お届けするので、モーツァルトのテーマは今日を含めてあと4回
になります。いよいよ大詰めです。
1788年6月にモーツァルトはプフベルクに1000〜20
00フローリンの借金を申し込み、200フローリンを送金して
もらっています。それから1年というものモーツァルトはプフベ
ルクに対してお金の無心をしていないのです。
しかし、ちょうど1年後の1789年7月12日にモーツァル
トは、またプフベルクに500フローリンの借金を申し入れる手
紙を書いています。その手紙には次の奇妙な一文があるのです。
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とろこが、別の面で不幸な状況が見えてきました。――もちろ
ん、ほんの一時だけのことです!――最愛、最上の友にして盟
友よ。あなたは私の目下の状況をご存知です。でも、私の今後
の展望もご承知です。私たちが話し合った例のことについては
そのまま変わっていません。あれやこれや、お分かりのことと
思います。 ――1789年7月12日の手紙より
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既出の藤澤修治氏の論文によると、「別の面で不幸な状況」と
は、その時点から3ヶ月前に「真理」支部が解散届けを出したこ
とを指しているというのです。
モーツァルト自身は「新・授冠の希望」支部に属していたので
すが、2つしかないもう一つの支部である啓明結社系の「真理」
の方に惹かれていたのです。「新・授冠の希望」はもともと薔薇
十字団系であり、所属している会員には貴族が多く、モーツァル
トには合わなかったからです。
その「真理」支部が解散に追い込まれたことにより、フリーメ
ーソンに動揺が走ったのです。そのため、モーツァルトの作る新
支部「洞窟」に参加しようとしていた人まで、フリーメーソンを
脱会する動きが起こったのです。
さらに藤澤氏は7月12日の手紙の中の「私の今後の展望」と
はモーツァルトが新支部を作る決心を指し、「私たちが話し合っ
た例のこと」は、新支部「洞窟」の設立であると述べています。
つまり、「真理」が解散ということになっても、「洞窟」という
新支部を作る決意は揺らいでないので、500フローリン貸して
欲しいとモーツァルトはプフベルクに懇願しているわけです。
モーツァルトは秘密警察による手紙の検閲を恐れて、こういう
言い回しの手紙をプフベルクに送ったのです。しかし、これに対
してプフベルクはモーツァルトに返事をしなかったのです。
そこでモーツァルトは、プフベルクに7月17日に再度手紙を
送って次のようにいっています。
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あなたの友情の数々の証しとこのたびの私のお願いとを考え合
わせますと、あなたのお怒りもまったく当然だと思います。し
かしまた、私の不幸な状況――これは厳密にいえば私の責任で
はありませんが――とあなたの友情にあふれたお気持ちとを考
え合わせますと、やはり私が弁解するのも理のあることだと思
います。 ――モーツァルトの7月17日の手紙
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この手紙の中の「私の不幸な状況」とは、「真理」支部が解散
届けを出したことを指しています。そして、モーツァルトは、そ
のことは自分の責任ではなく、それを弁解するのは理のないこと
ではないといっているのです。これだけ見ても、この手紙が単な
る借金の依頼状でないことがわかります。
この手紙を受けたプフベルクは、モーツァルトの窮状を察して
150フローリンを送っているのです。さらにモーツァルトは同
じ年の年末にプフベルクに400フローリンの無心をしているの
ですが、この時点では「洞窟」の設立は困難な状況に追い込まれ
ていたもものと推定されます。
新しい支部を設立するには、そのための打ち合わせに使う会議
室の賃料、そのさいの飲食代、会議資料の印刷代、会員を勧誘す
るための旅費を含む諸経費など、いろいろお金がかかるのです。
支部ができてしまえば、会費を徴収してこれらの経費を賄えるの
ですが、それまでは誰かがそれを立て替える必要があり、モーツ
ァルトがその資金を調達したのです。
実はプフベルクは「真理」支部の会計を担当していたので、モ
ーァルトの要求してくる資金の見当がついたのです。したがって
プフベルクはモーツァルトの要求を冷静に判断していつも適切な
金額を送金していたのです。何といってもモーツァルトは不定期
には大金は入るものの固定収入がないので、どうしても一時の借
金に頼らざるを得ない財務体質なのです。
そういうプフベルクは1789年の年末のモーツァルトの資金
要求――400フローリンに対して、300フローリンを送金し
ています。これはプフベルクがモーツァルトに送金した金額では
最高の金額ですが、これは「洞窟」設立断念のための幕引き整理
資金と見ることができます。
そして、1790年という年はモーツァルトの作曲活動が最も
低調な年なのです。おそらく「洞窟」設立断念がモーツァルトの
作曲の足を引っ張ったものと考えられるのです。
しかし、これを観察していたコンスタンツェとセシリアは、借
金が増えて人気が地に落ちたモーツァルトに早々と見切りをして
いたと考えられるのです。それは、1791年の春に起こされた
リヒノフスキーによるモーツァルトへの貸金返還訴訟でおそらく
確信に変わったと思えるのです。
そう考えると、死の直前の歌劇『魔笛』の大成功とその後の音
楽家としてのモーツァルトの高い評価の定着は、1790年時点
では予測することがいかに困難であったかがわかります。フリー
メーソンを扱った『魔笛』の成功こそ、モーツァルトにとって一
発逆転さよなら満塁ホームランぐらいの価値があったといえると
思います。 ・・・・ [モーツァルト67]
≪画像および関連情報≫
・モーツァルトは人に金を貸していたという話
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ここでモーツァルトの金銭貸借に関してまだ解かれていない
新しい謎について言及しなければなるまい。それは遺産整理
の時に判明したのだが、彼はクラリネット奏者アントーン・
シュタードラーに500フローリンもの金を貸していた。こ
れは中流家庭の1年間の生計費に匹敵する大金だが、一方で
恒常的に借金を続けたモーツァルトが、他方で貸金を持って
いたというのは意外だ。これについて、いつ、どんな目的で
これが貸されたかを解いた説は現在までない。
――藤澤修治氏論文「モーツァルトの借金」より
http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part1.html
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