであるかをわかってもらうのが大変だったとい
います。そのため数百人規模の無料セミナーを何度も行い、イン
ターネットの教育・PRに務めたのです。
 松本敏文氏はそのときのことを次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本のインターネット史のなかに「SPIN」を位置付けると
 したら、インターネットの黎明期に、ビジネスの世界にインタ
 ーネットという言葉、仕組み、それからインターネットの持つ
 効果を広くあまねく伝えたということが一番大きいのではない
 かと思っています。            ――松本敏文氏
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 東京インターネットの苦境が続くなかで、1997年春からN
TT系のOCN、KDD系のODNもプロバイダ事業に参入して
きたのです。しかも、他のプロバイダの3分の1から7分の1の
低料金を武器にしてです。自前の回線を使うキャリアに対して、
薄利多売は通用せず、東京インターネットの経営は一層深刻化す
ることになります。
 結局、価格破壊を掲げてインターネット市場に参入した東京イ
ンターネットは、1998年10月にPSINetに経営権が委
譲される事態になります。
 これに伴い、高橋徹氏は上級顧問に祭り上げられ、東京インタ
ーネットの経営から完全に退くことになったのです。経営権がP
SINetに委譲される日に高橋氏は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 東京インターネットの創設に関わったものとして、今回の米P
 SINet社傘下入りは、非常に重たいものがある。独立系の
 ISP事業者がNTTのOCNサービスに対抗するには、グロ
 ーバル化せざるをえなかった。現在ISP事業者が、NTTに
 支払っている回線使用料は、実に売り上げの60パーセントに
 至っており、この費用負担は国内市場だけではカバーしきれな
 い。NTTという独占的な企業が、OCNという採算を度外視
 したサービスを開始すれば、独立系のISPはたちうちできな
 い。米PSINeT社の傘下にはいることで、OCNに次ぐ第
 2のプロバイダーになりたい。     ――高橋徹上級顧問
http://ascii24.com/news/i/mrkt/article/1998/10/06/613043-000.html
―――――――――――――――――――――――――――――
        ――[インターネットの歴史 Part2/24]


≪画像および関連情報≫
 ・PSINeT倒産!!/2001年
  ―――――――――――――――――――――――――――
  業者向けのインターネットサービス事業のパイオニアである
  PSINeTは、ニューヨーク南部地区連邦破産裁判所に、
  資産保護のため連邦破産法に基づく再建手続きの適用を申請
  した。負債総額は43億ドル。PSINeTはこの4年間精
  力的に企業買収を展開していた。米国内に24社ある同社傘
  下の子会社も、今回の申請に含まれている。
    http://japan.internet.com/busnews/20010602/12.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月11日

『月刊アスキー』の果した役割(EJ第2058号)

 株式会社アスキーという会社があります。とくにPCとかイン
ターネットに興味がない人でも「アスキー(ASCII)」の名
前を聞いたことがないという人はあまりいないと考えられます。
 現在でも書店に行くと、『週刊アスキー』をはじめとする「ア
スキー」の名を冠した雑誌や書籍が並んでいます。最近ではIT
だけでなく、ビジネスのテーマも取り上げる『ascii』とい
う月刊誌まであります。かつての『月刊アスキー』を新装改訂し
たものです。意外に知られていない雑誌ですが、実に良い記事を
出しており、私の熟読する雑誌のひとつです。
 この株式会社アスキーに関連して知っておくべき人物として、
次の3人がいます。役職はいずれも当時のものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    郡司 明郎 ・・・・・ 代表取締役 社長
    西  和彦 ・・・・・ 代表取締役副社長
    塚本慶一郎 ・・・・・ 代表取締役副社長
―――――――――――――――――――――――――――――
 この株式会社アスキー――正確には「アスキー出版」は、もと
もとは1977年に西和彦氏が月刊アスキーを発刊するために設
立した会社なのです。1978年にビル・ゲイツが率いるマイク
ロソフトと提携して、社名を「アスキー・マイクロソフト」とし
て、同社のOS、MS−DOSの普及に尽力したのです。
 西和彦氏は、破格の条件でビル・ゲイツにマイクロソフトに誘
われますが、西氏はこれを断り、社名を株式会社アスキーと改め
たのです。
 月刊アスキーをはじめとするアスキーの出版物は、PCやソフ
トウェアに関する情報が乏しかった時代を反映してよく売れ、一
時はあの孫正義氏の率いるソフトバンク(当時は出版物中心)と
並ぶ存在だったのです。
 西和彦氏が初期の月刊アスキーを普及させるための苦労話を何
かの雑誌で読んだことがあります。月刊アスキーの創刊号を作っ
たものの、それを売る手段がない。雑誌を売るには取次店を通す
必要があるのですが、西氏にはそんなコネクションはゼロです。
仕方がないので、書店を一軒ずつ訪ねて直接交渉したのです。
 雑誌を数冊持って書店を訪ねるのですが、実は3人で行くので
す。西氏は書店の主人と交渉するときに雑誌をさりげなくそばの
棚に置くのですが、これが仕掛けなのです。いかにも他の雑誌と
同様に売り物のように見せるわけです。
 書店の主人はヒマですから、話相手にはなってくれるのですが
なかなかウンといってもらえない。そうしているうちにサクラの
2人のうち1人が、月刊アスキーを売り物と間違えて手にし、い
かにも興味深そうにページをめくりはじめるのです。そうすると
もう1人のサクラがまた、アスキーを手にする――このような芝
居をすると、置いてくれる書店が10店中2〜3店はあるという
のです。実際そういう書店での売れ行きは好調だったのです。
 このようなウソのような本当のような話が伝わっているのです
が、とにかく月刊アスキーはよく売れたのです。何しろPCやソ
トウェアに関する情報に飢えている若者が大勢いたからです。
 株式会社アスキーは、郡司、西、塚本の3人体制――トロイカ
体制といえば格好が良いが、3人てんでバラバラで好きなことを
やっていたのです。
 このなかで唯一ネットワークに関心を持っていたのは、塚本慶
一郎氏だけだったのです。塚本氏がネットワークに興味を持った
のは、1984年9月にニューヨークに出張していたときのこと
なのです。偶然ですが、9月14日に長野県西部でマグニチュー
ド6.8の地震が起きたのです。
 そのとき、ニューヨークに在住している塚本氏の友人は、タン
ディのハンドヘルドコンピュータを使って、パソコン通信にアク
セスし、詳細を聞き出してくれたのです。そのとき、塚本氏は、
これこそ新しい時代の知のあり方であり、パソコン通信は新しい
時代のメディアになると確信したといいます。
 帰国して塚本氏はそのことを郡司、西両氏に話したのですが、
2人はまるで興味がなかったようです。塚本氏はそのときのこと
を次のように話しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 トロイカ体制といっても、それぞれ好き勝手なことをやってい
 ましたから、よくいえばお互いを信じていたというか(笑)。
 もちろん郡司さんや西さんにも話はしましたけど、いくら話し
 てもぼくがニューヨークで体験した感動は伝わらない。「フー
 ン」とかいっておしまい。郡司さんはソフト寄り、西さんはハ
 ード寄りで、それぞれ別の関心を持っていましたから。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時塚本氏は株式会社アスキーの出版局長をしていたのですが
出版局のスタッフは、ほぼ全員ネットワークが中心となるという
塚本氏の考え方を支持したのです。彼らは、雑誌の記事の反響に
よって読者が何を望んでいるかをよく知っていたからです。
 塚本氏は、そういう出版局の若手を中心にパソコン通信を事業
化しようとしたのです。そして、1985年5月、「アスキーネ
ット」の無料実験サービスを開始したのです。それを待ちかねて
いたのは、パソコン・オタクたち、彼らは一斉にそれに飛びつい
たのです。その結果、モデムが溶けて壊れてしまうというアクシ
デントが次々と起こったほどのフィーバーになったのです。
 ところで、このパソコン通信なるもの――一時期一世を風靡し
たのです。ところで、パソコン通信とは何でしょうか。インター
ネットとはどう違うのでしょうか。
 ここまで取り上げてきたJUNETやWIDEが、大学や企業
の専門家を相手とするものであったのに対し、パソコン通信は個
人を対象とするネットワークであったということは、重要なこと
であると思います。   
        ―― [インターネットの歴史 Part2/25]


≪画像および関連情報≫
 ・西和彦氏の2005年の講演から
  ―――――――――――――――――――――――――――
  パソコンに搭載されるプロセッサはいよいよ64ビットとな
  る。64ビット時代はUNIX系のGUIが主流となる。U
  NIX−PCによるアップサイジングの時代であり、ワーク
  ステーションの定義が変わる――と西氏はいう。パソコンの
  性能向上は、PCサーバを大量に接続し、大型コンピュータ
  と同等の機能を実現させようとするパソコンのアップサイジ
  ングという動きを引き起す。グリッド・コンピューティング
  はこのような動きの具体例だろう。
    http://www.atmarkit.co.jp/news/200507/14/west.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月12日

NIF/ニフティ・サーブの誕生(EJ第2059号)

 1985年3月に株式会社アスキーはある本を出したところ、
空前の大ヒットになったのです。書名は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       『パソコン通信ハンドブック』
            株式会社アスキー刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 どういう内容かというと、パソコン通信はどういうものか、モ
デムとは何か、なぜ、シフトJISなのかなど――パソコン通信
の基礎知識についてまとめたものです。「パソコン通信」の情報
がほとんどないときであり、この本は、当時の価格で2500円
――現在でもかなり高額の本ですが、発売と同時に売り切れ、初
版3万5000円はたちまち売り切れ、増刷になったというので
す。そして何回か増刷されたのです。
 実はこの本を熱心に読んで、あるプロジェクトを決断した企業
があります。当時電気通信事業への進出について意欲を燃やして
いた日商岩井と富士通の2社です。
 そのプロジェクトとは、両社の役員同士の合意を受けて、19
85年の5月の連休に、両社の情報システム担当者が富士通の沼
津研修所に集まって合宿し、特命テーマについて検討を行ったの
です。その特命テーマとは次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  個人向けのサービス――パソコン通信の事業化の可能性
―――――――――――――――――――――――――――――
 この合宿は夜を徹して行われ、その結論は数十ページに及ぶ報
告書にまとめられたのです。そこには、パソコン通信は個人向け
サービスとして最適であるが、そのためには既にこの事業で16
万人を超える会員を集めている米コンピュサーブと提携すること
が不可欠であると書いてあったのです。
 この報告書は両社の役員会で検討され、日商岩井と富士通の共
同提案というかたちでコンピュサーブに対する提案書が作成され
たのです。そして両社の担当者がオハイオ州コロンバスにあるコ
ンピュサーブの本社に行って提案書を提出したのです。このよう
にいうと、まるで役所に書類を提出するようですが、既に日本の
商社や出版社数社が先に提案書を出していたので、そういうかた
ちになったわけです。
 競合会社の中で最大の強敵は三井物産だったのです。しかし、
1985年8月12日――待ちに待ったコンピュサーブから「交
渉したい」というメッセージが届いたのです。これは、三井物産
の提携にはまだ結論が出ていないというサインです。
 結局、コンピュサーブと三井物産の交渉はもの別れに終わるの
です。理由は、ライセンス料が折り合わなかったものと思われま
す。事実コンピュサーブ側のライセンス料は、あまりにも高額で
あったからです。
 しかし、日商岩井と富士通はコンピュサーブ側の要求をすべて
飲んだのです。何としてもパソコン通信事業をやり遂げるという
強い意思が働いたからです。そのライセンス料の高さについて、
当時現地でコンピュサーブと交渉に当たった日商岩井情報通信プ
ロジェクト室の山川隆氏は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 契約上ライセンス料がいくらかということはいえないんですが
 一社で負担するのは躊躇せざるを得ない金額でした。日商岩井
 と富士通で折半するにしても決して軽い負担じゃない。だけど
 やると決めた以上はライセンス料やロイヤリティを値切るよう
 なことはしないで、向うの要求を全部飲もうと、われわれはそ
 ういう方針で臨んだ。            ――山川隆氏
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、日商岩井と富士通については「神風」が吹くのです。
それは1985年9月の「プラザ合意」なのです。これによって
急ピッチな円高が進み、実際に支払うライセンス料が半分ぐらい
で済んだことになります。日商岩井と富士通は非常に幸運であっ
たといえます。
 1986年2月4日、日商岩井、富士通、コンピュサーブの各
社長が合同で帝国ホテルに集まって、エヌ、アイ、エフ――NI
F/現ニフティの設立を発表したのです。NI=日商岩井、F=
富士通の頭文字をとっての命名です。
 NIFは、資本金は4億8000万円。社員は14名。日商岩
井と富士通の折半出資、社員の出向でスタートしています。既出
の山川隆氏は企画部長に就任したのです。
 NIFのスタートまでには、この新規事業に対する反対意見が
山ほどあったのです。一番多かったのは、パソコン通信のような
消費者マーケットを相手にするサービスに多額の資金を注ぎ込ん
で本当に採算が取れるのかという懸念です。
 この懸念はこの企画を検討した沼津研修所におけるプロジェク
トで問題になり、あらゆる角度から検討した結果、やってみなけ
ればわからないが、努力すれば十分いけるという結論に達してい
たのです。
 もうひとつは、とくに富士通サイドに強かった反対意見ですが
コンピュサーブという海外の企業と組むことに対する反対意見な
のです。富士通という企業は、国産技術、自前の技術にこだわり
があり、高いライセンス料を支払うことに対する強い抵抗感を感
じていたのです。
 しかし、日商岩井と富士通はこうした様々な課題を乗り切り、
1986年2月にNIFを設立、一年後の1987年4月15日
には満を持して、パソコン通信サービス「ニフティ・サーブ」を
立ち上げたのです。ニフティ・サーブは、スタート以来、倍々ゲ
ームで会員を増やし、日本のパソコン通信サービスのナンバーワ
ン企業に踊り出るのです。しかし、そのニフティ・サーブは現在
は存在しないのです。  
        −― [インターネットの歴史 Part2/26]


≪画像および関連情報≫
 ・パソコン通信について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  パソコン通信は、専用ソフト等を用いてパソコンやワープロ
専用機、その他携帯端末を一般加入回線経由でホスト局に接
続し、サーバ(またはノード、ホスト)との「直接の通信を
  確立」して文字を中心としたデータ通信を行う手法及びそれ
  によるサービス。パソコン通信全盛期は一般にモデム等を使
  い一般加入者回線を用いてダイヤル接続していたが、ホスト
  局に接続するために入会登録を必要としたところもあった。
  インターネットが世界中のネットワーク同士を結ぶ開かれた
  ネットワークであるのに比べると、パソコン通信は原則とし
  て特定の参加者(会員)同士のネットワークで、閉じたネッ
  トワークということになる。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月13日

パソコン通信が中心のMSN(EJ第2060号)

 日本最初のパソコン通信会社/ニフティ・サーブは、2006
年3月31日まで続いたのです。実に19年間――インターネッ
トが普及するなか、よく続いたものです。
 これに対して、マイクロソフト社のMSN(マイクロソフト・
ネットワーク)は、1995年にパソコン通信会社としてスター
トしたものの、次の年の1996年にパソコン通信を中止しイン
ターネット・サービス・プロバイダ(ISP)としてスタートし
ています。あまりにも対照的です。
 MSNの場合、明らかに方針転換なのです。つまり、マイクロ
ソフト社は、ウインドウズ95を発売する時点ではインターネッ
トはあまり念頭になく、パソコン通信事業を継続していくつもり
だったということです。
 1996年1月に私がウインドウズ95について書いた本があ
ります。当時日本のビジネスパーソンの間ではパソコン通信がか
なり普及していたのです。この本のなかでMSNについて書いた
部分があるので、以下に引用します。その当時マイクロソフト社
がMSNについてどのように考えていたかわかるからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ウインドウス95の波紋として、もうひとつ見逃せないもの
 があります。それは、ウインドウズ95の発売と同時にサービ
 ス開始したパソコン通信事業、MSN(マイクロソフト・ネッ
 トワーク)です。
  第1は、MSNはGUI(グラフィカル・ユーザ・インター
 フェイス)を前提としたサービスであり、従来のパソコン通信
 のイメージを破っていることです。(一部略)
  第2は、MSNにはウインドウズ95に標準で装備されてい
 る専用の通信ソフトウェアしかアクセスできないことです。こ
 の通信ソフトはウインドウズ95と操作性が統合されており、
 ウインドウズ95に標準でついています。MSNへのアクセス
 はこの通信ソフトがないとできないのです。(一部略)
  第3は、MSNはごく簡単な操作でアクセスでき、インター
 ネットにも簡単に接続できるということです。
  ウインドウズ95のユーザは、まるでハードディスクのなか
 をのぞく気軽さでMSNにアクセスできます。そして、簡単な
 登録手続きでMSNのサービスを利用できます。まさに、ウイ
 ンドウズ95の拡張機能なのです。どこまでが、ウインドウズ
 95でどれがMSNなのかわからないユーザも多いはずです。
 ――平野浩著、『ウインドウズ95パソコンらくらく修得法』
               KOSAIDO BOOKS/廣済堂出版刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、結果としてこのやり方は成功していないのです。当時
世界一のパソコン通信会社AOL社から独占禁止法(反トラスト
法)訴訟を起こされ、以後長期間にわたってマイクロソフト社に
とって重い足かせになったからです。
 上記文中に「MSNはごく簡単な操作でアクセスでき、インタ
ーネットにも簡単に接続できる」というところがあります。これ
を見ると、明らかにパソコン通信が中心で、インターネットはそ
の他的扱いになっています。
 この傾向は、ウインドウズ95の発売の時点で、WWWにアク
セスするブラウザ――インターネット・エクスプローラは標準装
備されていなかったことでもみられることです。それほど、マイ
クロソフト社はインターネットに無関心であったのです。
 なぜ、マイクロソフト社は、その時点でも怒涛のように襲いか
かりつつあったインターネットの波に、十分対処しなかったので
しょうか。
 最大の原因は、マイクロソフト社の総帥であるビル・ゲイツ自
身がインターネットに無関心だったからです。これについて、東
京電機大学の脇英世教授が面白いことをいっておられます。ビル
・ゲイツは、インターネットはゴールドラッシュであると考えて
いたというのです。だから、出遅れた、と。
 ゴールドラッシュで一攫千金の夢を果たした金鉱掘りはほとん
どいなくて、結局儲けたのは全米から集まった人々に食料などの
生活必需品を売った人々といわれているのです。ビル・ゲイツが
とりわけ好きなのは、ゴールドラッシュの3年後に食料品を売り
はじめ、20年後にリーバイのジーンズを売って財をなしたドイ
ツ移民のリーバイ・シュトラウスなのです。
 したがって、ゴールドラッシュのようなインターネットに手を
出さず、まっとうな仕事に精を出すべきだと考えたのです。その
まっとうな仕事というのが、パソコン通信事業だったというわけ
です。しかし、それは結果として間違えていたのです。
 もうひとついえることは、マイクロソフト社はインターネット
の技術に弱いことがあげられます。これについては、次回に詳し
く述べますが、ビル・ゲイツは密かにこのことに不安を持ってい
たのではないかと思われます。それは、ビル・ゲイツ自身の伝記
に出ている次の文章からもそれとわかります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは考えると恐ろしいことだが、コンピュータ技術の進展の
 なかで、ある時期の業界リーダーは、けっして次の時期のリー
 ダーになれなかったという事実もある。マイクロソフトは「パ
 ソコン期」のリーダーだった。ということは、歴史的見地から
 すれば、情報時代の「ハイウェー期」のリーダーとしてはマイ
 クロソフトは不適格なのかもしれない。わたしはそのジンクス
 に挑戦したい。             ――ビル・ゲイツ
       ――西 和彦著、『ビルゲイツ未来を語る』より
                      アスキー出版刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、インターネットに乗り遅れる危機には、ビル・ゲイツ
は見事な采配によって乗り切っています。ところがウェブ2.0
時代の現代、次のニューウェーブにマイクロソフト社は乗り切れ
ないでいます。 −― [インターネットの歴史 Part2/26]


≪画像および関連情報≫
 ・MSNとは
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ウインドウズ95の発売と共にサービスを開始した。当初は
  いわゆるパソコン通信的なサービスであり、マイクロソフト
  は、当時関心の高まっていたインターネットには否定的だっ
  た。しかしユーザーにおけるインターネットへの関心が無視
  できないとわかると、急遽路線を変更してインターネットの
  接続サービスに転換、さらに情報系コンテンツを充実させ、
  MSNをインターネットのポータルサイトへと位置付けた。
  現在は日本をはじめ接続サービスからは撤退している国が多
  い。                ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月14日

EJバックナンバー「ラストサムライ」(その2)

2004年2月24日に配信したEJ第1295号(全10回
連載の内第2回)を過去ログに掲載しました。
○ 勝元盛次は西郷隆盛ではないか(EJ第1295号)
posted by 平野 浩 at 04:33| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月15日

EJバックナンバー「ラストサムライ」(その3)

2004年2月25日に配信したEJ第1296号(全10回
連載の内第3回)を過去ログに掲載しました。
○ 明治天皇と西郷隆盛(EJ第1296号)
posted by 平野 浩 at 05:17| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月16日

なぜ、インターネットを軽視したのか(EJ第2061号)

 マイクロソフト社がインターネットに乗り遅れかけたという話
は、「インターネットの歴史」(EJ第1661号〜EJ第17
06号)のEJ第1705号で簡単に取り上げています。しかし
これは「インターネットの歴史/日本編」にも多少関係するので
若干重複しますが、少し詳しく述べたいと思います。
 ビル・ゲイツがMSNを立ち上げた日――1994年11月2
日まで、彼がインターネットではなく、本気でパソコン通信事業
をやるつもりでいたのにはちゃんとした理由があります。ちなみ
に米国では、日本でいうパソコン通信のことをオンライン・サー
ビスと呼んでいたのです。
 実は、同年11月1日――つまり、MSN立ち上げの1日前に
私は米ラスベガスのコンベンションセンターで、ビル・ゲイツの
基調講演(COMDEX/1994)を聞いていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      Information At Your Fingertips 2005
       ――指先で情報を/2005年――
―――――――――――――――――――――――――――――
 このときの講演内容は、私の英語力では正直いって細部まで聞
き取れなかったので、脇英世氏の本から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1994年当時のマイクロソフトはひどく保守化していた。
 たとえば、11月1日に開かれたパソコン関係で有名な展示会
 COMDEX/94におけるビル・ゲイツの基調講演「指先で
 情報を/2005年」はその頂点にあったように感じた。20
 05年の技術予想がこの程度のものとはとても納得できないと
 いうのが私の率直な感想だった。
  ビル・ゲイツはマイクロソフトの戦略は、新技術の展開に期
 待するよりも、既存技術を活用することに重点があると言った
 のである。インターネットは不要で、28・8Kbps モデムも
 不要と言い切った。高速過ぎるというのである。「何を馬鹿な
 ことを」とラスベガスの会場で聞いていた私はびっくりした。
    ――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ビル・ゲイツほどの人物が、なぜこのような判断ミスをしたの
か、単なる「ゴールドラッシュには手を出すな」という教訓にし
たがっただけとは思えないものがあります。
 実は、これには次の3人の人物のそれぞれの人間関係と、マイ
クロソフト社の社内風土にかかわりがあるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         ラッセル・シーゲルマン
         ブラッド・シルバーバーグ
         ジェームス・アラード
―――――――――――――――――――――――――――――
 ラッセル・シーゲルマン――1984年にMITを卒業し、一
時人工知能(AI)の仕事をした後、1989年にハーバード大
学で経営学修士号を取得して、1989年9月にマイクロソフト
社に入社しています。
 最初に配属されたのは、ネットワーク・ビジネス・ユニットで
ボスはマイク・マーレーだったのです。1990年にシーゲルマ
ンは、マーレーの命により、ブラッド・シルバーバーグのグルー
プに異動となり、WFW(ウインドウズ・フォー・ワークグルー
プス)のプロダクト・マネジャーになったのです。
 WFWは、ウインドウズとLANマネジャーを組み合わせて、
ウインドウズをピアー・ツー・ピアの環境で使わせようと意図し
たもの――少しわかりにくいですが、そういうソフトウェアなの
です。しかし、WFWは競合商品である「LANタスティック」
に完敗し、事業は失敗に終ったのです。
 1992年にシーゲルマンは突如WFWチームをやめて、アメ
リカ・オンライン――AOLに対抗するMSNの計画を練ること
になったのです。このシーゲルマンのWFWチーム脱退の経緯は
問題があったようで、その後シーゲルマンとシルバーバーグの仲
は険悪なものになったのです。
 シルバーバーグのチームは、WFWの開発打ち切り後、ウイン
ドウズ95の開発を担当するのですが、シーゲルマンとシルバー
バーグの仲が悪いので、MSNの開発チームとウインドウズ95
の開発チームの間にはすきま風が吹く事態となったのです。
 1993年5月11日にシーゲルマンは正式にMSNの担当に
任命されたのです。問題は、シーゲルマンがMSNの性格をあく
まで、AOL型のオンライン・サービス事業と考えており、どち
らかというと、インターネットを軽視していたのです。
 しかし、これはひとりシーゲルマンだけを責めるわけにはいか
ないのです。当時のマイクロソフト社内では、ビル・ゲイツをは
じめとして、インターネットの評価を低く考えていたフシがあり
ます。その証拠に、インターネットの基本的なプロトコルである
TCP/IPのわかる技術者がほとんどいなかったのです。
 しかし、1991年9月1日入社のジェームス・アラードは、
TCP/IPに詳しく、入社後彼はTCP/IPの担当になった
のです。しかし、これといった実績がないため、マイクロソフト
社内でのアラードの発言力は低く、誰もまともにアラードの意見
を受け入れなかったといいます。
 MSNの開発においても、アラードはシーゲルマンに対し、マ
イクロソフト独自のプロトコルではなく、TCP/IPを使うべ
きだと主張したのですが、シーゲルマンは、まったく聞き入れな
かったのです。
 1991年当時のマイクロソフト社内では、TCP/IPのこ
とを「TCピップ」と呼んでいたという話があります。これは、
ITを「イット」と呼ぶのと同次元の話です。信じられない話で
すが、マイクロソフトはそれほどTCP/IPという技術を苦手
としていたのです。   
       −― [インターネットの歴史 Part2/27]


≪画像および関連情報≫
 ・WFW(Windows for Workgroups)とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ウインドウズ3.1にピア・ツー・ピアネットワーク機能を
  拡張したOS。『仮想ネットワークドライブ』という32ビ
  ット化された機能で、ネットウェアやウインドウズNTサー
  バーにアクセスする、WFWの初期バージョン。その後,フ
  ァイルアクセスやネットワークアクセスをプロテクトモード
  から行えるように改良したバージョン3.11が発表され,
  アメリカでは多くのPCメーカーがこれをバンドリングして
  いるが、日本語版は未発売。
        http://www2.nsknet.or.jp/~azuma/w/w0021.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月17日

マイクロソフトの専用ブラウザ誕生(EJ第2062号)

 ブラッド・シルバーバークをマイクロソフトに入社させたのは
ビル・ゲイツその人です。シルバーバークの専門はデータベース
であり、当時マイクロソフトが製作していたコードネーム「オメ
ガ」というデータベース製品の開発にシルバーバークの力が必要
だったからです。このような経緯で1990年5月にシルバーバ
ークはマイクロソフトに入社するのです。
 シルバーバークはマイクロソフトに入社するや、ウインドウズ
3・1、DOS6、DOS6・2などを手がけて、マイクロソフ
ト期待のOS、コードネーム「シカゴ」に着手するのです。「シ
カゴ」というのは、ウインドウズ95のことです。
 マイクロソフトにとって不幸だったことは、昨日のEJで述べ
たシルバーバークとシーゲルマンの諍いです。これがあったから
こそシルバーバークは、MSNとは関係なく、ウインドウズ95
のブラウザ技術を開発することにしたのです。
 そのブラウザ技術の開発に当たったのは、ベン・スリフカとい
う人物です。スリフカは、イリノイ州のノースウェスタン大学で
ダブル・メジャー――コンピュータ科学科と応用数学科の2つの
専門科目を専攻しています。
 スリフカは、一時IBM社に入ったのですが、すぐに肌に合わ
ないとして退社し、1984年にマイクロソフトの公募にしたが
い、採用されたのです。入社後、DOS6、DOS6・2の開発
においてシルバーバークと一緒に仕事をするようになり、彼がウ
インドウズ95のブラウザ開発に当たるのです。
 ちなみに、ウインドウズ95のコードネームは「シカゴ」なの
ですが、そのブラウザのコードネームは「オヘア」――オヘアと
は、シカゴ近郊の空港の名前なのです。これに関連するコードネ
ームの傑作は「カポネ」――ギャングの名前ですが、これはウイ
ンドウズ95用の電子メールのコードネームなのです。
 スリフカが具体的にブラウザの製作に着手したのは、1994
年の後半のことであり、かなり遅いのです。なぜなら、マイクロ
ソフト社内では、ネットワークに関しては公式にMSNが走って
おり、何も問題ではなかったからです。しかし、スリフカは、次
の3社のブラウザの買収を検討していたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        ネットスケープのブラウザ
        スパイグラス のブラウザ
        ブックリンク のブラウザ
―――――――――――――――――――――――――――――
 スリフカは、1994年8月からスパイグラス社と折衝を開始
します。一方、MSNを担当するシーゲルマンはブックリンク社
との提携を考えていたのです。
 しかし、1994年11月にブックリンク社はAOLに買収さ
れてしまうのです。これを受けてシーゲルマンはブラウザの独自
開発を決意し着手したのです。コードネームは「ブラック・バー
ド」――しかし、このブラック・バードは日の目を見ることはな
かったのです。飛べなかったからです。
 このスパイグラス社は、現在のブラウザの元になる「MOSA
IC/モザイク」のライセンス供与について実権を有していたの
です。MOSAICは、イリノイ大学内の研究機関NCSAが開
発したブラウザなのです。
 NCSAは次の言葉の略ですが、イリノイ大学ではコンピュー
タ科学選考の学生を雇って、アプリケーションなどの開発を行っ
ていたのです。MOSAICはこのNCSAで生まれたのです。
このブラウザは、希望者にはインターネット上で無償で配布され
大変な評判となったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  National Center for Super Computiong Applications
―――――――――――――――――――――――――――――
 MOSAICのライセンスについての窓口は、最初のうちはN
CSAが行っていたのですが、あまりにも問い合わせが殺到した
ので、スパイグラス社にマスターライセンスを供与し、全てのラ
イセンス契約を委ねたのです。
 スリフカはあくまでNCSA系のブラウザの権利を買い、それ
を改良するのが一番早いと考えていたのです。NCSA系のブラ
ウザは、その時点でスパイグラス社のMOSAICか、マーク・
アンドリーセン開発によるネットスケープしかなかったのです。
 しかし、MOSAICには大きな欠点があったのです。それは
ウェブページを全部読み込むまでは、画面上に何も表示されない
ということです。マーク・アンドリーセンは、この欠陥を改良し
ストリーミング機能を取り入れ、読み込んだ部分を順次表示させ
るブラウザを開発したのです。これが「ネットスケープ」です。
そして、これを1994年10月に公表しているのです。アンド
リーセンは、NCSAのエンジニアを6人引き抜き、会社を設立
します。これがMCC社――モザイク・コミュニケーションズ・
コーポレーションですが、これが、ジム・クラークが率いるネッ
トスケープ・コミュニケーションズ社になるのです。
 マイクロソフト社は、スパイグラス社とMCC社の2社と交渉
したのですが、MCC社は煮えきらず、マイクロソフト社はスパ
イグラス社を相手に絞って、本腰を入れて交渉したのです。
 交渉は難航をきわめます。マイクロソフトは、スパイグラス社
の求める1本につき1ドルのライセンスフィーに首を縦に振らな
かったのです。交渉は12月まで続き、ロイヤリティは支払うが
200万ドルを上限とするという契約を結んだのです。この契約
では、スパイグラス社は、マイクロソフトのブラウザが200万
本以上売れても、200万ドル以上は受け取ることができないも
のであり、明らかにスパイグラス社にとって不利です。
 これでマイクロソフト社はMOSAICのソースコードを手に
入れ、スリフカのチームは1995年8月にブラウザを完成させ
るのです。これが「インターネット・エクスプローラ1・0」な
のです。    −― [インターネットの歴史 Part2/28]


≪画像および関連情報≫
 ・ブラウザに関するサイトより/ブラウザの歴史
  ―――――――――――――――――――――――――――
  今でこそブラウザ(インターネット閲覧ソフト)の種類は数
  え切れないくらいたくさんあり、そのどれもがグラフィック
  や動画、音声をサポートした華やかなものです。しかしわず
  か10数年前には考えられないことだったのです。Webの
  誕生から今日にいたるまでのブラウザの果たしてきた役割は
  非常に多かったといえるでしょう。
     http://www.scollabo.com/banban/tips/browser.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月18日

力でネスケを駆逐したマイクロソフト(EJ第2063号)

 1994年11月にMSNは立ち上げられたのですが、その時
点でビル・ゲイツは自分の失敗に気がついていたのです。そして
早くもMSNの見切りを決断したのです。
 ウインドウズ95の追い風に乗ってMSNは、AOLについで
業界2位になったものの世の中は既にオンライン・サービス――
パソコン通信の時代ではなかったのです。シーゲルマンは閑職に
異動させられ、間もなくマイクロソフトを退社しています。
 ビル・ゲイツは、マイクロソフトの役員・幹部に対して明確に
方針転換を伝え、猛烈な勢いで普及している「ネットスケープ・
ナビゲータ」に対して、自分が先頭に立って戦いを挑むことを宣
言しているのです。
 ビル・ゲイツは、ネットスケープ・コミュニケーション社(以
下、ネットスケープ社)に対して、公式の反攻宣言も行っている
のです。それは、1995年12月7日、ワシントン州シアトル
での記者団向けのブリーフィングにおいてです。
 このときのビル・ゲイツの演説は、日本人にも無関係ではない
ので、脇英世氏の本から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 おはようございます。今朝、私、12月7日は大変有名な日で
 あることに気がつきました。54年前またその頃のことです。
 私は今ここで起こっていることと似たことがなかったかを思い
 起こそうと努力しました。本当に何も思いつきません。とうと
 う思い当たったのは、今日という日についての最も知的なコメ
 ントは、ウォール・ストリートについてでもなく、いかなる種
 類のアナリストのコメントでもありません。眠れぬ巨人を起こ
 してしまったことに脅えている自分を見つけた提督山本五十六
 元帥でありました。           ――ビル・ゲイツ
    ――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ちょっと読むと何をいっているのかわかりませんが、要するに
マイクロソフト社をアメリカ合衆国、ネットスケープ社を54年
前の同じ日に真珠湾を攻撃した山本五十六元帥になぞらえて、い
るのです。「お前たちは眠れる巨人マイクロソフト社を起こして
しまった。覚悟しておけよ」というメッセージなのです。
 確かに後に「ブラウザ戦争」といわれるほど、マイクロソフト
社のネットスケープ社への攻撃は容赦のないものだったのです。
 ビル・ゲイツは、当時のネット市場を冷静に分析したのです。
当時インターネット・サービス・プロバイダは約1000社――
しかし、そのアクセスの75%は、上位10社のISPで占めら
れていたのです。
 マイクロソフト社は、これらISPの10社に対してインター
ネット・エクスプローラ(以下、IE)を無償で提供し、その見
返りとして排他契約――ネットスケープ・ナビゲータ(以下、ネ
ットスケープ)を使わない――を要求したのです。さらに広告費
の名称で何らかの金銭供与も行ったという情報もあります。
 さらにPCメーカに対しては、IEのプリ・インストールを要
求し、ISPに対するのと同様の排他契約を締結することを条件
にIEは無償で提供したのです。さらにPCメーカに対しては、
ウインドウズなどのOSを大幅ディスカウントして提供するとい
う特典も与えています。PCメーカとしては、もし、これを拒否
すると、マイクロソフト社からOSの供給を絶たれるかもしれな
いという恐怖感があって、とても拒否できなかったのです。
 ウインドウズ95は好調であり、OSにおいて圧倒的なシェア
を持つマイクロソフト社にこれだけのことをされると、ネットス
ケープ社は完全に販路を絶たれてしまったのです。そして、19
98年11月にネットスケープ社はAOLに42億ドルで買収さ
れてしまうのです。
 ブラウザに関する日本での動きを調べると、1994年に国産
初のブラウザが登場しているのです。1994年といえば、日本
でインターネットがブームになる1年半も前のことであり、意外
に早いという印象があります。
 1994年6月7日――富士通は、東京・丸の内の本社でマス
コミ関係者向けの商品紹介とそのプレゼンテーションが行ってい
ます。その商品は次の2つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      『インフォモザイク(InfoMosaic)』
      『FIND2』
―――――――――――――――――――――――――――――
 『インフォモザイク』は、NCSAでアンドリーセンたちが開
発したMOSAICの日本語版であり、『FIND2』は、イン
ターネットの技術を取り込んだ世界初の企業内ネットワークシス
テム――すなわち、イントラネットなのです。
 『インフォモザイク』の方は当初4万円で売る予定だったそう
ですが、結局5000円で販売したところ、予想以上に売れて、
何とかペイできたそうです。しかし、その寿命はわずかに3ヶ月
だったのです。1994年10月にネットスケープ・ナビゲータ
が公開され、無料頒布がはじまったからです。
 『FIND2』は、当時の富士通の情報システム関係者間の情
報交換の必要性に迫られて開発されたものであり、最初から販売
することを予定したものではなかったのです。
 当時富士通本体に9000人のSEがおり、それに全国35社
の協力システムハウスに勤務する1万数千人のSEが富士通のシ
ステム開発に関係していたのです。こういうSE相互の技術情報
交換を目的として『FIND2』が構築されたのです。
 さて、日本での「ニフティ・サーブ」立ち上げの話から米国に
飛んで、マイクロソフトの方針転換、ブラウザ戦争の話までして
しまいましたが、明日からは、もう一度話を日本に戻して、19
95年からの日本におけるインターネットブームまでにいたる動
きを追うことにします。 
        −― [インターネットの歴史 Part2/29]


≪画像および関連情報≫
 ・イントラネットとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  イントラネットとは、社内等、限定された範囲でのコンピュ
  ータ・ネットワークを構築する時に、インターネットの標準
  的な技術を利用することで低コスト化とベンダー独立性を高
  めようとするとりくみ。また、そのようにして構築されたネ
  ットワークを指す。たとえばインターネットで普及している
  通信プロトコルを用いて社内の情報共有システムを構築する
  ことで、広く普及しているインターネット用のソフトウェア
  やハードウェアをそのまま利用でき、また標準化された技術
  を使うため、他社と協力してエクストラネットに拡張したり
  することが容易になる。       ――ウィキぺディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月19日

ベッコアメ・インターネットの設立(EJ第2064号)

 1994年7月――日本初のNewWorld+Interop94 Tokyo が幕
張メッセで開かれていたのです。米国でネットスケープ社が新し
いブラウザを発表する3ヶ月前のことです。
 東芝に入社して4年目になる尾崎憲一氏もそのINTEROP
の会場にいたのです。しかし、尾崎氏にとってそこに展示されて
いるものは目新しいものは何もなかったのです。
 ソニーのブースでも松下のブースでも、MOSAICを使って
ホームページを表示しており、大勢の人がびっくりしたようにそ
のデモを見ていましたが、彼はとっくにそれを体験していたから
です。目玉の一つであったIIJのブースも彼にとっては何ら新
しいものはなかったのです。
 しかし、IIJのブースに黒山のような人が集まっているのを
見ているうちに、ネットにつないだ体験を持つ人がいかに少ない
かが尾崎氏にはわかってきたのです。当時のインターネットは、
つなぐことに関心の重点があり、それをどのように活用するかま
でコトは進んでいなかったのです。
 このとき尾崎憲一氏は大衆のためのプロバイダが必要だと考え
たといいます。IIJは料金は高過ぎる――もっと安くしなけれ
ば普及しないと尾崎氏は考えたのです。
 尾崎氏は、1985年に草の根BBS「だんぼネット」を立ち
上げて続けていたのです。BBSというのは、電子掲示板システ
ムのことです。尾崎氏は、IIJにもWIDEにも足を運んで、
接続を要請したのですが、まるで相手にされなかったといういき
さつがあるのです。
 尾崎氏はIIJに出かけて交渉したときの感想を次のように述
べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 営業の担当者のほかに、もうひとり、変なオヤジが隣りに座っ
 てて「お前ら、何やるつもりだ」というから、UUCP接続を
 して、ダンボネットの会員がインターネットでメール交換でき
 るようにしたいんだといったら、急にそのオヤジが説教を垂れ
 はじめた。「やるのは自由だけど、お前らが勝手にやって、質
 の悪いサービスを提供して、プロバイダの品質はこんなものか
 と思われると、こっちが困るんだよな」とか。それが深瀬(弘
 泰)さんだったんですけど。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本初のINTERROPの会場を歩きまわりながら、尾崎氏
は日本一料金が安く、しかもサービス品質の高いプロバイダ事業
を立ち上げようと考えたのです。IIJでいわれた一言「お前ら
が勝手にやって、質の悪いサービスを提供して、プロバイダの品
質はこんなものかと思われると、こっちが困るんだよな」がよほ
ど腹に据えかねたのです。
 料金は、とくに根拠もなく年会費3万円の定額制――使い放題
に決めていたのです。これならきっと飛びついてくると考えたの
です。この時代に定額制を考えるとは大変なことです。最初から
従量制を捨てたのは、1994年当時にインターネットに接続し
ようとする人種は通信オタク以外は考えられなかったからです。
 何しろIE(インターネット・エクスプローラ)もネスケ(ネ
ットスケープ)もなかった時代なのです。したがって、かなり複
雑きわまる設定をしなければネットに接続できない――これがや
れるのは通信オタクだけです。かくいう尾崎氏もオタクであり、
オタクの気持はオタクが一番わかっていると考えたのです。
 問題はそれをどのように宣伝するか、です。
 尾崎氏は、その宣伝媒体をINTEROPの会場で無料で頒布
されていた『インターネットマガジン/創刊準備号』を見て、こ
れにしようと考えたのです。『インターネットマガジン』の創刊
は、9月17日であり、まだ時間がある――そう決めると、早速
幕張メッセの会場を飛び出し、その足で千代田区三番町にあった
インプレスに駆けつけて、広告掲載の申し入れをしたのです。
 その時点では、ISP事業の新会社は尾崎氏の頭のなかにあり
存在していないのです。しかし、会社名は「株式会社ベッコアメ
・インターネット」に決めていたのです。
 インプレスの広告営業の担当と長い時間折衝して、やっと『イ
ンターネットマガジン』創刊号に広告を入れることに同意しても
らったのです。
 『インターネットマガジン』創刊号は実によく売れたのです。
印刷した3万5000部は10日で売り切れ、増刷した7000
部もたちまち完売。おそらく当時多少なりともインターネットに
興味を持っていた人はすべて買ったのではないかと考えるほど売
れに売れたのです。
 創刊号の好調の効果は、そこに広告を出した尾崎氏の「3万円
定額インターネット」にそのまま跳ね返り、まだ会社ができてい
ないのに、尾崎氏の個人口座には続々と3万円の入金があったと
いうのです。
 3万円の振込みを確認すると、スタッフがそれを引き出し、モ
デムを買いに走るという繰り返しで、ベッコアメは会員を増やし
ていったのです。そして、1994年12月に株式会社ベッコア
メ・インターネットは設立されたのです。
 当時IIJの個人向けサービスは、初期費用3万円、利用料金
は1分間30円、リムネットは初期費用8000円、利用料金1
分間10円――これに対してベッコアメは年間3万円で使い放題
というのですから、まさに革命的な料金設定です。
 尾崎氏の狙いは当たったのです。会員は続々と増え始め、19
95年3月の日本経済新聞の調査で、プロバイダ別のユーザ数ラ
ンキングで第1位を占めるまでになったのです。さらにあるパソ
コン雑誌には「最も接続トラブルの少ないプロバイダ」と評価さ
れたのです。こうして品質の面について批判したIIJ幹部への
借りを返したのです。  
        −― [インターネットの歴史 Part2/30]


≪画像および関連情報≫
 ・ベッコアメ・インターネットの現状
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  グローバルメディアオンライン(GMO)は1日、ベッコア
  メ・インターネットのISP事業とホスティング事業の営業
  を譲り受けると発表した。GMOに営業譲渡されるのは、ベ
  ッコアメ・インターネットが運営しているインターネット接
  続サービス「ベッコアメ」とホスティングサービス「スリー
  ウェブ」――具体的な譲渡日は未定だが、4月中には実施さ
  れる。国内のISPでは草分け的な存在のこれらのブランド
  が以降、GMOによって運営されていくことになる。料金等
  のサービス内容も変更はないとしている。/2004
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

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2007年04月20日

CERNとティムとWWW(EJ2065号)

 ここまで見てきたように、インターネットは電子メールからは
じまり、WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)の登場によって一挙
に拡大し、物凄いスピードで普及をはじめるのです。ところで、
日本で最初にホームページを製作したのは誰であり、それがいつ
できたのでしょうか――これからそのことを追求していきます。
 それには、そもそもWWWというアイデアを誰が考え出したの
かについて知る必要があります。よく知られているように、WW
Wは、スイスのジュネーブにあるCERN――セルン/欧州素粒
子物理研究所――において、ティム・バーナーズ・リーという人
物が開発したといわれています。それは、どのようにして、開発
されたのでしょうか。
 ティム・バーナーズ・リー(以下、ティム)は、1955年6
月8日に英国のロンドンで生まれています。父は数学者で、父母
ともにコンピュータのプログラムを開発するエンジニアだったの
です。そういう家庭環境で育ったティムは、オックスフォード大
学のクイーンズ・カレッジの物理学科を卒業しています。
 ティムはソフトウェア技術者として2社に勤務したのですが、
仕事が安定せず、安定した勤め先を探したのです。そしてやっと
1980年からスイスのジュネーブにあるCERNに勤めること
ができたのです。しかし、独立コンサルタントとして、半年契約
という約束であり、臨時雇いのようなものだったのです。
 CERNでティムは「エンクワイア」というプログラムを書い
ています。どういうプログラムかというと、ティムが所属するセ
クションのプロジェクトとプログラムの管理をするものであり、
誰がどこのプロジェクトにいて、どういうプログラムを書き、ど
のマシンでそれが動いているかがわかるというものです。
 しかし、ティムはこれをCERNの仕事としてではなく、仕事
のかたわら自分用として開発したのです。そのときは、誰も注目
していなかったのですが、これが後のWWWの基礎となる貴重な
プログラムとなったのです。
 「エンクワイア」はソフトウェア開発グループのコンピュータ
で動いており、ティムはそれに高度な改良を加えていき、かなり
完成度が高められていったのです。しかし、その時点でティムの
契約は満了し、CERNを離れることになったのです。
 ティムはCERNを去るに当たって、エンクワイアをシステム
管理者に使ってくださいといって渡しています。しかし、誰もそ
のプログラムに注目することなく、誰も使わなかったのです。
 ティムは英国に戻ってプリンタ用のプログラムを開発していた
のですが、もう一度CERNに戻りたいと思ったのです。別に、
CERNが能力を認めてくれるわけではなかったのですが、何と
いってもコンピュータなどの設備がよかったからです。
 そこで、CERNのフェローシップに応募したのです。それは
1984年9月にやっとかなえられます。フェローシップとはい
うものの非常勤職員に近いものであったのですが、ティムにとっ
ては満足だったのです。
 その時点でCERNは組織が大きくなっており、多種多様のコ
ンピュータがたくさん入っていたのです。当然のことながら、こ
れらの異機種コンピュータ間で、情報のやり取りや共有が必要に
なっていたのです。ティムはこれらの異機種コンピュータ間での
通信用にプログラムを書いてCERNに貢献します。
 そして、CERN内のDECのVAXミニというコンピュータ
上でエンクワイアを動くようにしたのです。やがて、ティムは、
このエンクワイアを外部と接続し、「ハイパーテキスト・ドキュ
メント・システム」を構築したいと考えて、上司のマイク・セン
ドールに提案します。
 マイクはそれに反対しなかったのですが、きちんとした提案書
をまとめるよう指示され、ティムは困ってしまいます。彼は今ま
でそのようなものを書いたことはなかったからです。
 しかし、反対されたわけではないので、システム構築に向けて
研究を進めることにしたのです。最大の難問はプロトコルに何を
採用するかということだったのです。
 ティムは当時欧州では一般的であったOSIのプロトコルでは
なく、インターネットで採用されているTCP/IPを採用した
いと考えていたのです。しかし、TCP/IPの支持者は少数派
だったのです。
 ティムにとって幸いなことに、そのときCERNにベン・シー
ガルという人物がいたのです。シーガルは1958年に英国のイ
ンペリアル・カレッジの物理数学科を卒業し、しばらく英国と米
国の原子力関係企業で働いた後、1971年にスタンフォード大
学で博士号を取得し、CERNで働くことになったのです。
 ベン・シーガルは、米国で働いていたので、TCP/IPを使
うべきであるというティムの考えに同調します。シーガルはティ
ムにとって、心強い見方となったのです。
 CERN内部では、VAX/VMSというOSとDECネット
という通信プロトコルでデータのやり取りが行われていたのです
が、ティムはシーガルにも協力してもらい、ひそかにVAX/V
MSというOSとTCP/IPを組み合わせて動くようにシステ
ムを構築したのです。
 そして、1989年3月にティムは「情報管理:1つの提案」
という提案書とその背景論文「ハイパーテキストとCERN」を
上司に提出しています。
 このなかでティムは、巨大な研究機関であるCERN内部の情
報検索のために、ハイパーテキスト技術を使って、ドキュメント
を自由にリンクできるシステムを論じています。
 しかし、ティムの上司であるマイク・センドールやその上司で
あるディビット・ウィリアムズには、ティムの提案の価値を見抜
く力はなかったのです。提案書は上司に読まれることもなく、そ
のまま上司の机の上に眠ったままだったのです。この提案こそ後
のWWWとして全世界に普及することになるのです。いつの時代
こういう上司がいるのです。
         ― [インターネットの歴史 Part2/31]

≪画像および関連情報≫
 ・ハイパーテキストとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ハイパーテキストとは、複数の文書(テキスト)を相互に関
  連付け、結び付ける仕組みである。「テキストを超える」と
  いう意味から"hyper-"(〜を超えた) "text" (文書)と名
  付けられた。テキスト間を結びつける参照のことをハイパー
  リンクと言う。ハイパーテキストは文書を表示するユーザイ
  ンタフェースのパラダイムの1つであり、従来の文書作成方
  法の持つ、要素を組織化することについての限界(特にその
  線形性)を克服しようとするものである。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月21日

EJバックナンバー「ラストサムライ」(その4)

2004年2月26日に配信したEJ第1297号(全10回
連載の内第4回)を過去ログに掲載しました。
○ オールグレンを悩ませているものは何か(EJ第1297号)
posted by 平野 浩 at 04:48| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月22日

EJバックナンバー「ラストサムライ」(その5)

2004年2月27日に配信したEJ第1298号(全10回
連載の内第5回)を過去ログに掲載しました。
○ 勝元の村/吉野と武士道(EJ第1298号)
posted by 平野 浩 at 04:36| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月23日

個人の手によって開発されたWWW(EJ第2066号)

 CERNという組織は最先端の研究機関であるのに、かなり封
建的、閉鎖的な組織であったようです。1989年3月にティム
は第1案を提出し、5月に改訂版を出したのですが、これも上層
部に無視され、なしのつぶてです。
 そういうティムにベン・シーガルは入れ知恵をします。「『新
型コンピュータ・NEXTキューブ』の購入願いをマイク出せ」
と。このマシンは、アップルを退社したスティープ・ジョブスが
開発した新型コンピュータであり、商業的には成功しなかったも
のの当時の最新機能を満載したワークステーションなのです。
 シーガルは、ティムの上司であるマイク・センドールに対して
ティムの提案しているプロジェクトは画期的なものだから、正式
に上の承認がおりなくてもなんとか進めさせてやって欲しいと根
回しをしてくれたのです。これを受けて男気のあるマイク・セン
ドールは、ティムの提案の内容は依然としてわからなかったので
すが、熱心なシーガルの勧めに乗ったのです。
 こういうわけで、ティムはNEXTキューブの購入願いを出し
て、マイク・センドールのOKをもらいます。そのときマイクは
ティムに対して、次のようにいい、非公式にプロジェクトのゴー
サインを出したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 正式に機械を手に入れたのだから、それを使って君のいう、ハ
 イパーテキストやらをプログラミングしないという手はないだ
 ろう。              ――マイク・センドール
―――――――――――――――――――――――――――――
 ティムは、とりあえず自分のプロジェクトに名前をつける必要
があったのです。こういうことはあまり得意ではなかったとみえ
て、さんざん考えたすえ「WWW」と命名したのです。このよう
にして、1990年10月から、ティムは大車輪でWWWの開発
に取り組んだのです。
 実はこれからが大変だったのです。以下、WWWが日の目を見
るまでのいきさつを脇英世氏の著作から、要約してお伝えするこ
とにします。
 ティムが最初に取り組んだのは、「WEBクライアント」の作
成です。WEBクライアントというと難しく聞こえますが、要す
るにエディタ(プログラムを書き込むワープロのようなもの)を
作ったわけです。ウインドウズに標準で付いている「メモ帳」の
ようなにものです。
 彼はWEBクライアントを普通のC言語ではなく、オブジェク
ティブC言語で書いています。どうしてかというと、オブジェク
ティブC言語が彼の使っているマシンであるNEXTキューブに
標準で付いていたからです。彼はそういう新しい言語をいとも簡
単にマスターしてしまう根っからのプログラマであったのです。
 次に、WEBクライアントに書き込む言語――HTML(ハイ
パーテキスト・マークアップ言語)を作成したのです。これは、
ホームページを作成する言語として現在あまりにも有名ですが、
開発者がティムであることを知っている人は少ないです。
 続いて、HTMLでWEBクライアントに記述されたプログラ
ム――テキストデータをハイパーテキストに変換する必要があり
ます。ハイパーテキストとは複数の文書を相互に関連付け、リン
クできる仕組みのことです。そのために後に有名になる次の2つ
の技術を考え出したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 HTTP−ハイパー・テキスト・トランスファ・プロトコル
 URL −ユニフォーム・リソース・ロケーター
―――――――――――――――――――――――――――――
 HTTPというのは、ハイパーテキストを転送することを主な
目的とするものであり、URLはインターネットにおいて提供さ
れるリソースが、どこにあるかを特定し易くする住所のような役
割をするのです。
 なお、ここでいうリソースとは(主にインターネット上の)デ
ータやサービスを指し、具体的には、ホームページや電子メール
の宛先といったものがそれに当たります。
 脇英世氏によると、ティムの理論がCERN内で無視された原
因のひとつにシステムなどのネーミングがあるというのです。例
えば「ハイパー」などは、地味で学級的な研究者であればまず使
うことのない派手なネーミングであるというのです。この点につ
いて、脇英世氏は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 数学において、ハイパージオメトリック・シリーズ(超幾何級
 数)という用語はあり、ハイパーという形容詞が使われた実例
 はある。だが、一般的に学問の世界ではハイパーというような
 派手な形容詞を使うのを嫌う。私も最初聞いた時は、これは本
 当に学問的なものかといぶかったものだ。当初はTBL(ティ
 ムのこと)がどんな人物なのか分からなかった。10年以上の
 時間が経った今判断すると、やはり学問の世界ではアウトサイ
 ダーだった人物の作った言葉と言えるだろう。
    ――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 こうして、ティムのWEB情報閲覧システム――WWWプログ
ラムは徐々にかたちを整えてきたのです。1991年3月、ティ
ムはCERN内部でNEXTキューブを使っている研究者に、W
WWプログラムを配付しています。しかし、CERN内部では何
ら反応はなかったのです。ティムは博士号も持たない非常勤の研
究員であり、予算も部下もない徒手空拳の身だったからです。
 しかし、これによって外部にWWWの存在がわかるようになり
ティムの評価は急上昇したのです。しかし、1991年12月に
サン・アントニオで開催されたハイパーテキスト91にティムは
WWWの論文を提出したのですが、受理されず、プレゼンさえも
できなかったのです。  
―― [インターネットの歴史 Part2/32]


≪画像および関連情報≫
 ・WWWとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  WWWの通信プロトコルは主にHTTPが使用され、ドキュ
  メント(ウェブページ)の記述には主にHTTLなどのハイ
  パーが使用される。ハイパーテキストとは、ドキュメントに
  別のドキュメントのURIへの参照を埋め込むことで(これ
  をハイパーリンクと呼ぶ)インターネット上に散在するドキ
  ュメント同士を相互に参照可能にすることができる。分かり
  やすい例で言うと、主にマウスによるクリックなどによって
  ページ間を移動することや、別のファイルである画像をドキ
  ュメント内に表示させることなどが挙げられる。そのつなが
  り方が蜘蛛の巣を連想させることから World Wide Web ――
  (世界に広がる蜘蛛の巣)と名付けられた。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月24日

日本初のホームページが誕生した日(EJ第2067号)

 WWWが完全なかたちではないものの、ほぼ出来上ってきつつ
あった1992年9月30日にCERNを訪れ、ティムと会った
日本人がいます。
 森田洋平氏と渡瀬芳行氏の2人です。森田洋平氏は日本のCE
RNといわれるKEK(文部省高エネルギー加速器研究機構/当
時)の計算科学センターに勤務する研究者であり、渡瀬芳行氏は
その計算科学センター長だったのです。
 2人はフランスで開催されたコンピュータとネットワークに関
する国際会議に出席した帰りにCERNを訪問したのです。2人
はCERNでいろいろな科学者と会って話を聞いたのですが、そ
のなかにティム・バーナーズリーがいたのです。
 ティムとはCERNのカフェテリアで昼飯をとりながら話した
のですが、森田洋平氏はティムと会ったときの印象を次のように
述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 WWWならばオペレーション・システムの違いとかを気にする
 ことなく、だれでも、どこからでも、自由に情報を引き出して
 使うことができる。そうなったら、世の中が大きく変わるんだ
 よ、と。そういうようなことを非常に熱心に説明してくれまし
 た。説明というより、切々と語りかけてきたというか。聞いて
 いて、感動しました。           ――森田洋平氏
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ティムは森田氏らに「日本でもやれよ」といって、WWWの作
り方を書いた資料をくれたのです。森田氏はその場でCERNの
端末室を使わせてもらい、資料を参考にHTMLファイルの作成
に取りかかったのです。
 このようにして、ごく簡単なひな型ができると、森田氏は世界
中の高エネルギー物理学の研究施設が直結されているHEPネッ
ト経由でKEKにログインし、KEKのコンピュータに出来たば
かりのHTMLファイルを置いたのです。そして、ティムにその
アドレスをメールで送り、CERNのリンク集のページにKEK
を加えてもらったのです。
 そのときCERNのリンク集に登録されていたWWWサーバー
は10数個であったといいます。現在ゆうに10億を超えるとい
われるホームページが当時それだけしかなかったのです。
 その中に日本のKEKが仲間入りすることになったのです。こ
れが日本最初のホームページとなるのです。1992年9月30
日――スイスのジュネーブにあるCERNで森田洋平氏によって
それは作成されたのです。
 森田氏がティムに会った日、ティムはとても元気で情熱的に話
しかけてきたといいます。しかし、ティムは1992年の初めは
非常に落ち込んでいて元気がなかったというのです。それは、W
WWを発表したにもかかわらず、予想していたような反響がほと
んどなかったからです。
 そこで、1992年6月にティムは長期のサバティカル(研究
休暇)をとり、妻と一緒に旅に出ているのです。そして、その休
暇明けの9月に森田氏らと会ったのです。そのときはとても元気
であり、何か前途に希望が持てたような表情だったといいます。
旅行中に何があったのでしょうか。
 ティムはMITのLCS――コンピュータ科学研究室を訪問し
ボストン近郊で開かれるIETF(インターネット技術タスク・
フォース)の会合に出席しています。後から考えると、このとき
MITに行ったことが、後のティム・バーナーズリーの評価を不
動のものにすることになったのです。
 旅の終りにティムは、ハイパー・テキストの開発者であるテッ
ド・ネルソンをサンフランシスコの対岸にある高級リゾート地サ
ウサリートの自宅に訪ねています。そのとき、ティムはネルソン
に「がんばってくれ」と激励されたというのです。ティムが森田
氏らに会ったとき元気であり、情熱的であったのは、これが原因
だったと考えられます。
 1992年当時のティムは、このままCERNにいてもWWW
を発展させることはできないのではないかと考えており、旅行の
とき立ち寄ったMITのLCSにウェブのコンソーシアムを立ち
上げるアイデアを持ちかけたのです。
 LCSは、ウェブ・コンソーシアムの価値を認めて、ティムを
フルタイムのスタッフ・メンバーとして雇うと提案したのです。
正式のMITのメンバーではなく、LCSのメンバーにするとい
うのです。それは、ティムには博士号がなく、目だった学問的業
績もなかったので、MITのメンバーだと審査が通らないと考え
たのです。CERNにおけるティムの地位も数年単位の不安定な
給費研究員に過ぎなかったからです。
 実は、MITとしてはティムの研究を高く買っていたのです。
そこで、CERNには十分気を遣いながら、ティムをMITに引
き取ろうとしたのです。
 MITはCERNと協力して、「W3C」を設立します。W3
Cとは、次の言葉の省略です。
―――――――――――――――――――――――――――――
      W3C World Wide Web Consortium
―――――――――――――――――――――――――――――
 MITはCERNに欧州の中心はCERN、米国の中心はMI
Tとし、当面ティムは米国に移るということでCERNからOK
をとっています。そのときCERNは新しい加速器を作ることに
なり、膨大な予算を必要としていて、ティムのやっているような
研究には予算を回せなくなったので、ティムの移籍には進んで賛
成をしたのです。かくして、ティムは事実上MITに移り、W3
Cの仕事をすることになったのですが、その後W3Cは大変な権
威を持つ大組織となっていくのです。CERNの幹部は人を見る
目がなかったのです。  
―― [インターネットの歴史 Part2/33]


≪画像および関連情報≫
 ・テッド・ネルソンについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  テッド・ネルソンは米国の社会学者であり思想家であり、情
  報工学のパイオニアである。彼は1963年に「ハイパーテ
  キスト」という用語を生み出し、1965に発表した。彼は
  また、ハイパーメディア、トランスクージョン、Virtuality
  ――電子書籍システムの概念構造、Intertwingularity ――
  知識の相互関連性、テレディルドニクスといった用語も生み
  出した。彼の仕事の主要な推進力は、コンピュータを普通の
  人々に容易にアクセス可能にすることであった。彼の座右の
  銘は以下の通りである。『ユーザーインターフェイスは、急
  いでいる初心者が10秒以内に理解できるぐらい簡単にすべ
  きだ。               ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年04月25日

アンドリーセンはWWWをどうみたか(EJ2068号)

 現在われわれが使っているインターネット――とくにWWWが
どのようにして作られたかについて追求しているのですが、いま
ひとつはっきりしないことがあります。
 それは、テッド・ネルソンのハイパー・テキストと、ティム・
バーナーズリーのWWW、マーク・アンドリーセンのネットスケ
ープ・ナビゲータの3つの関係がはっきりしないからです。この
なかで、ティム・バーナーズリーについてはテッド・ネルソンの
ことも多少からめて既に説明を終わっています。
 そこで、しばらくマーク・アンドリーセンの立場からWWWに
ついて迫ってみたいと思います。その話の中にテッド・ネルソン
の話を入れていきます。そうすることによって、現在のインター
ネットを明確に把握できると思います。
 マーク・アンドリーセンは、1971年7月にアイオワ州シー
ダーフォルーに生まれ、ウィスコンシン州の小さな田舎町ニュー
リスボンで育ったのです。父は種商のセールスパーソン、母は通
販会社ランズ・エンドの出荷係をしており、裕福な家庭とはいえ
なかったのです。
 アンドリーセンは8歳のとき、図書館でPCと解説書を借りて
BASICでプログラミングをやっているのです。PCは、コモ
ドールのPCだったといいます。しかし、1日が終わるとPCは
返還しなければならず、せっかく作ったプログラム残すことがで
きなかったのです。PCにはプリンタやフロッピーディスクが付
いていなかったからです。
 アンドリーセンは、父親にPCをせがんだのですが、家の収入
ではとうてい買えなかったのです。それでも父親は息子のために
300ドルを工面してタンディのTRS−80を買ってやったの
です。しかし、300ドルではフロッピーディスクなしの本体だ
けだったといいます。
 このように子供の頃からプログラミングに関心を示していたア
ンドリーセンは、卒業したらプログラミングで身を立てようと決
意するのです。アンドリーセンはイリノイ州アーバナ・シャンペ
インにあるイリノイ大学コンピュータ学科に入学します。この大
学には、NCSAという研究機関があることはEJ第2065号
で既に述べた通りです。
 このNCSAにおいて、アンドリーセンは、しばらくソフトウ
ェア・ビジュアライゼーション・グループに務め、三次元空間の
物体の形を作って動かすプログラミングをしていたのです。
 そのとき、アンドリーセンが使っていたワークステーションが
後に彼の事業パートナーになるジム・クラークの率いるシリコン
・グラフィックス社の製品だったのです。
 そういうある日、アンドリーセンは、はじめてWWWを見るの
です。もちろん、ティム・バーナーズリーのWWWをです。当時
インターネット自体は、幅広い分野におよぶかなり便利なツール
になっていたのですが、それを利用するのはかなり困難だったの
です。それはいくつものプロトコルが使われていたからです。
 ほとんどのプロトコルは、情報を取り出すために専用のソフト
が必要であり、さらに情報を送るためには別のソフトを必要とし
たのです。それらのソフトは、インターネットのどこかにあって
インターネットを使う場合はそのソフトのある場所を突き止め、
それをFTPというプロトコルで自分のPCに持ってくる必要が
あったのです。そういうわけで、とても素人の手に負える代物で
はなかったのです。
 さらに、インターネットソフトの大半はUNIXのシステムで
しか動かなかったのです。しかし、UNIXマシン――シリコン
・グラフィックス社のワークステーションもそうですが――きわ
めて高価なマシンであり、それを使うのは一部の専門家に限られ
ていたのです。
 しかし、それに比べるとWWWは操作も簡単であり、普及する
可能性を秘めているとアンドリーセンは思ったのです。使うに当
たっては、情報を取り出すための「ウェブ・ブラウザ」と情報送
信用の「ウェブ・サーバー」という専用ソフトが必要なだけだっ
たからです。
 しかし、アンドリーセンは、WWWには2つの問題点によって
「きわめて退屈」であると感じたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.すべてが文字で構成され、画像も音も色も出ないCUIで
   しかないこと。
 2.WWWに必要なソフトは、NEXTキューブでしか使えな
   いということ。
―――――――――――――――――――――――――――――
 CUIは、キャラクター・ユーザ・インタフェースという意味
であり、文字だけしか表示されないインターフェースのことをい
うのです。これに対してウインドウズはGUI――グラフィカル
・ユーザ・インタフェースになっています。
 当時のWWW用のソフトの多くがNEXTキューブでしか使え
なかったのは、WWWの開発者のティム・バーナーズリーが開発
に使ったコンピュータがNEXTキューブだったからです。しか
し、NEXTキューブは使っている人は少なく、使っている人は
研究者がほとんどだったのです。
 アンドリーセンは、WWWにグラフィックスを取り入れ、さま
ざまな媒体で外観を作ったら面白いと考えたのです。そのために
は、エリック・ビーナの協力を得る必要がある――アンドリーセ
ンは考えたのです。エリック・ビーナは、NCSAの正式の職員
で、非常に精密なプログラムを書く人物だったのです。
 しかし、ビーナはなかなかアンドリーセンの説得を受け入れな
かったのです。アンドリーセンは、自分の考え方をわかってもら
うためにプロトタイプまで作って説得したのです。ビーナはそう
いうアンドリーセンの真剣さを知って結局OKするのです。19
92年12月のことです。2人は直ちに新しい試みに挑戦をはじ
めたのです。  ―― [インターネットの歴史 Part2/34]


≪画像および関連情報≫
 ・ジム・クラークとSGIについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  スティーブン・スピルバーグ監督の1993年の映画「ジェ
  ラシック・パーク」を覚えているだろうか。樹液に閉じ込め
  られた蚊から、太古の恐竜の血を得て、遺伝子操作で南海の
  孤島に復活させたという恐竜をめぐる冒険譚だが、恐竜たち
  がまるで生きているように映画に出てくるのだ。もちろんぬ
  いぐるみではない。いわゆるCG、コンピュータ・グラフィ
  ックスが使われているのだ。このCGの製作にシリコン・グ
  ラフィックス社――SGI製の画像処理専用コンピュータが
  使われていた。今ではSGIのオニキス――ONYXという
  専用コンピュータが映画やアニメーション製作には不可欠に
  なっている。ハリウッドの映画産業はこのCG技術を活用す
  ることで映画の新しい時代を築くことができた。そのシリコ
  ン・グラフィックス社を興したのは、スタンフォード大学で
  コンピュータ科学を教えていたひとりの準教授だった。彼の
  名はジム・クラーク。今ではだれ一人として彼を知らぬもの
  はいない。少なくともコンピュータに何らかのかかわりがあ
  るかぎり。
  http://www.chienowa.co.jp/frame1/ijinden/Jim_Clark.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

2068.jpg
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2007年04月26日

WWWに構造変化を与えたモザイク(EJ2069号)

 エリック・ビーナとマーク・アンドリーセン――この2人は優
秀なプログラマでしたが、それぞれタイプは異なっており、2人
が組むことによって、グラフィックスが表示できる新しいブラウ
ザ――2人で「モザイク」と命名――は一層現実味を帯びること
になったのです。
 後にエリック・ビーナは、アンドリーセンのことを次のように
いっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 プログラマは「一般に視野がせまくなりがち」であるのに対し
 アンドリーセンは「おどろくほど興味の範囲の広い」点で、ほ
 かの技術者とは違っていた。NCSAとネットスケープにとっ
 てかけがいのない存在となったのは、技術の知識があったから
 ではなく、いつも興味を持っていた技術以外の幅広い分野の物
 事を、技術の知識とむすびつけることができたからだ。
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
 『インターネット激動の1000日/WWWの地平線を切り開
           くパイオニアたち』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 アンドリーセンがアイデアを出すと、ビーナはわずかな時間で
プログラムを書き、デバッグしてプロトタイプを作る。そうする
と、アンドリーセンがそのプロトタイプの改良ポイントを出す。
そうすると、ビーナはそれを修正するというように、モザイクは
どんどん完成度を増していったのです。
 アンドリーセンはあくまで実用的観点に立って、モザイクの機
能についてアイデアを出し続けたのです。こういう存在の司令塔
がいなければ、どんなに優秀であってもプログラマ同士では、モ
ザイクを完成させることはできなかったと思われます。
 そして、1993年のはじめにモザイクは、そのウェブ・サー
バー・ソフトと共にNCSAのサーバーで公開されたのです。こ
のとき、モザイクはUNIXマシンで動いていたのです。しかし
NCSAのメンバーはそれだけで満足しなかったのです。「イン
ターネットを技術エリートだけのおもちゃにしてはならない」と
いう考え方からです。
 大学院生、ジョン・ミッテルハウザーがPC、ユーゴスラヴィ
ア人のアレックス・トーティックがMACへの移植を担当し、作
業を行っていたのです。
 モザイクのUNIXバージョンは、数週間のうちに数万人がダ
ウンロードしています。そして数ヵ月後にはそれが数十万人に拡
大したのです。実際には数十万人どころではなかったと思われる
のです。というのは、当時はダウンロードの状況を追跡するシス
テムがなかったので、本当のところは誰にもわからないというの
が真実なのです。
 モザイクの登場で人々はウェブサイト――ホームページを現実
のものとして認識するようになったといえます。やはり、文字だ
けよりも、グラフィックスが入ると外観の見栄えが圧倒的によく
なったからです。
 それに拍車をかけたのは、モザイクがPCやマックで使えるよ
うになったことです。1993年の秋のことです。これについて
上掲の書籍の著者であるロバート・リード氏は次のように述べて
います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 PC版とマック版のモザイクがインターネットで公開されたの
 は、1993年の秋のことだった。このデビューによって、そ
 れから起きるすべての大変動の舞台装置がととのった。ティム
 ・バーナーズリーが、インターネットに誰でも操作できるイン
 ターフェースを与えた。モザイクがそこへ、人々を引きつける
 外観を与えた。さらにPCとマックへの移植で、家庭やオフィ
 スで使われる大衆向けコンピュータでもインターネットを使え
 るようになった。このときはじめて、インターネットは、大衆
 を引きつけ、誰でもアクセスできるメディアへの一歩を踏みだ
 した。        ――ロバート・リード著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように、モザイクはUNIXバージョンだけでなく、PC
バージョンも1993年の秋には公開されていたのです。そのと
き、マイクロソフト社は「シカゴ」の暗号名でウインドウズ95
を制作中であったのです。しかし、モザイクの出現でWWWの進
化が一挙に進み、インターネットの様相が大きく変わりつつあっ
たことをビル・ゲイツがそれをきわめて重要な技術のトレンドと
して考えていなかったことは確かなようです。
 1993年においては、インターネット接続のためのインフラ
が十分成長していたのですが、あらゆるネットワークはその独自
技術のために切り離され、LANのような内部指向のネットワー
クも、オンライン・サービス(パソコン通信)のような外部指向
のそれも、ばらばらの状態だったのです。
 当時オンライン・サービスはコンピュサーブ、プロディジー、
AOLなどの商用のサービスが最盛期を迎えており、それらの延
べ利用者は、過去2年間で50%増加し、350万人を超えてい
たのです。しかし、それは、相互にコミュニケーションを取りた
いというユーザの意思のあらわれであり、オンライン・サービス
事業がその後発展・拡大することを意味していなかったのです。
 マイクロソフト社をはじめとする多くのIT企業が、ネット上
における相互コミュニケーションを苦もなく実現してしまうイン
ターネットに重要な評価を下していなかったのです。
 モザイクが勢いづくのに時間は必要としなかったのです。それ
はまさに怒涛の進撃だったのです。ひとたび動き出すと、その勢
いは止めようがなかったのです。そういう通信の大変化が、ウイ
ンドウズ95が発売される2年も前からはじまっていたのです。
そして、それはやがて全世界を巻き込む一大ブームとなっていく
のです。それは、NCSAの若いプログラマたちの起こした革命
だったのです。 ―― [インターネットの歴史 Part2/35]


≪画像および関連情報≫
 ・「モザイク」関連のサイトから
  ―――――――――――――――――――――――――――
  マーク・アンドリーセン氏がイリノイ大学の仲間たちととも
  に『モザイク』を世に送り出してから今年で10年になる。
  モザイクは、ワールド・ワイド・ウェブ(WWW)を閲覧する
  ために作られた世界初のブラウザーソフトだ。しかし、アン
  ドリーセン氏に言わせれば、インターネットが日常生活にど
  のように定着するか、最終的な形が決まるまでには時間が必
  要で、われわれはまだその過程の半分にも到達していないと
  いう。
  ―――――――――――――――――――――――――――
  http://hotwired.goo.ne.jp/news/business/story/20030224105.html

2069.jpg
posted by 平野 浩 at 06:40| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月27日

WWW開発者会議開催される(EJ第2070号)

 モザイクの躍進は誰の目にも明らかのことだったのです。イン
ターネットの高速バックボーンの月間トラフィック統計というも
のがあります。バックボーンというのは、複数の支線ネットワー
クを連結する幹線ネットワークのことをいいます。
 大企業のLANを例にとって説明すると、各フロアーに敷設さ
れているのが支線LAN、それらの支線LANを上下に連結する
のが幹線LANです。ビルを上下に背骨のように貫通しているの
で、バックボーンLANというのです。
 それから、トラフィックというのは、ネットワーク上を流れる
情報量――パケット量のことをいうのです。ここでいう高速バッ
クボーンの月間トラフィック統計というのは北米にある高速バッ
クボーンを流れるパケット・トラフィックをプロトコル別に把握
した統計のことです。
 モザイクが最初にリリースされる直前の1993年1月のWW
Wのトラフィックは、このバックボーンのパケット・トラフィッ
ク全体のO.OO2%、インターネットの各種プロトコルの中で
127番目の量だったのです。
 UNIX版のモザイクがリリースされて数ヶ月経過した6月に
は、O.25%の第21位、そして、9月には16位に上昇する
のです。そのときの第1位はFTP――ファイルを転送するプロ
トコルだったのですが、それも長続きせず、WWWのパケット・
トラフィックが第1位を記録するのです。
 同じ1993年の夏のこと、マサチューセッツ州ケンブリッジ
で、WWW開発者会議が開かれたのです。集まったのは24名、
場所はオライリー書店のオフィスであるといわれています。ティ
ム・バーナーズリー、ペイ・ウェイ、マーク・アンドリーセン、
エリック・ビーナ、ルー・モンチェリなどのWWW関連の開発者
が出席したのです。
 そのときの会議の模様について、ルー・モンチェリは次のよう
に伝えています。ルー・モンチェリは当時カンザス大学の学生で
「リンクス」というテキストのみのブラウザの開発者として知ら
れていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 マーク・アンドリーセンはほんとうに際立っており、他の人は
 皆、マークの周りに転がっているだけだとはっきりわかった。
 マークが話をすると、誰もが耳を傾けた。このことを意識して
 か、アンドリーセンはほかの出席者のように会議バッチにフル
 ネームと所属団体を書かず、自己紹介の必要はないとでもいう
 ように「マーク」とだけ書いていた。    ――モンチェリ
            ――ロバート・リード著/山崎洋一訳
 『インターネット激動の1000日/WWWの地平線を切り開
           くパイオニアたち』上巻 日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この会議でアンドリーセンとティム・バーナーズリーと初対面
のはずですが、2人はあまり話をしなかったはずです。脇英世氏
の本には次のように書いてあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ティム・バーナーズリーがびっくりしたのは、インターネット
 では饒舌であったマーク・アンドリーセンが会議の場では全く
 寡黙であり、写真も撮られたくないと拒否したことであった。
    ――脇英世著、『インターネットを創った人たち』より
                         青土社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 実のところモザイクが出てからというもの、ティムの影は非常
に薄くなっていたのです。アンドリーセンがなぜ不機嫌であった
かはわかりませんが、もっとWWWの開発者に対して敬意を表す
べきであったと思うのです。
 なぜなら、ティムがWWWの知的所有を主張せず、技術のすべ
てを公開したからこそ、アンドリーセンたちはモザイクを構築で
きたからです。いまどき不思議な話ですが、インターネットに関
わる重要な開発をした人はその全員がそれをひとりのものにしよ
うとしなかったのです。
 もし、ティムがWWWの技術情報の知的所有を主張していれば
その後のインターネットの大普及によって巨万の富を得ていたと
思われるからです。日本初のホームページの制作者である森田洋
平氏は次のようにいっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ティムはWWWを自分ひとりのものにしようとしなかった。同
 時に、あるひとつの会社、またひとつの製品にそれが取り込ま
 れないよう、なるべくニュートラルな形で発展していくよう最
 大限の努力をした。そのおかげで世界中の人が自由にWWWを
 使えるようになったわけです。そういう意味では、ティムはW
WWの生みの親であると同時に、WWW普及の最大の功労者だと
いえま す。                 ―森田洋平氏
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 実はティムはWWWに名前を付けるとき、最初は次の名前を考
えたといわれます。
―――――――――――――――――――――――――――――
         The Information of Mine
―――――――――――――――――――――――――――――
 この頭文字を取るとTIMとなります。しかし、妻の勧めでそ
れを取りやめて、WWW――ワールド・ワイド・ウェブにしたの
です。しかし、ティムはWWWの開発者でありながら、博士号を
持っていなかったり、学問的業績がないことからその功績にふさ
わしいポジションを手に入れているとはいえないのです。逆に知
的所有権を強く主張した人の方が多くの人に知られ、尊敬を受け
ているように思うのは私だけでしょうか。世の中って不公平にで
きているのでしょうか。 
―― [インターネットの歴史 Part2/36]


≪画像および関連情報≫
 ・バックボーンについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  インターネット利用者の急速な拡大や、ブロードバンド・ア
  クセス・ネットワークの普及にともなう動画像や音楽等大容
  量コンテンツの流通量増加により、インターネット上の大幅
  なトラヒックの増加が予想され、インターネットのバックボ
  ーン回線についても対応が求められている。インターネット
  のバックボーン回線は、電気通信事業者が構築したIP網に
  より構成されている。そのため、インターネットのトラヒッ
  ク増加への対応としては、ISPによるバックボーン回線の
  高速化とIX(インターネット・エクスチェンジ)の増強を進め
  る必要がある。
  http://www.soumu.go.jp/hakusyo/tsushin/h13/html/D1113000.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

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posted by 平野 浩 at 04:47| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月28日

EJバックナンバー「ラストサムライ」(その6)

2004年3月1日に配信したEJ第1299号(全10回
連載の内第6回)を過去ログに掲載しました。
○ 『武士道』に関わった3人の大統領(EJ第1299号)
posted by 平野 浩 at 04:54| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月29日

EJバックナンバー「ラストサムライ」(その7)

2004年3月2日に配信したEJ第1300号(全10回
連載の内第7回)を過去ログに掲載しました。
○ 日本人は武士道精神が欠けている(EJ第1300号)
posted by 平野 浩 at 05:31| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月30日

EJバックナンバー「ラストサムライ」(その8)

2004年3月3日に配信したEJ第1301号(全10回
連載の内第8回)を過去ログに掲載しました。
○ 武士道精神はなくなりつつある(EJ第1301号)
posted by 平野 浩 at 05:05| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする