2006年12月14日

マクダレーナという弟子の存在(EJ1982号)

 イタリア歌劇団のロバート・メイ・オレイリからモーツァルへ
の英国招聘の中身は次のようなものです。
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  1.1790年12月末〜1791年 6月末まで滞在
  2.オペラ、ジング・シュピールなど2曲を作曲し演奏
  3.その他営利のための作曲や演奏会の開催は可とする
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 約6ヶ月間、英国に滞在して、オペラかジング・シュピールを
少なくても2曲を作曲するということだけなのです。それをクリ
アされることを条件として、演奏会を開くなどの仕事をやっても
かまわないというのです。
 その報酬として、300スターリング・ポンド――3000フ
ローリンを提供するというのです。2つの大曲オペラを6ヶ月で
完成させることは、モーツァルトにとっては何でもないことであ
り、同額以上の借金をしてしていたモーツァルトにとって願って
もない話のはずです。
 しかし、モーツァルトはその話を受けなかったのです。これに
対し、コンスタンツェやセシリアはモーツァルトに対して憎しみ
を募らせたのです。このままでは危ない。借金はさらに大きく増
えてしまい、返せなくなる――そう考えたのです。
 しかし、モーツァルトがオレイリからの申し出を断ったのには
理由があるのです。1791の春、ロレンツォ・ダ・ポンテは、
その回想録に次のように書いています。
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 モーツァルトと話し合い、ロンドンまで私に同行するよう説得
 した。ところがほんの少し前に、彼は皇帝ヨーゼフから非凡な
 オペラを認められて終身年金を受領していた。そのころ、モー
 ツァルトはドイツ・オペラ「魔笛」を作曲していて、決心する
 のに6ヶ月の猶予が欲しいと頼んだ。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
          音楽之友社刊(グールデン=フローリン)
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 モーツァルトは、2回にわたって英国に招聘されているのです
が、いずれも断っています。それぞれ理由があるのですが、言葉
の問題を含めていまひとつ乗り気ではなかったといえます。これ
に対して、コンスタンツェとセシリアは不信感を持ったのです。
 これ以外にコンスタンツェはモーツァルトに対してかなりの不
信感――もう少し具体的にいうと、憎しみすらいだいていたフシ
があるのです。それは何が原因だったのでしょうか。
 モーツァルトは、コンスタンツェが脚の治療のためにバーデン
に行くことにきわめて寛容であったのです。1789年8月から
1791年の秋まで、コンスタンツェはしばしばバーデンに行っ
ているのですが、一回出かけると何週間もバーデンに滞在するこ
とが多く、モーツァルトもそれを許しており、それにかなりのお
金を注ぎ込んでいます。つまり、その間モーツァルトは独り暮ら
しをしていたのです。息子のカールは、寄宿学校に入っており、
モーツァルトは文字通り独りだったのです。
 しかし、バーデンはウィーンから25キロしか離れておらず、
モーツァルトがその気になれば、いつでもバーデンに行くことが
できたにもかかわらず、モーツァルトは弟子のジュスマイヤーに
コンスタンツェの世話をまかせ切りにし、バーデンにはほとんど
行っていないのです。
 そのバーデン治療でコンスタンツェは、現地でパーティを開き
遊んでおり、モーツァルトもそのことを知っていたのです。映画
『アマデウス』にもそういうシーンがちょっと出てきていまが、
気がつかれたでしょうか。
 当時、モーツァルトには2人の弟子を持っていたのです。1人
はジュスマイヤーですが、もう1人は女性の次の弟子です。
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       マグダレーナ・ホーフデーメル
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 このうち、ジュスマイヤーについては何回も書いていますが、
マグダレーナ・ホーフデーメルについてははじめて書くことにな
ります。仮にコンスタンツェがモーツァルト殺しに関ったとすれ
ば、マグダレーナの問題は無関係ではないからです。
 マグダレーナは、聖シュテファン教会から歩いて数分のところ
にあるグリュナンガー通りに夫のフランツと住んでいたのです。
マグダレーナはモーツァルトにピアノを習っており、モーツァル
トの数少ない弟子の一人だったのです。
 モーツァルトの葬儀があったとされる1791年12月6日の
夜――そのマクダレーナに関係する殺人未遂・自殺事件が起こっ
たのです。夫のフランツがマクダレーナに刃物で切りつけて重傷
を負わせ、自らは自殺したのです。しかし、マクダレーナは奇跡
的に助かったのですが、そのとき彼女は妊娠5ヶ月の身重だった
のです。
 この殺人未遂・自殺事件はモーツァルトの死と結びつけられて
今日まで語り継がれています。モーツァルトがマクダレーナと不
倫しており、マクダレーナがそのとき身ごもっていた子供はモー
ツァルトの子供ではないかというのです。
 おそらくマクダレーナはモーツァルトの葬儀に参列して戻って
きて夫のフランツと口論になり、夫が怒りのあまりマクダレーナ
に切りつけたものと考えられるのです。伝記作家たちは、モーツ
ァルトとマクダレーナの情事については、深追いはしないものの
その事実を否定していないのです。
 モーツァルトがコンスタンツェのバーデンでの療養にジュスマ
イヤーを同行させ、療養期間が長期にわたっても文句をいわない
ウラにはマクダレーナとの情事があったとも考えられます。はっ
きりしていることは、モーツァルトのマクダレーナとの情事をコ
ンスタンツェが知っていたことです。・・ [モーツァルト60]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトとマクダレーナとの関係
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  モーツァルトとマクダレーナへの愛のこの悲劇的結末につい
  てウィーンに広がりつつあった噂を、確証もしくは否定でき
  ると思われる2人の人間が存在した。それはほかならぬコン
  スタンツェとマクダレーナ自身である。この噂が嘘だとすれ
  ば、両人とも進んで否定するはずだから、このような状況で
  は、沈黙は事実上確認とみなしていい。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
          音楽之友社刊(グールデン=フローリン)
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1982号.jpg
posted by 平野 浩 at 07:01| Comment(0) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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