2007年03月13日

日本からARPANETに接続した高校生(EJ第2038号)

 N1ネットワークとARPANETのその後の発展を分けたの
は、電子メールが使えるかどうかの差であり、それによって勝負
は決まったのです。なぜなら、電子メールは専門家の間だけで使
われるものではなく、一般人も大きな関心を示したからです。
 N1ネットワーク作りで中心的な開発を担当した浅野正一郎氏
(現国立情報学研究所所長)は、次のように述べています。
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 N1というのは極端な話、実際に進めているのは東大ひとり、
 京大ひとりで、関心をもっているは、各大学の大型計算機セン
 ターの関係者だけだ、と。それに対してTCP/IP(ARP
 ANET)のほうは、アメリカの大学の多くの人たちが関心を
 持っていた。関心を持っている人がたくさんいるということは
 それだけプロダクトを開発する人がたくさんいるということで
 す。通信機能、アプリケーション、セキュリティ等々、そうい
 うものを大勢の人で寄ってたかって作り上げることができた。
 だから、TCP/IPは成功したんです。
                     ――浅野正一郎氏
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
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 しかし、ARPANETにおいても電子メールは当初重視され
ていなかったです。もともとARPANETの目的は次の2つの
ことだったのです。
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 1.ファイル転送(FTP) ・・・・・・ RFC 33
 2.遠隔ログイン(TELNET) ・・・ RFC137
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 固くならない程度で多少説明すると、「ファイル転送」とは、
文字通り離れたコンピュータにファイルを送ることをいい、「遠
隔ログイン」とは、離れたコンピュータを直接接続されているコ
ンピュータと同じように利用するための仕組みです。各大学間で
これができると大変便利です。
 最初のうち電子メールは、ファイル転送の特殊な例として位置
づけられていたのですが、利用者があまりにも多かったため、国
防総省のIPTO(情報処理技術部)のロバーツ部長が1967
年に学会で発表したARPANETの目的に、ファイル転送、遠
隔ログインと並んで、電子メールもちゃんと目的のひとつとして
入っていたのです。結果として、目的に電子メールが入ることに
よって、ARPANETがインターネットの名の下に、世界中で
使われるようになる原動力となったのです。
 ところがいくら電子メールを使いたくても、ARPANETに
アクセスできるのは、大学関係者などのごく一部の層に限られて
いたし、大学にしても接続許可のための審査まであったのです。
 しかし、世界には凄い人もいるのです。いわゆる「ハッカー」
と呼ばれる人たちです。彼らはプロバイダーが登場する前から自
由にARPANETにアクセスし、電子メールも使っていたので
す。日本にも伊藤穣一という人物――インターネットの寵児とい
われている――がいます。現在、ネオテニーの代表取締役社長や
ブログで有名なシックス・アパートの会長などを務めるネット界
での著名人です。
 この伊藤氏が高校生の頃、自宅からARPANETにアクセス
していたというのです。どのようにしてやったのでしょうか。
 MIT(マサチューセッツ工科大学)に伊藤氏の友人がいて、
もし、MITのコンピュータにアクセスできたらアカウントをあ
げるといわれたのがきっかけなのです。MITはARPANET
につながっていたので、何とかやってみようと思ったそうです。
 伊藤氏が当時持っていたPCは「マッキントッシュ」であり、
モデムは300bps だったのです。最初にやったことは、英国の
エセックス大学のコンピュータにログインすることです。ここは
ゲーム好きのハッカーのたまり場だったのです。
 まず、自宅の電話をKDDの「ビーナスP」につないで、それ
を介してエセックス大学のコンピュータと接続したのです。「ビ
ーナスP」というのは、1982年にKDDが開始したパケット
交換式による国際公衆データ伝送サービスのことです。
 さて、エセックス大学のコンピュータに接続した後は、JAN
ETという英国の学術ネットワーク、ヨーク大学、ダムハム大学
を経由して、ロンドン大学のコンピュータにログインすることに
成功したのです。
 ロンドン大学はARPANETの接続ポイントになっていたの
で、ARPANETを経由してMITのカオスネットに侵入する
ことができ、約束のアカウントをもらうことができたのです。そ
こで、コンピュータやネットワークについてMITの教授や学生
に教えてもらったり、自分の学校の宿題の答えを解いてもらった
りと、やりたい放題をやったのです。掲示板に「この問題の解き
方を教えて!」と書き込むと、MITの教授が親切に教えてくれ
たというから驚きです。
 しかし、毎日長時間PCの前に座り続け、世界中をアクセスし
て回ったのですから、電話代がものすごくかかったのです。「ビ
ーナスP」の料金は月に40万円以上かかり、母親から大目玉を
食ったといいます。ちなみに、伊藤氏がこれをやったのは、19
84年のことなのです。驚くべきことです。日本でインターネッ
トが使われはじめる10年以上前の話です。
 さて、日本のN1ネットワーク――この発想を立てたのは、猪
瀬でも、浅野でも、金出でもないのです。国立大学の計算機セン
ターと図書館の両方を主管する文部省図書館情報課の田保橋とい
う課長だったのです。
 田保橋課長は、「将来の図書管理はデータベースの倉庫業にな
るべき」という持論を早くからもっていて、そのためにネットワ
ーク環境を整える必要があると説いたのです。彼こそN1ネット
ワークの発案者なのです。
        ・・ [インターネットの歴史 Part2/05]


≪画像および関連情報≫
 ・伊藤穣一氏の話から・・
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  10年前には、インターネットがうまくいかないと思ってい
  た人たちがたくさんいました。それが今の若い人たちは、イ
  ンターネットがなかったことを知らない人さえいるのです。
  10年前には想像できないことがたくさんありましたが、今
  の若い人たちはきっと10年後がかなり想像できているので
  はないでしょうか。インターネットや携帯電話が発展し、普
  及するにつれて、生活もどんどん便利になっていくことを実
  感していますから。それが、今の大人にはわかっていない人
  もいますね。そこにギャップが生まれつつあります。「クリ
  エイティブクラス」といって、ネットを完全に理解して使っ
  ている人たちと、使っていない人たちのギャップが発生し、
  デジタルデバイドが世代間で起きているのです。これは、今
  後どうすべきか考えていかないといけないでしょうね。
 http://japan.cnet.com/interview/story/0,2000055954,20086834,00.htm
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posted by 平野 浩 at 04:45| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする