年に稼動しています。メトカフなどによる「イーサネットの発明
記録」がゼロックスの法務関係部局に提出されたのが1973年
6月28日のことですから、日本で1976年にイーサネットが
動いていたということは、日本の通信技術は米国に対してそう遅
れていなかったことを意味しています。
アクノレッジング・イーサネットが具体的にどういうものであ
るかはよくわかっていませんが、メトカフのイーサネットがパケ
ットのコリジョン(衝突)の発生を不可避であるとしていたのに
対し、所氏のアクノレッジング・イーサネットは、コリジョンそ
のものを起こさないようにした点において画期的です。それは、
パケットが届いたことを即座に確認できる独自の工夫がしてある
ことにあるのです。
所氏は、アクノレッジング・イーサネットを論文にまとめて発
表したのですが、この論文は、注目を集め、カナダのウォーター
ルー大学から客員助教授として声がかかったのです。所氏は迷わ
ず、そのチャンスを受け入れたのです。
なぜなら、70年代後半の日本では、通信にかかわる実験は、
ほとんどやることはできなかったのです。電電公社(現NTT)
が通信に関しては他の業者にやらせなかったからです。しかし、
米国では、どのような実験も自由にすることができたので、所氏
にとっては魅力的だったのです。
所氏は、1979年1月から1年半にわたってウォータールー
大学の計算機科学科で教鞭をとったのです。これが終わると、今
度は、カーネギーメロン大学からも客員助教授として招聘され、
80年の残りの半年間はこの大学で教鞭をとっています。そして
1981年に帰国したのです。
慶応義塾大学に戻った所氏は、直ちに学内LANの構築に着手
したのです。そして、このLANの名前を「S&Tネット」と命
名しました。「S&T」とは、理工学部の英語名称であるサイエ
ンス&テクノロジを意味していたのです。
このS&Tネットの構築において所氏を手伝ったのは、当時慶
応義塾大学大学院博士課程(工学研究科数理工学専攻)に在籍中
であった20代半ばの青年だったのです。この青年こそ若き日の
村井純氏なのです。村井氏は、数理工学科の斉藤信男教授の下で
研究を行っていたのです。
S&Tネットの目的は、相磯研究室、斉藤研究室、それに計算
機センターの3ヶ所に2台ずつ設置されているミニコン――PD
P11・23をつなぐことでした。
アクノレッジング・イーサネット・インタフェースのユニット
は、かつて相磯研究室で制作したものを使うことになったのです
が、問題はソフトウェアだったのです。UNIXには、UUCP
というネットワーク機能が付いていたのですが、LANの機能は
なかったので、自作する必要があったのです。これについて、所
氏は次のようにいっています。
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まず、LAN上で使いたいアプリケーションを特定する。電子
メールが使いたいとか、離れた場所にあるコンピュータにログ
インできなければいけないとか、そういうアプリケーションを
実現することを前提にして、ソフトウェアを設計していく。今
ならTCP/IPを使えばそれで済むわけですが、81年当時
は現在のようなTCP/IPはありませんでしたから、ゼロか
ら独自に設計しなければいけなかったのです。その作業で中心
的な役割を果たしたのは村井さんです。
――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
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当時相磯研究室と斉藤研究室は別の建物に入っていて、建物間
は300メートルも離れていたのです。その間を同軸ケーブルで
結んだのです。幸い地中に電線などを通す配管が埋めてあったの
で、それを利用することができたのです。
そのうえで通信実験がはじまったのです。斉藤研究室と電話連
絡を取りながら、パケットを送るのです。うまく送れないと、村
井氏がソフトウェアを修正して、LPレコードよりも大きいディ
スクに収録して、若い助手に斉藤研究室まで走らせる――これの
繰り返しです。このように何回も繰り返して、遂にパケットを送
ることに成功したのです。
S&Tネットが動き出したのは1981年のことであり、これ
は画期的なことだったのです。このS&Tネットについて、所氏
は次のようにいっています。
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1EEE(米国電気電子学会)で、イーサネットの標準規格が
決まったのが83年、TCP/IPが実際に動き始めるのは、
85年です。それまではアメリカもまた研究開発段階で、われ
われ同様いろいろと試行錯誤を続けていた。そういう意味では
日本は決してコンピュータ・ネットワークの研究開発で遅れて
いたわけじゃなくて、81、82年当時はアメリカと肩を並べ
るくらいの水準にあったのです。
――滝田誠一郎著の前掲書より
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1983年にIEEEでイーサネットが標準規格になり、所氏
のアクノレッジング・イーサネットは標準外規格となってしまっ
たのです。日本製イーサネットは一敗地にまみれるのです。
さらに同じ年に、本格的ネットワーク機能を追加したUNIX
――カルフォルニア大学バークレー校開発によるBSDバージョ
ン4.2が登場して、米国が完全に優位に立ったのです。
とくにソフトウェアの開発力において、日米に大きな格差が生
じたといえるのです。能力的にはともかく、人数的には完全に米
国が勝っていたのです。しかし、日本はネットワークの分野では
結構頑張っていたのです。
・・・ [インターネットの歴史 Part2/07]
≪画像および関連情報≫
・ドキュメンタリー映像作品「インターネットの夜明け」
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「1981年、慶應義塾大学の研究室では小さな実験が行な
われようとしていた」というナレーションで始まったドキュ
メンタリー映像作品「インターネットの夜明け」の試写イベ
ント。この作品の企画・制作を担当したヤフーとブロードバ
ンドタワーの両社が6日、共同制作発表会を兼ねて慶應義塾
大学で開催した。
――http://yoake.yahoo.co.jp/characters/index2.html
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