させた学内LAN――S&Tネットは,その後、ひょっとしたこ
とから、大きな発展を遂げることになります。
それは、村井純氏が慶応義塾大学大学院博士課程(工学研究科
数理工学専攻)を修了し、東京工業大学総合情報処理センターに
助手として勤務することになったことが、そもそものきっかけに
なったのです。
慶応義塾大学理工学部矢上キャンパスは、横浜市港北区日吉に
あり、東京工業大学のキャンパスは目黒区大岡山にあるのです。
つまり、村井氏は、東急東横線の日吉駅から同じ東急大井町線の
大岡山駅に移動したことになります。
村井氏は長年にわたって日吉の矢上キャンパスにおり、彼が研
究に使うファイルやプログラムは、当然のことながら、矢上キャ
ンパスのコンピュータに入っていたのです。
東工大の大岡山キャンパスに移った村井氏は、仕事に必要にな
ると、矢上キャンパスに電話をしてきて、「あのファイルを持っ
てこい!」とか「新しいソフトをやるから取りに来い!」とか、
いってくるわけです。そのたびに矢上キャンパスの若手が村井氏
に要求されたファイルを収録したテープを持って大岡山キャンパ
スに駆けつけるということが月に何回もあったのです。
このとき、日吉と大岡山を往復させられたのは、慶応義塾大学
理工学部の中村修と砂原秀樹の両氏です。村井氏は、この2人を
いつも自分の子分のように扱っており、2人は村井氏によって、
いつも振り回されていたのです。
そこで、中村と砂原両氏は、村井氏に矢上キャンパスと大岡山
キャンパスのコンピュータを接続してファイルの交換をしたらど
うかという提案をしたのです。その提案に対し、村井氏は「やろ
う!」とすぐ賛成したのです。そうすれば、東工大にいて慶応大
のコンピュータが使えるからです。
そのとき、慶応大の斉藤研究室と村井氏のいる東工大の総合情
報処理センターには、ともにDEC製のミニコンVAXが入って
いたのです。このマシンはUNIXベースで動いており、電話回
線を通じてファイル交換を行うことができるUUCPというネッ
トワーク機能を持っていたからです。
しかし、問題は2つあったのです。モデムが必要であることと
モデムを電電公社に断らないで電話線に勝手につなぐことはでき
ないきまりになっていたことです。
1984年9月になって、村井氏はモデムを調達し、接続実験
がはじまったのです。300bps のモデムです。電電公社には断
らないでモデムを電話線につないでしまったのです。そして、何
回かの実験のすえ接続に成功したのです。
慶応大の矢上キャンパスのVAXと東工大のVAXは、このよ
うにして接続されたのです。村井氏にこの接続を提案した砂原秀
樹氏――現奈良先端科学技術大学院大学情報科学センター長は、
接続が成功したとき、次のように述懐しています。
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アメリカにはすでにUUCPでつながっているUSENETが
あって、どうして日本ではできないんだろうと前から思ってい
た。そういう意味でやっとアメリカに追いついたと思った。
――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
USENETについては既に述べましたが、米国のデューク大
学のトム・トラスコットとノースカロライナ大学のスティーブ・
ベロバンという大学院生が両大学のコンピュータををUUCPで
つなぎ、USENETと命名したのです。USENETは、UN
IXユーザであれば、誰でも参加できたため多くの民間人が加入
したのです。1979年の暮れのことです。
さて、村井氏は慶応大と東工大のコンピュータをUUCP接続
したとき、当時東京大学大型計算機センターの所長をしていた石
田晴久教授に会い、次のようにいわれているのです。
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村井君。ふたつの地点でデータのやりとりをしているだけでは
ネットワークとはいえない。ネットワークというからには三角
形、少なくとも3点をつなげなければだめだ。だから、東大の
センターもメール交換に付き合うよ。 ――石田晴久教授
――滝田誠一郎著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
当時東大の計算機センターには、日本で最大のUNIXマシン
――VAX780があったのです。村井氏が石田教授の提案を喜
んで受入れたことはいうまでもないことです。そして、慶応大と
東工大と東大の3点を結ぶネットワークが完成したのです。そし
て、石田教授が名付け親になって、「JUNET」と命名された
のです。1984年10月のことです。
実は、このネットワークに東京大学が加わったということの意
義は大きいのです。というのは、慶応大と東工大のコンピュータ
がつながったといっても、その中心人物が助手になったばかりの
無名の村井氏では、なかなかオーソライズされないのです。そこ
に東大が加わると重みが違ってくるのです。とくに、石田晴久教
授は既に著名であり、JUNETは大いに注目されたのです。
しかし、日本版USENETといわれるJUNETは、プロト
コルにUUCPを使っており、電子メールやファイルの転送がで
きるという点ではインターネット的ではあったのですが、TCP
/IPを使っていなかったので、現在のインターネットとはほど
遠い存在だったのです。
さて、このJUNET――多くの人は村井純の「純」をとった
ものと思っているようです。しかし、そうではなく、単に次の頭
文字――Japan University Network――をとったものに過ぎない
のです。しかし、それがウソに思えるほど、このネットワークは
村井のネットワークなのです。
[インターネットの歴史 Part2/08]
≪画像および関連情報≫
・砂原秀樹氏の談話より
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1982年の3月、村井純氏に出会いました。この時慶應義
塾大学の4年生だった私は研究室に配属されたばかりで、研
究室の最初の教育プログラムの中でUNIXやCプログラミ
ングを教えてくれたのが先輩であった村井氏だったのです。
並行してアセンブラプログラミングやハードウェア制作の演
習が行われていました。これら一見関係のなさそうなことが
今の日本のインターネットにつながっていきます。実は私自
身は、大学ではデータフローマシンというスーパーコンピュ
ータの仕組みに興味を持ち、その研究を行います。しかし、
ここから始まる人と人との関係が、後にJUNET誕生、そして
現在の日本のインターネットへとつながる大きな波となって
いくのです。
http://www.nic.ad.jp/ja/newsletter/No29/060.html
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