2006年12月13日

モーツァルトに見切りをつけたコンスタンツェ(EJ1981号)

 仮に5000フローリンの借金があっても、モーツァルトほど
の音楽家であれば十分返せると考えのが普通です。しかし、コン
スタンツェとセシリアは、モーツァルトはもうだめだと思ったの
です。1791年の春にリヒノフスキーからモーツァルトに対し
て、貸金返還訴訟が起こされた時点においてです。
 どうしてそのように判断したのかというと、次の3つの理由が
あるからです。
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 1.1785年以降モーツァルトの定期演奏会や予約演奏会
   が激減していており、人気が凋落している
 2.「コシ・ファン・トゥッテ」以降、もはや大きなオペラ
   の制作依頼はもうこないと考えられること
 3.晩年の3年間に使途の明確でない巨額の借金が急増し、
   勝ち目のない訴訟まで起こされていること
―――――――――――――――――――――――――――――
 人気スターというのは、公の場への露出度が高いものです。そ
ういう意味で、1785年以降にモーツァルトが音楽家としての
公の場である定期演奏会や予約演奏会――とくにブルク劇場には
お呼びでなくなったのは人気の凋落であると考えたのです。
 しかし、当時モーツァルトにとってはいわゆる抵抗勢力の存在
があり、少しでも隙があれば足を引っ張られる状態にあったので
す。当時の音楽会の聴衆のほとんどは貴族であり、とくに予約演
奏会はそうだったのです。したがって、抵抗勢力の力が強くなれ
ばなるほどモーツァルトの演奏会は減ったのです。
 考えてみれば、『フィガロの結婚』にしても『ドン・ジョバン
ニ』にしても、内容は当時の貴族を痛烈に風刺する内容であり、
抵抗勢力を刺激するのに十分だったのです。
 それにもうひとつ忘れてはならないのは、1787年からはじ
まったロシア・トルコ戦争にオーストリアが参戦したことです。
この戦争によって、モーツァルトの味方である抵抗勢力でない貴
族までも出征し、音楽会どころではなくなってしまったのです。
モーツァルトの伝記作家の多くは、なぜかこのロシア・トルコ戦
争の影響には触れていないのです。
 しかし、そこまでは読めないコンスタンツェとセシリアは「モ
ーツァルトに先はない」と見切りをつけたのです。さらにモーツ
ァルトにとって不幸なことは、一貫してモーツァルトを支え続け
てくれた皇帝ヨーゼフ2世が亡くなったことです。1790年2
月20日のことです。これによって、抵抗勢力は一層力を得るこ
とになるのです。
 1787年の父レオポルトの死、1787年からのロシア・ト
ルコ戦争、そして皇帝ヨーゼフ2世の死――これによって、モー
ツァルトの仕事の面に大きな影響が生じたことは確かです。とく
に1789年以降、モーツァルトの生活は視界不良の乱気流に飛
び込んでしまうのです。
 このモーツァルトの死の3年前から、巨額な借金が累積されて
います。これらの借金は生活資金と考えるには額が大きく何に使
われていたのかはっきりしていないのです。その借金の使途をコ
ンスタンツェがどこまで知っていたのかは不明ですが、それらを
探る証拠になる手紙などが一切ないのです。
 このような状況をみてコンスタンツェとセシリアは、1790
年の『コシ・ファン・トゥッテ』を最後に、もはや大きなオペラ
の制作依頼はないだろうと考えたのは無理からぬことであると思
います。当時の作曲家においてオペラの依頼がないということは
それは事実上の失脚を意味していたのです。
 しかし、コンスタンツェとセシリアの分析は、結果として大き
く外れることになります。いうまでもなく、1791年後半には
『皇帝ティトゥスの慈悲』と『魔笛』の2つのオペラが作曲され
大当たりを取ったからです。
 実は1790年にモーツァルトは、英国行きをしきりと勧めら
れていたのです。そのきっかけになったのは、とくにモーツァル
トと仲の良かったヨーゼフ・ハイドンが英国で音楽活動をするこ
とになったからです。
 1790年9月に、ハイドンを召しかかえていたエステルハー
ジー侯が亡くなり、ハイドンは楽長の仕事から外れたのです。そ
のとき、ドイツ生まれで、ヴァイオリン奏者であったロンドンの
興行師ヨハン・ペーター・ザロモンがハイドンのもとを訪れ、き
わめて有利な条件で英国での音楽活動を勧めたのです。
 この申し出にハイドンは乗り、英国での音楽活動を決意し、暮
れが押し詰まった1790年12月14日、ハイドンの送別の宴
が開かれたのです。
 送別の宴に出席したモーツァルトはハイドンと別れを惜しみま
すが、そのときモーツァルトは次のようにいったのです。
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 おなたはわたしより20歳以上も高齢でいらっしゃる。十分に
 言葉も喋れないのにイギリスに行かれるのは・・、また、ウィ
 ーンに戻ってきて下さい。ウィーンで再会できるのを楽しみに
 していますよ。             ――モーツァルト
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 そのときモーツァルトは、なぜかもうハイドンとは会えないと
思ったといいます。もちろんモーツァルトとしては、ハイドンの
方が高齢であり、まさか自分が死ぬとは思っていなかったと思う
のです。この予感は20歳以上も若いモーツァルトが死ぬことに
よって不幸にして実現してしまったのです。
 実は、モーツァルトにもロンドンにあるイタリア座の支配人、
ロバート・メイ・オレイリから、ハイドンよりも有利な条件で英
国への誘いが来ていたのですが、モーツァルトは乗らなかったの
です。これを知ったコンスタンツェとセシリアはモーツァルトに
絶望してしまうのです。    ・・・  [モーツァルト59]


≪画像および関連情報≫
 ・人気絶頂のときモーツァルトが出演していたブルク劇場
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  1783年3月23日にモーツァルトがウィーンのブルク劇
  場で開いた演奏会を再現するというふれこみの演奏会に行っ
  てきました。シャンゼリゼ劇場で、ツァハリアス率いるロー
  ザンヌ室内オーケストラの出演です。この演奏会は、その6
  日後にモーツァルトがザルツブルクの父親へその大成功を知
  らせた手紙により、曲目が明らかになっています。今の感覚
  から見ると大分変わったプログラミングで、ハフナー交響曲
  がオープニングとシメに(多分)分割されて演奏され、その
  間にオペラのアリアやコンサートアリア、ピアノ協奏曲が2
  曲、ピアノのソロ(即興演奏を含む)が3曲、ポストホルン
  ・セレナードから2曲といった具合です。
http://falfal2.way-nifty.com/garter/2006/01/post_99ba.html
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1981号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:40| Comment(0) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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