BITNETが設立されたという話をしました。一般的に、イン
ターネットの原型はARPANETといわれており、それは間違
いではないのですが、いつから「インターネット」といわれるよ
うになったかについては、諸説があるのです。
1983年1月1日に、ARPANETのプロトコルが現在の
インターネットのプロトコルである「TCP/IP」になったの
です。その時点で、ARPANETから軍事部門は「MILNE
T」として分離し、残りの部分とCSNETが相互接続を果たし
たのです。実はこれがインターネットの原型になるのです。
それはさておき、日本では何をしていたのかという話に戻りま
す。相磯調査団がPARCを訪問したのが1971年の夏のこと
です。この相磯調査団とは直接関係がないのですが、1974年
に「N1ネットワーク」というネットワークの開発が行われてい
るのです。東京大学と京都大学の大型コンピュータを電電公社が
そのとき開発を進めていたDDX網(パケット通信サービス/完
成は1979年)を使って接続しようという試みなのです。なお
以下、敬称略とさせていただきます。
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東京大学側の責任者 ・・・・・・・ 猪瀬 博/石田晴久
プロトコル担当/浅野正一郎
京都大学側の責任者 ・・・・・・・ 坂井利之
プロトコル担当/ 金出武雄
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当時は国産コンピュータの全盛時代だったのです。東大には日
立のマシン、京大には富士通のマシンが入っていたのですが、と
もにネットワーク機能は組み込まれていなかったのです。そもそ
もOSにネットワーク機能を組み込むという発想が、メーカにな
かったので、浅野と金出が苦労することになったのです。
この時点でARPANET用のプロトコルとして開発中のTC
P/IPの情報も浅野と金出には入っていたのですが、それを超
えるものを作ろうとがんばって「N1」を開発したのです。それ
はTCP/IPの日本版というべきものだったのです。
「N1」は、「日本1号」という意味であり、世界に負けない
品質の高い通信ができるプロトコル――それを目指すという強い
自負心があったのですが、その時点ではARPANETが現在の
インターネットのようなネットワークになることを想像もしてい
なかったのです。
問題は通信網なのです。米国では、その時点で1秒間に50キ
ロビットの通信速度――50Kbps の通信網を使っていることは
わかっていたのですが、当時の日本にはそのような高速通信網は
なく、電電公社がパケット通信網に着手していたので、その実験
をさせてやると説得して、電電公社をプロジェクトに引っ張り込
んで、東京・京都間の通信回線を引っ張ってもらったのです。そ
して、1975年にN1ネットワークは稼動したのです。
ネットワークの目的からすれば、ARPANETと何ら変わら
ない意義のあるプロジェクトの成功といえるのですが、どうも周
囲はあまり盛り上がらなかったようなのです。東大側でプロトコ
ルを担当した浅野正一郎はつぎのように述懐しています。
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実際に働いたのは京都は金出さんで、東京はぼくを含めて2、
3人。大型計算機センターが総力を挙げたという感じではなく
ごく個人的プロジェクトという感じだった。
――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
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N1ネットワークは、その後、パケット交換網の整備拡充とと
もに東北大学、九州大学、北海道大学など、旧帝大から順に他の
公立大学、さらに私学へと広がっていったのです。1980年に
なると、国立大学の計算センターの大型コンピュータにはほとん
どN1機能が組み込まれ、接続はスムーズに行われるようになっ
ていったのです。
このN1ネットワークに東京大学大型計算機センター(現東京
大学情報基盤センター)の助教授時代にかかわり、その後、日本
インターネット協会の初代会長を務めた石田晴久(現東京大学名
誉教授)は、最初からN1ネットワークの大きな欠陥を見抜いて
いたのです。それは、N1ネットワークでは電子メールが使えな
かったことです。技術的にできなかったわけではないのです。法
律によって禁止されていたのです。これについて、石田は次のよ
うに述懐しています。
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当時の電機通信法だと、メッセージ交換はやっちゃいけないこ
とになっていた。そんなことをしたら、郵便事業の妨げになる
ということで、電子メールは許されなかったのです。私は、電
子メールの交換ができないようなネットワークはネットワーク
じゃないと思っていましたから、N1とはほどほどのおつき合
いはしましたけど、あまり真面目じゃなくて・・。
――滝田誠一郎著の前掲書より
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ARPANETではもちろん電子メールは使えたのです。もっ
とも最初のうちに副次的なおまけ機能だったのですが、使ってい
ると、これはとても便利だということになって、ネットワークは
飛躍的に拡大したのです。
郵政事業を守るための電気通信法――これが技術の発展を阻害
していたのです。ARPANETと同じレベルの機能を持ちなが
ら、法的規制によって電子メールが使えなかったことによって、
日本のN1ネットワークの利用者は何年経っても、ごく一部の専
門家に絞られていたのです。この事実を専門家ではなく、そうい
う法律を作り、死守してきた人たちにこそ知ってもらいたいもの
だと考えます。・・・ [インターネットの歴史 Part2/04]
≪画像および関連情報≫
・石田晴久氏は語る
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まず、1975年に通信を始めた当時は「電話回線に電話以
外の端末を電気的につないではいけない」という規制があり
そのため電話回線でパソコン通信を行なおうとすると、音響
カプラで通信を行なうしかなかったという。また、それに先
立つ1974年には「ARPANETをまねして」(同氏)
国内の大学間を当時の電電公社が運営していDDX網(パケ
ット通信網)で結びネットワークを構築したが、この際にも
「電子メールの交換は郵便事業に差し支える」という理由で
複数ホスト間を結ぶ電子メールの利用が認められなかったと
いう(単一ホスト内における電子メールならOKだった)。
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/event/2004/07/01/3725.html
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