2007年03月01日

光ファイバーの接続料の現状の課題(EJ第2030号)

 ここで、NTT東西に課せられている「光ファイバーの開放義
務」について述べておくことにします。日本における今後の通信
戦争を予測するうえでの基礎になることだからです。
 光ファイバーについては、電気通信事業法という法律で総務省
はNTTに対して規制をかけています。この法律によって、NT
Tは、自ら敷設した光ファイバーであっても、KDDIやソフト
バンクをはじめとする他の通信事業者からそれを求められれば、
必ず貸し出さなければならないのです。
 NTTとしては、貸し出しにさいしてもちろん料金――接続料
を取ることができますが、NTTが勝手に決めることはできない
のです。総務省に対して根拠を付けて申請し、許可をもらう必要
があるのです。
 普通のビジネスであれば、貸し出す相手を選択できるし、自分
の商売が不利にならないような値付けができるのですが、NTT
は一切それができず、普通のビジネスで許される自由度はまった
くないといえます。
 しかも、他の通信事業者に貸し出すさいの接続料は、NTT自
体も縛るのです。というのは、NTTが自社ブランドで光ファイ
バー・サービスを提供する場合、他事業者への貸し出し料金を原
価としなければならないからです。要するに、あらゆるインフラ
を有するNTTでも他の事業者と公平な競争ができるよう総務省
は配慮しているわけです。
 したがって、NTTが料金を下げる場合も、NTTは光ファイ
バーの新しい接続料の申請を総務省にして、認可をもらう必要が
あるのです。そして、認可が出たら、他事業者に対しても値下げ
した接続料で貸し出さなければならないのです。
 これがNTTに課せられている「光ファイバー開放義務」なの
です。これだけを読むと、いかにNTTが縛られているか、何だ
か気の毒になってしまいますが、NTTもそれがイヤなら、資本
分離に応ずればいいだけのことです。
 それでは、光ファイバーの接続料はどのようにして決められて
いるのでしょうか。
 実際の敷設コストを単年で出すと非常に高くなるので、NTT
は「将来原価方式」というコスト算出方法をとっています。NT
Tは2001年から光ファイバーの開放をはじめていますが、そ
のときのコスト算出法です。
 具体的にいうと、7年間――2001年度〜2007年度の光
ファイバーの需要を予測し、その間のコストを平準化してを算出
したのです。そのとき、算出された料金は、光ファイバー1本に
つき、約5000円ということで決まっています。もちろん、こ
の金額で総務省の認可を取っているのです。
 しかし、2001年の時点におけるNTTの需要予測は次のよ
うに大幅に外れているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   2005年3月末 ・・・・・ 約1万3000円
   2006年3月末 ・・・・・ 約1万1000円
―――――――――――――――――――――――――――――
 現時点では、計算通りに需要は伸びておらず、コストは徴収額
の倍以上になっているのです。ちょうど7年目に当たる2007
年3月末についても、1万円は切っていない状況であり、NTT
としてこのマイナス分をどのようにして回収するかが問題になっ
ているのです。
 これについてNTT持ち株会社の和田社長は、2006年11
月の中間決算の記者会見で、記者の質問に答えて次のように発言
しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 光ファイバーの接続料については、7年分のコストを回収する
 という方向で検討中です。(中略)考え方を整理したい。7年
 間がもうすぐ終わってしまうので、いろいろ工夫できないか考
 えている真っ最中だ。    ――NTT持ち株会社和田社長
 ――日経コミュニケーション編『2010年NTT解体』より
                       日経BP社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この発言を額面通りに受け取ると、光ファイバーの値上げにつ
ながる発言であると思います。しかし、もし、軽々に値上げをす
ると、せっかくNTT東西が光ファイバーの拡販に成功している
のにストップをかけることになります。さらに、NTTが値上げ
すると、当然貸し出し料金も引き上げられることになるので、そ
の影響は甚大なものになります。
 しかし、総務省は光ファイバーをめぐる新しい競争政策を推進
するうえで、接続料を下げようとしているのです。このような状
況において、光ファイバーの接続料が今後どうなるかは不透明に
なっています。NTT東西の幹部はこの問題について次のように
述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 持ち株会社は光ファイバーを値上げして、投資の回収をできる
 だけ早くしようとしているが、実際に売る側のNTT東西とし
 ては、今はまだ値上げよりも、好調な勢いに乗って拡販を続け
 る時期だと考えている。
         ――日経コミュニケーション編の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように、NTT持ち株会社と傘下のNTT東西との意識は
大きく異なっているのです。光ファイバーの接続料だけでなく、
持ち株会社と事業会社の間では、次世代ネットワークをめぐって
も意見が異なるのです。
 このような状況が続いてよいはずはなく、結局問題はNTTの
組織問題に戻ってくることになります。NTTの組織問題は他に
与える影響が大きい問題であり、2010年を待つまでもなく真
剣に検討しなければならない問題であるといえます。明日はこの
問題を取り上げます。       ・・・ [通信戦争/38]

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2007年03月02日

4パターンのNTT組織問題(EJ第2031号)

 2010年に検討されることに決まったNTTの組織問題を整
理しておきましょう。竹中委員会の座長を務めた松原聡教授は、
NTTのあり方には次の4つがあることを指摘しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
       1.現状組織をそのまま維持
       2.アクセス部門の機能分離
       3.アクセス部門の構造分離
       4.持ち株会社廃止資本分離
―――――――――――――――――――――――――――――
 「アクセス部門」とは何でしょうか。
 アクセス部門とは、電電公社時代から100年以上の歳月をか
けて全国津々浦々に築いてきた電話網のインフラ――電話局や電
話線、25万キロを超える光ファイバー網と電柱や地下の管路や
とう道などの敷設・管理を担う部門を意味します。現在、この部
分を担っているのは、NTT東西地域会社です。
 松原座長が示した第1の案は、現状維持――NTT東西地域会
社、NTTドコモ、NTTコミュニケーションズの4社をNTT
持ち株会社が統括する現在のNTTの組織を維持することです。
 現在、NTT東西地域会社は、アクセス部門をかかえながら営
業部隊を有し、光ファイバーの営業を展開しているのです。そし
て、競合相手である他の通信事業者に対して回線を貸し、接続料
をとっている――これでは圧倒的にNTT東西が有利です。
 既に見たように、NTT東西は光ファイバーの営業に関して販
売奨励金をふんだんに使っています。この奨励金の原資に、競合
相手の通信事業者がNTT東西に支払う接続料が入っていないと
は誰もいえないはずです。
 そのため、総務省は接続料をNTT独自には決められないよう
にして、あくまで公平な競争を図っていますが、それでもNTT
の方が有利に決まっています。とても公正なる競争とはいえない
でしょう。
 松原座長が示した第2の案は、NTT東西のアクセス部門を機
能分離することです。この例は英国にあります。BT――ブリテ
ィッシュテレコムは、2006年はじめからアクセス部門を機能
分離しています。
 BTの機能分離はかなり徹底したものなのです。会計はもちろ
んのこと、オフィスも別にし、ブランド名もBTの文字は一切使
わず、「オープンリーチ」という名前で営業しているのです。人
事交流も一切ないのです。それに第三者機関から監査役を受け入
れており、機能分離がきちんと行われているかどうかチェックを
受けています。しかし、組織は昔のままです。
 NTT東西でもこれに近いことをやろうとはしているのですが
いかんせん徹底力が甘いのです。会計は分離しているものの、人
事交流などは行われているのです。
 松原座長が示した第3の案は、NTT東西のアクセス部門を構
造分離――すなわち、資本分離して別会社にすることです。確か
にNTT東西のアクセス部門が完全に別会社になれば、NTT東
西の営業部隊と他の通信事業者のそれとは公正な競争が保証され
ることになります。
 ソフトバンクの孫社長の主張は、この第3案を発展させたもの
だったのです。NTT東西からアクセス部門を切り出して「ユニ
バーサル回線会社」を設立し、民間からも出資を受けて、全国に
光ファイバーを敷設するというものです。そうすれば、現在50
74円の光ファイバーの接続料を690円にできると孫社長はい
うのです。彼のことですから、はったりでいっているのではなく
ちゃとした根拠あっての数字とみられます。
 この孫社長の提案の重要なポイントは、あくまで光ファイバー
を全国――採算ベースに乗らない地域も含めて、全国に敷設する
というところにあります。NTT東西はあくまで採算の合う地域
にしか光ファイバーを敷設しない方針であり、孫社長はかねてか
らそれを批判していたのです。
 しかし、公益事業会社による光ファイバーの敷設は競争が働き
にくく、効率に問題があるのです。それに、全般的な「官」から
「民」への流れの中で、公益事業会社を設立するのは時代に逆行
することになってしまいます。そういう観点から、竹中委員会の
松原座長は、ユニバーサル回線会社説をとらないが、それ以外の
方法で、光ファイバーの料金引き下げは実現する方向を目指す方
針を立てたのです。
 松原座長が示した第4の案は、NTT持ち株会社を廃止し、傘
下の4会社は完全に資本分離するというものです。そうすれば当
然のことながら、NTT法は廃止され、NTT東西の業務にかけ
られているさまざまな規制は撤廃されることになります。つまり
「NTT解体」です。竹中委員会が最初から目指し、採択したの
はこの案なのです。
 EJ第2026号で、竹中委員会と平行して総務省はIP懇談
会を進めてきていると述べましたが、この懇談会は竹中委員会が
政府与党合意を取ると、直ちにそれに基づき次の改革工程ルール
を作り上げています。
―――――――――――――――――――――――――――――
       新競争促進プログラム2010
―――――――――――――――――――――――――――――
 新聞などには出ていないのですが、竹中前総務相は2006年
6月に政府与党合意を勝ち取ると、直ちに総務省内部の人事に着
手しているのです。今までの総務省人事では、大臣の意思を反映
できるのは審議官などのトップ官僚に限られていたのですが、竹
中大臣は、通信事業者と直接やり取りする現場レベルの人事まで
介入し、NTT改革派を配置して、「新競争促進プログラム20
10」がきちんと進むような体制にしているのです。
 このままでは、NTTは2010年から解体に向けて一挙に動
くことは確実です。このことが今後の通信戦争の行方に大きな影
響を与えることになります。    ・・・ [通信戦争/39]


≪画像および関連情報≫
 ・KDDI小野寺社長のNTTに対する意見
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「光、IPの時代に入り、明らかに距離の概念がなくなる。
  ということは、中継系の事業者は基本的に成り立たないと考
  えている。そうなるとこれまで以上にアクセスラインの公正
  競争条件の確保は重要になってくる。今後、公正競争を有効
  に機能させるためには、まずNTT持ち株会社の廃止と、東
  西、地域会社、コム、ドコモ、データの完全資本分離がぜひ
  必要と考える。またNTT東西のアクセス部門の分離も考え
  てもらう必要がある」。“完全資本分離”の必要性を強調。
  完全資本分離にはNTT法等の改正が必要になるので、「当
  面の措置としては、NTTグループ内におけるヒト、モノ、
  カネ、情報の共有をきっちりと遮断するファイアーウォール
  を定め、公表すべき」。
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月03日

EJバックナンバー「デジタルTV」(その10)

2003年4月18日に配信したEJ第1089号(全10回
連載の内第10回)
○ 難視聴問題を解決する光波長多重技術(EJ第1089号)
posted by 平野 浩 at 05:21| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月04日

EJバックナンバー「千と千尋」(その1)

2001年10月15日に配信したEJ第721号(全7回
連載の内第1回)を過去ログに掲載しました。
○ 思春期前の子どもを主人公とする映画(EJ第721号)
posted by 平野 浩 at 05:19| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月05日

ホワイトプランと端末の値上げの関係(EJ第2032号)

このテーマに関する記述は前回でほぼ終っています。しかし、
もうひとつ付け加えることがあり、明日までこのテーマは続ける
ことにします。
 それは、ソフトバンクの「ホワイトプラン」のことです。「ホ
ワイトプラン」については、EJ第2005号で述べていますの
で、その特徴を再現します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.1時から21時まではソフトバンク携帯電話宛の通話は何
   時間話しても無料
 2.ソフトバンク携帯電話宛のメールは無料。他社へのメール
   は3円〜200円
 3.それでいて月額基本料金は980円。ソフトバンク・ユー
   ザのコース変更可
 4.ホワイトプランに新スーパーボーナスを付けると、端末の
   大幅割引き購入可
―――――――――――――――――――――――――――――
 私は当初ゴールドプランに加入し、そのあとホワイトプランに
切り替え、2月11日からその適用を受けています。しかし、こ
れには少し落とし穴があったようです。
 問題点は4の「ホワイトプランに新スーパーボーナスを付ける
と、端末の大幅割引き購入可」という部分です。ソフトバンクで
は、MNPによってソフトバンクに移ってきたユーザと、既にソ
フトバンクのユーザでも新規に端末を買い替えるユーザには「新
スーパーボーナス特別割引」が適用され、端末の価格が大幅に下
がる仕組みになっているのです。
 EJ第1997号において、ゴールドプランに加入して、ワン
セグTV付きアクオス・ケータイ911SHを購入した場合の割
引額について次のように説明しました。念のため再現します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・機種/ソフトバンク911SH――アクオス・ケータイ
 ・価格/72480円
  72480÷24=3020 → 本来の1ヶ月の負担分
  3020−2280=740 → 実際の1ヶ月の負担分
―――――――――――――――――――――――――――――
 この数字は違っていないのです。しかし、ソフトバンクが毎月
割り引く2280円には条件があったのです。それは、次の式が
成り立つユーザに対しては、「基本料金+実際に利用した料金」
が割引額の限度になるということです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   基本料金 + 実際に利用した料金 < 2280円
―――――――――――――――――――――――――――――
 仮にある月の「基本料金+実際に利用した料金」が2000円
の場合、その月の端末の割引額は2280円ではなく、2000
円になるのです。ゴールドプランの場合は、基本料金は2880
円であって、それだけで何も使わなくても割引額はフルに受けら
れますが、ホワイトプランになると、基本料金が980円になる
ので、月の利用料金の総額が2280円を下回るケースが出てく
るのです。そして、そのような場合は、利用料金額が割引額にな
るというわけです。
 2007年2月17日のことですが、日本経済新聞に次のタイ
トルの記事が出たのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     携帯電話機、実質値上げ/ソフトバンク
     機種変更10〜15%
     通信料下げ分補う 2007.2.17
―――――――――――――――――――――――――――――
 これまで日本では、販売奨励金を利用して端末を安く売り、後
から通信費で回収するという日本型携帯電話機販売モデルを採用
してきています。しかし、今回のソフトバンクの携帯電話機値上
げは、この慣行を破ったものとして注目されます。
 携帯電話機を値上げするといっても、毎月の端末の割引額を下
げることによる端末の実質値上げであり、しかも各月の利用料金
に応じて割引額を調整するという巧妙なやり方です。NTTドコ
モとauは、このソフトバンクの端末値上げについて、従来通り
のやり方で対応するとしています。通信基本料金だけは絶対に下
げないという姿勢でしょうか。ユーザから見ると、この方式では
端末の本当の価格が分からず、不透明そのものです。やっぱり、
まだ、水槽の中にいるつもりなのでしょうか。
 このソフトバンクの方式は、ユーザにとって納得がいく方式で
す。端末の料金がはっきりしていることと、割引額もわかる――
そして何よりも基本料金を980円にしたことは高く評価できる
と思うのです。ユーザが本当に望んでいるのは、端末を安く購入
するよりも通信料金を下げてもらうことです。端末を異常に安く
して加入させ、後から高い通信料金でそれを取り返す――これで
はとてもユーザのことを考えている姿勢とはいえないです。
 ソフトバンクの今回の端末値上げは、毎月の利用の少ないユー
ザからもきちんと利益を上げるという経営の意思のあらわれであ
り、それはそれで健全であると思います。
 しかし、ソフトバンクにも一言いいたいことがあります。私が
ゴールドプランからホワイトプランに変更するさい、ソフトバン
クに行って担当者と話し合ったのですが、その担当者は月々の利
用料金によっては割引額が変わることがあるという話を一切して
いないのです。
 「ゴルドプランとホワイトプランの違いは、午後9時から午前
1時までの月200分限度の無料通話がないだけですね」と私が
確認したところ「そうです」と明言しているのです。これには納
得がいかない気持です。
 もっとも新聞には「新規でソフトバンクに加入したり、NTT
ドコモやKDDIから移った顧客には端末の値上げを見送る」と
は書いてあるますが、・・・。   ・・・ [通信戦争/40]


≪画像および関連情報≫
 ・ソフトバンクモバイル五十嵐善夫常務のコメント
  ―――――――――――――――――――――――――――
  割賦販売方式を導入した背景について,同社の五十嵐善夫常
  務執行役法務・渉外担当は「短期解約を防ぎ,ユーザー間の
  不公平感を解消するため」と説明している。従来型の販売モ
  デルでは端末購入時に4万円前後の販売奨励金が発生する。
  そのため1年未満などの短期間で事業者を乗り換えるユーザ
  には携帯電話事業者が赤字でサービスを提供する形になる。
  「その分が他のユーザーへのしわ寄せになり,高い通信料金
  につながっている。割賦販売はこれを是正するのが狙いだ」
  (孫正義・代表取締役社長)。
  ―――――――――――――――――――――――――――

ホワイトプランのからくり
posted by 平野 浩 at 04:46| Comment(0) | TrackBack(0) | ケータイ通信戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月06日

これは桶狭間の戦い−−孫社長(EJ第2033号)

 ソフトバンクの戦略を中心にケータイ戦争の実態を描く――こ
れが今回のテーマであり、全体で30回程度を考えていたのです
が、41回になってしまいました。このテーマは本日をもって終
了いたします。
 孫正義という経営者は、業界の革命児であるとか、風雲児であ
るとかいわれ、社内では何事でも独断専行で進める――そういう
ようなイメージが孫正義氏には付きまといます。
 2006年6月のことです。その日、ソフトバンクの株式総会
の後で、旧ボーダフォンの社員総会があったのです。そのとき、
孫社長は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 普通にやっても勝てっこない。われわれは奇襲でいく。これは
 桶狭間の戦いなんだ。           ――孫正義社長
       ――週刊『東洋経済』2006.11/25より
―――――――――――――――――――――――――――――
 孫社長のやり方は非常に早いといわれます。即断即決でどんど
ん決めて行く。例を上げると、「ソフトバンク同士のメールはす
べて無料にしたい。できるかどうか返事してくれ!」。このよう
に何かを思いつくと、次々と幹部社員のケータイを鳴らします。
 「調べないといけないことがたくさんある。すぐには返事はで
きない」と幹部社員が返信すると、孫社長は「わかった。それな
ら、時間をやろう。5分後に返事してくれ」という具合です。
 そして、幹部社員のやりとりで納得のいく返事が得られないと
本部長を一同に集めて緊急会議が夜中に開かれるのです。そして
「その返事は朝にくれ」というのです。とても寝ているヒマはな
いのです。そのスピードは尋常なものではないのです。
 ソフトバンクモバイルでインフラを担当している宮川潤一取締
役は、孫社長の経営について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヤフーBBのときとスピードそのものは変わっていない。孫さ
 んはボールを直球でドーンと投げて、翌日までに投げ返してこ
 いという。そのリズムを理解していない人は急にエイリアンに
 侵略されたといって、相当胃を悪くするでしょうね。正直いっ
 て辞めた人も結構いる。でも、残った人たちがまた新しい血を
 集めながら形にしていく、というのは今までもやってきている
 ので、僕らは慣れていますけど。
       ――週刊『東洋経済』2006.11/25より
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、実際の孫社長のイメージはかなり違うようです。それ
は『プレジデント』/2007年2月12日号のユニクロの柳井
正社長と孫正義社長との対談を読むと、よくわかります。ちなみ
に柳井正氏は、ソフトバンクの社外取締役をしています。柳井氏
は孫社長のことを次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ソフトバンクの役員会は活発ですよ。外から見ていると、ソフ
 トバンクという会社は孫さんがひとりで全部決済しているよう
 な印象がある。だが、実際の役員会はみんなが議論して、物事
 を決めている。ソフトバンクの役員会に出ていると、孫さんは
 人の意見に耳を傾ける経営者だと感じます。  ――柳井正氏
       ――『プレジデント』/2007年2月12日号
                     プレジデント社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 孫社長は何でも即断即決といわれていますが、必ずしもそうと
はいえないのです。今回ソフトバンクがMNP制度に合わせて打
ち出したソフトバンク同士の「通話・メール料金0円」にしても
けっして思い付きの施策ではなく、相当考え抜かれており、利害
得失を練り上げた施策なのです。
 また、スタート直前まで、孫社長と数人の役員しか知らなかっ
たといわれていますが、もしそうだとしたら、システム開発がで
きるはずがないのです。今回の作戦に関与した関係者はかなりい
たはずであり、その関係者全員が秘密保持契約を結んで制度構築
に取り組んだのです。もちろん取締役会にもかけられ、柳井氏を
はじめとする社外取締役の意見も聞いているはずです。
 もうひとつソフトバンクは、NTTドコモやauに比べると、
ヨドバシカメラやビックカメラなどの量販店と太いコネクション
があるのです。ソフトバンクは1981年の創業から取り組んで
いるPC向けソフトウェアの流通で70%近いシェアを持ってお
り、携帯電話事業ではじめて付き合いのできたドコモやauとは
違うのです。
 また、ADSLサービスの「ヤフーBB」では、販売した代理
店には、その加入者が脱退するまで、継続的に手数料が入る仕組
みになっていて、ソフトバンクと量販店とは長い付き合いがある
のです。こんな話があります。MNP開始の朝、孫社長は秋葉原
のヨドバシカメラのイベントに出て挨拶するや、直ちに有楽町の
ビックカメラに行っています。この孫社長の行動は両量販店から
懇願された結果だというのです。
 今後の日本における通信戦争を考えるとき、ソフトバンクと巨
大量販店との深いつながりは、シェア戦争の行方に大きな影響力
をもつことになります。ソフトバンクが微温湯から熱湯に変わろ
うとする水槽から、いち早く飛び出すことができたのも、ソフト
バンクがこれらの強力販売店とのつながりがあり、今までとは違
う販売方法をとっても大丈夫だという確信が持てたからだと思う
のです。既にソフトバンクとドコモ、auの販売方法は、はっき
りとした違いが出てきていると思います。
 ソフトバンクの社外取締役の柳井氏は、孫社長が取締役会で提
案する案件のほとんどに否定的見解を示し、ブレーキ役を果たし
ているといわれますが、ボーダフォンの買収案件には積極的に賛
成したといいます。ボーダフォンの買収以降のソフトバンクの行
動には目をみはるものがあります。現在、日本の電話業界は大き
な転機にあるのです。       ・・・ [通信戦争/41]


≪画像および関連情報≫
 ・イー・モバイル携帯電話事業に参入
  ―――――――――――――――――――――――――――
  千本CEOは、現在の携帯電話市場が飽和状態にあるとの指
  摘を否定し、「携帯電話の普及率はまだ70%。海外では1
  人で2〜3台持つような普及率100%以上の国が少なくと
  も5カ国はある。電話モバイルでは100%が上限かもしれ
  ないが、新しい技術が出てきた時には今まで想定できなかっ
  たことがたくさん起こる」と述べて、「2年後を見ていて下
  さい」と市場開拓やシェア獲得への意気込みを語った。
  http://k-tai.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/26492.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

EВΒk.jpg
posted by 平野 浩 at 04:36| Comment(0) | TrackBack(0) | ケータイ通信戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月07日

1969年にすべてがはじまっている(EJ第2034号)

 今日からはじまる新しいテーマは、次の通りです。昨日までの
通信戦争とも関係のあるテーマです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪日本におけるインターネットの歴史≫
 ――日本では、だれが、いつ、どのようにしてインターネット
 をはじめたか。日本のインターネット技術は、世界において、
 どの程度のレベルに達しているかを探る――
―――――――――――――――――――――――――――――
 EJでは、2005年8月23日から、46回にわたり「イン
ターネットの歴史」をメルマガとブログで同時連載しましたが、
地味なテーマにもかかわらず、ブログでは現在でも毎日多くの方
からのアクセスがあるのです。連載データを次に示しておきます
ので、ブログをあわせて読んでいただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
   ≪インターネットの歴史≫
    2005年 8月23日/EJ第1661号
    2005年1O月28日/EJ第1706号
http://electronic-journal.seesaa.net/category/618340-1.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 私は、現在顧問をしているあるIT企業で、3年以上にわたっ
て、CCNA資格受験者に対してネットワークの基礎の指導を担
当しています。そのとき、受講者に必ず次の質問をします。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本のインターネットの発展に貢献した人を知っていますか
―――――――――――――――――――――――――――――
 実は現在のところ、この質問に正解をした人は一人もいないの
です。あわせて、IT業界以外の人にも聞くチャンスのあるとき
に尋ねてみるのですが、本当に誰も正解してくれないのです。
 これに関連して、次の質問もしてみるのですが、これについて
も誰も正解してくれないのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 インターネットは複数の人によって開発されたネットワーク
 ですが、その開発者を一人でもいいですからあげてください
―――――――――――――――――――――――――――――
 現在の社会は、インターネット抜きでは何もできないほど、イ
ンターネットに依存しています。PCが故障してネットワークに
つながらないと、まるで世の中から取り残されたように感ずるほ
ど、インターネットは身近なものになっています。
 それほど、浸透しているインターネットの開発者の名前がどう
して出てこないのでしょうか。われわれがインターネットを非常
に低コストで使えるのは、インターネットの開発者たちが誰一人
として特許を申請していないからなのです。
 そうであるとすると、そのユーザであるわれわれは、せめて開
発者の名前ぐらいは認識にとどめ、その功績に対して感謝するこ
とがあってもいいのではないでしょうか。
 私が前作「インターネットの歴史」をまとめ、今回さらに「日
本におけるインターネットの歴史」をテーマとして取り上げたの
は、そういう理由からです。専門知識がなくてもわかるようにや
さしく書きますので、気軽に読んでいただきたいと思います。
 インターネットの歴史を調べるときに覚えておくべき年号は、
1969年がそうです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1969年12月5日/ARPANET運用開始
―――――――――――――――――――――――――――――
 この日は次の4つの大学や研究所でネットワークがつながり、
イーネットの原型ともいえるARPANETの運用が開始された
日なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.カリフォルニア大学ロスアンゼルス校
    2.スタンフォード研究所
    3.カリフォルニア大学サンタバーバラ校
    4.ユタ大学
―――――――――――――――――――――――――――――
 このARPANETというネットワークは、離れた場所にある
それぞれ仕様の異なる大型コンピュータ間で、ファイルの転送を
したり、ソフトウェアを開発するための情報を共有・交換するこ
とが初期の目的として使われたのです。
 ARPANETがスタートした1969年において、日本は何
をしていたのでしょうか。
 この1969年における日本のIT分野での出来事を並べると
次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1969年・・・・・
    2月 ・・・ 日立HITAC10発表
    3月 ・・・ 富士通FACOM−R発表
    5月 ・・・ 三菱電機MELCOM−83発表
   11月 ・・・ 第1回情報処理技術者認定制度開始
   11月 ・・・ NHK「コンピュータ講座」開始
―――――――――――――――――――――――――――――
 1969年という年は日本ではNHKテレビで「コンピュータ
講座」(FORTRAN講座)が開始されるなど、一般人にとっ
ても、コンピュータに関心が高まった年なのです。そして、この
年の11月にネットワークに関わりの深いミニコン用OSである
UNIXがベル研究所によって開発されているのです。
 しかし、ネットワークに向けた動きは、日本においては皆無と
いってよいのです。
 付け加えると、1969年5月には東名高速道路が全線開通し
7月には人間を乗せたアポロ11号が月面着陸しているのです。
この1969年を契機として、インターネットがスタートしたと
いえます。 ・・・ [インターネットの歴史 Part2/01]


≪画像および関連情報≫
 ・ARPANET(アルパネット)とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アメリカ国防総省高等研究計画局(ARPA)が構築し、1
  969年から運用を開始した学術的な先進コンピュータ・ネ
  ットワーク。運用開始時は、図のように、UCLA(カリフ
  ォルニア大学ロサンゼルス校)UCSB(カリフォルニア大
  学サンタバーバラ校)、ユタ大学、SRI(スタンフォード
  研究所)の4拠点が相互接続され、インターネットの基盤技
  術の研究開発・普及と技術検証に大きく貢献しました。
   http://dictionary.rbbtoday.com/Details/term1027.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

ARPANET.jpg
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2007年03月08日

1971年にPARCを訪れた相磯視察団(EJ第2035号)

 ARPANETがスタートした1969年の前後に日本におい
て、ネットワークに関わる研究やプロジェクトがあるかどうか調
べてみたのですが、全くないのです。その時点で日本は、大型コ
ンピュータの開発を行っているだけであり、ネットワークまでは
研究が進んでいなかったと思われます。
 ただひとつ、当時慶応義塾大学教授の相磯秀夫氏が、日本人と
してはじめて、パロアルト研究所(PARC)を訪問しているこ
とです。1971年夏のことです。
 PARCといえば、次の3人の人物が有名なのです。いずれも
ネットワークに関係があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
         1.ロバート・テイラー
         2.アラン・ケイ
         3.ロバート・メトカフ
―――――――――――――――――――――――――――――
 PARCが設立されたのは1970年のことですが、初代の責
任者がロバート・テイラーです。ロバート・テイラーは、国防総
省のARPA(高等研究計画局)の中のIPTO(情報処理技術
部)の3代目の部長を務めたのです。
 IPTOは、ARPANETに取り組んだチームであり、その
3代目の部長は、まぎれもなくインターネットの開発者の一人と
いってよいでしょう。インターネットの開発者の一人として、こ
のロバート・テイラーの名前が出てくれば正解なのです。
 アラン・ケイは早くから「ダイナブック」という現在のPCの
ようなコンピュータを提唱した学者ですが、PARCには、この
「ダイナブック」がベースになって開発された「アルト」という
小型コンピュータがたくさんあったのです。
 「アルト」は小型の石油ストーブぐらいの大きさの本体の上に
ディスプレーが付き、画面は現在のウインドウズのようなGUI
――グラフィカル・ユーザ・インタフェースで、マウスまで付い
ていたのです。当時としては、信じられほど小型のコンピュータ
だったのです。
 ロバート・メトカフは、テイラーによってPARCに招聘され
た俊英の一人で、PARC内の「アルト」をつないで、LANを
構築した人物です。これがイーサネットです。メトカフはイーサ
ネットの開発者として有名です。
 70年代のPARCによって研究・開発された設計思想やテク
ノロジーは、その後のPCの開発やネットワークに大きく貢献す
ることになるのですが、これについては「ネットワークの歴史」
に詳しく書いてあります。
 1971年夏――相磯秀夫慶応義塾大学教授を団長とする視察
団――富士通、日立、NECなどの若手研究者10人はPARC
を訪問しているのです。当初のスケジュールでは、PARCに行
く予定はなかったのですが、カリフォルニア大学バークレー校に
いる相磯の友人から勧められ、PARCを視察したのです。
 そのときロバート・テイラーの指示を受けて、相磯の率いる視
察団を受け入れ、説明役を務めたのが、アラン・ケイだったので
す。そのときの模様は、滝田誠一郎著、『電脳創世記/インター
ネットにかけた男たちの軌跡』に次のように描かれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (アラン・ケイ)は、ポロシャツにスニーカーといった格好で
 現われて、今だったら別に驚くことはないですけど、そのとき
 は『何て格好してるんだ、この人は・・・』と思ったのを覚え
 ている。このとき、アラン・ケイはパソコンのプラモデルのよ
 うなものを手に持ち、『これからは、こういうパーソナル・コ
 ンピュータを使うようになる』と自信たっぷりに説明したとい
 う。また、ネットワークにつながった「アルト」の原型のよう
 なワークステーション2台を使い、ファイル転送や電子メール
 のデモを見せてくれたりもしたそうだ。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 何しろ1971年の話です。これは、現代のLANそのもので
あり、LAN――すなわち、イーサネットはインターネットの重
要な部分を構成するものであり、相磯視察団は大変貴重なデモを
見たことになります。
 しかし、後に相磯教授が述懐したところによると、アラン・ケ
イのデモを実際に目にした視察団のほとんどは、それが、やがて
「オフィス・オートメーション」のようなものになるのだろうと
いう感想を持っただけで、それが現代のインターネットの原型に
なるとは誰一人として考えなかったというのです。これでは日本
が大きく遅れを取るのは当然のことだったのです。
 それでは、大型コンピュータ開発の分野で日本はどうだったの
でしょうか。
 敗戦直後の日本の電子技術は、先進国からはゆうに10年以上
遅れていたのです。そょうど、その頃米国では、世界最初のコン
ピュータ「ENIAC」が完成しているのです。これを受けて日
本でもコンピュータ開発のプロジェクトが動き出すのです。大阪
大学の城研究室、東芝と東京大学のTACプロジェクトがそれに
当たります。
 とくにTACプロジェクトは、当時のお金にして1011万円
という巨額の予算がつき、開発メンバーには当代有数の学者たち
が名を連ねて、鳴りもの入りでスタートしています。日本はよく
こういうやり方をしますが、そういうプロジェクトは成功したた
めしがないのです。
 しかし、米国のENIACからちょうど10年後の1956年
に日本で動き出したのは、「FUJIC」というコンピュータだ
ったのです。TACのメンバーではない一般企業で働くエンジニ
ア岡崎文次氏の手によって、初の国産コンピュータは開発された
のです。  ・・・ [インターネットの歴史 Part2/02]


≪画像および関連情報≫
 ・「FUJIC」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  富士写真フイルムにおいて開発された真空管式電子計算機。
  レンズ設計に使用することを目的として岡崎文次により開発
  された.岡崎は1949年から研究を開始し,1952年3
  月からメモリ関係の研究と並行して、全体の組立てが行われ
  た.1955年11月に電子通信学会電子計算機研究専門委
  員会の見学会で,動作のデモンストレーションが行われた。
 http://www.ipsj.or.jp/katsudou/museum/computer/0110.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

鋳AEPC.jpg

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2007年03月09日

歴史の片隅に埋没されているFUJIC(EJ第2036号)

 初の国産コンピュータ「FUJIC」が開発された1956年
という年は、どんな年だったのでしょうか。
 敗戦直後にいったんはどん底に沈んだ日本経済は、1950年
の朝鮮戦争の特需景気をきっかけに回復基調に転じ、電子技術に
ついても、ラジオや電子部品の輸出を足がかりに独り立ちしはじ
めていたのです。
 ちょうどこの年の7月に発刊された『経済白書』には、あの有
名な一文「もはや戦後ではない」と書かれていたのです。そのよ
うな年に、岡崎文次氏が7年かけて開発した「FUJIC」は動
きはじめたのです。
 1950年代前半にコンピュータを開発するということは、大
変なことです。なぜなら、当時世界中でもまともに動いているコ
ンピュータは数台しかなかったからです。電子技術においてもア
ナログが主流の時代にデジタル回路のコンピュータを作るのは、
大変なことだったのです。
 そんな時代に富士写真フィルムに勤めるエンジニアである岡崎
文次氏はほとんど独力でコツコツとコンピュータを作ってしまっ
たのです。その一方で、高名な学者を多数結集し、莫大な予算を
投入した国家プロジェクトによるコンピュータは、満足に動いて
いなかったのです。
 この事実を知ると、FUJICは日本初の栄誉だけでなく、世
界のコンピュータ開発史上に燦然と輝いていても不思議はないの
ですが、皆さんは、FUJICとその開発者岡崎文次氏の名前を
今まで聞いたことがあるでしょうか。
 ほとんどの人は知らないと思います。コンピュータの業界に詳
しい人でさえ、また、コンピュータの歴史を伝える文献において
も、FUJICのことはきちんと記述されていないのです。どう
してこのようなことになるのでしょうか。
 理由はほとんど明らかです。それは意図的に隠されたと考えら
れるのです。なぜなら、FUJICの開発と同時期に、国家プロ
ジェクトが走っており、その国家プロジェクトのコンピュータが
動かなかったからです。科学技術、医学、建設などの研究・開発
においも、同じようなことは日本に多いのです。
 素直に岡崎氏の功績を認めていれば、米国のENIACととも
にFUJICの名前も世界的に有名になり、日本のコンピュータ
の開発力が高く評価されたはずです。
 FUJICをここで取り上げたのは、日本ではインターネット
の普及功績などもあまり高く評価しようといないところがあり、
それとよく似ているからです。当の岡崎文次氏は、FUJIC開
発の目的や経緯について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1945年当時、私は富士写真フィルムでカメラレンズの設計
 課長をしていました。カメラレンズの設計には、複雑な計算が
 大量に必要となります。何枚ものレンズの中を進んで行く10
 00本から2000本もの光線を5〜6桁の精度で追跡して、
 収差を求める計算をしなくてはならないんですから、高級レン
 ズになると計算だけで数ヶ月かかったものでした。当時あった
 アナログ計算機では、2〜3桁の精度しか望めなかった。必要
 な三角関数の計算なんか、数十人の人間が数表などで計算して
 たわけです。その作業の効率アップに、僕は海外で作られてき
 たコンピュータが有効だと思ったのです。
 ――遠藤諭著、『新装版/計算機屋かく戦えり』 ASCII
―――――――――――――――――――――――――――――
 インターネットに話を戻しましょう。69年末に4つの大学間
ではじまったARPANETのその後の動きを追ってみます。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1969年12月        4
      1974年 6月       62
      1977年 3月      111
      1981年 8月      213
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように、ARPANETに接続する大学は少しずつ拡大し
ていったのですが、ARPANETに接続するには審査があり、
小さい大学は接続が許可されなかったのです。また、大きい大学
であっても、大学側で軍のネットワークには加わりたくないとい
うところもあったのです。
 そういう背景もあって、1979年にUSENETが誕生する
のです。USENETに加入する条件はただひとつ、UNIXユ
ーザーであることだけであり、民間人でも誰でも入ることができ
たのです。そのため、USENETの加入者は民間人が中心だっ
たのです。このネットワークはUNIXを開発したベル研究所の
関係者が構築したネットワークですが、これが現在のネットニュ
ースになっていくのです。
 1981年になると、全米科学基金(NSF)が、学術目的で
ネットワークを立ち上げます。コンピュータ・サイエンティスト
を集めて情報交換を密にしようというのが目的です。ネットワー
クはCSNETと名付けられたのです。
 さらに、同じ年の3月にIBMがサポートするBITNETが
はじまったのです。BITNETは、ニューヨーク州立大学とエ
ール大学を専用線で結んだのがはじまりです。これは、1981
年中に25の大学が接続されたのです。
 煩雑なので、整理しておきましょう。これらがインターネット
と呼ばれるのはいつからなのでしょうか。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ARPANET ・・・・・ 審査にパスした大学
  USENET  ・・・・・ 民間UNIXユーザ
  CSNET   ・・・・・ 学術研究目的NET
  BITNET  ・・・・・ IBMユーザが中心
―――――――――――――――――――――――――――――
       ・・・ [インターネットの歴史 Part2/03]


≪画像および関連情報≫
 ・USENETとネットニュース
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ネットニュースとは、インターネット上の複数のサーバで主
  にテキストデータを配布・保存するシステムである。電子掲
  示板システムと類比されることが多いが、後者とはサーバに
  より保持するメッセージが異なり、メッセージ群の内容が一
  意に定まらない点で相違がある。英語の発音上から、ネット
  ニューズと濁らせて言う場合や、単にニュース、ニューズと
  言うこともある。USENETとネットニュースを同義と取
  るかどうかについては議論が分かれる。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月10日

EJバックナンバー「千と千尋」(その2)

2001年10月16日に配信したEJ第722号(全7回
連載の内第2回)を過去ログに掲載とました。
○ 千の働く油屋は昭和初期の疑洋風(EJ第722号)
posted by 平野 浩 at 04:42| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月11日

EJバックナンバー「千と千尋」(その3)

2001年10月17日に配信したEJ第723号(全7回
連載の内第3回)を過去ログに掲載しました。
○ みんなの中にカオナシはいる(EJ第723号)
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2007年03月12日

電子メールが使えなかったN1ネットワーク(EJ第2037号)

 前回、米国で、ARPANET、USENET、CSNET、
BITNETが設立されたという話をしました。一般的に、イン
ターネットの原型はARPANETといわれており、それは間違
いではないのですが、いつから「インターネット」といわれるよ
うになったかについては、諸説があるのです。
 1983年1月1日に、ARPANETのプロトコルが現在の
インターネットのプロトコルである「TCP/IP」になったの
です。その時点で、ARPANETから軍事部門は「MILNE
T」として分離し、残りの部分とCSNETが相互接続を果たし
たのです。実はこれがインターネットの原型になるのです。
 それはさておき、日本では何をしていたのかという話に戻りま
す。相磯調査団がPARCを訪問したのが1971年の夏のこと
です。この相磯調査団とは直接関係がないのですが、1974年
に「N1ネットワーク」というネットワークの開発が行われてい
るのです。東京大学と京都大学の大型コンピュータを電電公社が
そのとき開発を進めていたDDX網(パケット通信サービス/完
成は1979年)を使って接続しようという試みなのです。なお
以下、敬称略とさせていただきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 東京大学側の責任者 ・・・・・・・ 猪瀬 博/石田晴久
               プロトコル担当/浅野正一郎
 京都大学側の責任者 ・・・・・・・ 坂井利之
               プロトコル担当/ 金出武雄
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時は国産コンピュータの全盛時代だったのです。東大には日
立のマシン、京大には富士通のマシンが入っていたのですが、と
もにネットワーク機能は組み込まれていなかったのです。そもそ
もOSにネットワーク機能を組み込むという発想が、メーカにな
かったので、浅野と金出が苦労することになったのです。
 この時点でARPANET用のプロトコルとして開発中のTC
P/IPの情報も浅野と金出には入っていたのですが、それを超
えるものを作ろうとがんばって「N1」を開発したのです。それ
はTCP/IPの日本版というべきものだったのです。
 「N1」は、「日本1号」という意味であり、世界に負けない
品質の高い通信ができるプロトコル――それを目指すという強い
自負心があったのですが、その時点ではARPANETが現在の
インターネットのようなネットワークになることを想像もしてい
なかったのです。
 問題は通信網なのです。米国では、その時点で1秒間に50キ
ロビットの通信速度――50Kbps の通信網を使っていることは
わかっていたのですが、当時の日本にはそのような高速通信網は
なく、電電公社がパケット通信網に着手していたので、その実験
をさせてやると説得して、電電公社をプロジェクトに引っ張り込
んで、東京・京都間の通信回線を引っ張ってもらったのです。そ
して、1975年にN1ネットワークは稼動したのです。
 ネットワークの目的からすれば、ARPANETと何ら変わら
ない意義のあるプロジェクトの成功といえるのですが、どうも周
囲はあまり盛り上がらなかったようなのです。東大側でプロトコ
ルを担当した浅野正一郎はつぎのように述懐しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 実際に働いたのは京都は金出さんで、東京はぼくを含めて2、
 3人。大型計算機センターが総力を挙げたという感じではなく
 ごく個人的プロジェクトという感じだった。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 N1ネットワークは、その後、パケット交換網の整備拡充とと
もに東北大学、九州大学、北海道大学など、旧帝大から順に他の
公立大学、さらに私学へと広がっていったのです。1980年に
なると、国立大学の計算センターの大型コンピュータにはほとん
どN1機能が組み込まれ、接続はスムーズに行われるようになっ
ていったのです。
 このN1ネットワークに東京大学大型計算機センター(現東京
大学情報基盤センター)の助教授時代にかかわり、その後、日本
インターネット協会の初代会長を務めた石田晴久(現東京大学名
誉教授)は、最初からN1ネットワークの大きな欠陥を見抜いて
いたのです。それは、N1ネットワークでは電子メールが使えな
かったことです。技術的にできなかったわけではないのです。法
律によって禁止されていたのです。これについて、石田は次のよ
うに述懐しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時の電機通信法だと、メッセージ交換はやっちゃいけないこ
 とになっていた。そんなことをしたら、郵便事業の妨げになる
 ということで、電子メールは許されなかったのです。私は、電
 子メールの交換ができないようなネットワークはネットワーク
 じゃないと思っていましたから、N1とはほどほどのおつき合
 いはしましたけど、あまり真面目じゃなくて・・。
               ――滝田誠一郎著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ARPANETではもちろん電子メールは使えたのです。もっ
とも最初のうちに副次的なおまけ機能だったのですが、使ってい
ると、これはとても便利だということになって、ネットワークは
飛躍的に拡大したのです。
 郵政事業を守るための電気通信法――これが技術の発展を阻害
していたのです。ARPANETと同じレベルの機能を持ちなが
ら、法的規制によって電子メールが使えなかったことによって、
日本のN1ネットワークの利用者は何年経っても、ごく一部の専
門家に絞られていたのです。この事実を専門家ではなく、そうい
う法律を作り、死守してきた人たちにこそ知ってもらいたいもの
だと考えます。・・・ [インターネットの歴史 Part2/04]


≪画像および関連情報≫
 ・石田晴久氏は語る
  ―――――――――――――――――――――――――――
  まず、1975年に通信を始めた当時は「電話回線に電話以
  外の端末を電気的につないではいけない」という規制があり
  そのため電話回線でパソコン通信を行なおうとすると、音響
  カプラで通信を行なうしかなかったという。また、それに先
  立つ1974年には「ARPANETをまねして」(同氏)
  国内の大学間を当時の電電公社が運営していDDX網(パケ
  ット通信網)で結びネットワークを構築したが、この際にも
  「電子メールの交換は郵便事業に差し支える」という理由で
  複数ホスト間を結ぶ電子メールの利用が認められなかったと
  いう(単一ホスト内における電子メールならOKだった)。
  http://internet.watch.impress.co.jp/cda/event/2004/07/01/3725.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

EΓc.jpg

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2007年03月13日

日本からARPANETに接続した高校生(EJ第2038号)

 N1ネットワークとARPANETのその後の発展を分けたの
は、電子メールが使えるかどうかの差であり、それによって勝負
は決まったのです。なぜなら、電子メールは専門家の間だけで使
われるものではなく、一般人も大きな関心を示したからです。
 N1ネットワーク作りで中心的な開発を担当した浅野正一郎氏
(現国立情報学研究所所長)は、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 N1というのは極端な話、実際に進めているのは東大ひとり、
 京大ひとりで、関心をもっているは、各大学の大型計算機セン
 ターの関係者だけだ、と。それに対してTCP/IP(ARP
 ANET)のほうは、アメリカの大学の多くの人たちが関心を
 持っていた。関心を持っている人がたくさんいるということは
 それだけプロダクトを開発する人がたくさんいるということで
 す。通信機能、アプリケーション、セキュリティ等々、そうい
 うものを大勢の人で寄ってたかって作り上げることができた。
 だから、TCP/IPは成功したんです。
                     ――浅野正一郎氏
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、ARPANETにおいても電子メールは当初重視され
ていなかったです。もともとARPANETの目的は次の2つの
ことだったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.ファイル転送(FTP) ・・・・・・ RFC 33
 2.遠隔ログイン(TELNET) ・・・ RFC137
―――――――――――――――――――――――――――――
 固くならない程度で多少説明すると、「ファイル転送」とは、
文字通り離れたコンピュータにファイルを送ることをいい、「遠
隔ログイン」とは、離れたコンピュータを直接接続されているコ
ンピュータと同じように利用するための仕組みです。各大学間で
これができると大変便利です。
 最初のうち電子メールは、ファイル転送の特殊な例として位置
づけられていたのですが、利用者があまりにも多かったため、国
防総省のIPTO(情報処理技術部)のロバーツ部長が1967
年に学会で発表したARPANETの目的に、ファイル転送、遠
隔ログインと並んで、電子メールもちゃんと目的のひとつとして
入っていたのです。結果として、目的に電子メールが入ることに
よって、ARPANETがインターネットの名の下に、世界中で
使われるようになる原動力となったのです。
 ところがいくら電子メールを使いたくても、ARPANETに
アクセスできるのは、大学関係者などのごく一部の層に限られて
いたし、大学にしても接続許可のための審査まであったのです。
 しかし、世界には凄い人もいるのです。いわゆる「ハッカー」
と呼ばれる人たちです。彼らはプロバイダーが登場する前から自
由にARPANETにアクセスし、電子メールも使っていたので
す。日本にも伊藤穣一という人物――インターネットの寵児とい
われている――がいます。現在、ネオテニーの代表取締役社長や
ブログで有名なシックス・アパートの会長などを務めるネット界
での著名人です。
 この伊藤氏が高校生の頃、自宅からARPANETにアクセス
していたというのです。どのようにしてやったのでしょうか。
 MIT(マサチューセッツ工科大学)に伊藤氏の友人がいて、
もし、MITのコンピュータにアクセスできたらアカウントをあ
げるといわれたのがきっかけなのです。MITはARPANET
につながっていたので、何とかやってみようと思ったそうです。
 伊藤氏が当時持っていたPCは「マッキントッシュ」であり、
モデムは300bps だったのです。最初にやったことは、英国の
エセックス大学のコンピュータにログインすることです。ここは
ゲーム好きのハッカーのたまり場だったのです。
 まず、自宅の電話をKDDの「ビーナスP」につないで、それ
を介してエセックス大学のコンピュータと接続したのです。「ビ
ーナスP」というのは、1982年にKDDが開始したパケット
交換式による国際公衆データ伝送サービスのことです。
 さて、エセックス大学のコンピュータに接続した後は、JAN
ETという英国の学術ネットワーク、ヨーク大学、ダムハム大学
を経由して、ロンドン大学のコンピュータにログインすることに
成功したのです。
 ロンドン大学はARPANETの接続ポイントになっていたの
で、ARPANETを経由してMITのカオスネットに侵入する
ことができ、約束のアカウントをもらうことができたのです。そ
こで、コンピュータやネットワークについてMITの教授や学生
に教えてもらったり、自分の学校の宿題の答えを解いてもらった
りと、やりたい放題をやったのです。掲示板に「この問題の解き
方を教えて!」と書き込むと、MITの教授が親切に教えてくれ
たというから驚きです。
 しかし、毎日長時間PCの前に座り続け、世界中をアクセスし
て回ったのですから、電話代がものすごくかかったのです。「ビ
ーナスP」の料金は月に40万円以上かかり、母親から大目玉を
食ったといいます。ちなみに、伊藤氏がこれをやったのは、19
84年のことなのです。驚くべきことです。日本でインターネッ
トが使われはじめる10年以上前の話です。
 さて、日本のN1ネットワーク――この発想を立てたのは、猪
瀬でも、浅野でも、金出でもないのです。国立大学の計算機セン
ターと図書館の両方を主管する文部省図書館情報課の田保橋とい
う課長だったのです。
 田保橋課長は、「将来の図書管理はデータベースの倉庫業にな
るべき」という持論を早くからもっていて、そのためにネットワ
ーク環境を整える必要があると説いたのです。彼こそN1ネット
ワークの発案者なのです。
        ・・ [インターネットの歴史 Part2/05]


≪画像および関連情報≫
 ・伊藤穣一氏の話から・・
  ―――――――――――――――――――――――――――
  10年前には、インターネットがうまくいかないと思ってい
  た人たちがたくさんいました。それが今の若い人たちは、イ
  ンターネットがなかったことを知らない人さえいるのです。
  10年前には想像できないことがたくさんありましたが、今
  の若い人たちはきっと10年後がかなり想像できているので
  はないでしょうか。インターネットや携帯電話が発展し、普
  及するにつれて、生活もどんどん便利になっていくことを実
  感していますから。それが、今の大人にはわかっていない人
  もいますね。そこにギャップが生まれつつあります。「クリ
  エイティブクラス」といって、ネットを完全に理解して使っ
  ている人たちと、使っていない人たちのギャップが発生し、
  デジタルデバイドが世代間で起きているのです。これは、今
  後どうすべきか考えていかないといけないでしょうね。
 http://japan.cnet.com/interview/story/0,2000055954,20086834,00.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月14日

日本でも78年にイーサネットは稼働している(EJ第2039号)

 日本において「インターネットの父」といわれる人は、村井純
という人物であることで衆目は一致しています。慶応義塾大学教
授(常任理事)の村井純氏です。
 しかし、この村井純氏――これまでインターネットのために尽
くした業績が素晴らしいにもかかわらず、一般的にはそれほど有
名ではないのです。テレビにあまり登場しないからでしょうか。
テレビ局も積極的に出演を求めていないようです。しかし、マス
コミ嫌いではなく、IT系の雑誌にはよく登場しています。
 少なくとも慶応義塾大学教授といって真っ先に名前の出てくる
人でないことは確かです。今や慶応義塾大学教授といえば、浅野
史郎氏や竹中平蔵氏――これらの人々は有名人を教授にした感が
あるので例外としても、経済学の池尾和人氏、朝鮮問題の小此木
政夫氏ぐらいしか名前が浮んでこないのです。しかし、電子・通
信技術に関する政府系のプロジェクトなどには、必ずといってよ
いほど、メンバーに名前を連ねている人です。
 今回のテーマは、結局は村井教授がインターネットで何をやっ
たかについて書くことになるのですが、その前に、「日本のイン
ターネットの祖父」について述べる必要があります。
 インターネットの祖父――これを自称するのは所眞理雄なる人
物です。現在、ソニー株式会社上席常務IT研究所長をされてい
る方です。1976年――この所氏が慶応義塾大学院の電気工学
専攻の博士課程を修了して、同大学工学部の助手をして、相磯秀
夫教授の下で働いていたときの話です。
 あるとき所氏は、米国で発行されているコンピュータの学会誌
である「COMUNICATION OF THE ACM」 に掲載された次の論
文を読んで愕然としたといいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ロバート・メトカフ/デビット・ボックス共著
 「イーサネット:ローカル・コンピュータネットワークにおけ
 る分散パケット交換」
―――――――――――――――――――――――――――――
 この論文は、イーサネット――LANの主流の形態――の開発
者として名高いPARCのロバート・メトカフとデビット・ボッ
グスが書いた最初の論文です。所氏は、主としてLANや複数の
CPUを搭載したシステム――マルチプロセッサ関係の研究をし
ていたので興味を持ったのです。
 それなら、なぜ、愕然としたのでしょうか。これについて所氏
は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ネットワークというのは、代わり番こに誰が話すかを決めた上
 で会話をするようなもんなんですね、普通は。ところがイーサ
 ネットというのは、みんなが好き勝手にディスカッションして
 いるのと同じで、自分がしゃべりたくなったらパッとしゃべれ
 ばいい。うまくいけばそのまましゃべることができるし、ほか
 の誰かが喋っていたらそれを察知して黙る、と。そういう方式
 なんです。論文にそういうことが書いてあった。これはもの凄
 く画期的なものだと感じられたんですね、ぼくには。これから
 はイーサネットがLANの主流になると直感した。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ちなみに、これはデータ通信の話であって、電話のようにしゃ
べるという意味ではないのです。現在、われわれがやっているよ
うに、好きなときにメールを出したり、受信したりする――そう
いう環境をイーサネットでは実現できるといっているのです。
 所氏のいう「ネットワークというのは代わり番こに誰が話すか
を決めた上で会話をするようなもの」という表現は、確かに通信
技術のポイントを衝いています。
 LANのネットワークは、ネットワークに接続しているどれか
のコンピュータが電気信号――以下、パケットを流している間は
他のコンピュータはパケットを発信できないからです。もし、何
かのタイミングで回線上に複数のパケットがのると、衝突(コリ
ジョン)が発生し、データは消失してしまうのです。
 ところがメトカフの論文によると、イーサネットの場合、ネッ
トワークに多くのコンピュータが接続され、それぞれのコンピュ
ータが自由にパケットを流してコミュニケーションがとれると書
いてあったので、愕然としたというわけです。
 どうして、そのようなことができたのでしょうか。
 メトカフは、パケットのコリジョンそのものは避けられないと
判断し、次の2つの方法をとったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.衝突が起こったら早くそれを知る
    2.衝突を知ったら直ちに再送信する
―――――――――――――――――――――――――――――
 イーサネットで一番困るのは、衝突が起こったとき、コンピュ
ータはパケットの再送信を行うのですが、その再送信のタイミン
グが合ってしまい、再び衝突が起こることなのです。
 これを防ぐ方法をメトカフは、ALOHAシステムの開発者で
あるエブラムソンから得ているのです。それはパケットの衝突が
起こったコンピュータが行う再送信のタイミングを乱数を発生さ
せることによってそれぞれずらす方法です。これを「バックオフ
アルゴリズム」といっています。
 この論文を読んで所氏はすぐ相磯教授に報告し、実験をしてみ
ようということになったのです。そこで、相磯教授は通信に強い
所眞理雄とハードに強い小田徹(現豊田工業大学助教授)という
2人の助手でチームを組ませて、実際にイーサネットの構築に成
功しています。日本初のイーサネットの誕生です。
 しかも、所氏はパケットの衝突そのものを起こさない技術をそ
れに取り入れています。これを「アクノレッジング・イーサネッ
ト」と命名しています。 
       ・・ [インターネットの歴史 Part2/06]


≪画像および関連情報≫
 ・ALOHAシステムとイーサネット
  ―――――――――――――――――――――――――――
  イーサネットの起源は,ハワイ大学のノーマン・エブラムソ
  ン教授が開発した「ALOHAシステム」といわれます。ノ
  ーマン氏はハワイ諸島をつなぐ軍用無線通信システムを使い
  複数のコンピュータが任意のコンピュータと同時に通信する
  手段として「ALOHAシステム」を開発したのです。この
  「ALOHAシステム」では,同じ周波数の電波を使って,
  ハワイのそれぞれの島にあるコンピュータ同士が通信してい
  ました。無線という一つの空間を通して,複数の人間が同時
  に会話をしていたようなものでした。
  ―――――――――――――――――――――――――――
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20060414/235337/?ST=nettech

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2007年03月15日

それは小さな実験からはじまった(EJ第2040号)

 所眞理雄氏によるアクノレッジング・イーサネットは1976
年に稼動しています。メトカフなどによる「イーサネットの発明
記録」がゼロックスの法務関係部局に提出されたのが1973年
6月28日のことですから、日本で1976年にイーサネットが
動いていたということは、日本の通信技術は米国に対してそう遅
れていなかったことを意味しています。
 アクノレッジング・イーサネットが具体的にどういうものであ
るかはよくわかっていませんが、メトカフのイーサネットがパケ
ットのコリジョン(衝突)の発生を不可避であるとしていたのに
対し、所氏のアクノレッジング・イーサネットは、コリジョンそ
のものを起こさないようにした点において画期的です。それは、
パケットが届いたことを即座に確認できる独自の工夫がしてある
ことにあるのです。
 所氏は、アクノレッジング・イーサネットを論文にまとめて発
表したのですが、この論文は、注目を集め、カナダのウォーター
ルー大学から客員助教授として声がかかったのです。所氏は迷わ
ず、そのチャンスを受け入れたのです。
 なぜなら、70年代後半の日本では、通信にかかわる実験は、
ほとんどやることはできなかったのです。電電公社(現NTT)
が通信に関しては他の業者にやらせなかったからです。しかし、
米国では、どのような実験も自由にすることができたので、所氏
にとっては魅力的だったのです。
 所氏は、1979年1月から1年半にわたってウォータールー
大学の計算機科学科で教鞭をとったのです。これが終わると、今
度は、カーネギーメロン大学からも客員助教授として招聘され、
80年の残りの半年間はこの大学で教鞭をとっています。そして
1981年に帰国したのです。
 慶応義塾大学に戻った所氏は、直ちに学内LANの構築に着手
したのです。そして、このLANの名前を「S&Tネット」と命
名しました。「S&T」とは、理工学部の英語名称であるサイエ
ンス&テクノロジを意味していたのです。
 このS&Tネットの構築において所氏を手伝ったのは、当時慶
応義塾大学大学院博士課程(工学研究科数理工学専攻)に在籍中
であった20代半ばの青年だったのです。この青年こそ若き日の
村井純氏なのです。村井氏は、数理工学科の斉藤信男教授の下で
研究を行っていたのです。
 S&Tネットの目的は、相磯研究室、斉藤研究室、それに計算
機センターの3ヶ所に2台ずつ設置されているミニコン――PD
P11・23をつなぐことでした。
 アクノレッジング・イーサネット・インタフェースのユニット
は、かつて相磯研究室で制作したものを使うことになったのです
が、問題はソフトウェアだったのです。UNIXには、UUCP
というネットワーク機能が付いていたのですが、LANの機能は
なかったので、自作する必要があったのです。これについて、所
氏は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 まず、LAN上で使いたいアプリケーションを特定する。電子
 メールが使いたいとか、離れた場所にあるコンピュータにログ
 インできなければいけないとか、そういうアプリケーションを
 実現することを前提にして、ソフトウェアを設計していく。今
 ならTCP/IPを使えばそれで済むわけですが、81年当時
 は現在のようなTCP/IPはありませんでしたから、ゼロか
 ら独自に設計しなければいけなかったのです。その作業で中心
 的な役割を果たしたのは村井さんです。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時相磯研究室と斉藤研究室は別の建物に入っていて、建物間
は300メートルも離れていたのです。その間を同軸ケーブルで
結んだのです。幸い地中に電線などを通す配管が埋めてあったの
で、それを利用することができたのです。
 そのうえで通信実験がはじまったのです。斉藤研究室と電話連
絡を取りながら、パケットを送るのです。うまく送れないと、村
井氏がソフトウェアを修正して、LPレコードよりも大きいディ
スクに収録して、若い助手に斉藤研究室まで走らせる――これの
繰り返しです。このように何回も繰り返して、遂にパケットを送
ることに成功したのです。
 S&Tネットが動き出したのは1981年のことであり、これ
は画期的なことだったのです。このS&Tネットについて、所氏
は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1EEE(米国電気電子学会)で、イーサネットの標準規格が
 決まったのが83年、TCP/IPが実際に動き始めるのは、
 85年です。それまではアメリカもまた研究開発段階で、われ
 われ同様いろいろと試行錯誤を続けていた。そういう意味では
 日本は決してコンピュータ・ネットワークの研究開発で遅れて
 いたわけじゃなくて、81、82年当時はアメリカと肩を並べ
 るくらいの水準にあったのです。
               ――滝田誠一郎著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 1983年にIEEEでイーサネットが標準規格になり、所氏
のアクノレッジング・イーサネットは標準外規格となってしまっ
たのです。日本製イーサネットは一敗地にまみれるのです。
 さらに同じ年に、本格的ネットワーク機能を追加したUNIX
――カルフォルニア大学バークレー校開発によるBSDバージョ
ン4.2が登場して、米国が完全に優位に立ったのです。
 とくにソフトウェアの開発力において、日米に大きな格差が生
じたといえるのです。能力的にはともかく、人数的には完全に米
国が勝っていたのです。しかし、日本はネットワークの分野では
結構頑張っていたのです。
       ・・・ [インターネットの歴史 Part2/07]


≪画像および関連情報≫
 ・ドキュメンタリー映像作品「インターネットの夜明け」
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「1981年、慶應義塾大学の研究室では小さな実験が行な
  われようとしていた」というナレーションで始まったドキュ
  メンタリー映像作品「インターネットの夜明け」の試写イベ
  ント。この作品の企画・制作を担当したヤフーとブロードバ
  ンドタワーの両社が6日、共同制作発表会を兼ねて慶應義塾
  大学で開催した。
    ――http://yoake.yahoo.co.jp/characters/index2.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月16日

日本版USENET/JUNETの誕生(EJ第2041号)

 慶応義塾大学理工学部の所眞理雄と村井純が苦心のすえに完成
させた学内LAN――S&Tネットは,その後、ひょっとしたこ
とから、大きな発展を遂げることになります。
 それは、村井純氏が慶応義塾大学大学院博士課程(工学研究科
数理工学専攻)を修了し、東京工業大学総合情報処理センターに
助手として勤務することになったことが、そもそものきっかけに
なったのです。
 慶応義塾大学理工学部矢上キャンパスは、横浜市港北区日吉に
あり、東京工業大学のキャンパスは目黒区大岡山にあるのです。
つまり、村井氏は、東急東横線の日吉駅から同じ東急大井町線の
大岡山駅に移動したことになります。
 村井氏は長年にわたって日吉の矢上キャンパスにおり、彼が研
究に使うファイルやプログラムは、当然のことながら、矢上キャ
ンパスのコンピュータに入っていたのです。
 東工大の大岡山キャンパスに移った村井氏は、仕事に必要にな
ると、矢上キャンパスに電話をしてきて、「あのファイルを持っ
てこい!」とか「新しいソフトをやるから取りに来い!」とか、
いってくるわけです。そのたびに矢上キャンパスの若手が村井氏
に要求されたファイルを収録したテープを持って大岡山キャンパ
スに駆けつけるということが月に何回もあったのです。
 このとき、日吉と大岡山を往復させられたのは、慶応義塾大学
理工学部の中村修と砂原秀樹の両氏です。村井氏は、この2人を
いつも自分の子分のように扱っており、2人は村井氏によって、
いつも振り回されていたのです。
 そこで、中村と砂原両氏は、村井氏に矢上キャンパスと大岡山
キャンパスのコンピュータを接続してファイルの交換をしたらど
うかという提案をしたのです。その提案に対し、村井氏は「やろ
う!」とすぐ賛成したのです。そうすれば、東工大にいて慶応大
のコンピュータが使えるからです。
 そのとき、慶応大の斉藤研究室と村井氏のいる東工大の総合情
報処理センターには、ともにDEC製のミニコンVAXが入って
いたのです。このマシンはUNIXベースで動いており、電話回
線を通じてファイル交換を行うことができるUUCPというネッ
トワーク機能を持っていたからです。
 しかし、問題は2つあったのです。モデムが必要であることと
モデムを電電公社に断らないで電話線に勝手につなぐことはでき
ないきまりになっていたことです。
 1984年9月になって、村井氏はモデムを調達し、接続実験
がはじまったのです。300bps のモデムです。電電公社には断
らないでモデムを電話線につないでしまったのです。そして、何
回かの実験のすえ接続に成功したのです。
 慶応大の矢上キャンパスのVAXと東工大のVAXは、このよ
うにして接続されたのです。村井氏にこの接続を提案した砂原秀
樹氏――現奈良先端科学技術大学院大学情報科学センター長は、
接続が成功したとき、次のように述懐しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 アメリカにはすでにUUCPでつながっているUSENETが
 あって、どうして日本ではできないんだろうと前から思ってい
 た。そういう意味でやっとアメリカに追いついたと思った。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 USENETについては既に述べましたが、米国のデューク大
学のトム・トラスコットとノースカロライナ大学のスティーブ・
ベロバンという大学院生が両大学のコンピュータををUUCPで
つなぎ、USENETと命名したのです。USENETは、UN
IXユーザであれば、誰でも参加できたため多くの民間人が加入
したのです。1979年の暮れのことです。
 さて、村井氏は慶応大と東工大のコンピュータをUUCP接続
したとき、当時東京大学大型計算機センターの所長をしていた石
田晴久教授に会い、次のようにいわれているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 村井君。ふたつの地点でデータのやりとりをしているだけでは
 ネットワークとはいえない。ネットワークというからには三角
 形、少なくとも3点をつなげなければだめだ。だから、東大の
 センターもメール交換に付き合うよ。   ――石田晴久教授
               ――滝田誠一郎著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時東大の計算機センターには、日本で最大のUNIXマシン
――VAX780があったのです。村井氏が石田教授の提案を喜
んで受入れたことはいうまでもないことです。そして、慶応大と
東工大と東大の3点を結ぶネットワークが完成したのです。そし
て、石田教授が名付け親になって、「JUNET」と命名された
のです。1984年10月のことです。
 実は、このネットワークに東京大学が加わったということの意
義は大きいのです。というのは、慶応大と東工大のコンピュータ
がつながったといっても、その中心人物が助手になったばかりの
無名の村井氏では、なかなかオーソライズされないのです。そこ
に東大が加わると重みが違ってくるのです。とくに、石田晴久教
授は既に著名であり、JUNETは大いに注目されたのです。
 しかし、日本版USENETといわれるJUNETは、プロト
コルにUUCPを使っており、電子メールやファイルの転送がで
きるという点ではインターネット的ではあったのですが、TCP
/IPを使っていなかったので、現在のインターネットとはほど
遠い存在だったのです。
 さて、このJUNET――多くの人は村井純の「純」をとった
ものと思っているようです。しかし、そうではなく、単に次の頭
文字――Japan University Network――をとったものに過ぎない
のです。しかし、それがウソに思えるほど、このネットワークは
村井のネットワークなのです。
          [インターネットの歴史 Part2/08]


≪画像および関連情報≫
 ・砂原秀樹氏の談話より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1982年の3月、村井純氏に出会いました。この時慶應義
  塾大学の4年生だった私は研究室に配属されたばかりで、研
  究室の最初の教育プログラムの中でUNIXやCプログラミ
  ングを教えてくれたのが先輩であった村井氏だったのです。
  並行してアセンブラプログラミングやハードウェア制作の演
  習が行われていました。これら一見関係のなさそうなことが
  今の日本のインターネットにつながっていきます。実は私自
  身は、大学ではデータフローマシンというスーパーコンピュ
  ータの仕組みに興味を持ち、その研究を行います。しかし、
  ここから始まる人と人との関係が、後にJUNET誕生、そして
  現在の日本のインターネットへとつながる大きな波となって
  いくのです。
     http://www.nic.ad.jp/ja/newsletter/No29/060.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月17日

EJバックナンバー「千と千尋」(その4)

2001年10月18日に配信したEJ第724号(全7回
連載の内第4回)を過去ログに掲載しました。
○ 明治と平成/おしんと千尋(EJ第724号)
posted by 平野 浩 at 05:26| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月18日

EJバックナンバー「千と千尋」(その5)

2001年10月19日に配信したEJ第725号(全7回
連載の内第5回)を過去ログに掲載しました。
○ 印象深い主題曲『いつも何度でも』(EJ第725号)
posted by 平野 浩 at 05:05| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月19日

UUCP接続からSLIP接続へ(EJ第2042号)

 慶応大の理工学部の学内LAN――S&Tネットの設計者であ
る所眞理雄氏――彼が自分のことを「インターネットの祖父」と
いっているという話をしました。
 なぜ、祖父なのかというと、所氏が、後に「インターネットの
父」といわれるようになる村井純氏をネットワークの世界に引っ
張り込んだのは自分であり、村井氏の参加によって、日本のイン
ターネットが大きく前進したからであるというのです。「父」を
引っ張ったのだから「祖父」というわけです。
 所氏によると、村井氏は当時UNIX――1969年にベル研
究所が開発したコンピュータのOS――に凝っていて、ネットワ
ークそのものはあまり関心がなかったそうです。
 さて、JUNETというネットワークは、慶応大、東工大、そ
して東大のコンピュータがUUCPでつながっているのです。と
ころで、この「UUCP」とは何でしょうか。これから先の話を
進めやすくするために簡単に説明しておくことにします。といっ
ても、誰でもわかる話ですから、逃げないで読んでください。
 まず、言葉の意味ですが、UUCPというのは、次の頭文字を
とったものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       UUCP → Unix to Unix CoPy
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、UUCPとは、「UNIXマシンからUNIXマシン
へのコピー」という意味であり、UNIXマシン――UNIXと
いうOSを搭載しているコンピュータ間のデータ転送のための命
令(通信プロトコル)なのです。
 UUCPはダイヤルアップ――電話線接続を前提とし、ファイ
ルを宛先のコンピュータまで、その間にあるコンピュータ間をバ
ケツリレーのように運んで行く極めて原始的な通信の仕組みなの
です。もう少し正確にいうと、コンピュータからコンピュータへ
ファイルをコピーしていくのがUUCPです。
 ところで、村井氏が助手として東工大にいたとき、東工大の大
学院で情報工学を専攻していた篠田陽一――現・北陸先端科学技
術大学院大学教授――という人物がいたのです。
 たまたま篠田氏が村井氏の研究室をのぞいたところ、SUNの
ワークステーションが置いてあったのです。篠田氏も同じマシン
を持っていたので、声をかけたのです。通信の話で意気投合し、
とりあえずお互いのマシンをつなごうという話になり、UUCP
で接続したのです。
 ちょうど篠田氏の隣の研究室では、KDDと共同研究をやって
おり、専用線が引いてあったので、KDD経由で海外と接続する
ことができたのです。篠田氏はこの方法で海外のネット――つま
り、ネットニューズ(インターネットの掲示板のようなもの)な
どにつないで、いろいろな情報を集めていたのです。何しろ19
85年頃のことであり、大変先進的なことなのです。
 篠田氏は、ネットニューズから「SLIP」というソフトウェ
アを見つけて、入手しています。UUCPの場合は、まさにバケ
ツリレーのように、途切れ途切れの断続的な通信になってしまう
のに対して、SLIPを使うと通信が一気に連続的になるメリッ
トがあったのです。
 SLIPを入手した篠田氏は、その日のうちに村井氏と連絡を
取り、すぐ接続実験を開始したのです。接続実験はあっけないほ
ど簡単に成功し、その夜、2人はビールで乾杯したといいます。
誰も知らない2人だけの日本初のインターネット接続――まさに
快挙というべきでしょう。
 SLIPは、IP接続を可能にし、SLIPの採用はJUNE
Tがインターネットに接続することを意味していたのです。IP
接続とは電話線や専用線を通じてTCP/IPネットワーク――
つまり、インターネットに接続するということです。
 この頃から東工大の村井氏の研究室には、昼となく夜となく研
究者や学生がやってきて、たまり場になっていったのです。そこ
で、夜を徹して議論をしたり、ハードやソフトの情報を交換した
り、村井氏からUNIXを教わったりしていたのです。
 この村井研究室に集まっていた連中の中心メンバーは、同じ東
工大の篠田陽一、加藤朗、慶応大の砂原秀樹、中村修などであり
その他、コンピュータやネットワークに関心を持つ多くの学生が
集まっていたのです。村井氏はそのメンバーのつねに中心におり
全員を一つの方向に導いていったのです。それがやがて1988
年の「WIDEプロジェクト」に発展するのです。
 村井氏の大学院の恩師、斉藤信男教授はその頃の村井氏を評し
て次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 体が大きくて、キーボードからはみ出しちゃうんじゃないかと
 思うようなでかい手をしていてね。能力はあるんだろうけど、
 成績はあまり良くなかった(笑)。あまり勉強していなかった
 から。青白い秀才というタイプではなくて、田中角栄タイプ。
 もの凄い馬力で走っていくブルドーザーといった感じ。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 そして、斉藤教授は「村井君はコンピュータのネットワークづ
くりもうまいが、ヒューマン・ネットワークづくりはもっとうま
い」と絶賛しているのです。
 確かに、村井氏は先読みが鋭く、ひとつの目標を決めると、周
りにいる者――上司も含む――全員をその方向に引きずっていっ
てしまう馬力が凄かったのです。それがなければ、JUNETも
後のWIDEプロジェクトも実現しなかったと思われます。いみ
じくも斉藤教授が「もの凄い馬力で走っていくブルドーザー」と
名づけた点は当たっているのです。
 とくにインターネットの研究では、「鋭い先読み」は不可欠の
要件なのです。 ―― [インターネットの歴史 Part2/09]


≪画像および関連情報≫
 ・佐々木俊尚のITジャーナルより/篠田陽一教授について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  コンピュータソフトウェア著作権協会(ACCS)を舞台に
  した不正アクセス事件の第5回公判が11月下旬にあった。
  専門家の意見ということで、北陸先端科学技術大学院大学の
  篠田陽一教授が弁護側の証人として出廷した。
http://blog.goo.ne.jp/hwj-sasaki/e/03037e24c2e9ff2c3920394c8133e46b
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月20日

目的は広域ネットワークである(EJ第2043号)

 インターネットというのは、専用線を使った常時接続というの
がその本質なのです。TCP/IPというプロトコル自体が常時
接続を前提としていたことも知っておく必要があると思います。
専門的になって恐縮ですが、一番身近なEメールの送信に使うS
MTPプロトコル、受信に使うPOPプロトコル、ネットニュー
ズを見るためのNNTPプロトコルは、いずれも常時接続を前提
としたプロトコルなのです。
 したがって、学術研究が目的であれば、JUNETも専用線を
使って常時接続でやればよかったのです。しかし、それでもあえ
て電話線を使ってのUUCP接続にしたのは、決して満足のいく
選択肢ではなかったのですが、何よりも少しでも早く広域ネット
ワークを作りたかったからなのです。
 村井氏たちのこの狙いは当たり、東工大、慶応大、東大の3校
ではじめたJUNETは、やがて7OOを超える大学や民間の研
究機関をつなぐ一大ネットワークに発展するのです。
 これは、村井氏を中心とする若手研究者たちの手弁当による営
業努力の賜物なのです。彼らは次のような話法でJUNETの加
入大学・研究機関を増やしていったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 分散しているコンピュータのリソースを共通に使う時代がいず
 れ来ますから、来るべき時代に備えた研究をぜひ一緒にやりま
 しょう、と。      ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 電電公社が民営化され、1985年から施行された電気通信事
業法によって、電気通信事業に参入することができるようになっ
ています。しかし、この法律の趣旨はかたちのうえでは新規参入
を認めていますが、その一方でそれに強くブレーキをかける内容
にもなっているのです。
 通信のビジネスをはじめるのはよいが、通信はきわめて公共性
の高いものであり、もし何かあった場合はそれ相応の責任はとっ
てもらうという趣旨のことが書いてあるのです。要するにいやい
や電気通信事業の参入を認めているのです。
 こういう状況では、企業は通信事業をはじめるのを逡巡してし
まうのです。その例をソフトバンクがADSL事業に乗り出すと
きにNTTから受けた露骨ないやがらせに見ることができます。
 ADSL事業をはじめるには、電話局にそのための装置(ルー
ターなど)を設置しなければなりませんが、NTTはそのための
場所を局舎内に用意することが法律によって義務付けられている
のです。しかるに、NTTはそのための工事を意識的に引き伸ば
し、これが原因でADSL事業の開始が大幅に遅れたのです。世
間はソフトバンクの責任であると思っていますが・・・。
 村井氏のグループが各大学や研究機関にJUNETへの接続を
呼びかけるさい、一番聞かされた質問は「それは政府公認の研究
なのですか」という質問なのです。何しろスタート当初のJUN
ETは政府公認どころか、まだ大学の助手でしかない村井氏を中
心とする若手研究者のアンダーグラウンド的な研究に過ぎず、十
分相手を納得させられなかったといいます。
 とにかく最初のうちは、電話を通話という本来の目的以外に使
うことにかなり心理的な抵抗感があったのです。かつて永い間に
わたって法律的に認められなかったことであり、その心理的な影
響は大きかったのです。
 JUNETの拡大に実際に携わって2年後の1987年、村井
氏は東工大から東大大型計算機センター助手に転じたのです。や
はり東大は他の大学に比べて権威があり、ネットワークの拡大に
も好都合と考えたからなのです。
 さて、昨日のEJの最後に、村井氏の「鋭い先読み」について
ふれましたが、篠田陽一氏は村井氏のことを次のように述べてい
ます。篠田氏は村井氏よりも4つ年下であるにもかかわらず、村
井氏のことを「純」と呼び捨てにするのがつねだったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ぼくはコンピュータのネットワークを作ること、コンピュータ
 とコンピュータをつなぐこと自体が面白くて、それを夢中でや
 っていた。そういう連中が多いんですよ。ハードを作ること、
 ソフトを作ること自体が面白くてネットワークに首を突っ込ん
 でいる連中が。でも、純は違う。コンピュータをつないだら何
 ができるのか、そういう環境が整ったら何ができるのか、それ
 を一番真剣に考えてきたのが村井純なんです。そういう視点か
 ら、彼はネットワーク全体のプランニングとかマネジメントと
 かを考えてきた。だからこそ、「日本のインターネットの父」
 といわれるんですよ、純は。
               ――滝田誠一郎著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 その村井氏は、このネットワークの分野に入り込むきっかけと
なったのは「コンピュータが嫌いであり、コンピュータをやって
いるヤツも嫌いだったから」――そういうように話し、次のよう
に述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 なぜかというと、コンピュータに人が群がっていたから。機械
 に人が群がるとは何ごとだと。機械は人間を支えるための道具
 なんだから、コンピュータも道具として人間を支えるべきだ、
 と。直感的に思った。    ――滝田誠一郎著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように村井氏はつねに先をみつめ、手を打っていったこと
がわかります。あえて専用線を使わず、UNIXマシンさえあれ
ば、コンピュータ同士をつなげるUUCPを採用し、多くの大学
や研究機関につなぎやすい環境を提供したのも、広域ネットワー
クを構築するという目的があったからです。それが、1984年
にJUNETとして結実し、4年後にWIDEプロジェクトとし
て実るのです。 ―― [インターネットの歴史 Part2/10]


≪画像および関連情報≫
 ・ネットニューズとは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ネットニューズはコンピュータネットワークでの情報交換に
  使われるシステムのうち、広範に用いられたものとしては、
  Eメールとともに、最も古いシステムの1つである。インタ
  ーネットやWWWが一般的に普及する前から存在している。
  初期のネットニューズはEメールと同様に、IPによらず、
  UUCPで配送された。現在では、やはりEメールと同様に
  ほぼ全てのネットニュースのトラフィックはIPにより配送
  されている。通信プロトコルは、今日ではNNTPが多く使
  われるが、もともとはUUCPで配送されていた。
                    ――ウィキぺディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
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2007年03月21日

EJバックナンバー「千と千尋」(その6)

2002年2月28日に配信したEJ第810号(全7回
連載の内第6回)を過去ログに掲載しました。
○ 金熊賞をとった『千と千尋の神隠し』(EJ第810号)
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2007年03月22日

WIDEプロジェクトの誕生と意義(EJ第2044号)

 電話線を使い、UUCPを使って多くの大学や民間の研究機関
をつないだJUNET――これは本物のインターネットではない
のです。TCP/IPを使っていないからです。しかし、TCP
/IPを使うには専用線を引く必要があるのです。
 当時は専用線には凄くお金がかかったのです。東工大と東大の
間なら月に15〜6万円、東大と慶応大の間は月に50万円近く
必要だったのです。
 それだけではありません。コンピュータの買い替え費用、専用
線につなぐための周辺機器の購入などを含めると、東大、東工大
慶応大をつなぐだけで年間1000万円はかかるのです。さらに
JUNETの主要拠点を専用線でつなぐ場合、年間5000万円
ほどの費用が見込まれたのです。
 本来なら国家を上げてのプロジェクトです。文部省に研究費の
助成を申請するところでしょう。しかし、村井氏たちはそれをし
なかったのです。それはなぜでしょうか。
 彼らにとって「国は敵だ」というコンセンサスがあって、国の
お金で何かをするということに強い抵抗感があったのです。もし
税金を使えば、国はいろいろな厳しい条件を付けてくるに決まっ
ている――それでは本当にやりたいことができないと彼らは考え
たのです。だから、絶対に税金を使うのはやめようと彼らは考え
たのです。
 それでは、どうして、お金を調達するのでしょうか。村井氏は
いったのです。「共同制作費という名目で、企業からお金を出し
てもらおう」、と。JUNETのコアメンバーの中から、ここは
と思う企業1O社を選んで、年間500万円ずつ出してもらおう
と村井氏は提案したのです。
 村井氏は積極的に企業訪問をはじめたのです。アスキー、岩波
書店、CSK、ソニー、SRA、大川財団など――次々と説得し
て、年間5000万円のメドをつけてしまったのです。JUNE
Tの実績があるので、この資金集めはうまくいったのです。
 こういう村井氏の活躍について、上司の石井晴久教授は次のよ
うにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私みたいに国立大学でずっと育っちゃうと、企業からお金をも
 らうということに、ちょっと抵抗があるんです。自分から出向
 いていって、頭を下げてお金をもらってくるようなことは、私
 などには到底できない。         ――石井晴久教授
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 1988年に村井氏は日本版インターネットともいうべき「W
IDEプロジェクト」を立ち上げたのです。これは、JUNET
のコアメンバーの企業10社からの共同研究費によって、JUN
ETの主要拠点を専用線で結び、TCP/IPによる日本発の本
格的なインターネットの立ち上げといえます。
 「WIDEプロジェクト」という言葉の意味は次の通りです。
−――――――――――――――――――――――――――――
  Widely Integrated Distributed Environment Project
  大規模広域分散型コンピューティング環境プロジェクト
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで考えなければならないことがあります。それは、日本初
のインターネット環境構築の大事業に国が一銭の助成金も出して
いないことです。米国がARPANETの構築を国家の事業とし
てやったのに比べると、考えられないことであるといえます。
 もちろん、村井氏とその仲間たちが政府の助成を望まなかった
ことが原因ですが、村井氏の本心は申請してもおそらく認められ
ないか、僅かな金額で口を出されることを懸念していたものと思
われます。要するに国を信頼していないのです。
 1988年の時点で日本政府がインターネットがどのようなも
のであるかわかるはずがないのです。学会にしてもネットワーク
の面では大きく遅れており、ネットワークはNTTにまかせてお
けばいいという風潮すらあったのです。それに加えて、これから
述べることになる猪瀬博氏の存在があったのです。
 というのは、学会としては一連の村井氏とその仲間の行動に非
難の目を向けていたのです。ちょうどWIDEプロジェクトが始
動した時期に、日本政府は「OSI」の採用を決め、OSIによ
るコンピュータ・ネットワークを推進しようとしていたのです。
OSIについては、わかりにくい話であり、後から詳しく述べま
すが、当時国の情報処理を牛耳っていたのは「学情」――学術情
報センターであり、その学情の所長をしていた故猪瀬博氏なので
す。猪瀬氏は「情報処理分野のドン」といわれ、文部省や大学に
対して絶大な影響力を持っていたのです。
 TCP/IPが開発されたのは1978年、ARPANETに
搭載され、運用が始まったのが1983年です。ちょうどあの大
韓航空機撃墜事件が起こった年といえばピンとくるでしょう。
 そして、村井氏らが電話線を使うJUNETを立ち上げたのが
1984年、TCP/IPを取り入れた専用線によるWIDEプ
ロジェクトをスタートさせたのが1988年です。日本はほとん
ど米国に負けていないのです。
 その一方において、ARPANETをはじめとして、ゼロック
ス社、IBM社など、多くの企業が独自ネットワークを構築しは
じめ、収拾がつかない状況になってきたのです。
 こういう状況を受けて、国際標準化機構――ISOはその統一
に乗り出したのです。そして主にヨーロッパ諸国の支持を得て、
1978年にOSI参照モデルが発表されています。ちょうど、
米国では、TCP/IPの開発が発表された年です。
 日本政府はその動きに乗り、OSIの推進役として指名された
のが猪瀬博氏なのです。そしてOSIによるコンピュータ・ネッ
トワークを推進しようとしたのです。1988年、WIDEプロ
ジェクト発進と同時期です。
         ― [インターネットの歴史 Part2/11]


≪画像および関連情報≫
 ・WIDEプロジェクトについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  WIDEプロジェクトは、広域に及ぶ分散型コンピューティ
  ング環境に関する、産学共同の研究プロジェクトです。19
  88年に発足して以降、ネットワーク技術を始めとする幅広
  い分野の「研究活動」と「運用活動」の両面に取り組んでい
  ます。大学や企業から800名を超える研究者が参加してお
  り、約150の組織が共同研究及び研究協力、約20の海外
  の大学などの組織がプロジェクトのパートナーになっていま
  す。              http://www.wide.ad.jp/
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月23日

OSIとは一体何なのか(EJ第2045号)

 日本におけるOSI推進の第1人者である猪瀬博とTCP/I
Pの推進者である村井純――このように書くと、「OSI」とい
うのは一体何なのかと思う人が多いと思うのです。
 通信・ネットワークについて少しでも勉強したことのある人は
嫌でも「OSI」という専門用語に向き合うことになります。と
ころがこのOSI――なかなか分かりにくいのです。
 中には「OSIは神学である」という人までいます。神学に失
礼ですが、何をいっているのかわからないということから、そう
いわれるのでしょう。OSIが分からないと、猪瀬対村井の対決
構図もわかりにくいので、ここでOSIについて少し考えてみた
いと思うのです。
 OSIは定義からしてわかりにくいのです。OSIとは次のよ
うにいわれています。
―――――――――――――――――――――――――――――
      OSI=Open System Interconnection
      開放型システム間相互接続
―――――――――――――――――――――――――――――
 「開放型システム間相互接続」といわれてピンとくる人は少な
いと思います。しかし、冒頭に「オープン(開放型)」という言
葉が置かれていることによって、OSIが提案されるまでのネッ
トワークは企業間、団体間で「クローズド(閉鎖型)」であった
ことがわかると思います。
 しかし、ネットワークが閉鎖型では広域ネットワークができな
いので、開放型にしようじゃないかという提案がOSIだという
わけです。
 それでは、OSIはどう定義されているのでしょうか。通信の
事典には次の説明があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 OSI――「開放型システム間相互接続」と訳される。異なる
 ベンダーの製品を組み合わせて使用した際の相互運用性を確保
 するため、ISOがコンピュータ間の通信に関する方法を体系
化したもの。―秀和システム『通信ネットワーク用語事典』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 現在、書店のコンピュータ関係書籍の棚には「TCP/IP」
のタイトルを冠する本がたくさんあります。技術の指導書で、同
じタイトルの本がたくさんあるということは、それが売れている
ことを意味しています。それは、1冊読んだだけでは、TCP/
IPを理解できないので、他のTCP/IPの本を買う人が多い
ことを物語っているのです。
 そういうTCP/IPの本の中で、OSIに関する説明は、ほ
とんどの本が上記の事典と同じ説明になっています。そこだけは
著者の言葉ではなく、事典とほとんど同じなのです。
 その中で、若林宏氏の著書のOSIの解説は他の本のそれとは
少し違っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 国際標準化機構ISOでは、異なるコンピュータメーカーのコ
 ンピュータ間でも通信できるようにするため、ネットワークプ
 ロトコルの標準を作成しようとOSIを考案、OSIの検討会
 には各メーカーの代表者が参加して話し合いが行われました。
 ISOからOSIが発表されると、各メーカーは自社製の汎用
 大型コンピュータに、このOSIを導入、OSIが導入された
 ことで、異なるメーカーのコンピュータ間でも情報通信ができ
 るようになりました。
    ――若林宏著、『最新TCP/IPハンドブック』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 若林氏によるOSIは、ISOの主導の下で異なるコンピュー
タ間で相互接続して使える国際的なプロトコル――そのようにと
らえることができます。要するに、ISOは国際的に標準のプロ
トコルを作り、それを現在のPCのウインドウズのように、あら
ゆるコンピュータに実装させ、異機種コンピュータ間で通信がで
きるようにしたかったのです。
 これならよくわかるのです。実際に若林氏は上記の記述の後に
次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 OSIは次世代のネットワークプロトコルとして大いに期待さ
 れました。しかし、たいへん複雑で大きなシステムであったた
 め、結果的には。パソコンに不向きなネットワークプロトコル
 であると判断され、市場での普及は見ませんでした。
                 ――若林宏著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 若林氏は、ここではっきりと「OSIはネットワークプロトコ
ルである」といっています。そしてそれは市場では普及しなかっ
たと述べています。
 ところが、前掲の通信ネットワーク事典のOSIの説明――ほ
とんどの通信ネットワークの本の説明と同じ――とは、合ってい
ないのです。それらの本には「OSIとは何か」という項目さえ
ないのです。
 結論からいうと、事典ではOSIではなく、「OSI参照モデ
ル」の説明をしているのです。なぜ、「OSI参照モデル」なの
でしょうか。「OSI参照モデル」とは何でしょうか。
 現在、どのコンピュータにも搭載され、国際的に通用している
通信プロトコルとしては、TCP/IPがあります。通信ネット
ワークの本には、TCP/IPとこのOSI参照モデルを結び付
けて説明されています。だから、余計に混乱するのです。
 コンピュータメーカ−各社の独自のプロトコル、TCP/IP
それにOSIとOSI参照モデル――これらの関係は歴史的考察
をしない限りわからないのです。TCP/IPの著者たちはそう
いう歴史的考察をしないで書こうとするので、自分でもよくわか
らなくなっているのです。猪瀬対村井の対決は標準化とデファク
ト・スタンダードのそれです。
          [インターネットの歴史 Part2/12]


≪画像および関連情報≫
 ・OSI関するスラング
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ネットワーク技術者の間のスラングでは、第8層――政治層
  社内政治やビジネスなど。第0層――土建層、有線ネットワ
  ークを敷設する建物の構造などがある。また、米国では、第
  8層――ユーザ層、第9層――財務層、第10層――政治層
  とか、第8層――お金層、第9層――政治層、第10層――
  宗教層と比喩することもある。ネットワークに関わる人間の
  問題を比喩して「第8層問題」と言うこともある。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月24日

EJバックナンバー「千と千尋」(その7)

2002年3月1日に配信したEJ第811号(全7回連載の
内第7回)を過去ログに掲載しました。
○ カオナシは日本をあらわしている!(EJ第811号)
posted by 平野 浩 at 04:14| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月25日

EJバックナンバー「ビートルズの話題」(EJ第400号)

2000年6月14日に配信したEJ第400号(全4回連載
の内第1回)を過去ログに掲載しました。
○ ビートルズはドラッグの伝道師?(EJ第400号)
posted by 平野 浩 at 05:20| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月26日

TCP/IPとOSIの関係を探る(EJ第2046号)

 TCP/IP、OSI、OSI参照モデル――これら3つの関
係を整理しておきましょう。
 TCP/IPというのは、われわれが日常使っているインター
ネットのプロトコルの名称です。現在、PCには標準で実装され
直ちにインターネットが使えるようになっています。
 先行したのは、TCP/IPだったのです。これはLAN――
イーサネットを開発したゼロックス社のPARC(パロアルト研
究所)で開発されています。イーサネットの開発者であるロバー
ト・メトカフとデビット・ボックスが1974年にTCP/IP
の基礎理論を完成させたのです。
 しかし、同じ年の9月にIBM社は「SNA」という大型コン
ピュータ用の通信プロトコルを完成させており、他にも独自通信
プロトコルは雨後の竹の子のようにたくさん出てきたのです。
 そんな中で、TCP/IPは1978年にRFC化され、完成
度を高めていったのです。このRFCという言葉はこれからも出
てくるので、説明しておきます。
 RFCとは、次の言葉の省略形です。
―――――――――――――――――――――――――――――
      RFC = Request For Comment
―――――――――――――――――――――――――――――
 RFCとは、インターネットに関する技術の標準を定める団体
であるIETFが正式に発行する文書のことです。通信プロトコ
ルやインターネットに関わるさまざまな技術の仕様・要件を、通
し番号をつけて公開しています。インターネット関係の有名なプ
ロトコルのRFC番号は次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
    IP ・・・・・・・・ RFC 791
    TCP ・・・・・・・ RFC 793
    HTTP ・・・・・・ RFC2616
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時、フランスを中心としたヨーロッパでは、ネットワークの
方式を巡って次の2つの方式が対立していたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        1.  データグラム方式
        2.ヴァーチャル回線方式
―――――――――――――――――――――――――――――
 これら2つの方式がどういうものであり、なぜ対立していたか
は大変興味深いのですが、内容が一層専門化してしまうので、説
明を省略します。内容に興味のある方は、EJブログを参照して
いただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 EJ第1698号〜第1700号
http://electronic-journal.seesaa.net/category/618340-1.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 こうしたネットワークの方式の対立を受けて、1976年に米
英仏代表による共同執筆論文として「世界標準プロトコル」が提
案されたのです。論文の執筆者は次の4人です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヴィントン・サーフ ・・・・・ 米ARPANET
 アレックス・マッケンジー ・・ 米ARPANET
 スカントルベリー ・・・・・・ 英国立物理学研究所
 ツィンマーマン ・・・・・・・ 仏CYCLADES代表
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、これがそのまま国際標準になることはなかったのです
が、これがベースとなって、ISOが1977年に「OSI」を
発表することになったのです。
 ISOは、1978年に米、英、仏、カナダ、日本から委員を
集めて、OSI参照モデルを打ち出しています。世界標準プロト
コルは断念して、参照モデルを打ち出したのです。そして、19
84年にOSI参照モデルは、国際電信電話諮問委員会(CCI
TT/現ITU−TS)によって承認されています。
 その一方において、TCP/IPは、1983年にARPAN
ETで運用が開始されたのです。というのは、米国防総省がTC
P/IPが軍事用のネットワーク・プロトコルとして有効である
ことを認識し、セキュリティ管理の甘い研究指向の大学の接続拠
点(ノード)と機密情報を扱う軍関係のノードとを分離したから
です。こうして誕生したのがMILNETです。
 この切り離しによって米政府は軍の標準として採用したTCP
/IPを広く産業界に普及させようとします。具体的には、20
00万ドルの予算をつけて、コンピュータ製造会社にTCP/I
Pを搭載するよう奨励したのです。狙いはTCP/IPに準拠し
た通信関連製品を民間から調達しようとしたのです。こういう政
府の積極的な普及活動によって、TCP/IPは急速に普及をは
じめたのは当然のことです。
 しかし、日本の学術情報センター(学情)の猪瀬博氏はOSI
参照モデルに基づいて、新たに大学間ネットワークのインフラを
作ろうとしたのです。しかし、その時点でWIDEプロジェクト
(以下、WIDE)はTCP/IPを搭載してスタートし、企業
の協力を得てネットワークは実用化されつつあったのです。
 村井氏らは、ARPANETサイドの情報をほとんど把握して
おり、TCP/IPが事実上の標準――デファクト・スタンダー
ドになることを確信していたのです。したがって、学情からのさ
まざまな圧力に屈することなく、着実にWIDEネットワークを
拡大していったのです。
 猪瀬教授としても、米国においてTCP/IPが当時どの程度
普及しているか知らなかったわけではないと思うのです。しかし
あえてOSI参照モデルに基づく独自のインフラを一から作ろう
としたのです。考えてみると、日本という国は通信の世界におい
てNTTを中心にしてこのようなことを今までに何回もやってき
ているのです。・・・ [インターネットの歴史 Part2/13]


≪画像および関連情報≫
 ・ヴィントン・サーフについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ヴィントン・グレイ・サーフは、アメリカ合衆国の情報工学
  者であり、インターネットとTCP/IPプロトコルの創生
  重要な役割を演じた「インターネットの父」の一人。サーフ
  は1992年にインターネット協会(ISOC)を設立。I
  SOCは、インターネットの一般ユーザーへの普及促進を図
  るとともに、各種関連技術団体(IETFなど)のまとめ役
  にもなっている。サーフはISOCの初代会長を1999年
  まで務めた。            ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月27日

猪瀬対村井の対決−−勝者は?(EJ第2047号)

 猪瀬所長が率いる学情は、OSIに基づく大学間新ネットワー
ク構築のため、各大学に対してヒアリングを行ったのです。多く
の大学がネットワーク環境を整備するための予算を計上してきて
いたので、そのためのヒアリングです。
 ところが、予算申請してきている大学のほとんどがWIDEに
つなぐための予算であり、新しい通信インフラなど必要ではない
というのです。猪瀬所長が怒ったのは当然です。そして、その怒
りは村井氏の上司である相磯秀夫氏にぶつけられたのです。これ
について相磯氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 猪瀬先生は国際標準化が進んでいるOSIを強烈に推す。村井
 君はデファクト・スタンダードになっているTCP/IPで行
 くべきだといって譲らない。そこで意見が対立し、衝突を繰り
 返すわけですね。そういうことがあるたびに私が猪瀬先生から
 呼び出されるんです。で、行くと「君のところの村井君に苛め
 られている」とこぼすんです。
             ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 村井氏の述懐によると、猪瀬先生は流石に一番痛いところを衝
いてきたといっています。それは「公共のインフラは官がやるべ
きである」ということです。これは否定のしようがないのです。
これを認めると、「公共のインフラなんだから、国が推し進めて
いるOSIを採用すべきである」とくるわけです。そして、最後
にこうくるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 村井君が風邪をひいたら、それでストップしてしまうようなイ
 ンフラじゃ困るんだよ。  ――猪瀬博学術情報センター所長
―――――――――――――――――――――――――――――
 そこで、村井氏たちは、次のように理論武装し、学情のインフ
ラを否定しない代わりに、WIDEを引っ込めることは、絶対に
しなかったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 WIDEはあくまでも研究のためのプロジェクトであり、した
 がって研究のためであれば、サービスを一晩止めることもある
 し、新しい技術を試すためにサービスが不安定になることもあ
 るかも知れない。したがって、実際のサービスに関しては学情
 のサポートをしていく。           ――村井純氏
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、村井氏は学情と正面から対立をすることを避け、国の
通信インフラとの棲み分けを狙ったわけです。しかし、最初から
村井氏が予測していた通り、学情が進めるOSIに基づく通信イ
ンフラは遅々として進まなかったのです。そうこうしているうち
に、インターネットは急速に普及し、TCP/IPのデファクト
・スタンダードとしての立場は磐石のものとなったのです。
 こうした村井氏たちの努力について、相磯秀夫氏は次のように
いっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もし、村井君が自分のやっていることに自信が持てず、学情セ
 ンターのいいなりになってWIDEプロジェクトを引っ込めた
 りしていたら、日本のインターネットのあり方は随分変わって
 いたでしょうね。インターネットの普及、発展が数年遅れてい
 たと思います。逆にOSIみたいなものがなかったら、WID
 Eプロジェクトが自由に活動できていたら、インターネットの
 普及、発展は数年早かったのではないでしょうか。
               ――滝田誠一郎著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 TCP/IPの急速な普及によって、ISO側はTCP/IP
とは別に、世界標準プロトコルを作るという構想を変更せざるを
得なくなったのです。そこで、TCP/IPとOSIを融合させ
る作業に取りかかったのです。
 この作業はちょっと考えると難しい作業のように思われますが
対立している方式のいずれもがARPANETからスタートして
おり、同じ源流から発していることを考えると理論的には十分可
能なことだったのです。
 1977年までのARPANETのプロトコルは、次の3層構
造をとっていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
           アプリケーション層
                ホスト層
                 通信層
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここでいう「ホスト層」は現在の「トランスポート層」であり
TCP/IPの「TCP」というプロトコルが機能するいわばT
CP/IP通信の司令塔的な部分です。このとき、TCPという
プロトコルは「IP」の機能も併せて持っていたのです。
 しかし、米国防総省は軍事的事情から「IP」の機能を重視す
るようになったこと、それにヨーロッパ方式との整合性を図るた
めに、ホスト層の下位に「インターネット層(IP層)」を設け
ることにしたのです。これによって、現在のTCP/IPの4階
層が確立し、事実上の国際標準になっていくことになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
           アプリケーション層
            トランスポート層
            インターネット層
             データリンク層
―――――――――――――――――――――――――――――
 村井氏の凄いところは、多くの情報から先の先まで読んでいる
ことであり、その洞察力があったから、TCP/IPが標準にな
ることを確信していたのです。
          [インターネットの歴史 Part2/14]


≪画像および関連情報≫
 ・OSI7層に関係するサイトから・・・
  ―――――――――――――――――――――――――――
  今までメールやWebを使っていて、「何で、ADSL・無線
  ・光ファイバーなど色々別の回線を使って通信出来ているの
  だろう?」と思った事はないでしょうか?もし、何気なくイ
  ンターネットを使っていてそのような疑問を持てたら、貴方
  はすごいです。目の付け所が良いです。ただ、思ったことが
  なかったとしても、今、この瞬間思ってください(笑)。
    http://www.geekpage.jp/technology/ip-base/osi7.php
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2007年03月28日

先読みの村井の読めなかったものとは(EJ第2048号)

 村井純氏の先を読む考え方を知るエピソードがあります。WI
DEがスタートした頃の話です。WIDEのために引いた専用線
は、64Kbps――1秒間に64キロビットの情報を送る速度でし
かなかつたのです。ある日、村井氏の研究室で、その専用線で画
像を送るにはどうしたらよいかという議論をしていたのです。
 そのときの話を砂原秀樹――現・奈良先端科学技術大学院大学
教授は、次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時は64Kbps の専用線だったので、文字や絵はともかく、
 音声を送るのはきついし、ビデオなんてもってのほかだった。
 だったら、「文字や絵と切り離して、ビデオは別の線で送ると
 いう手もある。受信した側で文字や絵とビデオがひとつの情報
 として扱えるようにすればいい」というようなことを、ぼくが
 いったら、村井が「バーカ」というわけです。「おまえ、ネッ
 トワークをやっているんだから、全部デジタルで送れなきゃ困
 るだろうと」と。    ――滝田誠一郎著、『電脳創世記/
 インターネットにかけた男たちの軌跡』 実業之日本社刊より
―――――――――――――――――――――――――――――
 砂原氏は「でも現実には送れないんだから仕方がないじゃあり
ませんか」と反論すると、村井氏は絶対に譲らない――そういう
ことでよく喧嘩したと砂原氏は述懐しています。
 普通の人であれば、こういう場合、現実的な解決策を模索する
ものです。しかし、村井氏は、全部デジタルで送れなければ困る
んだから、デジタルを前提としてものを考えろというのです。そ
こで妥協してはならんというわけです。
 確かに現実的な解決策はネックが解決すると不要のものになり
ますが、ネックのある状態の現在の時点で、ネックのなくなった
先のことを考えておくと、そういうときがきたら即座に手を打つ
ことができるわけです。村井氏はそういう先読みの感覚に優れて
いたというのです。
 そういう先読み感覚の優れている村井氏にも先読みができない
ことがひとつあったのです。それは、接続したネットワークの環
境で日本語が使えないということだったのです。
 コンピュータを計算処理などで使っているときは、日本語が使
えなくても別に不自由はしていなかったのです。なぜなら、当時
のコンピュータは計算機そのものであり、日本語が使えるかどう
かは関係なかったからです。
 しかし、コンピュータ同士がネットワークにつながれた途端、
それはコミュニケーションの道具となったので、言語の問題の不
満が出てきたのです。なんで、日本語が使えないのか、と。
 インターネットの技術的な決り事を定めたRFCによると、電
子メールに使える文字は「ASCII」に限定されている――つ
まり、アルファベットしか使えないようになっていたのです。
 JUNETをはじめた1984年、日本語が使えないという批
判が出たのですが、村井氏はとくに気にしなかったといいます。
なぜなら、JUNETを使うのは大学や研究所の学者やコンピュ
ータサイエンスを学ぶ学生たちであり、英語ぐらい使えるだろう
と思っていたのです。それどころか、村井氏は、電子メールでは
英語を公用語にしたら良いとまで考えていたのです。
 いかに先読みの村井氏でも、JUNETをはじめた時点では、
それからわずか15年〜20年後に、すべての人がネットワーク
につながるようになるということまでは読めなかったようです。
 JUNETでメール交換をやってわかったことは、村井氏の考
え方の甘さだったのです。こんなに英語が書けないヤツが多いと
は・・・。村井氏は次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 コンピュータ・サイエンスの専門家は日頃から英語の論文やマ
 ニュアルを読んだりしているわけですから、英語の読み書きが
 できない人はいないとぼくは勝手に思いこんでいた。だから、
 英語しか使えなくても別にいいじゃん、と。ところが、いざス
 タートしたら、英語のできないヤツばっかしなわけ。何が書い
 てあるのかさっぱりわからない。そのうちみんな英語を使わな
 くなって、ローマ字を使いはじめた。これじゃダメというので
 日本語化に取り組みはじめたわけです。
             ――――滝田誠一郎著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 英語の原書が読めても、そこそこ日常会話が喋れても、ちょっ
としたメッセージを素早く英語で書くことは案外難しいものなの
です。かつて私は米国人と一緒に仕事をしたことがあり、電話の
伝言などのちょっとしたメモは英語で書いてもらっていましたが
実に見事な文章を書くのです。難しい単語を使わず誰でも知って
いる言葉で書かれているので、読みやすい。これはなかなか日本
人にはできないなと思ったものです。しかし、村井氏にはそう苦
労することなくそれができたのでしょう。
 実は、コンピュータで日本語が使えるようになるまでには大変
な苦労があったのです。しかし、この苦労話はほとんど伝えられ
ていないのです。
 PCを開発したのは米国ですが、日本語の面倒までは見てくれ
ないのです。日本語が使えなくて困るのは日本人だけであり、米
国人は困らないのですから、日本人が本気になって取り組まなけ
ればならなかったのです。
 もともと言語を担当するのはOSの仕事です。しかし、初期の
UNIXやMS−DOSでは、当然のことながら日本語は無視さ
れ、その日本語化については、NECや富士通などのメーカーや
研究機関が中心となってその作業に当たったのです。
 村井純氏は、通信の分野――とくにUNIXの日本語化につい
て大変な努力をされているのです。しかし、このことを知ってい
る日本人はあまりにも少ないのです。われわれがネットワークで
日本語が使えるのは村井氏の努力があってのことといっても過言
ではないでしょう。   
        ―― [インターネットの歴史 Part2/15]


≪画像および関連情報≫
 ・慶応義塾大学/SFCでの村井純
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「夢を追いかけている人っていうのは、だいたい子供になっ
  ている。夢を追いかけて、一見、不可能に思えても諦めない
  のが子供の良さなんです」それは研究室の門下生も同感だ。
  SFCの村井研究室出身で現在、慶應大学環境情報学部助手
  の南政樹が証言する。「基本的に負けず嫌いで、新しもの好
  き。研究のことだろうと古いアニメのことだろうと、学生と
  張り合うんです。敵が強くなればなるほど自分もがんばっち
  ゃうタイプですね。ある意味でとても子供のような面があり
  ます。とてもミーハーだし(笑)。
      http://www.president.co.jp/pre/20001016/02.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

u.jpg

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2007年03月29日

JUNETの日本語化のもたらしたもの(EJ第2049号)

 JUNETの日本語表示の問題――これを村井氏は1986年
までに解決しています。その結果、JUNETでは1986年か
らは漢字が使われるようになったのです。
 それでは、どのようにして漢字で文字を表示させることができ
たのでしょうか。
 1986年という年は、16ビットCPUの時代であり、PC
はMS−DOSというOSの環境で動いていました。NECの9
8シリーズが一番人気で売れていた時代です。しかし、PCはま
だ高価であり、50万円前後はしていたと思います。
 当時のPCの日本語処理は、CPUの力がまだ弱いため、日本
語を表示させるために漢字ROMを備えていたのです。漢字のか
たち(フォント)をROM(読み出し専用メモリ)化して、PC
に装備していたのです。PCが高価だったのはそのためです。な
お、プリンタにも漢字ROMが装備されており、プリンタも数十
万円もしたのです。
 ところで、NECはこの98用の漢字ROMを別売していたの
です。村井氏はこれを手に入れ、何とか利用できないかと考えた
のです。これは、漢字コードを入力すると、漢字が画面に表示さ
れる仕組みになっていたのです。
 さいわい頭のよい学生がいて、その漢字ROMを読み取って画
面に#記号で漢字を表示させるソフトウェアを開発したのです。
それを使ってメールを送ると、受信した側のコンピュータの画面
に#記号で作られた日本語がちょうど電光ニュースのように流れ
て表示されるというわけです。
 このとき使っていたディスプレイは、英字専用の「キャラクタ
ディスプレイ」だったので1文字ずつ文字が流れたのですが、こ
れに代わって「ビットマップディスプレイ」が一般化すると、#
記号を使うまでもなく、漢字もきれいに表示されるようになった
のです。
 このJUNETの日本語対応に関連して、どうしても述べなけ
ればならないことがあります。それは「fj(エフ・ジェイ)」
というものに関してです。
 既に述べたように、JUNETは、UNIXのUUCPで接続
されているネットワークです。同じようにして、UUCPで接続
されていたのが米国のUSENETです。
 その当時米国では、「ネットニューズ」というものが流行しつ
つあったのです。「ネットニューズ」はインターネットの複数の
サーバで主にテキストを配布・保存するシステムであり、掲示板
のような働きをします。一応ルールはありますが、誰でも自由に
書き込むことができ、いろいろなテーマについて議論できます。
しかし、WWW上にある掲示板とはぜんぜん別ものです。
 ネットニューズには、当時次の2つがあったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    fa  ・・・・・ from arpanet
    net ・・・・・ from  usenet
―――――――――――――――――――――――――――――
 ネットニューズの中には、さまざまな話題やテーマから成る多
くのニューズグループというものがあり、興味のあるニューズグ
ループに入って書き込みによる議論ができるのです。そういう書
き込みの文書は、UUCPによってそのニューズグループ加入者
全員に届けられる仕組みです。
 ARPANETの接続拠点の大学関係者は、これを使ってさま
ざまな意見交換をやったものと思われます。その情報がnet、
すなわち、USENETに流れていたのです。faとnetは、
相互乗り入れをしていたからです。その情報はKDDの研究所を
通して、日本のJUNETにも流れており、JUNETの一部の
関係者はこれを貴重な情報源であり、極めて興味深いものとして
受け入れていたのです。
 そういう関係から、JUNETでの電子メールのやりとりは、
USENETと同じUUCPによるネットワークであり、日本語
でやり取りができるネットニューズに発展していったのです。こ
れが「fj」なのです。もちろん「fj」とは、次の意味になり
ます。くれぐれも「フジ・ツウ」と間違えないように。
―――――――――――――――――――――――――――――
    fj ・・・・・ from japan
―――――――――――――――――――――――――――――
 fjはJUNETが閉鎖されるまではJUNETの通信そのも
のだったのですが、以後独立して現在も続いています。しかし、
2007年3月1日、fjは、ニュースグループ管理委員会委員
の第13期委員の投票において、選任が有効となる50票以上の
投票に達せず、同管理委員会が不在の状態が発生しています。
 JUNETによる日本語通信の恩恵を受けていた人はたくさん
いるのです。現・慶応義塾大学環境情報学部の徳田英幸教授もそ
の一人です。徳田氏がCMU――カーネギーメロン大学の研究員
をしていたとき、毎日、日本から送られてくる、その日のプロ野
球の結果や大相撲の勝敗を大学の研究室にあったSUNのワーク
ステーションで見るのが楽しみだったといっています。
 当時、徳田氏の研究室と東工大の村井氏の研究室はUUCPで
つながっていたのです。1日数回、徳田氏の方から電話をかけて
東工大のコンピュータを呼び出して、電子メールなどの送受信を
行っていたのですが、その中にプロ野球や大相撲の結果を書いた
メールも含まれていたというわけです。
 このようにして、JUNETの日本語化はうまくいったのです
が、ある専門家からNECのPC用のフォントをそのまま使って
いるのはまずいということになったのです。そこで、フォントを
作っている会社を回って、「フォントを寄付してくれ」といった
ら、すべて断られてしまったそうです。おそらくいっていること
の意味が先方に通じなかったためと思われます。
 その報告を聞いた村井氏は「それならフォントを作ろうよ」と
いい出したのです。 
       ―― [インターネットの歴史 Part2/16]


≪画像および関連情報≫
 ・ネットニュース(ネットニューズ)
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ネットニュースはコンピュータネットワークでの情報交換に
  使われるシステムのうち、広範に用いられたものとしては、
  Eメールとともに、最も古いシステムの1つである。インタ
  ーネットやWWWが一般的に普及する前から存在している。
  初期のネットニュースはEメールと同様に、IPによらず、
  UUCPで配送された。現在では、やはりEメールと同様に
  ほぼ全てのネットニュースのトラフィックはIPにより配送
  されている。            ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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posted by 平野 浩 at 04:39| Comment(3) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月30日

UNIX用日本語フォントが完成(EJ第2050号)

 1995年の話です。第4回「フリーソフトウェア大賞」授賞
式の席上、選考委員会委員長の石田晴久氏は次のように挨拶をし
ています。
 「フリーソフトウェア大賞」は、財団法人インターネット協会
が主催し、フリーソフトウェアの中から社会に貢献した優秀な作
品を毎年表彰しているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 今回から新しくインターネット関連のフリーソフトも選考対象
 とした。各賞受賞の3作品は、過去、そして現在の日本のイン
 ターネットを支えてきたものである。日本のインターネットが
 大きな脚光を浴びる今、こういったソフトを選ぶことができて
 よかったと思う。      ――石田晴久選考委員会委員長
      http://www.nmda.or.jp/enc/fsp/jis/commt95.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 この受賞3作品の中のひとつが、今回のテーマにも関係する次
の作品なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
           橘浩志「K14」
―――――――――――――――――――――――――――――
 橘浩志氏は、当時村井氏を中心とするJUNET研究会に顔を
出していた常連で、タイポグラフィーとかレタリングに興味があ
り、中、高校時代はそういうことに熱を上げていた人物です。橘
氏は、東工大の工学部・情報工学科を卒業し、アステックという
ソフトウェア開発会社に当時在籍していたのです。
 JUNETの日本語化に使ったNECの漢字ROMをドネーシ
ョン(寄付)させるのに失敗した村井グループは、自分たちで作
ろうということになって、村井氏が目をつけたのが橘浩志氏なの
です。「彼ならやれる」、と。
 村井氏の考え方はこうです。橘がいくつかのサンプルとガイド
ライン――フォントデザインの統一基準を作成する。そうすれば
そのガイドラインに沿って文字をデザインする作業はJUNET
関連の大学の学生を総動員し、人海戦術で処理すればできると考
えたのです。
 しかし、ことは村井氏の考え通りには進まなかったのです。対
象となる文字は、JIS漢字コードに定められている約6000
字を超える日本語フォントです。
 橘氏がサンプル作りに着手してわかったことは、文字をデザイ
ンすることは思ったより早くできるが、それをガイドラインとし
てまとめるのは相当時間がかかる――しかも、人海戦術でやった
場合、最後にすべてをチェックする必要がある。この作業が大変
だということです。こういう仕事は分散すればするほど、かえっ
て手間がかかるのです。
 そこで、橘氏は自分ひとりでこの作業をやった方が早いと考え
て、敢然とそれに着手したのです。そのとき、橘氏の勤務先は渋
谷にあり、自宅は学生時代から同じ東工大の裏のアパートだった
のです。作業に使ったマシンは東工大の研究室にあったワークス
テーション「SUNU/Xウインドウ付き」です。
 橘氏は、仕事が終わって自宅に戻る途中に大学の研究室に寄り
遅くまでフォントをデザインし、休みの日は一日研究室にこもっ
て作業に没頭したのです。もちろん一銭にもならない仕事です。
しかし、橘氏はこれが日本のコンピュータ・ネットワークに大き
く寄与することになるという意識で最後までやり遂げたのです。
 1987年7月にJIS漢字第一水準、同年12月に第二水準
を完成します。これが「K14」として、1995年のFSP大
賞に結び付いたのです。
 受賞に当たって、橘浩志氏はつぎのように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 UNIX上で漢字を取り扱うのに大変苦労していたものです。
 デザインの統一を図るために、とりあえず私がガイドラインを
 作成をすることになったのですが、いくつか試しに作ってみる
 と意外と簡単だったので、これなら一人で使った方が早いしク
 オリティの高いものができるだろうという安易な気持ちでスタ
 ートしました。しかし6000字を越えるものを一人で作るの
 はなかなかしんどい作業で、嫌になった時期もありましたが、
 ひたすら根性だけで、一年ぐらいかかって何とか作り上げまし
 た。表彰していただけるということで、大変恐縮しています。
                       ――橘浩志氏
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで「K14」というのは、Kは「漢字」、14は「14
ドット」を意味しているのです。したがって、14ドットの漢字
フォントという意味になります。ちなみにこのフォントは、「橘
フォント」といわれ有名です。
 このようにして、JUNETの日本語化については、1987
年には、橘フォントの完成で一応ケリがついたのですが、問題は
UNIXの日本語化が残っています。これは、日本語の国際化の
問題でもあります。
 村井氏は、UNIXの開発元であるベル研究所を動かさなけれ
ばダメだと考えたのです。しかし、彼らはこの問題――UNIX
の日本語化にはぜんぜん興味がないのです。なぜなら、彼らは英
語だけでも何も苦労しないからです。
 そこで、UNIXの日本語化ではなく、UNIXの国際語化で
いこうと考えたのです。具体的にいうと、電子メールの多言語化
――つまり、マルチランゲージ化です。この分野で先んじると、
ビジネスの範囲は拡大する――そのように連中に訴えれば、やつ
らはあわてて取り組むに違いないと考えたのです。
 村井氏は、1986年にベル研究所に招かれて、講演をする機
会あったのですが、そのときUNIXの国際語化について、熱心
に訴えたのです。村井氏はUNIXの国際語化はあなたたちには
興味がないでしょうから、こちらに任せて欲しいとまでいったの
です。     ―― [インターネットの歴史 Part2/17]


≪画像および関連情報≫
 ・ベル研究所について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ベル研究所はもともとベル・システム社の研究開発部門とし
  て設立された研究所である。ベル電話研究所とも。電話交換
  機から、電話線のカバー、トランジスタまであらゆるものの
  開発を行っている。ベル研究所の名前は、電話の発明者グレ
  アム・ベルに由来するといわれている。1970年代にUN
  IXとC言語の開発を行っている。
                    ――ウィキぺデイア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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posted by 平野 浩 at 04:55| Comment(0) | TrackBack(0) | インターネットの歴史 Part2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月31日

EJバックナンバー「ビートルズの話題」(その2)

2000年6月15日に配信したEJ第401号(全4回連載
の内第2回)を過去ログに掲載しました。
○ トゥモロー・ネバー・ノウズ(EJ第401号)
posted by 平野 浩 at 04:27| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする