2006年12月11日

コンスタンツェ良妻論の根拠(EJ1979号)

 コンスタンツェがモーツァルトの葬儀に出なかった理由は、突
然の病気ということになっています。もし本当にそうなら、コン
スタンツェは自宅に臥して医師を呼ぶなどしていたはずです。し
かし、そういう気配は一切ないのです。
 コンスタンツェはモーツァルトの死を確認すると、既に述べた
ように直ちにスヴィーテン男爵に使いを出すとともに、ダイナー
のところにも女中を走らせ、死装束の手伝いを頼んでいます。亡
くなったのが午前1時少し前であったことを考えると、あまりに
も素早い異様な対応であるといえます。
 それを済ますとコンスタンツェは家を出て、バウエルンフェル
ト宅に行き、しばらくしてゴルトハーン宅に移動しています。ま
るであらかじめ計画していたかのような素早い動きです。
 それなら、その移動先でコンスタンツェは臥せっていたのかと
いうと、そうではないのです。モーツァルトの死から一週間後の
12月11日にコンスタンツェは、レオポルト2世に謁見し、遺
族年金の支給を願い出ているのです。これだけみても、コンスタ
ンツェが病気であったとは思えないのです。
 さらにコンスタンツェは『レクイエム』の補作のことでアイブ
ラーと会い、話し合っていますし、遺産に関する当局からの召喚
調書の作成のときは家に戻っているのです。
 既出の藤澤修治氏の論文によると、この手続きのため、12月
9日、16日、19日、20日は在宅しているのです。つまり、
葬儀は放り出しても、お金にからむことには非常に精力的に動き
回っているのですが、それらの事実を正確に伝えている伝記作家
はほとんどいないのです。
 コンスタンツェが皇帝に提出した年金請願書は、弁護士が書い
たと見られる論旨の一貫したものであり、自分にとって年金がい
かに必要であるかという理由が4項目にまとめられています。そ
の4つ目の理由は次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第4に、故人は、その前途がいよいよ明るさを増し始めており
 ました矢先に神に召されましただけに、事情はまことに深刻で
 ございます。故人は、最近聖シュテファン大聖堂楽長の地位に
 復帰したほか、みまかる少し以前、ハンガリーの貴族何人かか
 ら1000グールデンの年金を保証されました。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
          音楽之友社刊(グールデン=フローリン)
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここでコンスタンツェは、夫の生活が「明るさを増し始め」た
ことを認めています。しかし、まさか自分が死ぬとは思ってもい
なかった夫が、音楽家未亡人孤児協会に家族を登録していなかっ
たので、これによる家族の生活を保障できない事態であり、年金
を認めて欲しいという趣旨なのです。
 モーツァルトは、宮廷での勤務の実績が年金を支給される条件
に該当していないのです。コンスタンツェにすれば、夫は今まで
にも十二分に宮廷の音楽の仕事に尽くしてきたのであるから、条
件は満たしていなくても、このさいは夫に免じて特別に認めて欲
しいといっているわけです。
 コンスタンツェのこの訴えは成功し、年間に266フローリン
の年金が下賜されることになったのです。さらに葬儀執行人のス
ヴィーテン男爵の計らいによる「未亡人救済音楽会」で、コンス
タンツェは1500フローリンを得ているのです。
 また、モーツァルトの死んだ翌年にプロイセンのウィルヘルム
2世が、オラトリオほか8曲の作曲料として800ダカット――
3600フローリンをコンスタンツェに送金してきています。こ
のように亡き夫の作品の販売と演奏で、コンスタンツェは生活に
困るどころか、ますますお金が入ってきたのです。
 コンスタンツェは、それらのお金でモーツァルトが残したとい
われる莫大な借金を返し、さらにそれらのお金を国債に投資した
り、人に利子を取って貸したり、家屋を増築して母のセシリアの
やっていたように下宿屋をやったりして資金を増やし、彼女が死
んだときには、実に27191フローリン(2億円以上)という
途方もないの財産を残しているのです。
 おそらくコンスタンツェはそういう面での才能があったと思わ
れるのですが、その元金はすべて夫の作品と演奏によるものだっ
たのです。しかし、モーツァルトの莫大な借金をすべて返済した
ことをもって、コンスタンツェのモーツァルトの葬儀の放り出し
や埋葬に当たっての冷たい仕打ちなどによる悪妻論を否定し、良
妻論を主張する向きも少なからずあるのです。
 しかし、コンスタンツェの死後のモーツァルトへの仕打ちは目
に余るものがあるのです。
 それは、モーツァルトの死後何回も繰り返されるモーツァルト
の記念碑を建てるべきであるという声に一切首を縦に振らなかっ
たことです。ある団体は善意の寄付金を集め、そのお金で、モー
ツァルトの記念碑を建てる提案をコンスタンツェにしたにもかか
わらず、彼女は断固これを拒否しています。それは、明らかにコ
ンスタンツェがモーツァルトを憎んでいたとしか思えない態度だ
ったといえるのです。このような経緯で、コンスタンツェの目の
黒いうちの50年間は、モーツァルトの記念碑が墓地に立てられ
ることはなかったのです。
 ちなみに、前夫モーツァルトに対しては冷酷とも思える仕打ち
をしたコンスタンツェは、第二の夫であるニッセンに対してはと
ては正反対に優しく、先に亡くなったニッセンのために自前で立
派な記念碑を建てているのです。それは、4組の石の花で囲まれ
たオベリスク状の手の込んだ記念碑だったといいます。
 コンスタンツェのこのアンバランスさの原因は何でしょうか。
モーツァルトに対する憎しみとは何でしょうか。そして、彼女は
モーツァルトを本当に毒殺したのでしょうか。いよいよその追求
に入っていきます。     ・・・・  [モーツァルト57]


≪画像および関連情報≫
 ・ハイドンがブフベルクに宛てた手紙
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーツァルトの死を聞いて私はしばらく呆然としておりまし
  た。神が、かくも早々とあの不可欠な人間を召されるとは思
  いもよらなかったことです。ただ残念なのは、彼が死ぬ前に
  この点においては闇の中を歩いているイギリス人たちに、彼
  の偉大さ――私が毎日のように彼らに説いて聞かせていた主
  題です――を納得させることができなかったことです。わが
  優しき友よ、当地でいまだ知られていない作品の目録をお送
  り頂ければ幸いです。私は未亡人救済のため、そうした作品
  を推進するためにはあらゆる努力を惜しまないつもりです。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

1979号.jpg
posted by 平野 浩 at 06:43| Comment(0) | TrackBack(0) | モーツァルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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