DEがスタートした頃の話です。WIDEのために引いた専用線
は、64Kbps――1秒間に64キロビットの情報を送る速度でし
かなかつたのです。ある日、村井氏の研究室で、その専用線で画
像を送るにはどうしたらよいかという議論をしていたのです。
そのときの話を砂原秀樹――現・奈良先端科学技術大学院大学
教授は、次のようにいっています。
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当時は64Kbps の専用線だったので、文字や絵はともかく、
音声を送るのはきついし、ビデオなんてもってのほかだった。
だったら、「文字や絵と切り離して、ビデオは別の線で送ると
いう手もある。受信した側で文字や絵とビデオがひとつの情報
として扱えるようにすればいい」というようなことを、ぼくが
いったら、村井が「バーカ」というわけです。「おまえ、ネッ
トワークをやっているんだから、全部デジタルで送れなきゃ困
るだろうと」と。 ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
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砂原氏は「でも現実には送れないんだから仕方がないじゃあり
ませんか」と反論すると、村井氏は絶対に譲らない――そういう
ことでよく喧嘩したと砂原氏は述懐しています。
普通の人であれば、こういう場合、現実的な解決策を模索する
ものです。しかし、村井氏は、全部デジタルで送れなければ困る
んだから、デジタルを前提としてものを考えろというのです。そ
こで妥協してはならんというわけです。
確かに現実的な解決策はネックが解決すると不要のものになり
ますが、ネックのある状態の現在の時点で、ネックのなくなった
先のことを考えておくと、そういうときがきたら即座に手を打つ
ことができるわけです。村井氏はそういう先読みの感覚に優れて
いたというのです。
そういう先読み感覚の優れている村井氏にも先読みができない
ことがひとつあったのです。それは、接続したネットワークの環
境で日本語が使えないということだったのです。
コンピュータを計算処理などで使っているときは、日本語が使
えなくても別に不自由はしていなかったのです。なぜなら、当時
のコンピュータは計算機そのものであり、日本語が使えるかどう
かは関係なかったからです。
しかし、コンピュータ同士がネットワークにつながれた途端、
それはコミュニケーションの道具となったので、言語の問題の不
満が出てきたのです。なんで、日本語が使えないのか、と。
インターネットの技術的な決り事を定めたRFCによると、電
子メールに使える文字は「ASCII」に限定されている――つ
まり、アルファベットしか使えないようになっていたのです。
JUNETをはじめた1984年、日本語が使えないという批
判が出たのですが、村井氏はとくに気にしなかったといいます。
なぜなら、JUNETを使うのは大学や研究所の学者やコンピュ
ータサイエンスを学ぶ学生たちであり、英語ぐらい使えるだろう
と思っていたのです。それどころか、村井氏は、電子メールでは
英語を公用語にしたら良いとまで考えていたのです。
いかに先読みの村井氏でも、JUNETをはじめた時点では、
それからわずか15年〜20年後に、すべての人がネットワーク
につながるようになるということまでは読めなかったようです。
JUNETでメール交換をやってわかったことは、村井氏の考
え方の甘さだったのです。こんなに英語が書けないヤツが多いと
は・・・。村井氏は次のようにいっています。
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コンピュータ・サイエンスの専門家は日頃から英語の論文やマ
ニュアルを読んだりしているわけですから、英語の読み書きが
できない人はいないとぼくは勝手に思いこんでいた。だから、
英語しか使えなくても別にいいじゃん、と。ところが、いざス
タートしたら、英語のできないヤツばっかしなわけ。何が書い
てあるのかさっぱりわからない。そのうちみんな英語を使わな
くなって、ローマ字を使いはじめた。これじゃダメというので
日本語化に取り組みはじめたわけです。
――――滝田誠一郎著の前掲書より
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英語の原書が読めても、そこそこ日常会話が喋れても、ちょっ
としたメッセージを素早く英語で書くことは案外難しいものなの
です。かつて私は米国人と一緒に仕事をしたことがあり、電話の
伝言などのちょっとしたメモは英語で書いてもらっていましたが
実に見事な文章を書くのです。難しい単語を使わず誰でも知って
いる言葉で書かれているので、読みやすい。これはなかなか日本
人にはできないなと思ったものです。しかし、村井氏にはそう苦
労することなくそれができたのでしょう。
実は、コンピュータで日本語が使えるようになるまでには大変
な苦労があったのです。しかし、この苦労話はほとんど伝えられ
ていないのです。
PCを開発したのは米国ですが、日本語の面倒までは見てくれ
ないのです。日本語が使えなくて困るのは日本人だけであり、米
国人は困らないのですから、日本人が本気になって取り組まなけ
ればならなかったのです。
もともと言語を担当するのはOSの仕事です。しかし、初期の
UNIXやMS−DOSでは、当然のことながら日本語は無視さ
れ、その日本語化については、NECや富士通などのメーカーや
研究機関が中心となってその作業に当たったのです。
村井純氏は、通信の分野――とくにUNIXの日本語化につい
て大変な努力をされているのです。しかし、このことを知ってい
る日本人はあまりにも少ないのです。われわれがネットワークで
日本語が使えるのは村井氏の努力があってのことといっても過言
ではないでしょう。
―― [インターネットの歴史 Part2/15]
≪画像および関連情報≫
・慶応義塾大学/SFCでの村井純
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「夢を追いかけている人っていうのは、だいたい子供になっ
ている。夢を追いかけて、一見、不可能に思えても諦めない
のが子供の良さなんです」それは研究室の門下生も同感だ。
SFCの村井研究室出身で現在、慶應大学環境情報学部助手
の南政樹が証言する。「基本的に負けず嫌いで、新しもの好
き。研究のことだろうと古いアニメのことだろうと、学生と
張り合うんです。敵が強くなればなるほど自分もがんばっち
ゃうタイプですね。ある意味でとても子供のような面があり
ます。とてもミーハーだし(笑)。
http://www.president.co.jp/pre/20001016/02.html
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