2006年12月19日

フリーメーソンになった理由は何か(EJ1985号)

 モーツァルトが巨額の借金をしていたことと、彼がフリーメー
ソンの会員であったこととは無関係ではないのです。彼は熱心な
フリーメーソンであったのですが、現在残されている夥しい数の
モーツァルトの手紙には、フリーメーソンについて直接記述した
ものは一切ないのです。
 それは、18世紀の末に、ウィーンにおいてフリーメーソンで
あることが何を意味していたかということと関係があります。フ
リーメーソン運動の発展は、当時の国情によってそれぞれ異なる
のですが、一般論としては、旧来の土地貴族に対立する商人、手
工業者、専門的職業人――この中には当然音楽家も含まれる――
すなわち、新興ブルジョワの思想を代表していたといえます。
 だからこそ、1789年のフランス革命後において、フリーメ
ーソンがフランス革命の真犯人と噂され、中部ヨーロッパの多く
の国ではフリーメーソンの結社が禁止されたのです。モーツァル
トはまさにこういう時代に生きていたのです。
 オーストリアにフリーメーソン主義を導入したのは、フランシ
ス1世――マリア・テレジアの夫――なのです。彼はフランス生
まれの熱心なフリーメーソンであって、1731年にウィーンに
に最初の支部を設立しています。
 国王がフリーメーソンであるところから、貴族や軍人、それに
一部の聖職者までフリーメーソンになる者もいたのです。しかし
頑固なまでのカトリック教徒であるマリア・テレジアは夫のフラ
ンシス1世が死ぬと、直ちにフリーメーソンの結社を禁止し、フ
リーメーソンの迫害を始めたのです。
 しかし、その息子のヨーゼフ2世は、そのフリーメーソン禁止
令を廃止し、積極的にさまざまな改革を断行したのです。モーツ
ァルトが少なからずこの皇帝に助けられたことについてはもはや
多言を要する必要はないと思います。
 モーツァルトがなぜフリーメーソンに入会したのかについては
彼が王侯・貴族たち――すなわち当時の権力体制から冷たい仕打
ちを受けたからなのです。具体的にいうと、モーツァルトが若い
頃から父のレオポルトと一緒に、または母を伴って一人で、何回
となく繰り返し働きかけた宮廷への就職活動がことごとく失敗に
終ったことです。これによって、彼は権力体制が決して自分の味
方にならないことを思い知ったのです。
 しかし、マンハイム、パリ旅行において、モーツァルトを励ま
し支援を与えたのはフリーメーソンたちだったのです。マンハイ
ムでは、作曲家のカンナビヒ、フルーティストのヴェンドリング
オーボエ奏者のラム、それにマンハイム国民劇場監督のダールベ
ルク男爵、劇作家のゲミンゲン男爵などは、モーツァルトに物心
両面の支援を与えたのです。また、パリにおいては、カンナビヒ
とゲミンゲン男爵の紹介状により、ジッキンゲン伯爵と会うこと
ができています。彼らはいずれもフリーメーソンなのです。
 モーツァルトは、このマンハイム・パリ旅行の2年後にウィー
ンに移り住むことになったのですが、そのときモーツァルトを取
り囲んでいたのは、ほとんどはフリーメーソンの音楽家や貴族た
ちだったのです。
 そういう支援者のおかげで、モーツァルトはウィーンにおいて
ヴィルヘルム・トゥーン伯爵夫人のサロンに出入りできるように
なります。ここでモーツァルトは、後に彼自身の葬儀執行人を務
めることになるヴァン・スヴィーテン男爵に出会ったのです。フ
リーメーソンには、薔薇十字団系と啓明結社系の2つがあるので
すが、スヴィーテン男爵は啓明結社系の大物会員だったのです。
 スヴィーテン男爵は毎週日曜日に自宅でコンサートを開いてお
り、モーツァルトは毎週そのコンサートに参加し、そこで男爵の
保有する膨大なバッハやヘンデルの楽譜に出会うのです。これは
その後のモーツァルトの音楽にさまざまな影響を与えたのです。
 このようにモーツァルトはフリーメーソンから強い影響を受け
1784年12月14日に「恩恵」ロッジに入会することになり
ます。このロッジは啓明結社系であり、マンハイム旅行で知り合
った劇作家のゲミンゲン男爵が創立したロッジなのです。
 しかし、教会当局は、フリーメーソン、とくに啓明結社系の運
動に警戒心を募らせるようになるのです。というのは、薔薇十字
団よりは政治的色彩の強い啓明結社の動きに対して国として放置
はできなかったのです。その中心になったのはパヴァリア(バイ
エルン)なのです。
 パヴァリアでは、カール・テオドール選帝侯が啓明結社が領内
で会合を持つことを禁じたのです。1784年のことです。モー
ツァルトがフリーメーソンに入会した年にそういう禁止の勅令を
出したのです。
 こういう動きに呼応して、どちらかというとフリーメーソンに
理解のあったヨーゼフ2世統治下のオーストリアでもフリーメー
ソン支部に対する監督を強化するようになったのです。そして、
ウィーンではヨーロッパではじめて、秘密警察が創設されたので
す。秘密警察の趣旨は次のようなものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 民衆の間に芽生えた不満、あらゆる危険思想、とりわけ謀反の
 種を発見して、つぼみのうちにすぐさまそれらを摘みとること
 を目的とする。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
―――――――――――――――――――――――――――――
 皮肉なことに、モーツァルトがフリーメーソンになった年であ
る1784年頃により、フリーメーソンに対する規制がはじまり
フランス革命のはじまる1789年にかけて、一層強化されてい
くのです。モーツァルトのフリーメーソン活動に関する手紙など
が一切ないのは当然なのです。なぜなら、この頃からフリーメー
ソンは地下運動に移行するからです。また、モーツァルトの死後
コンスタンツェは、フリーメーソンに関わる手紙などをすべて処
分したともいわれています。・・・・・  [モーツァルト63]


≪画像および関連情報≫
 ・アルフレート・アインシュタインについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  EJの記述の中にときどき登場するアインシュタインは、高
  名な物理学者のアルベルト・アインシュタインではない。ア
  インシュタインの従弟で、アメリカに帰化したドイツの音楽
  学者、音楽史家であり、とりわけモーツァルトに詳しいモー
  ツァルト学者である。著書、『モーツァルト、その人間と作
  品』などがよく知られている。従兄のアルベルトともども、
  モーツァルト音楽の愛好者で、アルベルト(あるいはアルフ
  レート本人?)が「死とは、モーツァルトを聴けなくなるこ
  とだ」という名言を残している。   1880〜1952
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

1985号.jpg
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。