2006年12月01日

なぜ、スヴィーテン男爵が葬儀執行人なのか(EJ1973号)

 モーツァルトが亡くなったのは、1791年12月5日午前0
時55分ということではっきりしています。しかし、葬儀の日付
については死亡日ほどはっきりしていないのです。
 それなら、聖シュテファン教会の死者台帳にはどのように記述
されているのでしょうか。死者台帳には、1791年12月6日
と明記されています。
 普通であればこれで決まりなのです。死者台帳が日付を間違っ
て記載されるはずがないからです。しかし、葬儀当日の天候が合
わないことと、モーツァルトが毒殺されたとする説を否定しよう
とする勢力によって、12月7日説が最近になって出てきたので
す。どうして、6日だと普通の病死ではないとされるかについて
は、これから述べていくことにします。
 モーツァルトが亡くなったあと、疑わしいことがたくさん出て
きています。それは、モーツァルトの臨終のさいは看護を妹のゾ
フィーにまかせきりにし、目だった動きをしなかったコンスタン
ツェが、モーツァルトが死ぬと急にテキパキと動き出したことで
す。それは、まるでモーツァルトの死を待っていたかのようだっ
たといわれます。
 それは、モーツァルトが死んでほどなくして、知らせを聞いて
ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵が姿を現したことに
よって、わかったのです。モーツァルトの死後、コンスタンツェ
が召使の誰かに命じ、男爵に連絡を入れたからです。そして、彼
はコンスタンツェと葬儀の段取りを決め始めたのです。彼は最初
から葬儀を取り仕切るつもりでやってきたのです。
 EJ第1968号で述べたように、モーツァルトはコンスタン
ツェに、自分が死んだらアルブレヒツベルガーに一番最初に連絡
をとるようにいっています。アルブレヒツベルガーは宮廷付きの
オルガニストでモーツァルトの友人であり、モーツァルトから葬
儀などを依頼されていたのです。
 しかし、コンスタンツェはモーツァルトの言いつけを無視し、
スヴィーテン男爵に連絡をとったのです。おそらく事前にコンス
タンツから話がいっていたのでしょう。スヴィーテン男爵は深夜
にもかかわらず、モーツァルトの家に駆けつけたのです。
 それでは、スヴィーテン男爵とモーツァルトとの付き合いはど
の程度のものだったのでしょうか。
 スヴィーテン男爵との付き合いはフリーメーソンを通じてのも
のであり、いくつか作曲や編曲の仕事をもらっています。しかし
最後にヘンデル作品の編曲の仕事を最後に1年半以上疎遠になっ
ており、とくに親しい付き合いではなかったのです。
 コンスタンツェとしては、モーツァルトの死をいち早く伝える
べき人はたくさんいたはずです。親友のフォン・ジャカン、アロ
イジアの夫であるランゲ、何回も資金援助を受けた恩人のブフベ
ルク、それに『魔笛』を共に制作した仲間であるシカネーダーな
どです。しかし、コンスタンツェはなぜか、モーツァルトとあま
り接触のなかったスヴィーテン男爵を呼んでいるのです。遠くに
住んでいたとはいえ、モーツァルトの姉のナンネルにさえコンス
タンツェは最後までモーツァルトの死を伝えなかったのです。こ
れは妻として最低の行為と批判されても仕方がないのです。
 もうひとつ、モーツァルトが死んだときコンスタンツェは、モ
ーツァルトの友人の1人であるヨーゼフ・ダイナーのところへ女
中を走らせ、モーツァルトを死装束を着せ替えるよう頼んでいま
す。12月5日の午前5時のことです。
 なぜ、そんなに急ぐのでしょうか。夏であれば遺体の腐敗も考
慮して急ぐ必要がありますが、時期は厳冬の季節であってそんな
に急ぐ必要はまったくないのです。
 それは何らかの理由で、モーツァルトの遺体をあまり多くの人
には見せたくなかったのではないかと思われます。したがって、
少しでも早く遺体に死装束を着せ、モーツァルトの死を多くの人
が知る前に葬儀を済ます必要があったのでしょう。
 そのためには、あとで墓が掘り返される恐れのない最下等の葬
儀と共同墓地への埋葬一番都合が良かったのです。スヴィーテン
男爵は、深夜に駆けつけるや否やコンスタンツェに、第3等の葬
儀と共同墓地への埋葬を提案し、コンスタンツェは誰に相談する
ことなく、それに同意しています。
 葬儀費用は8フローリン56クロイツァー――これは貧民のた
めの無料の葬儀の一つ上のランクの葬儀なのです。おそらく事前
にコンスタンツェは男爵に、借金が多く葬儀にお金をかけられな
いことを話していたものと思われます。何やらモーツァルトが死
んだらこうするということを前々からよく計画を練っていたフシ
が濃厚なのです。
 既にご紹介しているモーツァルトの研究家藤澤修治氏のレポー
トによると、死の直前のモーツァルトは相当金銭的に潤っていた
としています。そのいくつかの根拠を示します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 『レクイエム』作曲料の前金 ・・・  225フローリン
 『皇帝テイトゥスの慈悲』の作曲料・ 1125フローリン
 『魔笛』の作曲料 ・・・・・・・・  900フローリン
 宮廷音楽家の報酬/5ヶ月分 ・・・ 2630フローリン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                   4880フローリン
―――――――――――――――――――――――――――――
 これだけで4880フローリン――この他楽譜出版収入、ピア
ノや作曲の教授料などを加えると、ゆうに5000フローリンを
超える収入(1フローリン=約1万円)があったのです。これで
最下等の葬儀しか出せないはずはないのです。
 コンスタンツェは、モーツァルトに親しい友人であれば、死の
直前のモーツァルトの懐具合を知っているので、あえて疎遠のス
ヴィーテン男爵に葬儀執行人を頼んだのではないかと推測できる
のです。しかし、最下等の葬儀を選んだのはお金のためではない
ある事情があったのです。   ・・・  [モーツァルト51]


≪画像および関連情報≫
 ・聖シュテファン大聖堂について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ハプスブルク家のルドルフ4世はこの教会をゴシック様式に
  全面的に建て替えることを命じ、1359年聖堂の中央部分
  と両側の廊下部分の礎石が据えられました。南塔は高さが、
  136.7メートルあり、1433年に完成。1469年に
  は、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ3世がローマ法王を説得
  して、それまでパッサウ司教区に属していたウィーンを、独
  立の司教区に格上げしました。皇帝はこの大聖堂に埋葬され
  ています。
      http://info.wien.at/article.asp?IDArticle=11795
  ―――――――――――――――――――――――――――

1973号.jpg
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2006年12月02日

EJバックナンバー『ウィーン・フィル(その6)』

2002年12月26日に配信したEJ1016号(全9回連載の内 第6回)を過去ログに掲載しました。
○ ボストン響でのオザワの2つの改革(EJ1016号)
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2006年12月03日

EJバックナンバー『ウィーン・フィル(その7)』

2002年12月27日に配信したEJ1017号(全9回連載の内 第7回)を過去ログに掲載しました。
○ 西欧音楽の異邦人/小澤征爾(EJ1017号)
posted by 平野 浩 at 18:24| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月04日

なぜ葬列をやめ引き返したのか(EJ1974号)

 モーツァルトの葬儀の費用は、第3等で8フローリン56クロ
イツァーであると述べましたが、これについてフランシス・カー
は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヴァン・スヴィーテンは聖シュテファン教会での葬儀の手筈を
 整え、埋葬は、主要な共同墓地ではなく、教会から2マイル半
 離れた郊外の聖マルクス墓地に決められた。粗末で目立たない
 墓穴が注文されたが、これに8グールデン56クロイツァーか
 かった。さらに3グールデンが葬儀馬車用にとっておかれた。
               注――グールデン=フローリン
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 このフランシス・カーの記述において気になる点が2つあるの
です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.埋葬場所が教会から2マイル半離れた郊外の聖マルクス
   墓地であること
 2.8フロ−リン56クロイツァーは、粗末で目立たない墓
   穴の費用である
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトはもっと近くに埋葬できたはずなのです。それな
のに教会から約4キロも離れた郊外のマルクス墓地に埋葬されて
いるのです。なぜ、そんなことをしたのでしょうか。
 それから、8フロ−リン56クロイツァーの葬儀は、粗末で目
立たないけれども墓穴を掘る費用を含んでいるのです。しかし、
映画『アマデウス』で見たようにモーツァルトの遺体は目印をつ
けられないままに放置された共同墓穴に落とされているのです。
これは貧者の葬儀であり、無料の葬儀の扱いなのです。
 葬儀執行人スヴィーテン男爵がモーツァルトの葬儀を第3等と
したのは、当時の葬祭法令によれば当然のことであると唱える学
者がなぜか少なくないのです。
 確かに当時の社会習慣や葬祭法では第1等の葬儀は「貴族」に
限られ、「庶民」は第2等か第3等しか選べなかったというのは
事実です。『モーツァルトの死』という著作のあるカール・ベー
アはその本の中で次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 葬祭法によれば(庶民であるモーツァルト)は、実際には第2
 等を選ぶか第3等を選ぶしかなかったのである。比較にならな
 いくらいはるかに高名であったベートーヴェンですら、36年
 も後で、第1等の葬儀ではなく、第2等が選ばれたものであっ
 た。モーツァルトの評価が高まったのは後世になってからであ
 り、彼は当時人気の落ちぶれた一介の音楽家に過ぎず、ベート
 ーヴェンが第2等だった事実からしても、庶民であるモーツァ
 ルトは第3等の葬儀だったとしても何の不思議もない。
      ――カール・ベーア著、『モーツァルトの死』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、これには異論があるのです。モーツァルトに詳しい藤
澤修治氏の論文によれば、グルックは一曲もドイツ・オペラを作
曲したことがないにもかかわらず、ウィーン宮廷は彼を国葬で送
り出し、庶民だったが第1等の葬儀を受けて個人墓に葬られてい
るのです。さらに、ヨーゼフ・ハイドンも庶民ではあったが、葬
儀は第1等であり、はやり個人墓に葬られています。
 それにモーツァルトは、カール・ベーアのいうように、「当時
人気の落ちぶれた一介の音楽家」などではないのです。死の2ヶ
月前に作曲され、10月だけで24回も連続上演された歌劇『魔
笛』ひとつ見ても、稀有の音楽家であるという評価は定着してい
たのです。
 それに最も重要なことは、モーツァルトは第3等の葬儀となっ
て金が支払われていたにもかかわらず、実際には第3等以下の扱
い――目印のない共同墓地に投げ捨てられているのです。これは
一体どうしたことなのでしょうか。
 映画『アマデウス』で目にしたモーツァルトのあまりにも寂し
い埋葬のされ方をもしモーツァルトの遺族や友人が見ていたら、
黙っていないはずです。ところが、巧妙に計算されたある策略に
よって、モーツァルトの埋葬には遺族や友人は誰も立ち会っては
いないのです。映画でもそうなっていたはずです。
 これに関しても当時のウィーンの慣習を持ち出して、正当性を
主張する学者が多いのです。つまり、会葬者は墓地まで葬列を組
んで行くことはなかったというのです。
 これは明らかにウソであると思われます。もし、そうなら、共
同墓地に葬られる場合、遺族は遺体がどこに埋葬されたかわから
なくなってしまうからです。したがって、最低限遺族は埋葬に立
ち会うことが許されていたと考えられるからです。
 モーツァルトの場合、霊柩馬車を用意して、葬儀執行人のスヴ
ィーテン男爵とコンスタンツェを除く数人の遺族と友人がマルク
ス墓地に向かっているのです。しかし、なぜか、霊柩馬車に付き
添って全員がマルクス墓地に向かう途中のシュトーベントゥール
というところで引き返しているのです。
 それでは、霊柩馬車はどうなったのか――霊柩馬車はモーツァ
ルトの遺体を乗せて付き添いなしにマルクス墓地に向かったので
す。なぜ、引き返したのか――それは当日の6日の天候のせいに
されているのです。
 葬儀当日の12月6日、天候は荒れており、風雨が強く気温は
大きく下がっていたのです。馬車にはコンスタンツェの母のセシ
リアが付き添っていたのですが、途中寒さに耐えかねて自分だけ
帰えらせてくれとスヴィーテン男爵に申し出て降りたのです。し
かし、老婆一人だけを風雨のなか帰すわけに行かず、結局全員が
引き返したのです。      ・・・  [モーツァルト52]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトの埋葬について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーツァルトの埋葬に多額の金をかける労を取った人間はだ
  れひとりいなかった。雨が激しかったため、遺体に付き添っ
  ていた少数の友人たちも急いで家に帰って行った。柩は貧民
  用の墓穴にあわただしく下ろされ、土をかけられた。数週間
  後に、柩は他の貧者の柩に混ざって、なにひとつ痕跡をとど
  めなくなった。その結果、死体は全く発見されなかった。
            ――サッチヴェレル・シットウェル著
                  『モーツァルト伝』より
  ―――――――――――――――――――――――――――

1974号.jpg
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2006年12月05日

喪主が参加しない異常な葬儀(EJ1975号)

 モーツァルトの遺体を収めた霊柩馬車に付き添っていたのは誰
でしょうか。
 正確にはわからない。しかし、確実にいた者といなかった者は
わかるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     ≪付き添っていた者≫
      ・ヴァン・スヴィーテン男爵葬儀執行人
      ・セシリア(コンスタンツェの母)
     ≪付き添っていなかった者≫
      ・コンスタンツェ
―――――――――――――――――――――――――――――
 確証はありませんが、この他に付き添っていたと思われるのは
最後までモーツァルトの面倒をみたゾフィー・ハイベルです。こ
れは理解できます。ちなみに、霊柩馬車は人が乗れるものではな
く、馬車には棺だけを乗せてその周りを葬列参加者が付き添って
ゆっくりと墓地に行くのです。
 そして、もうひとり――モーツァルトの埋葬について調べてみ
ると、必ず出てくるヨーゼフ・ダイナーなる人物――この人物が
付き添っていたと思われるのです。このヨーゼフ・ダイナー――
EJ第1973号では「モーツァルトの友人の1人」と紹介した
のですが、正確にいうと、ダイナーはモーツァルトがよく通って
いたビア・ホール「金蛇亭」の給仕であり、モーツァルト家と親
しくなって、店に関係なくモーツァルトの使い走りをしていたと
いわれます。
 だからこそ、モーツァルトが死ぬとすぐコンスタンツェは女中
をダイナーのところに行かせ、モーツァルトに死装束を着せるの
を手伝ってくれるよう依頼したのです。
 ところで、このヨーゼフ・ダイナーがなぜ霊柩馬車に付き添っ
ていたかですが、後になって、彼はモーツァルトの埋葬に関して
手記を出しているからです。これが「ダイナー手記」といわれ、
モーツァルトの埋葬の不可解さを世に知らしめたのです。
 「ダイナー手記」では、モーツァルトの葬儀の模様は次のよう
に記述されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・・・モーツァルトの亡くなった夜は、陰鬱な嵐もようであっ
 たが、彼の最後の祝福の時にも空が荒れだした。雨と雪が一緒
 に降り、それはまるで、偉大な作曲家の葬式にかくもわずかし
 か参列しない同時代人たちに対して、天が恨みを表わそうとし
 ているかのようであった。ごくわずかな友人と3人の女性が遺
 体に付き添った。モーツァルト夫人は参列していなかった。こ
 のわずかな友人たちは傘をさして棺の周りに立ち、それから棺
 はシュラー大通りを抜けて、聖マルクス墓地へと運ばれていっ
 た。嵐はますますひどくなったので、そのわずかな友人たちも
 シュトーベントゥールのところで引き返すことに決めた。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで、肝心の妻であるコンスタンツェはなぜ付き添ってい
ないのでしょうか。
 コンスタンツェは、ヴァン・スヴィーテン男爵がモーツァルト
家に到着して間もなく家から姿を消しているのです。この喪主の
いない葬儀の執行について、葬儀執行人のスヴィーテン男爵は何
もいっていないのをみると、コンスタンツェの失踪はあらかじめ
打ち合わせがあった通りということになります。
 後になってコンスタンツェは、夫の死に気が動転し、当時原因
不明の病気にかかっていて葬儀に参列できなかったといっている
のですが、それは明らかにウソであるといえます。
 それは、コンスタンツェがモーツァルトの死後少なくとも17
年間はマルクス墓地に墓参りにすら行っていないことによっても
明らかです。仮に百歩譲って病気で葬儀に参列できなかったこと
を認めるとしても、病気が治れば墓参りぐらいは行くのが自然で
あると思うのに行っていないからです。明らかにコンスタンツェ
は、行けなかったのではなく、行かなかったのでしょう。
 それなら、17年経過してなぜ急に墓参りをしたのかというと
これも自発的ではなかったのです。既出の藤澤修治氏の論文によ
ると、ザクセン公使館参事官であったゲオルク・グリージンガー
がコンスタンツェの家を訪ねてモーツァルトのことを話したとき
コンスタンツェがモーツァルトの墓参りに行っていないことを話
したというのです。1808年のことです。
 そのときグリージンガーは、モーツァルトの遺体がどこに埋葬
されているのかが分からなくなっているとことを報じたドイツの
新聞を見せてマルクス墓地に行って墓探しをするべきであるとコ
ンスタンツェを説得したのです。
 コンスタンツェは断わりきれなくなって、はじめてマルクス墓
地に行ったのです。そのときコンスタンツェに同行したのは、グ
リージンガーの他に、コンスタンツェの再婚相手のニッセン、息
子のフランツだったのです。結果はもちろんモーツァルトの埋葬
場所を特定できるはずはなかったのですが、モーツァルトの死後
はじめて、コンスタンツェはマルクス墓地に行ったのです。
 モーツァルトの死後、モーツァルトの音楽家としての評価が上
がるにつれて、音楽学者、音楽評論家などは次の2つのことの打
ち消しに必死になって取り組むようになります。さすがに大音楽
家のモーツァルトを大事にしない国としてウィーンの市民が批判
されることを恐れたものと思われます。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.モーツァルトは何者かに毒殺されている
   2.モーツァルトの埋葬は当時の慣習である
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、どのようにいい繕っても、葬儀に喪主が参列しない異
常さは打ち消せなかったのです。・・・  [モーツァルト53]


≪画像および関連情報≫
 ・あえて不審の死を隠そうとする理由
  ―――――――――――――――――――――――――――
  もしモーツァルトが毒殺されたとすれば、彼と親しかった友
  人たちは、ある人間が彼を殺したがっていた理由を知ってい
  た可能性が充分ある。もしその理由にモーツァルトの私生活
  に関連した秘密にからんでいたとすれば、彼らはこのことに
  ついての問い合わせを避けたいと思うだろうし、彼の死を、
  世間の関心から極力遠ざけようとするだろう。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ・写真/http://www.tdl.to/jurin/Mozart/Constanze.html

1975号.jpg
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2006年12月06日

モーツァルトの葬儀の日は穏やかな日(EJ1976号)

 夫の死の直後から葬儀を放り出して姿を消し、以後17年間に
わたって、墓参りをしない妻のコンスタンツェ――どのように考
えても人の道に欠ける行いといえます。どうしてコンスタンツェ
はこういう行動をとったのでしょうか。
 推理小説めいた話になりますが、仮にコンスタンツェが夫を毒
殺したとすると、コンスタンツェのとった行動は理解できるので
す。だからこそ、200年以上も経ってモーツァルトの毒殺説が
消えないのです。
 一般論として、妻が夫を毒殺したとしたとき、その当事者であ
る妻はどういう行動をとるでしょうか。理想論としては次の3つ
であると思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.遺体はできる限り人目に触れさせず、素早く埋葬する
 2.遺体は後で掘り返されないよう共同墓地に埋葬させる
 3.首謀者であり喪主である妻はなるべく表面には出ない
―――――――――――――――――――――――――――――
 以上の3つは、コンスタンツェの取った行動そのものであり、
当時のウィーンの葬祭の慣習や宮廷の勅令にも合っていることな
のです。しかし、夫の死後、喪主の役割を放り投げて姿を消して
しまうことは、人の道に反することであり、当時でも許されるこ
とでないことはいうまでもないことです。
 推測ですが、葬儀執行人のスヴィーテン男爵は事前にコンスタ
ンツェから相談を受け、モーツァルトが金銭的に窮していたこと
を聞かされていたものと思われます。
 そこで、スヴィーテン男爵は最低限の葬儀を素早く行うことに
し、このことをモーツァルトの親戚や友人から非難されることの
ないよう、喪主は気が動転して起き上がれない状態になったとし
て姿を隠すことを承知していたものと考えられます。
 ニッセンによると、コンスタンツェは「1人で絶望の淵にたた
ずむことがないように未亡人はシカネーダーの仲間のバウエルン
フェルトのもとに預けられ、後にゴルトハーンの家に移った」よ
うです。これはスヴィーテン男爵の差配です。
 それに当時のウィーンの葬祭に関する慣習と宮廷の勅令がから
んでくるのです。
 モーツァルトの葬儀や埋葬が当時の慣習から考えて、それほど
おかしなものではない証拠として、既出のアントン・ノイマイー
は次のように記述しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 遺体の祝福は巨門(リーゼントーア)の左手の十字架礼拝堂で
 行われたものと思われる。その後遺体はカピストラン説教壇の
 横にある「死者のための礼拝堂」として用いられていた十字架
 像礼拝堂に、夜まで「安置」された。というのは遺体の移送は
 夜になってから行うことに決められていたのである。したがっ
 て、家族にとっては、聖堂敷地内での祝福をもって、本来の埋
 葬は済んだことになる。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 アントン・ノイマイヤーのこの記述でわかることは、当時遺族
は墓地での遺体の埋葬までは立ち会わないことが慣例であるよう
に思えることです。実際に勅令では「・・遺体は集落の外に選ば
れた墓地に運ばれて、飾りなしに埋葬される」とあるのです。
 しかし、それなら、すべての人は共同墓地に埋葬されるのかと
いうと、そうではないのです。身分の高い人や国に貢献した人に
ついては個人墓は認められているのです。
 それに、埋葬のさい、遺体に遺族は付き添わないと葬祭法で決
めているのに、モーツァルトの場合は墓地まで行かなかったにせ
よ、どうして葬列が組まれたのでしょうか。
 当時ウィーンの法律については、次のようにいわれているよう
に朝令暮改の典型だったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ウィーンの法律は、午前11時から昼までしか続かない
―――――――――――――――――――――――――――――
 ましてモーツァルトの葬儀執行人は、貴族であるスヴィーテン
男爵なのです。そういう身分の高い人が葬儀の手続きのさい、葬
列を組みたいと申し出ればそれは簡単に許されたはずです。
 このようにして、喪主はいなかったけれど禁止されている葬列
をあえて組み、ウィーンの厳冬のひどい風雨の中でそれを行おう
としたが、途中のシュトーベントゥールで、引き返さざるを得な
かったというかたちを作りたかったのではないでしょうか。
 ウィーンの冬は寒いのです。しかも風雨の強い日に葬列を組ん
で、馬車について4キロも歩けるでしょうか。葬列者の中には、
コンスタンツェの母のセシリアのように高齢者もいたのです。
 これなら、シュトーベントゥールで引き返したくなる気持は理
解できます。いくら遅く進むよう配慮しても相手は馬車です。そ
の速さについて行けなかったとしても当然です。
 しかし、これには条件があります。葬儀の日が天候が悪い――
風雨が強く嵐のような日であることです。実際にモーツァルトの
葬儀と埋葬の行われた1791年12月6日はそういう日であっ
たと誰でも思っています。映画『アマデウス』でもそういう設定
になっていたはずです。
 しかし、・・です。ウィーン気象台の記録によると、1791
年12月6日は、「霧の出やすい日であったが、晩秋の穏やかな
日」とあるのです。つまり、風雨の激しい日などではなかったの
です。そうなると、基本条件がガラガラと音を立てて崩れてしま
うのです。
 実は12月7日は、南西の強風が吹き、午後遅くに雨が降り出
しており、一般にいわれているモーツァルトの埋葬の日の天候と
一致するのです。そのため、今頃になって葬儀・埋葬の日は7日
の誤りという説が出ていたのです。・・  [モーツァルト54]


≪画像および関連情報≫
 ・個人墓や家族墓は稀に作られたのか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  最後に問題になるには、モーツァルトの墓が聖マルクス墓地
  のどこにあるのか、ということである。この問題は長い間熱
  心に討議され、その間に若干の確実性をもった答えが出され
  ている。ここでもまた、モーツァルトの時代には、死者の墓
  所をしかるべき記念碑で目立たせるということは、決して家
  族の自由裁量に任されていなかったのだ、ということをあら
  かじめ踏まえておく必要があろう。
  ―アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
  ―――――――――――――――――――――――――――

1976号.jpg
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2006年12月07日

モーツァルト伝記作家たちの言い訳(EJ1977号)

 モーツァルトはどのように埋葬されたか――この問題について
モーツァルトの伝記作家たちは、モーツァルトが妻のコンスタン
ツェをはじめとする家族や友人たちから冷たい最後の見送りを受
けて聖マルクス墓地に送られ、名もない貧民と同等の扱いで共同
墓地に葬られたことについて、数々の言い訳がましい理由を並び
立て、その正当性を主張しています。
 なぜ、そのような言い訳をするのでしょうか。どのような葬儀
をするかはモーツァルト家の問題であり、伝記作家たちは、事実
をそのまま伝えればよいのです。少なくとも言い訳をする必要な
どないはずです。
 モーツァルトの伝記作家たちが言い訳の根拠として使っている
のは、次の2つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.葬儀当日の6日が風雨の強い荒天候であったこと
  2.当時ウィーンの葬祭慣例と葬祭に関する取り決め
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1の葬儀当日6日の荒天候については、当時のウィーン気象
台の記録により、昨日述べたように荒天候ではなく、穏やかな日
であったことが証明されています。
 これを受けて、葬儀の日は12月6日ではなく7日ではないか
とする説が浮上しています。なぜなら、7日の天候こそ荒天候で
あったからです。しかし、聖シュテファン教会の死者台帳に6日
と明記されている以上、何ら説得性を持たない説といえます。
 言い訳の第2の根拠とされているウィーンの葬祭法――死者の
葬祭に関して宮廷から勅令のかたちで公布された細かな取り決め
――これについては、もう少し詳しく述べる必要があります。
 葬祭に関する細かな取り決めをしたのは、ヨーゼフ2世のとき
なのです。ヨーゼフ2世はいわゆる啓蒙主義精神に基づく改革派
の君主であり、その改革は埋葬の儀式にまで及んだため、多くの
住民の反発を買ったのです。
 啓蒙思想というのは、自然科学的な方法を重視し、従来は神学
的に解釈されていた事柄についても合理的な説明を行おうとした
のです。したがって、死者の埋葬に関しても宗教的な観点よりも
きわめて現実的な衛生管理的な取り決めが公布されたのです。
 例えば、1784年に出された埋葬規定の根拠付けのくだりに
は次のようにあります。このとき、ヨーゼフ2世は教会の埋葬を
違法としたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 埋葬の目的は、なによりも、腐敗をできる限りすみやかに進め
 ることにある。そこでそれを妨げぬように、埋葬のさいには衣
 服を剥いだ裸の遺体を麻袋に入れて縫い合わせ、棺に納めてそ
 のまま墓地へ運んでいくこと。・・・運ばれた遺体は、時を移
 さず、棺から取り出し、縫い合わされた麻袋に入れたまま墓穴
 の中に置き、生石灰を投入した上、土で穴を封じること。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 映画『アマデウス』では、モーツァルトはこれとまったく同じ
埋葬をされています。映画では特殊な柩が使われていたのですが
これについてフランシス・カーは次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この種の埋葬を行うとき、司祭は底に特別な仕掛けが施されて
 いる柩を使った。柩が墓穴に下ろされると底は綱を少々引っ張
 ることで開き、遺体が穴に落ちると柩は再び引き上げられた。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、棺の片方の壁は開くようになっているので、棺を墓
穴のところに担いで行って傾けると、棺の中に入っている遺体が
穴に落ちるのです。
 しかし、宗教的なことにかかわる問題であるため、この埋葬規
定についての反論は大きく、暴動が発生して流血の惨事まで引き
起こしたため、同規定は1785年1月31日に事実上撤回され
ているのです。
 これによって、モーツァルトの埋葬のされ方が、当時の葬祭法
によってやむを得なかったとする伝記作家たちの言い訳は、その
根拠とされる葬祭法がモーツァルトの死の6年も前に廃止されて
いることによって根拠を失うのです。
 それでは、モーツァルトはどうしてあのような埋葬のされ方を
したのでしょうか。
 それは、モーツァルトの死に関して何らかの陰謀があったとい
うしかないのです。モーツァルトの伝記作家のひとりであるカー
ル・ベーアは、これに関して次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (モーツァルトの)死と埋葬について別な考え方をもつ後世の
 人間にとって、モーツァルトが若くして死んだことは不幸とい
 うほかはない。もしモーツァルトがもう10年生きていたら、
 彼は国葬を与えられ、彼以前のグルックや、彼のあとのハイド
 ンと同じく独立した墓を確保できるほどの名声を得ていたこと
 だろう。しかしモーツァルトは、あの種の墓崇拝とは相反する
 時代に世を去っただけでなく、彼の偉大さが充分世間に認めら
 れなかった。            ――カール・ベーア著
           『モーツァルト、病気、死、埋葬』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このカール・ベーアの考え方は、その当時モーツァルトは名声
を勝ち得ていなかったことを前提としていますが、これは非常に
おかしいことであるといえます。モーツァルトの名声はグルック
やハイドンなどよりはるか上を行くものであったことは明らかで
あるからです。       ・・・・  [モーツァルト55]


≪画像および関連情報≫
 ・啓蒙絶対君主制とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  啓蒙絶対君主とは、主に18世紀後半、プロセイン、オース
  トリア、ロシアにおいて、啓蒙思想を掲げて「上からの近代
  化」を図った君主をさす。この概念を北欧・西欧の君主にあ
  てはめる場合もある。西欧の絶対君主と類推して啓蒙絶対君
  主と訳出されたこともあったが、近年はあまり用いられてい
  ない。代表的人物としては、18世紀後半のプロセインにお
  けるフリードリッヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世(そ
  の母である女性マリア・テレジアを含む)ロシアのエカチェ
  リーナ2世などがその典型とされる。また一般的には知られ
  ていないが、スウェーデンのグスタフ3世も啓蒙君主として
  説明されることがある。       ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

1977号.jpg
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2006年12月08日

コンスタンツェはモーツァルトを憎んでいたのか(EJ1978号)

 9月19日からスタートした「モーツァルトをめぐる謎の解明
に挑戦する」のテーマは本日で56回になります。しかし、まだ
まだ書くべきことがたくさんあります。
 本来であればどんなに長いテーマでもこのあたりでしめくくる
のですが、ちょうど年末に当たっており、次のテーマは新年から
はじめたいと考えているので、このまま年内はモーツァルトを続
けることにします。
 モーツァルトの伝記作家たちは、モーツァルトが悲惨な埋葬を
されている事実について、どういうわけか、さまざまなウソを並
べてそれを正当化しようとしています。
 モーツァルトの死の6年も前に廃止されたウィーンの葬祭法を
持ち出してきたり、実際は悪天候でない葬儀当日の天候を悪天候
ということにして、それを葬列が墓地まで行かず引き返した理由
にしたり、葬儀を放り出して姿を消したコンスタンツェをなぜか
過剰にかばったり・・・とにかく事実を隠蔽しようとする必死の
努力をしているのです。
 もうひとつ見逃せないのは、著名なモーツァルト伝記作家の一
人であるカール・ベーアは、その著作『モーツァルト、病気、死
埋葬』において、当時モーツァルトの人気は終焉しており、それ
が葬儀においてグルックやハイドンのような特別な計らいを受け
られなかった理由にしていることです。
 これは誠に支離滅裂な理由であるといえます。モーツァルトの
天才ぶりは、彼が死去した1791年の『魔笛』をはじめとする
作品だけでも十分過ぎるほどなのです。だからこそ当時ウィーン
の音楽界を仕切っていたあのサリエリでさえ、モーツァルトの才
能を認め、その影におびえたのです。
 しかし、当時の貴族から見た場合、音楽家としてのモーツァル
トの影響力はかなり薄くなっていたことは確かなのです。それは
それまでモーツァルトの重要な収入の柱であった予約演奏会が激
減したことにあります。
 予約演奏会とは、ある曲を作曲・演奏することをあらかじめ告
知し、参加者(ほとんどは貴族)を募る演奏会の形式であり、当
時のモーツァルトにとっては音楽家としての自分を売り込む絶好
のチャンスであり、同時に有力な収入源のひとつだったのです。
 それでは、なぜ、予約演奏会が減ったのでしょうか。
 それはモーツァルトの人気が凋落したわけではなく、戦争が起
こったからなのです。その戦争とは、1787年〜92年にかけ
て起こったロシア・トルコ戦争なのです。
 このとき、オーストリアはロシアの同盟国であり、ヨーゼフ2
世はロシアを助けるため対トルコ戦争をはじめたのです。この戦
争によって物価は高騰し、戦費調達のため増税が行われたので、
ウィーンの市民は苦しい生活を強いられることになったのです。
 モーツァルトの重要な顧客であった貴族は続々と出征し、また
は領地に帰ってしまったため、予約演奏会を開こうとしても誰も
参加しない状況がモーツァルトの死まで続くのです。カール・ベ
ーアがいうモーツァルトの人気の終焉とは、このときの状況を指
していっていることなのです。
 この時期にモーツァルトが作曲した曲を上げると、当時の世相
を反映していることがわかります。
―――――――――――――――――――――――――――――
         コルトダンス『戦闘』/KV535
  ドイツ語軍歌『我は皇帝たらんもの』/KV539
―――――――――――――――――――――――――――――
 話は変わるが、コンスタンツェの妹のゾフィーは、モーツァル
トが死去した1791年12月5日に、ヨーゼフ・ミューラーが
美術館から駆けつけてきて、モーツァルトのデスマスクを作成し
たことをニッセンに宛てた手紙に書いています。
 ヨーゼフ・ミューラーの実名は、ヨーゼフ・ダイム伯爵で、蝋
人形のコレクションを持っていたといわれます。ヨーゼフ・ダイ
ム伯爵はデスマスクをコンスタンツェに贈ったのですが、後日コ
ンスタンツェは間違ってかわざとか、このデスマスクを床に落と
して壊してしまったとき次のようにいったといいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
  昔の醜いものがこわれてよかった。――コンスタンツェ
―――――――――――――――――――――――――――――
 コンスタンツェはモーツァルトのどういうところに怒っている
のでしょうか。まるで夫を憎んでいるようです。モーツァルトの
葬儀をどのようにするか、コンスタンツェはどのようにもできた
のです。葬儀費用にも事欠いていたというのは偽りであり、コン
スタンツェとしては、何が何でもモーツァルトの遺体を人目に触
れさせたくなかったとしかいえないのです。既出のフランシス・
カーは次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もし、コンスタンツェが、モーツァルトの最後の処遇に少しで
 も反対したとすれば、あの恥ずべき埋葬を差し止めることがで
 きたであろう。自分の不愉快な思いをあとで記録に残しておく
 こともできたはずである。しかし、コンスタンツェは、夫の最
 後の安息の場としての共同墓穴について非難することはまった
 くしなかった。モーツァルトが死んで1日2日して、ヨーゼフ
 ・ダイナーはコンスタンツェに会い、共同墓穴の上に、十字架
 かなんらかの目印を立てるようしきりと頼んだが、彼女は「教
 会にやらせなさい!」といって拒否したという。司祭も同じよ
 うに拒否したため、結局十字架も目印も立たなかった。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 夫の遺体を徹底的に隠すという意思がコンスタンツェに働いた
としたら、それは何らかの陰謀があったと考えざるを得なくなり
ます。           ・・・・  [モーツァルト56]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルト当時の演奏会
  劇場の使えない日には、旅館、カジノ、ダンスホールといっ
  た場所の多目的な空間が演奏会に用いられた。モーツァルト
  もしばしば登場した代表的な場所としては、ダンス・ホール
  を備えたレストラン兼旅館のメールグルーベや、モーツァル
  ト自身一時期そこに住んでいた出版業者トラットナーの邸宅
  の中にあるカジノなどがあり、夏期にはアウガルテンのよう
  な庭園でも野外演奏会が行われた。メールグルーベやトラッ
  トナー邸の収容人員は劇場に較べるとはるかに少なくほぼ百
  数十名といった所であったが、こうした所で演奏会を開こう
  とする場合には、まず名簿を回覧して予約者を募り、ある程
  度の人数が見込めたところで開催する、いわゆる予約演奏会
  の形を取るのが普通であった。モーツァルトが1784年3
  月にトラットナー邸で行った演奏会の予約者名簿には、当時
  のウィーンを代表する貴族や富裕市民たちの錚々たる名前が
  174名も連ねられている。
    http://homepage3.nifty.com/jy/essays/mz_concert.htm

1978号.jpg
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2006年12月09日

EJバックナンバー『ウィーン・フィル(その8)』

2003年1月6日に配信したEJ1018号(全9回連載の内 第8回)を過去ログに掲載しました。
○ ニコラウス・アーノンクールとは何者か(EJ1018号)
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2006年12月10日

EJバックナンバー『ウィーン・フィル(その9)』

2003年1月7日に配信したEJ1019号(全9回連載の内 第9回)を過去ログに掲載しました。
○ 21世紀を代表する3つの『第九』(EJ1019号)
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月11日

コンスタンツェ良妻論の根拠(EJ1979号)

 コンスタンツェがモーツァルトの葬儀に出なかった理由は、突
然の病気ということになっています。もし本当にそうなら、コン
スタンツェは自宅に臥して医師を呼ぶなどしていたはずです。し
かし、そういう気配は一切ないのです。
 コンスタンツェはモーツァルトの死を確認すると、既に述べた
ように直ちにスヴィーテン男爵に使いを出すとともに、ダイナー
のところにも女中を走らせ、死装束の手伝いを頼んでいます。亡
くなったのが午前1時少し前であったことを考えると、あまりに
も素早い異様な対応であるといえます。
 それを済ますとコンスタンツェは家を出て、バウエルンフェル
ト宅に行き、しばらくしてゴルトハーン宅に移動しています。ま
るであらかじめ計画していたかのような素早い動きです。
 それなら、その移動先でコンスタンツェは臥せっていたのかと
いうと、そうではないのです。モーツァルトの死から一週間後の
12月11日にコンスタンツェは、レオポルト2世に謁見し、遺
族年金の支給を願い出ているのです。これだけみても、コンスタ
ンツェが病気であったとは思えないのです。
 さらにコンスタンツェは『レクイエム』の補作のことでアイブ
ラーと会い、話し合っていますし、遺産に関する当局からの召喚
調書の作成のときは家に戻っているのです。
 既出の藤澤修治氏の論文によると、この手続きのため、12月
9日、16日、19日、20日は在宅しているのです。つまり、
葬儀は放り出しても、お金にからむことには非常に精力的に動き
回っているのですが、それらの事実を正確に伝えている伝記作家
はほとんどいないのです。
 コンスタンツェが皇帝に提出した年金請願書は、弁護士が書い
たと見られる論旨の一貫したものであり、自分にとって年金がい
かに必要であるかという理由が4項目にまとめられています。そ
の4つ目の理由は次のようになっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 第4に、故人は、その前途がいよいよ明るさを増し始めており
 ました矢先に神に召されましただけに、事情はまことに深刻で
 ございます。故人は、最近聖シュテファン大聖堂楽長の地位に
 復帰したほか、みまかる少し以前、ハンガリーの貴族何人かか
 ら1000グールデンの年金を保証されました。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
          音楽之友社刊(グールデン=フローリン)
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここでコンスタンツェは、夫の生活が「明るさを増し始め」た
ことを認めています。しかし、まさか自分が死ぬとは思ってもい
なかった夫が、音楽家未亡人孤児協会に家族を登録していなかっ
たので、これによる家族の生活を保障できない事態であり、年金
を認めて欲しいという趣旨なのです。
 モーツァルトは、宮廷での勤務の実績が年金を支給される条件
に該当していないのです。コンスタンツェにすれば、夫は今まで
にも十二分に宮廷の音楽の仕事に尽くしてきたのであるから、条
件は満たしていなくても、このさいは夫に免じて特別に認めて欲
しいといっているわけです。
 コンスタンツェのこの訴えは成功し、年間に266フローリン
の年金が下賜されることになったのです。さらに葬儀執行人のス
ヴィーテン男爵の計らいによる「未亡人救済音楽会」で、コンス
タンツェは1500フローリンを得ているのです。
 また、モーツァルトの死んだ翌年にプロイセンのウィルヘルム
2世が、オラトリオほか8曲の作曲料として800ダカット――
3600フローリンをコンスタンツェに送金してきています。こ
のように亡き夫の作品の販売と演奏で、コンスタンツェは生活に
困るどころか、ますますお金が入ってきたのです。
 コンスタンツェは、それらのお金でモーツァルトが残したとい
われる莫大な借金を返し、さらにそれらのお金を国債に投資した
り、人に利子を取って貸したり、家屋を増築して母のセシリアの
やっていたように下宿屋をやったりして資金を増やし、彼女が死
んだときには、実に27191フローリン(2億円以上)という
途方もないの財産を残しているのです。
 おそらくコンスタンツェはそういう面での才能があったと思わ
れるのですが、その元金はすべて夫の作品と演奏によるものだっ
たのです。しかし、モーツァルトの莫大な借金をすべて返済した
ことをもって、コンスタンツェのモーツァルトの葬儀の放り出し
や埋葬に当たっての冷たい仕打ちなどによる悪妻論を否定し、良
妻論を主張する向きも少なからずあるのです。
 しかし、コンスタンツェの死後のモーツァルトへの仕打ちは目
に余るものがあるのです。
 それは、モーツァルトの死後何回も繰り返されるモーツァルト
の記念碑を建てるべきであるという声に一切首を縦に振らなかっ
たことです。ある団体は善意の寄付金を集め、そのお金で、モー
ツァルトの記念碑を建てる提案をコンスタンツェにしたにもかか
わらず、彼女は断固これを拒否しています。それは、明らかにコ
ンスタンツェがモーツァルトを憎んでいたとしか思えない態度だ
ったといえるのです。このような経緯で、コンスタンツェの目の
黒いうちの50年間は、モーツァルトの記念碑が墓地に立てられ
ることはなかったのです。
 ちなみに、前夫モーツァルトに対しては冷酷とも思える仕打ち
をしたコンスタンツェは、第二の夫であるニッセンに対してはと
ては正反対に優しく、先に亡くなったニッセンのために自前で立
派な記念碑を建てているのです。それは、4組の石の花で囲まれ
たオベリスク状の手の込んだ記念碑だったといいます。
 コンスタンツェのこのアンバランスさの原因は何でしょうか。
モーツァルトに対する憎しみとは何でしょうか。そして、彼女は
モーツァルトを本当に毒殺したのでしょうか。いよいよその追求
に入っていきます。     ・・・・  [モーツァルト57]


≪画像および関連情報≫
 ・ハイドンがブフベルクに宛てた手紙
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーツァルトの死を聞いて私はしばらく呆然としておりまし
  た。神が、かくも早々とあの不可欠な人間を召されるとは思
  いもよらなかったことです。ただ残念なのは、彼が死ぬ前に
  この点においては闇の中を歩いているイギリス人たちに、彼
  の偉大さ――私が毎日のように彼らに説いて聞かせていた主
  題です――を納得させることができなかったことです。わが
  優しき友よ、当地でいまだ知られていない作品の目録をお送
  り頂ければ幸いです。私は未亡人救済のため、そうした作品
  を推進するためにはあらゆる努力を惜しまないつもりです。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2006年12月12日

コンスタンツェとセシリアの共謀説(EJ1980号)

 モーツァルトの妻のコンスタンツェに関しては、悪妻論や良妻
論をめぐってさまざまな議論があります。コンスタンツェについ
てのいくつかの評価を上げておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・良くないしつけによって身につけた欠点を持ち、普通の女性
  には備わっている繊細な感情が不足している
 ・コンスタンツェの文章を見ると、優しさはどこにも見当たら
  ず、精神、気品、ユーモアのセンスに欠ける
 ・所作は上品で、気立てが良く、好感が持て、モーツァルトが
  全面的な信頼を寄せるに足りる愛すべき女性
 ・事務的能力はあるが、家事は嫌いで、九柱戯やダンスが好き
  で、夜遊びにふけるのが好きなところがある
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように評価が大きく分かれていますが、どちらかというと
コンスタンツェは家庭向きの女性ではなかったようです。文中に
ある「九柱戯」というのは、宗教的儀式に由来するボーリングの
元祖のようなゲームです。要するに、コンスタンツェは賭け事の
好きな遊び好きの女性というイメージが浮び上がります。
 実際にコンスタンツェは、旅先のモーツァルトから少しでもお
金の入るような手紙が届くと、その前祝いだと称して、男友達た
ちと行きつけのお店でパーティを開くような女性だったのです。
 コンスタンツェの母親のセシリアについては、このテーマの前
半部分でしばしば取り上げていますが、次女のアロイジアに失恋
したモーツァルトを一計を案じてコンスタンツェと結婚させると
いう作戦参謀的な能力に優れた女性であったようです。
 30代で未亡人となったコンスタンツェが頼りにしたのは、や
はり母親のセシリアだったのです。コンスタンツェは、モーツァ
ルトの死後、かつて母親がやったようにアパートの一部屋を間貸
しできるよう改造して、下宿屋をはじめています。
 そしてモーツァルトがそうであったように、その部屋を貸した
デンマーク公使館書記官ゲオルク・ニコラウス・ニッセンと結婚
しているのです。ニッセンは37歳の独身者で、コンスタンツェ
よりも2つ年上だったのです。
 このニッセン――大変なモーツァルト崇拝者であり、それもコ
ンスタンツェとの結婚を決意した理由のひとつだったと考えられ
ますが、コンスタンツェのアパートには500篇以上のモーツァ
ルトの作品の自筆譜が未刊のまま保存されているのを見て仰天し
たといわれています。
 モーツァルトの作品で、生存中に発刊されたのは70作品ほど
でしかなく、コンスタンツェはその残りの430篇ほどの作品の
価値があまりわかっていなかったように考えられます。ニッセン
はこれは大変なビジネスになると判断したのでしょう。
 さて、モーツァルトはなぜ若死にしたのでししょうか。
 もし、アクア・トファナのような遅効性の毒薬を使って毒殺さ
れたとすれば、それを実行できるのは、コンスタンツェかジュス
マイヤーしかいないのです。ちなみに、家庭でのコンスタンツェ
は家事のほとんどを女中まかせにしており、食事の支度などはし
ていなかったようですが、毒薬を使う機会はいくらでもあったと
考えられます。
 既出の藤澤修治氏によると、モーツァルトを毒殺したとみられ
るのは、コンスタンツェと母親のセシリアであるとしています。
その概要については、以下に述べますが、これについての詳細は
藤澤氏の次の論文を参照していただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
   藤澤修治著/モーツァルト論を再考する−5
   『モーツァルトの死』
   http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part5.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 その殺害の動機は何でしょうか。
 それはモーツァルトの借金であると考えられるのです。コンス
タンツェの母のセシリアは、夫のフリードマン・ウェーバーが写
譜の仕事をしていたこともあり、娘たちの音楽教育にも力を入れ
ていたので、多少音楽のことはわかっていたのです。
 夫のフリードマンはモーツァルトの才能に惚れ込んでおり、つ
ねづねモーツァルトはやがて高名な音楽家になるといっていたの
で、セシリアは策略を用いてモーツァルトと自分の娘のコンスタ
ンツェを結婚させたのです。
 ところが、そのモーツァルトはなぜか莫大な借金をこしらえる
ようになり、そのうちの一人の債権者であるリヒノフスキー侯爵
は、モーツァルトが亡くなる1791年の春にモーツァルトに対
して借金返還の訴訟を起こしてきていたのです。
 リヒノフスキー侯爵といえば、既にEJ第1939号でご紹介
しています。彼は、1789年春にモーツァルトに対し、プロセ
インの国王フリードリッヒ・ウィルヘルム2世の訪問に自分と同
行するよう要請してきた貴族です。
 その結果モーツァルトは、そのための借金をして、リヒノフス
キー侯爵と一緒に2ヶ月もの間、意味のない旅をさせられること
になったのですが、その真の狙いはまだわかっていません。
 EJ第1939号では、サリエリを中心とする宮廷のイタリア
系音楽家の一派の陰謀によって、モーツァルトにできるだけ金を
使わせ、モーツァルトとコンスタンツェの間を引き離して、作曲
意欲を削ぐのが狙いと書きましたが、モーツァルトは、そのリヒ
ノフスキーからも莫大な借金をしていたのです。
 リヒノフスキーから訴訟を起こされたことで心配になったコン
スタンツェは母と相談したと考えられます。なぜなら、モーツァ
ルトはリヒノフスキーだけでなく、友人のプフベルクやラッケン
バッヒャーという金融業者からも大金を借りており、このままで
は危ないと考えたからです。
 これら3者からの借金の総額はその時点で4000〜5000
フローリンと考えられるのです。・・・  [モーツァルト58]


≪画像および関連情報≫
 ・ゲオルク・ニッセンについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ニッセンと言えば「モーツァルト伝」(1828)を著した人物
  として、そしてモーツァルトのお陰で名を残した人の1人と
  いえるでしょう。モーツァルトがいたから名を残すことがで
  きた人は多いのですが、この人はモーツァルトを利用して名
  を残した人?ともいえるかも知れません。さて、この人物と
  はどのような人だったのでしょうか。多くのモーツァルト周
  辺の有名な人のために話題にあまり上ることがなく、さほど
  知られている人物とはいえないかもしれませんが、彼こそ今
  モーツァルトを知る上で最も基礎となる「書」著した人なの
  です。モーツァルトとは5歳年下になりますが、モーツァル
  トの死後18年経って、妻であったコンスタンツェと結婚し
  ています。この結婚生活は彼が65歳で亡くなるまで17年
  間におよんでいます。
 http://www003.upp.so-net.ne.jp/salieri-mozalt/nissen.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

1980号.jpg
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2006年12月13日

モーツァルトに見切りをつけたコンスタンツェ(EJ1981号)

 仮に5000フローリンの借金があっても、モーツァルトほど
の音楽家であれば十分返せると考えのが普通です。しかし、コン
スタンツェとセシリアは、モーツァルトはもうだめだと思ったの
です。1791年の春にリヒノフスキーからモーツァルトに対し
て、貸金返還訴訟が起こされた時点においてです。
 どうしてそのように判断したのかというと、次の3つの理由が
あるからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.1785年以降モーツァルトの定期演奏会や予約演奏会
   が激減していており、人気が凋落している
 2.「コシ・ファン・トゥッテ」以降、もはや大きなオペラ
   の制作依頼はもうこないと考えられること
 3.晩年の3年間に使途の明確でない巨額の借金が急増し、
   勝ち目のない訴訟まで起こされていること
―――――――――――――――――――――――――――――
 人気スターというのは、公の場への露出度が高いものです。そ
ういう意味で、1785年以降にモーツァルトが音楽家としての
公の場である定期演奏会や予約演奏会――とくにブルク劇場には
お呼びでなくなったのは人気の凋落であると考えたのです。
 しかし、当時モーツァルトにとってはいわゆる抵抗勢力の存在
があり、少しでも隙があれば足を引っ張られる状態にあったので
す。当時の音楽会の聴衆のほとんどは貴族であり、とくに予約演
奏会はそうだったのです。したがって、抵抗勢力の力が強くなれ
ばなるほどモーツァルトの演奏会は減ったのです。
 考えてみれば、『フィガロの結婚』にしても『ドン・ジョバン
ニ』にしても、内容は当時の貴族を痛烈に風刺する内容であり、
抵抗勢力を刺激するのに十分だったのです。
 それにもうひとつ忘れてはならないのは、1787年からはじ
まったロシア・トルコ戦争にオーストリアが参戦したことです。
この戦争によって、モーツァルトの味方である抵抗勢力でない貴
族までも出征し、音楽会どころではなくなってしまったのです。
モーツァルトの伝記作家の多くは、なぜかこのロシア・トルコ戦
争の影響には触れていないのです。
 しかし、そこまでは読めないコンスタンツェとセシリアは「モ
ーツァルトに先はない」と見切りをつけたのです。さらにモーツ
ァルトにとって不幸なことは、一貫してモーツァルトを支え続け
てくれた皇帝ヨーゼフ2世が亡くなったことです。1790年2
月20日のことです。これによって、抵抗勢力は一層力を得るこ
とになるのです。
 1787年の父レオポルトの死、1787年からのロシア・ト
ルコ戦争、そして皇帝ヨーゼフ2世の死――これによって、モー
ツァルトの仕事の面に大きな影響が生じたことは確かです。とく
に1789年以降、モーツァルトの生活は視界不良の乱気流に飛
び込んでしまうのです。
 このモーツァルトの死の3年前から、巨額な借金が累積されて
います。これらの借金は生活資金と考えるには額が大きく何に使
われていたのかはっきりしていないのです。その借金の使途をコ
ンスタンツェがどこまで知っていたのかは不明ですが、それらを
探る証拠になる手紙などが一切ないのです。
 このような状況をみてコンスタンツェとセシリアは、1790
年の『コシ・ファン・トゥッテ』を最後に、もはや大きなオペラ
の制作依頼はないだろうと考えたのは無理からぬことであると思
います。当時の作曲家においてオペラの依頼がないということは
それは事実上の失脚を意味していたのです。
 しかし、コンスタンツェとセシリアの分析は、結果として大き
く外れることになります。いうまでもなく、1791年後半には
『皇帝ティトゥスの慈悲』と『魔笛』の2つのオペラが作曲され
大当たりを取ったからです。
 実は1790年にモーツァルトは、英国行きをしきりと勧めら
れていたのです。そのきっかけになったのは、とくにモーツァル
トと仲の良かったヨーゼフ・ハイドンが英国で音楽活動をするこ
とになったからです。
 1790年9月に、ハイドンを召しかかえていたエステルハー
ジー侯が亡くなり、ハイドンは楽長の仕事から外れたのです。そ
のとき、ドイツ生まれで、ヴァイオリン奏者であったロンドンの
興行師ヨハン・ペーター・ザロモンがハイドンのもとを訪れ、き
わめて有利な条件で英国での音楽活動を勧めたのです。
 この申し出にハイドンは乗り、英国での音楽活動を決意し、暮
れが押し詰まった1790年12月14日、ハイドンの送別の宴
が開かれたのです。
 送別の宴に出席したモーツァルトはハイドンと別れを惜しみま
すが、そのときモーツァルトは次のようにいったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 おなたはわたしより20歳以上も高齢でいらっしゃる。十分に
 言葉も喋れないのにイギリスに行かれるのは・・、また、ウィ
 ーンに戻ってきて下さい。ウィーンで再会できるのを楽しみに
 していますよ。             ――モーツァルト
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 そのときモーツァルトは、なぜかもうハイドンとは会えないと
思ったといいます。もちろんモーツァルトとしては、ハイドンの
方が高齢であり、まさか自分が死ぬとは思っていなかったと思う
のです。この予感は20歳以上も若いモーツァルトが死ぬことに
よって不幸にして実現してしまったのです。
 実は、モーツァルトにもロンドンにあるイタリア座の支配人、
ロバート・メイ・オレイリから、ハイドンよりも有利な条件で英
国への誘いが来ていたのですが、モーツァルトは乗らなかったの
です。これを知ったコンスタンツェとセシリアはモーツァルトに
絶望してしまうのです。    ・・・  [モーツァルト59]


≪画像および関連情報≫
 ・人気絶頂のときモーツァルトが出演していたブルク劇場
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1783年3月23日にモーツァルトがウィーンのブルク劇
  場で開いた演奏会を再現するというふれこみの演奏会に行っ
  てきました。シャンゼリゼ劇場で、ツァハリアス率いるロー
  ザンヌ室内オーケストラの出演です。この演奏会は、その6
  日後にモーツァルトがザルツブルクの父親へその大成功を知
  らせた手紙により、曲目が明らかになっています。今の感覚
  から見ると大分変わったプログラミングで、ハフナー交響曲
  がオープニングとシメに(多分)分割されて演奏され、その
  間にオペラのアリアやコンサートアリア、ピアノ協奏曲が2
  曲、ピアノのソロ(即興演奏を含む)が3曲、ポストホルン
  ・セレナードから2曲といった具合です。
http://falfal2.way-nifty.com/garter/2006/01/post_99ba.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2006年12月14日

マクダレーナという弟子の存在(EJ1982号)

 イタリア歌劇団のロバート・メイ・オレイリからモーツァルへ
の英国招聘の中身は次のようなものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.1790年12月末〜1791年 6月末まで滞在
  2.オペラ、ジング・シュピールなど2曲を作曲し演奏
  3.その他営利のための作曲や演奏会の開催は可とする
―――――――――――――――――――――――――――――
 約6ヶ月間、英国に滞在して、オペラかジング・シュピールを
少なくても2曲を作曲するということだけなのです。それをクリ
アされることを条件として、演奏会を開くなどの仕事をやっても
かまわないというのです。
 その報酬として、300スターリング・ポンド――3000フ
ローリンを提供するというのです。2つの大曲オペラを6ヶ月で
完成させることは、モーツァルトにとっては何でもないことであ
り、同額以上の借金をしてしていたモーツァルトにとって願って
もない話のはずです。
 しかし、モーツァルトはその話を受けなかったのです。これに
対し、コンスタンツェやセシリアはモーツァルトに対して憎しみ
を募らせたのです。このままでは危ない。借金はさらに大きく増
えてしまい、返せなくなる――そう考えたのです。
 しかし、モーツァルトがオレイリからの申し出を断ったのには
理由があるのです。1791の春、ロレンツォ・ダ・ポンテは、
その回想録に次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトと話し合い、ロンドンまで私に同行するよう説得
 した。ところがほんの少し前に、彼は皇帝ヨーゼフから非凡な
 オペラを認められて終身年金を受領していた。そのころ、モー
 ツァルトはドイツ・オペラ「魔笛」を作曲していて、決心する
 のに6ヶ月の猶予が欲しいと頼んだ。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
          音楽之友社刊(グールデン=フローリン)
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトは、2回にわたって英国に招聘されているのです
が、いずれも断っています。それぞれ理由があるのですが、言葉
の問題を含めていまひとつ乗り気ではなかったといえます。これ
に対して、コンスタンツェとセシリアは不信感を持ったのです。
 これ以外にコンスタンツェはモーツァルトに対してかなりの不
信感――もう少し具体的にいうと、憎しみすらいだいていたフシ
があるのです。それは何が原因だったのでしょうか。
 モーツァルトは、コンスタンツェが脚の治療のためにバーデン
に行くことにきわめて寛容であったのです。1789年8月から
1791年の秋まで、コンスタンツェはしばしばバーデンに行っ
ているのですが、一回出かけると何週間もバーデンに滞在するこ
とが多く、モーツァルトもそれを許しており、それにかなりのお
金を注ぎ込んでいます。つまり、その間モーツァルトは独り暮ら
しをしていたのです。息子のカールは、寄宿学校に入っており、
モーツァルトは文字通り独りだったのです。
 しかし、バーデンはウィーンから25キロしか離れておらず、
モーツァルトがその気になれば、いつでもバーデンに行くことが
できたにもかかわらず、モーツァルトは弟子のジュスマイヤーに
コンスタンツェの世話をまかせ切りにし、バーデンにはほとんど
行っていないのです。
 そのバーデン治療でコンスタンツェは、現地でパーティを開き
遊んでおり、モーツァルトもそのことを知っていたのです。映画
『アマデウス』にもそういうシーンがちょっと出てきていまが、
気がつかれたでしょうか。
 当時、モーツァルトには2人の弟子を持っていたのです。1人
はジュスマイヤーですが、もう1人は女性の次の弟子です。
―――――――――――――――――――――――――――――
       マグダレーナ・ホーフデーメル
―――――――――――――――――――――――――――――
 このうち、ジュスマイヤーについては何回も書いていますが、
マグダレーナ・ホーフデーメルについてははじめて書くことにな
ります。仮にコンスタンツェがモーツァルト殺しに関ったとすれ
ば、マグダレーナの問題は無関係ではないからです。
 マグダレーナは、聖シュテファン教会から歩いて数分のところ
にあるグリュナンガー通りに夫のフランツと住んでいたのです。
マグダレーナはモーツァルトにピアノを習っており、モーツァル
トの数少ない弟子の一人だったのです。
 モーツァルトの葬儀があったとされる1791年12月6日の
夜――そのマクダレーナに関係する殺人未遂・自殺事件が起こっ
たのです。夫のフランツがマクダレーナに刃物で切りつけて重傷
を負わせ、自らは自殺したのです。しかし、マクダレーナは奇跡
的に助かったのですが、そのとき彼女は妊娠5ヶ月の身重だった
のです。
 この殺人未遂・自殺事件はモーツァルトの死と結びつけられて
今日まで語り継がれています。モーツァルトがマクダレーナと不
倫しており、マクダレーナがそのとき身ごもっていた子供はモー
ツァルトの子供ではないかというのです。
 おそらくマクダレーナはモーツァルトの葬儀に参列して戻って
きて夫のフランツと口論になり、夫が怒りのあまりマクダレーナ
に切りつけたものと考えられるのです。伝記作家たちは、モーツ
ァルトとマクダレーナの情事については、深追いはしないものの
その事実を否定していないのです。
 モーツァルトがコンスタンツェのバーデンでの療養にジュスマ
イヤーを同行させ、療養期間が長期にわたっても文句をいわない
ウラにはマクダレーナとの情事があったとも考えられます。はっ
きりしていることは、モーツァルトのマクダレーナとの情事をコ
ンスタンツェが知っていたことです。・・ [モーツァルト60]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトとマクダレーナとの関係
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーツァルトとマクダレーナへの愛のこの悲劇的結末につい
  てウィーンに広がりつつあった噂を、確証もしくは否定でき
  ると思われる2人の人間が存在した。それはほかならぬコン
  スタンツェとマクダレーナ自身である。この噂が嘘だとすれ
  ば、両人とも進んで否定するはずだから、このような状況で
  は、沈黙は事実上確認とみなしていい。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
          音楽之友社刊(グールデン=フローリン)
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2006年12月15日

モーツァルト最後のピアノ協奏曲(EJ1983号)

 コンスタンツェがモーツァルトとマクダレーナの関係を知って
いたように、モーツァルトもコンスタンツェとジュスマイヤーの
関係を知っていたのです。このことは既に述べています。
 そして、モーツァルトは、コンスタンツェがむしろバーデンに
長逗留してもいいと思っていたフシがあるのです。それは、モー
ツァルトの最後の年である1791年7月2日に、バーデンにい
るコンスタンツェに宛てた次の手紙でも読み取れます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ウィーン、1791年7月2日
 ぼくの親愛この上ない妻よ!(フランス語)
  きみがきわめて達者でいるとぼくは信じている。きみが妊娠
 中にめったに動じなかったことをぼくはいま思い出した・・・
 これはまじめな話だが、ぼくはきみが湯治を秋まで延ばしたら
 と思っている。あのばか者のジュスマイヤーに(『魔笛』の)
 第1幕の楽譜を、管弦楽用に編曲するからこっちに送るように
 言っておくれ。からだには注意して欲しい。きみが丈夫でぼく
 に優しくしてくれる限り、ほかのことがすべてまずく行っても
 ぼくはちっとも気にしないから。
             いつまでもきみのモーツァルトより
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 といっても、モーツァルトはコンスタンツェを愛していたので
す。しかし、自分がコンスタンツェを愛するせめて半分ぐらいで
もいいから、妻が自分を愛してくれたらという不満を持っていた
ことは確かなことなのです。
 この手紙を書いた24日後の1791年7月26日にモーツァ
ルトの6番目の子供であるフランツ・クサーヴァー・ウォルフガ
ング・モーツァルトが生まれているのです。この子がコンスタン
ツェとジュスマイヤーの子ではないかとモーツァルトが疑って、
ジュスマイヤーの「フランツ・クサーヴァー」の2字を冠した名
前を付けたのですが、ちょうどその頃、マグダレーナも2番目の
子供を身ごもっているのです。
 この子はモーツァルトの死後の1792年5月10日に生まれ
ています。男の子だったのですが、マクダレーナは次のように命
名しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
      ヨハン・アレクサンダー・フランツ
―――――――――――――――――――――――――――――
 この名前をめぐって既出のフランシス・カーは、ファースト・
ネームの「ヨハン」は、モーツァルトのクリスチャン・ネームの
「ヨハネス」から取られたものではないかと指摘しています。
 モーツァルト最後の年になる1791年――この年に入ると、
モーツァルトの創作欲に火が点り、内容の充実した作品が次々と
生まれています。その中で注目すべきは次の作品です。
―――――――――――――――――――――――――――――
    モーツァルト作曲
    『ピアノ協奏曲第27番/KV595』
           1791年1月5日作曲
―――――――――――――――――――――――――――――
 このピアノ協奏曲は実に美しい作品であり、まさしく天上の音
楽そのものです。モーツァルト自身が意識していたかどうかはわ
かりませんが、これはモーツァルトの白鳥の歌そのものです。
 なぜ、白鳥の歌というのかですが、それはシューベルトの最後
の歌曲集「白鳥の歌」からきています。イソップの童話で「白鳥
は死ぬ前にもっとも美しい声で歌を歌う」と伝えられている伝説
に基づいて、シューベルトの遺作となった14曲の歌をこのタイ
トルで出版したことに由来するのです。それはあまりにも美し過
ぎるといっても過言ではないでしょう。そして、このピアノ協奏
曲はモーツァルトの最後のピアノ協奏曲になっています。
 辛口の音楽評論家として知られるC・M・ガードルストンは、
このピアノ協奏曲について次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この曲はなんとなく親しみ深いところがあり、ほとんど室内楽
 に近い。その本来の環境は、仲間のひとりの家に集まった音楽
 家、音楽愛好家、それに、モーツァルトを加えたサークルであ
 る。これがどのような機会のために書かれたかはわからない。
 モーツァルトはこれを自ら使う目的をもって作曲したというの
 が一般の見方だが、その証拠はない。カデンツァの存在と、そ
 の内面的な性格には、われわれに、これは弟子のためにもので
 はないかと思わせるものがある。
               ――C・M・ガードルストン著
            『モーツァルトのピアノ協奏曲』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ガードルストンがここでいっている「弟子のために書かれたも
の」といっている弟子とは、マクダレーナ・ホーフデーメルのこ
とではないかと思われるのです。
 確かにこの作品は小編成のオーケストラで、音楽全体が控え目
であって、正式な公開演奏を目的としたものというよりも内輪の
サークルで演奏されるのに適しています。
 実際にこの曲は、1791年3月4日に、友人のクラリネット
奏者ヨーゼフ・ベーア主催の予約演奏会で、モーツァルトはゲス
トとして招かれ、彼自身のピアノ演奏によって初演されているの
です。そして、この音楽会がモーツァルトの公的な演奏家として
の最後のものになったのです。
 その時点でモーツァルトはあらゆる音楽会から締め出されてお
り、友人のベーアの好意によってそういう機会が与えられたこと
になるのです。それからほどなくして、モーツァルトはリヒノフ
スキー訴えられるのです。・・・・・・  [モーツァルト61]


≪画像および関連情報≫
 ・ピアノ協奏曲第27番/KV595の推薦盤
  ―――――――――――――――――――――――――――
    モーツァルト作曲
    『ピアノ協奏曲第23/27番』
    ピアノ/指揮/ウラジミール・アシュケナージ
    フィルハーモニア管弦楽団
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ・ある批評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  さすがアシュケナージである。ある意味協奏曲23番と27
  番の定番と言えるのではないか?1980年のデジタル録音
  初期の音源ではあるが、デジタル臭が希薄で音質も良い。ピ
  アノの音は繊細で細やか、紛れもないスタインウェイの音が
  する。「あー、どっかで聴いたことがあるー」という協奏曲
  の代表曲。廉価格でお買い得だ。
       http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000091LBT
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2006年12月16日

EJバックナンバー『映画「マトリックス」(その1)』

2003年12月15日に配信したEJ1252号(全9回連載の内 第1回)を過去ログに掲載しました。
○ 隠されたメッセージのある映画(EJ1252号)
posted by 平野 浩 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月17日

EJバックナンバー『映画「マトリックス」(その2)』

2003年12月16日に配信したEJ1253号(全9回連載の内 第2回)を過去ログに掲載しました。
○ 三位一体の3人の登場人物(EJ1253号)
posted by 平野 浩 at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月18日

モーツァルトは高額所得者である(EJ1984号)

 モーツァルトの最後の年である1791年当時、モーツァルト
はどのくらい借金をしていたのでしょうか。
 モーツァルトの借金の明細はそれを証明する資料がほとんどな
いので推測するしかないのですが、総額で4000フローリン程
度はあったと考えられます。大口債権者は次の3人で、おおよそ
の内訳は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  リヒノフスキー ・・・・・・・ 1435フローリン
  プフベルク ・・・・・・・・・ 1415フローリン
  ラッケンバッヒャー ・・・・・ 1000フローリン
  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
                  3850フローリン
―――――――――――――――――――――――――――――
 大口債権者3人のうち、リヒノフスキーとプフベルクはフリー
メーソンの仲間ですが、ラッケンバッヒャーは富豪商人――おそ
らく今でいう金融業者であると思われます。コンスタンツェは、
その契約内容が相当厳しいものであることを知っており、そのこ
とを母親のセシリアに話していたと思うのです。もし、返済しな
いうちにモーツァルトに万一のことがあったら、一家は路頭に迷
わなければならない――きっとそう考えたのでしょう。
 1フローリン=1万円であるとすると、モーツァルトの借金は
4000万円ということになります。確かに大金ではありますが
問題はこれがモーツァルトにとって返済可能かどうかです。その
ためには、彼の当時の収入を探ってみる必要があります。
 その前に当時のウィーン市民の生活水準というものを大雑把に
頭に入れておく必要があると思います。中級官吏の報酬はどのく
らいであったかというと、年俸で400〜500フローリン程度
――当時官吏は結構もらっていた方であり、中級レベルの世帯と
いってよいと思います。
 大学教授でも年に300フローリン、小教区の司祭職で600
フローリンというところです。ちなみにモーツァルトの父のレオ
ポルト――ザルツブルグ宮廷の副楽長のときは年俸450フロー
リンだったのです。
 同じ音楽家でもウィーンの宮廷楽長となると桁が少し違うので
す。その地位にあったサリエリの年俸は、何と2050フローリ
ンだったのです。しかし、サリエリは特別であり、同じウィーン
宮廷音楽家でも次席オルガニストのアルブレヒツベルガーの年俸
は300フローリンでしかなかったのです。
 これに対し、死亡率の高い18世紀においては、医師の年俸は
高く、ウィーン総合病院の院長クラスでは年俸3000フローリ
ンとサリエリのはるか上を行くのです。
 それでは、モーツァルトは、どのくらいの収入を得ていたので
しょうか。
 既出の藤澤修治氏の論文によると、1788年から1791年
までのモーツァルトの推定年収は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1788年 ・・・・・ 2060フローリン
   1789年 ・・・・・ 2158フローリン
   1790年 ・・・・・ 3225フローリン
   1791年 ・・・・・ 5672フローリン
        藤澤修治氏論文/「モーツァルトの借金」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 これで見ると、モーツァルトはかなりの高収入を得ていたこと
になります。これだけの収入があれば、4000フローリン程度
の借金は返せたはずですが、コンスタンツェとセシリアは何を心
配していたのでしょうか。
 それは、おそらく次の3つの理由があると考えられるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.コンスタンツェはモーツァルトの収入の全貌を正確には把
   握していなかったこと
 2.コンスタンツェはモーツァルトの借金の使途についても把
   握していなかったこと
 3.モーツァルトは既に人気がなくなっており、仕事が大幅に
   減ると考えていたこと
―――――――――――――――――――――――――――――
 コンスタンツェがモーツァルトの収入についてどこまで知って
いたかは不明です。推定ですが、コンスタンツェが考えていたよ
りもモーツァルトは高収入を得ていたのです。しかし、その全貌
についてコンスタンツェは知らなかったと思うのです。
 これに対して、モーツァルトが相当高額の借金をしていたこと
はよく知っていたのですが、その使途――とくに巨額のものにつ
いては果たして知っていたのかどうかはわかっていないのです。
とくにリヒノフスキーやプフベルクからの借金は巨額であり、そ
れが何に使われていたか――それをコンスタンツェはぜんぜん知
らなかったと思われます。
 収入の全貌が掴めず、明らかに人気は凋落し、仕事は減ってい
る――一方、借金はかなり高額であり、しかも増えている。返せ
る可能性は低い――こういう状況です。このままでは危ないとコ
ンスタンツェとセシリアが考えても不思議はないと思います。
 しかし、コンスタンツェはともかくとして、セシリアは、モー
ツァルトがたぐい稀な音楽の天才であることをよく知っていたの
です。彼の書きためている未発表の自筆譜は必ず高く売れる――
セシリアはそう見抜いていたのです。
 それにしても、モーツァルトは何のために借金をし、何をやろ
うとしていたのでしょうか。
 モーツァルトほどの収入があれば、借金などをしなくてもかな
り豊かな生活が送れたはずなのです。それなのに、モーツァルト
は巨額の借金をしているのです。しかし、それを解明する手がが
りは何も残されていない。明日はこの謎に迫っていきたいと考え
ます。         ・・・・・・  [モーツァルト62]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトとリヒノフスキーの謎の旅
  ―――――――――――――――――――――――――――
  このリフノフスキーはモーツァルトに音楽を教わり、またフ
  リーメイスン仲間でもあり、2人は連れだって、4月始めに
  ヴィーンを旅出ったのである。この旅行中大量の手紙がコン
  スタンツェの元に送り続けられることは言うまでもないが、
  演奏会やオルガン競演などを交えつつ、ライプツィヒでは、
  かつてセバスチャン・バッハが活躍した聖トーマス教会でオ
  ルガン即興演奏を行なえば、バッハに師事した当地の楽長ヨ
  ーハン・フリードリヒ・ドーレスが感動してしまった事件も
  あった。
 http://reservata.s61.xrea.com/academia/mhistory/classic/hwm14-7.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

1984号.jpg
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2006年12月19日

フリーメーソンになった理由は何か(EJ1985号)

 モーツァルトが巨額の借金をしていたことと、彼がフリーメー
ソンの会員であったこととは無関係ではないのです。彼は熱心な
フリーメーソンであったのですが、現在残されている夥しい数の
モーツァルトの手紙には、フリーメーソンについて直接記述した
ものは一切ないのです。
 それは、18世紀の末に、ウィーンにおいてフリーメーソンで
あることが何を意味していたかということと関係があります。フ
リーメーソン運動の発展は、当時の国情によってそれぞれ異なる
のですが、一般論としては、旧来の土地貴族に対立する商人、手
工業者、専門的職業人――この中には当然音楽家も含まれる――
すなわち、新興ブルジョワの思想を代表していたといえます。
 だからこそ、1789年のフランス革命後において、フリーメ
ーソンがフランス革命の真犯人と噂され、中部ヨーロッパの多く
の国ではフリーメーソンの結社が禁止されたのです。モーツァル
トはまさにこういう時代に生きていたのです。
 オーストリアにフリーメーソン主義を導入したのは、フランシ
ス1世――マリア・テレジアの夫――なのです。彼はフランス生
まれの熱心なフリーメーソンであって、1731年にウィーンに
に最初の支部を設立しています。
 国王がフリーメーソンであるところから、貴族や軍人、それに
一部の聖職者までフリーメーソンになる者もいたのです。しかし
頑固なまでのカトリック教徒であるマリア・テレジアは夫のフラ
ンシス1世が死ぬと、直ちにフリーメーソンの結社を禁止し、フ
リーメーソンの迫害を始めたのです。
 しかし、その息子のヨーゼフ2世は、そのフリーメーソン禁止
令を廃止し、積極的にさまざまな改革を断行したのです。モーツ
ァルトが少なからずこの皇帝に助けられたことについてはもはや
多言を要する必要はないと思います。
 モーツァルトがなぜフリーメーソンに入会したのかについては
彼が王侯・貴族たち――すなわち当時の権力体制から冷たい仕打
ちを受けたからなのです。具体的にいうと、モーツァルトが若い
頃から父のレオポルトと一緒に、または母を伴って一人で、何回
となく繰り返し働きかけた宮廷への就職活動がことごとく失敗に
終ったことです。これによって、彼は権力体制が決して自分の味
方にならないことを思い知ったのです。
 しかし、マンハイム、パリ旅行において、モーツァルトを励ま
し支援を与えたのはフリーメーソンたちだったのです。マンハイ
ムでは、作曲家のカンナビヒ、フルーティストのヴェンドリング
オーボエ奏者のラム、それにマンハイム国民劇場監督のダールベ
ルク男爵、劇作家のゲミンゲン男爵などは、モーツァルトに物心
両面の支援を与えたのです。また、パリにおいては、カンナビヒ
とゲミンゲン男爵の紹介状により、ジッキンゲン伯爵と会うこと
ができています。彼らはいずれもフリーメーソンなのです。
 モーツァルトは、このマンハイム・パリ旅行の2年後にウィー
ンに移り住むことになったのですが、そのときモーツァルトを取
り囲んでいたのは、ほとんどはフリーメーソンの音楽家や貴族た
ちだったのです。
 そういう支援者のおかげで、モーツァルトはウィーンにおいて
ヴィルヘルム・トゥーン伯爵夫人のサロンに出入りできるように
なります。ここでモーツァルトは、後に彼自身の葬儀執行人を務
めることになるヴァン・スヴィーテン男爵に出会ったのです。フ
リーメーソンには、薔薇十字団系と啓明結社系の2つがあるので
すが、スヴィーテン男爵は啓明結社系の大物会員だったのです。
 スヴィーテン男爵は毎週日曜日に自宅でコンサートを開いてお
り、モーツァルトは毎週そのコンサートに参加し、そこで男爵の
保有する膨大なバッハやヘンデルの楽譜に出会うのです。これは
その後のモーツァルトの音楽にさまざまな影響を与えたのです。
 このようにモーツァルトはフリーメーソンから強い影響を受け
1784年12月14日に「恩恵」ロッジに入会することになり
ます。このロッジは啓明結社系であり、マンハイム旅行で知り合
った劇作家のゲミンゲン男爵が創立したロッジなのです。
 しかし、教会当局は、フリーメーソン、とくに啓明結社系の運
動に警戒心を募らせるようになるのです。というのは、薔薇十字
団よりは政治的色彩の強い啓明結社の動きに対して国として放置
はできなかったのです。その中心になったのはパヴァリア(バイ
エルン)なのです。
 パヴァリアでは、カール・テオドール選帝侯が啓明結社が領内
で会合を持つことを禁じたのです。1784年のことです。モー
ツァルトがフリーメーソンに入会した年にそういう禁止の勅令を
出したのです。
 こういう動きに呼応して、どちらかというとフリーメーソンに
理解のあったヨーゼフ2世統治下のオーストリアでもフリーメー
ソン支部に対する監督を強化するようになったのです。そして、
ウィーンではヨーロッパではじめて、秘密警察が創設されたので
す。秘密警察の趣旨は次のようなものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 民衆の間に芽生えた不満、あらゆる危険思想、とりわけ謀反の
 種を発見して、つぼみのうちにすぐさまそれらを摘みとること
 を目的とする。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
―――――――――――――――――――――――――――――
 皮肉なことに、モーツァルトがフリーメーソンになった年であ
る1784年頃により、フリーメーソンに対する規制がはじまり
フランス革命のはじまる1789年にかけて、一層強化されてい
くのです。モーツァルトのフリーメーソン活動に関する手紙など
が一切ないのは当然なのです。なぜなら、この頃からフリーメー
ソンは地下運動に移行するからです。また、モーツァルトの死後
コンスタンツェは、フリーメーソンに関わる手紙などをすべて処
分したともいわれています。・・・・・  [モーツァルト63]


≪画像および関連情報≫
 ・アルフレート・アインシュタインについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  EJの記述の中にときどき登場するアインシュタインは、高
  名な物理学者のアルベルト・アインシュタインではない。ア
  インシュタインの従弟で、アメリカに帰化したドイツの音楽
  学者、音楽史家であり、とりわけモーツァルトに詳しいモー
  ツァルト学者である。著書、『モーツァルト、その人間と作
  品』などがよく知られている。従兄のアルベルトともども、
  モーツァルト音楽の愛好者で、アルベルト(あるいはアルフ
  レート本人?)が「死とは、モーツァルトを聴けなくなるこ
  とだ」という名言を残している。   1880〜1952
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2006年12月20日

『洞窟』という名の幻の支部づくり(EJ1986号)

 高名なモーツァルト研究学者だったアルフレート・アインシュ
タインはモーツァルトの作品について次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 自分がフリーメーソンの会員の一人であるという自覚が彼の全
 作品に浸透している。『魔笛』だけでなく、その他の多くの作
 品がフリーメーソン的なものである。この結社に未加盟の人間
 にとっては、これからの作品のメーソン的特徴がいっこうに明
 らかでないとしても、やはりそうである。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
―――――――――――――――――――――――――――――
 アインシュタインのいう「フリーメーソン的特徴」とは、何で
しょうか。これについては、上記のキャサリン・トムソンの本を
ゆっくり読むことをお勧めしたいと思います。モーツァルトの音
楽の中の「フリーメーソン的特徴」を楽譜入りでわかりやすく解
説をしています。
 それはさておき、モーツァルトは現在私たちが知る以上に非常
に真面目に、そして情熱的にフリーメーソン活動に取り組んでい
たのです。そのため、それがあらゆるモーツァルトの作品に影響
を与えていたのです。
 それだけに、1785年12月にヨーゼフ2世の出した宮廷勅
令はこれから本格的にフリーメーソン活動に取り組みたいと思っ
ていたモーツァルトにとって衝撃的なものだったのです。なぜな
らこれによって、今まで8つあった支部は2つ――「新・授冠の
希望」と「真理」の2つに集約されてしまったからです。
 それに加えて、モーツァルトが加入していた支部の「恩恵」は
啓明結社系の支部であったのに、薔薇十字団系の支部である「授
冠の希望」に吸収され、「新・授冠の希望」(後に「新」が取れ
て元の「授冠の希望」となる)になったのです。
 モーツァルトは、「恩恵」と同系統の「真の調和」支部の支部
長――イグナーツ・フォン・ボルンに惹かれていたのです。とこ
ろがこのフォン・ボルンは新たに「真理」と名前を変えた支部の
支部長にはなったものの、モーツァルトの属することになる支部
「新・授冠の希望」とはまったく考え方が異なるのです。
 こういうフリーメーソン支部の統廃合によって、1785年に
は950名いたウィーンのフリーメーソンの会員は、半分以下の
350名に激減してしまったのです。そして、ウィーンの2つの
支部も18世紀中に消滅してしまったのです。
 そのひとつの重要な原因は、アロイース・ホフマンという男の
裏切りにあったのです。ホフマンは、もともとモーツァルトの属
していた「恩恵」の支部に属していたのですが、宮廷勅令を機に
フリメーソンをやめ、一転してフリーメーソンの誹謗中傷をはじ
めたのです。そして、ウィーンの秘密警察の手先となって、とく
に啓明結社潰しをやったのです。
 しかし、モーツァルトはフリーメーソンの活動を密かに継続さ
せていたのです。それも自ら新しい支部を作ろうとしていたので
す。しかし、それは宮廷勅令に反する行為であり、地下活動的に
ならざるを得なかったのです。そのモーツァルトが作ろうと目指
していた支部の名前は「洞窟」という名前であるといわれます。
 なぜ、「洞窟」という名前を付けたのでしょうか。
 それは、ザルツブルグのアイゲンに実在する美しい洞窟を意味
するのではないかといわれているのです。というのは、その洞窟
は、「啓明団の洞窟」といわれ、啓明団の会合がしばしば行われ
ており、モーツァルトはフリーメーソンに入る前にその会合に参
加したことがあるのではないかといわれているのです。
 キャサリン・トムソンは、このアイゲンの洞窟に関連して次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 地質学者ローレンツ・ヒューブナーの1792年執筆の報告に
 よれば、啓明団の会合が、ザルツブルグ近郊のアイゲンにある
 人里離れた美しい洞窟(今日「啓明団の洞窟」として知られる
 場所)で夜に開催されたさい、啓明団の指導者の一人、ギロウ
 スキー伯が「知人のフォン・アマン、モーツァルト、バリザー
 ニを連れて」列席した。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトにとっては、このアイゲンの洞窟で行われた啓明
団の会合が印象に残っていて、後にフリーメーソンに入ろうとす
る動機のひとつになったと考えられます。また、自分が新たな支
部を作ろうとするときにそれを使ったのではないかと考えられま
す。洞窟の周辺には急流の滝があり、高い木々がそびえ立ち、険
しく切り立った岩山があるのです。添付ファイルにアイゲンの滝
の写真を示しておきますが、この風景は『魔笛』の鎧を着た男た
ちが登場する場面そのものです。
 歌劇『魔笛』の第2幕――鎧を着た男たちが登場する場面のト
書きには、次のように書いてあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 2つの大きな峰、一方の峰には急流の滝があり、他の峰からは
 火が吹いている。   ――『魔笛』/鎧を着た男たちの場面
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを見ると、モーツァルトがいかにアイゲンの洞窟のことを
印象深く覚えていたかがわかります。だからこそ、自分の最後の
年の作品である『魔笛』の場面に使ったり、自分が密かに作ろう
としていたフリーメーソンの支部の名前に「洞窟」を使おうとし
たものと思われます。
 その「洞窟」支部――結局は実現しなかったものの、それは大
変な企てであり、膨大な資金を必要としたのです。モーツァルト
の理解に苦しむ莫大な借金とは、この「洞窟」作りのために使わ
れたのではないでしょうか。 ・・・・  [モーツァルト64]


≪画像および関連情報≫
 ・啓明結社について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  啓明結社は、陰謀論においては、非常に人気があり、現在で
  も密に世界へ手を伸ばし影響を与えている影の権力であると
  される。ただし、日本ではそれほど有名ではなく「ユダヤの
  陰謀」や「フリーメーソンの陰謀」で置き換えられているこ
  とが多い。また、単にイルミナティと言った場合、後述のア
  ダム・ヴァイスハウプト主宰のものを指す場合が多いが、そ
  の後に復興運動があったとは言えその本体の活動期間は実質
  8年間であり、陰謀論の主体としてはユダヤやフリーメイソ
  ンと比較して説得力に欠けるという側面もある。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2006年12月21日

借金は新支部設立のためのもの(EJ1987号)

 EJ第1984号において、モーツァルトが死亡した時点での
借金総額は約4000フローリンと述べましたが、それを証明す
る借用書などは一切残っていないのです。したがって、本当のと
ころ、一体どのくらい借りていたのか、その使途は何なのか、そ
れらの借金は返済されたのか、そのままなのかなどについてはわ
かっていないのです。
 しかし、そういう状況において、ひとつ貸借関係がはっきりし
ている事実があります。それは、1791年11月に出された次
の判決文です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトはリヒノフスキーに対して、1435フローリン
 32クロイツァーの未返済金があることを認定する。直ちにそ
 の金員をリヒノフスキーに支払え        ――裁判所
―――――――――――――――――――――――――――――
 この1435フローリンはあくまで1791年春の時点での未
返済残高であって、実際に借りていた額はそれよりも多いと考え
られます。もっと多く借りていて、モーツァルトが何回か返済し
残っていた額と考えられるのです。
 これ以外の大口としては、金融業者ラッケンバッヒャーからの
約1000フローリンの借金があります。これについては借用証
書が残っているのです。その一部をご紹介します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私はここに以上の借金を確かに受納したことを確認するととも
 に、以下の責任を負いました。私、私の相続人、子孫はこの元
 金を前記の貸主、その相続人、又は新たな債権者に2年後の本
 日、予告なく、前記と同じ金種により、何等の抗弁なく返還致
 します。但し同貨幣により百分の五の利子をつけます。この利
 子は私の元金返還の期限が切れ、貸主が利子その他の費用を請
 求できるようになった時、半年の期限をもって遅滞なく当ヴィ
 ーンにて支払います。元金および利子の担保として私は私の全
 ての家財を貸主に差出します。私及び指定の証人の自署による
 証書と致します。     証人 マティアス・ブリュンナー
              証人  アントーン・ハインドル
――既出/藤澤修治氏論文より
       http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part5.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 この借用書によると、モーツァルトの動産が抵当に入っている
ことがわかりますが、それはモーツァルトが所有していたとみら
れる膨大な銀製品ではないかと思われます。モーツァルトは宮廷
や貴族の屋敷などで演奏会を開いたとき、贈り物として、銀の食
器などを大量に拝領していたのです。
 しかし、モーツァルトの死後作成された遺産目録には、それら
の銀製品は一切なかったのです。そして何よりも不思議なのは、
債権者リストにラッケンバッヒャーの名前はなかったのです。こ
れはおそらくこの借金が自分たちに及ぶことを知っていたコンス
タンツェによって返済されたと考えられるのです。
 それからもうひとつ、既に述べたように証文などは一切ないが
モーツァルトはプフベルクに対して、全15回――計1415フ
ローリンを借りていたことがわかっています。プフベルクはモー
ツァルトよりも15歳年上の裕福な織物商人であり、大変な音楽
好きだったのです。そういうこともあってか、モーツァルトは何
回もプフベルクに金の無心をしているのです。
 これに対してプフベルクは、モーツァルトの要求額よりも小額
ではあったが、そのつど用立てていたことがモーツァルトが彼に
宛てた手紙でわかっています。モーツァルトはプフベルクの他に
も裕福な友人を多くもっていたのに、なぜプフベルクばかりに無
心をいったのでしょうか。
 推測の域を出ないものですが、おそらくリヒノフスキーとプフ
ベルクの2人はモーツァルトが「洞窟」を設立しようとしていた
ことを知っており、そのための融資であったと思われるのです。
なぜなら、リヒノフスキーとプフベルクは、フリーメーソンの同
志だったからです。
 当時の秘密結社への厳しい管理下においては、よほど信頼でき
る人でないと、真実を打ち明けるのは危険であったのです。当時
は秘密警察によって、市民の手紙の検閲も行われていたのです。
そうであるとすると、いわゆる「プフベルク書簡」の奇妙な書き
出しの謎が解けてきます。
 既出の藤澤修治氏は、プフベルクへの書簡の冒頭はフリーメー
ソン特有の言葉が使われていることを指摘しています。モーツァ
ルトは、手紙の書き出しに「尊敬する最愛、最上の友よ!」とか
「この上なく尊敬する盟友」とか、「真の友人」とかいう言葉を
使っていますが、これはフリーメーソン結社員同士の挨拶でよく
使われる言葉なのです。
 こういう書き出しで始まるプフベルクへの借金の申し入れの手
紙についてはその使途を一切書いていないのです。それは、新支
部設立のための資金であるという暗黙の了解があったのではない
かというのです。
 モーツァルトがプフベルクに出した手紙は20通ほどあるので
すが、そのうち借金の使途について書かれたものは3通しかない
のです。そして使途の書かれた借金は、10〜30フローリンの
小額のものだったのです。
 リヒノフスキーとプフベルク――この2人からの借金は、モー
ツァルト自身が返済したものを含めると、3500フローリンほ
どになったものと思われます。そして、その資金は、新支部「洞
窟」の設立資金に使われたとみられるのです。
 モーツァルトはなぜフリーメーソンの新しい支部を作ろうとし
たのでしょうか。それは、音楽家の地位を向上させることにあっ
たのではないかと思われます。当時はモーツァルトのような才能
のある音楽家ですら、地位が安定せず、不安定な収入に甘んじざ
るを得なかったからです。  ・・・・  [モーツァルト65]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトとカトリック信仰
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーツァルトはたしかに、一度も公然とカトリックの信仰を
  否認しているわけではない。しかし、彼の最期にさいし、臨
  終の儀式をとりしきる司祭を探し出すことは困難だった。・
  ・・モーツァルトの考えは、明らかに異教的と見なされてい
  た。彼が啓明団の結社員たちと親交があるだけで、司祭たち
  の眼には、彼を非難するのに十分だった。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2006年12月22日

3大交響曲も資金繰りの一環か(EJ1988号)

 1788年――この年は、父のレオポルトが亡くなった次の年
であり、モーツァルトが「洞窟」の設立に向けて具体的な準備に
入ったとみられる年です。
 1787年から88年にかけてのモーツァルトの懐具合は決し
て悪くなかったはずです。1787年は、プラハで歌劇『ドン・
ジョバンニ』が大当たりし、ウィーンに帰ってくると、皇帝ヨー
ゼフ2世から呼び出され、同年12月1日付で宮廷作曲家の地位
を与えられているのです。
 それに父のレオポルトがモーツァルトのために残した1000
フローリンのお金も入っているのです。このお金のいきさつにつ
いては、EJ第1938号に書いてあります。
 しかし、モーツァルトはこの年にウィーンの聴衆には冷たくさ
れ、ほとんど演奏会を開くことはできなかったのです。もちろん
サリエリらの宮廷音楽家たちの陰謀によるものです。
 そのためモーツァルトはプラハで稼ぎ、その後もプラハで作曲
活動を続けてくれれば、『ドン・ジョバンニ』と同じ条件で報酬
を支払うという良い提案を受けていたのに、それを断って仕事に
ならないウィーンに戻っているのです。もし、プラハで仕事を続
けていれば間違いなく1000フローリンを手にすることができ
ていたのに、あえてウィーンに戻ってきているのです。
 どうして、ウィーンに戻ってきたのでしょうか。
 一説によると、モーツァルトがウィーンに戻ったのは、グルッ
クが死亡したためといわれています。しかし、モーツァルトとグ
ルックとの付き合いはハイドンほど深くはなく、稼ぎの良い仕事
を放り出してまで戻るほどのことはなかったのです。もっとも、
グルックが死んだおかげで、モーツァルトは宮廷作曲家の地位を
手にすることができたことは確かなのですが・・・。
 そして、1788年からモーツァルトは、巨額の借金を最期の
年である1791年まで積み重ねるのです。これらの借金は、明
らかに「洞窟」設立のための準備資金と見ることができます。当
時生活には困っていなかったからです。そして、あえてウィーン
に戻った理由も新支部設立のためだったと考えられます。
 1788年6月にモーツァルトは、プフベルクに対して次のよ
うな手紙を書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もしあなたが1年か2年、1000もしくは2000フローリ
 ンを然るべき利子で貸して、私を援助してくださろうという愛
 と友情をお持ちでしたら、どんなにか日々の仕事の助けになる
 でしょう!        ――1788年6月17日の手紙
―――――――――――――――――――――――――――――
 どうみてもこれは生活資金のための借金申し込みとは思えない
のです。金額が大き過ぎるからです。しかし、「洞窟」設立のた
めの資金と考えると、納得がいくのです。
 しかし、これに関してプフベルクは、200フローリンしか用
立てませんでした。プフベルクは、モーツァルトの要求に対して
誠実に応えているのですが、つねに要求よりも控え目の資金しか
用立てていないのです。その代りそのお金が返済されなくても請
求しないし、重ね貸しを許しているのです。
 1000〜2000フローリン必要なのに200フローリンし
か入らない――モーツァルトはどう対応したのでしょうか。
 確かな証拠はないのですが、そのとき、もうひとつの借り手で
あるリヒノフスキー侯爵から借りたことは十分考えられます。そ
れは、それから1年間というものモーツァルトはプフベルクに金
の無心をしていないからです。
 このリヒノフスキー侯爵からの借り入れのほかに、モーツァル
トは自分の能力を使って資金作りをした可能性があります。それ
が、あの3大交響曲の作曲なのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 交響曲第39番/KV543 ・・・ 1788.6.26
 交響曲第40番/KV550 ・・・ 1788.7.25
 交響曲第41番/KV551 ・・・ 1788.8.10
―――――――――――――――――――――――――――――
 後世に完成度の高い交響曲として残っているこれら3曲の交響
曲は、1788年6月26日から8月10日までの3ヶ月ですべ
て完成しているのです。そのためこれら3曲は明らかにワンセッ
トであると考えられるのです。
 「3」という数字がフリーメーソンにとって重要な数字である
ことは既に述べていますが、交響曲3曲を3ヶ月で完成させて、
それによる資金を「洞窟」設立のために使おう――モーツァルト
はそのように考えたのではないかと思われます。
 このように考えてくると、リヒノフスキーの申し出で1789
年4月に奇妙な旅に出る理由が推察できるのです。これについて
EJ第1939号では、サリエリらの陰謀によるものと書きまし
たが、どうもそうではないようなのです。
 おそらくリヒノフスキーは1788年にモーツァルトに貸した
お金が約定通り戻ってこないので、その返済資金をモーツァルト
に作らせるため、リヒノフスキーが土地勘のあるドイツ旅行を提
案したのではないかといわれているのです。現地でモーツァルト
に演奏会を行わせ、返済資金を稼がせようというわけです。
 しかし、この旅行は準備不足のためか、ほとんど所期の目的を
達成することなく終っているのです。そのためかえってモーツァ
ルトの借金の総額は増えてしまっています。いずれにしても、リ
ヒノフスキーとモーツァルトの北ドイツ旅行は多くの謎に包まれ
ており、真相はわかっていないのです。
 結局、リヒノフスキーへの返済は一部はモーツァルトから返済
があったものの、1791年になっても完済されず、リヒノフス
キーは、1791年春に裁判所にモーツァルトに対する貸金返還
訴訟を起こすのです。そしてその判決が1791年11月に出さ
れたのです。しかし、その直後にモーツァルトが急死してしまう
ことになります。      ・・・・  [モーツァルト66]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトの6大交響曲について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アーノンクールが38番以降を指揮したこのセットは、モー
  ツァルト没後200年追悼演奏会のライブ録音だ。4曲とも
  各主題の性格を明確に浮き上がらせ、強弱や明暗などのコン
  トラストも鮮烈な革新的演奏。伝統的な演奏ならレナード・
  バーンスタイン指揮ウィーン・フィル盤やカール・ベーム指
  揮ベルリン・フィル盤を。
  http://music.jp.msn.com/special/classic/harnoncourt.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

1988号.jpg
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2006年12月23日

EJバックナンバー『映画「マトリックス」(その3)』

2003年12月17日に配信したEJ1254号(全9回連載の内 第3回)を過去ログに掲載しました。
○ マトリックスは仮想現実の世界(EJ1254号)
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2006年12月24日

EJバックナンバー『映画「マトリックス」(その4)』

2003年12月18日に配信したEJ1255号(全9回連載の内 第4回)を過去ログに掲載しました。
○ コンピュータは意識を持てるのか(EJ1255号)
posted by 平野 浩 at 05:38| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月25日

新支部『洞窟』設立の断念(EJ1989号)

 2006年も最後の週に今日から入ります。EJは28日まで
お届けするので、モーツァルトのテーマは今日を含めてあと4回
になります。いよいよ大詰めです。
 1788年6月にモーツァルトはプフベルクに1000〜20
00フローリンの借金を申し込み、200フローリンを送金して
もらっています。それから1年というものモーツァルトはプフベ
ルクに対してお金の無心をしていないのです。
 しかし、ちょうど1年後の1789年7月12日にモーツァル
トは、またプフベルクに500フローリンの借金を申し入れる手
紙を書いています。その手紙には次の奇妙な一文があるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 とろこが、別の面で不幸な状況が見えてきました。――もちろ
 ん、ほんの一時だけのことです!――最愛、最上の友にして盟
 友よ。あなたは私の目下の状況をご存知です。でも、私の今後
 の展望もご承知です。私たちが話し合った例のことについては
 そのまま変わっていません。あれやこれや、お分かりのことと
 思います。      ――1789年7月12日の手紙より
―――――――――――――――――――――――――――――
 既出の藤澤修治氏の論文によると、「別の面で不幸な状況」と
は、その時点から3ヶ月前に「真理」支部が解散届けを出したこ
とを指しているというのです。
 モーツァルト自身は「新・授冠の希望」支部に属していたので
すが、2つしかないもう一つの支部である啓明結社系の「真理」
の方に惹かれていたのです。「新・授冠の希望」はもともと薔薇
十字団系であり、所属している会員には貴族が多く、モーツァル
トには合わなかったからです。
 その「真理」支部が解散に追い込まれたことにより、フリーメ
ーソンに動揺が走ったのです。そのため、モーツァルトの作る新
支部「洞窟」に参加しようとしていた人まで、フリーメーソンを
脱会する動きが起こったのです。
 さらに藤澤氏は7月12日の手紙の中の「私の今後の展望」と
はモーツァルトが新支部を作る決心を指し、「私たちが話し合っ
た例のこと」は、新支部「洞窟」の設立であると述べています。
つまり、「真理」が解散ということになっても、「洞窟」という
新支部を作る決意は揺らいでないので、500フローリン貸して
欲しいとモーツァルトはプフベルクに懇願しているわけです。
 モーツァルトは秘密警察による手紙の検閲を恐れて、こういう
言い回しの手紙をプフベルクに送ったのです。しかし、これに対
してプフベルクはモーツァルトに返事をしなかったのです。
 そこでモーツァルトは、プフベルクに7月17日に再度手紙を
送って次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 あなたの友情の数々の証しとこのたびの私のお願いとを考え合
 わせますと、あなたのお怒りもまったく当然だと思います。し
 かしまた、私の不幸な状況――これは厳密にいえば私の責任で
 はありませんが――とあなたの友情にあふれたお気持ちとを考
 え合わせますと、やはり私が弁解するのも理のあることだと思
 います。       ――モーツァルトの7月17日の手紙
―――――――――――――――――――――――――――――
 この手紙の中の「私の不幸な状況」とは、「真理」支部が解散
届けを出したことを指しています。そして、モーツァルトは、そ
のことは自分の責任ではなく、それを弁解するのは理のないこと
ではないといっているのです。これだけ見ても、この手紙が単な
る借金の依頼状でないことがわかります。
 この手紙を受けたプフベルクは、モーツァルトの窮状を察して
150フローリンを送っているのです。さらにモーツァルトは同
じ年の年末にプフベルクに400フローリンの無心をしているの
ですが、この時点では「洞窟」の設立は困難な状況に追い込まれ
ていたもものと推定されます。
 新しい支部を設立するには、そのための打ち合わせに使う会議
室の賃料、そのさいの飲食代、会議資料の印刷代、会員を勧誘す
るための旅費を含む諸経費など、いろいろお金がかかるのです。
支部ができてしまえば、会費を徴収してこれらの経費を賄えるの
ですが、それまでは誰かがそれを立て替える必要があり、モーツ
ァルトがその資金を調達したのです。
 実はプフベルクは「真理」支部の会計を担当していたので、モ
ーァルトの要求してくる資金の見当がついたのです。したがって
プフベルクはモーツァルトの要求を冷静に判断していつも適切な
金額を送金していたのです。何といってもモーツァルトは不定期
には大金は入るものの固定収入がないので、どうしても一時の借
金に頼らざるを得ない財務体質なのです。
 そういうプフベルクは1789年の年末のモーツァルトの資金
要求――400フローリンに対して、300フローリンを送金し
ています。これはプフベルクがモーツァルトに送金した金額では
最高の金額ですが、これは「洞窟」設立断念のための幕引き整理
資金と見ることができます。
 そして、1790年という年はモーツァルトの作曲活動が最も
低調な年なのです。おそらく「洞窟」設立断念がモーツァルトの
作曲の足を引っ張ったものと考えられるのです。
 しかし、これを観察していたコンスタンツェとセシリアは、借
金が増えて人気が地に落ちたモーツァルトに早々と見切りをして
いたと考えられるのです。それは、1791年の春に起こされた
リヒノフスキーによるモーツァルトへの貸金返還訴訟でおそらく
確信に変わったと思えるのです。
 そう考えると、死の直前の歌劇『魔笛』の大成功とその後の音
楽家としてのモーツァルトの高い評価の定着は、1790年時点
では予測することがいかに困難であったかがわかります。フリー
メーソンを扱った『魔笛』の成功こそ、モーツァルトにとって一
発逆転さよなら満塁ホームランぐらいの価値があったといえると
思います。         ・・・・  [モーツァルト67]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルトは人に金を貸していたという話
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ここでモーツァルトの金銭貸借に関してまだ解かれていない
  新しい謎について言及しなければなるまい。それは遺産整理
  の時に判明したのだが、彼はクラリネット奏者アントーン・
  シュタードラーに500フローリンもの金を貸していた。こ
  れは中流家庭の1年間の生計費に匹敵する大金だが、一方で
  恒常的に借金を続けたモーツァルトが、他方で貸金を持って
  いたというのは意外だ。これについて、いつ、どんな目的で
  これが貸されたかを解いた説は現在までない。
       ――藤澤修治氏論文「モーツァルトの借金」より
       http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part1.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

1989号.jpg
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2006年12月26日

新支部づくりの真の狙いは何か(EJ1990号)

 それにしてもモーツァルトは、巨額の借金までして、なぜ、フ
リーメーソンの新支部を作ろうとしたのでしょうか。これについ
て、アルフレート・アインシュタインは、その著書において次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトを結社に飛び込ませたのには、おそらく彼の芸術
 家としての深い孤独感と、心からの友情への欲求も、あずかっ
 て力があったのだろう。アルコ伯爵によって足蹴にされ、大司
 教コロレドによって召使あつかいされたモーツァルトは、結社
 においては、天才を持つ一人の人間として貴族と同列であり、
 同権であった。   ――アルフレート・アインシュタイン著
           『モーツァルト/その人間と作品』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 既に述べたように、モーツァルトが生きていた時代は、音楽家
の地位は低く、王侯・貴族の召使いでしかなかったのです。しか
し、フリーメーソンではそういう音楽家でも貴族と同じように扱
われる――モーツァルトの求めたのはこれであるとアインシュタ
インはいっているのです。
 しかし、モーツァルトは自分自身が貴族と同列に扱われたいと
いう考え方のみで新支部「洞窟」の創設を目指したのではなく、
フリーメーソンという組織に力を与えて、当時の封建領主体制を
改革したいと考えたのではないかと思われます。モーツァルトと
しては、フリーメーソン活動を今後強化していけば、きっとそれ
は実現されると考えたのです。
 この考え方は決して間違っていなかったと思うのです。どうし
てかというと、体制側がフリーメーソン活動を禁止したり、制限
するようになったからです。それは裏返すと、フリーメーソン活
動をそのままに放置すると、それが体制転覆につながる恐れがあ
ると体制側が判断したからでしょう。
 モーツァルトにとっては、音楽が貴族たちの占有物になってい
る現実はどうしても受け入れることができなかったのです。音楽
は身分に関係なく万人のためのものでなければならないと考えた
からです。しかし、これが実現するには封建領主体制が変わらな
ければならないのです。
 ちょうどそういう旧体制を否定する啓蒙主義運動が盛んになり
その思想を受け継いだフリーメーソン――とくに啓明結社系のフ
リーメーソン活動にモーツァルトは光を見出したのです。
 しかし、そのフリーメーソン活動が体制側の弾圧政策によって
制限され、支部が解散に追い込まれて力を失っていく――これで
はいけないとモーツァルトは思ったのです。そこで、音楽家であ
る自分が中心となって理想的な支部を作ろうと考えて、「洞窟」
設立に動いたのです。理想的な支部を作り、体制を変えようとし
たのですが、頼みの綱ともいうべき「真理」支部が解散し、資金
づくりの面も万策尽きたという感じです。
 モーツァルトは「真理」を率いていたイグナーツ・フォン・ボ
ルンを心から尊敬していたのです。ボルンとは、どういう人物で
あったのでしょうか。同時代のある著名人はボルンについて次の
ように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これほど会って話を聞きたくなる人物は他にはいまい。余り書
 かなかったけれども、彼の語ることはすべて公刊されるべきで
 ある。というのは、それは必ず機智があって有意義であり、彼
 の風刺に悪意はないからである・・・彼は教父たちの著作から
 おとぎ話にいたるまで何でもよく読んでおり、調べてもいる。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
―――――――――――――――――――――――――――――
 このボルンは1785年の啓明団への迫害のさなかに、パヴァ
リア科学アカデミーへ辞表を提出し、公然とパヴァリア政府のと
った行動に抗議する次の声明を発表しているのです。これは大変
勇気のいる行為であったといえます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私は自分が無知な坊主(教会の祭司)どもと真っ向から対決す
 る人間であることをはっきり言っておきたい。・・・彼等に若
 者たちの教育をけっしてゆだねるべきではない。ジェスイット
 リー(イエズス会の教説)とかファナティシズム(狂信主義)
 という用語は、詐欺、無知、迷信、愚昧と同義語でありうると
 断言しておく。要するに、私の見解は、パヴァリア政府の公式
 見解と思われるものと全面的に対立しているのである。
           ――キャサリン・トムソンの上掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 このボルンが率いる「真理」が解散したのです。いや、強権で
解散させられたというのが正しいかもしれないのです。それほど
当時は、フリーメーソンであり続けることは大変なことだったの
です。そのため多くのフリーメーソンたちは、フリーメーソンで
あることを断念し、会員が減って、支部というものが成り立ちに
くい状況になっていたのです。
 そんな時代にモーツァルトはフリーメーソンをやめるどころか
新しい支部を作ろうとしていたのですから、「音楽を万人のもの
にする」という彼の情熱は強いものがあったのです。しかし、結
局のところ新しい支部「洞窟」の設立は幻に終わったのです。
 このように考えると、そのショックから立ち直ったモーツァル
トの最後の年1791年の後半に作り上げた歌劇『魔笛』の評価
が違ったものになるといえます。
 既に述べたように、『魔笛』の基本構成については、ボルンが
深くかかわっていると見られており、表面的にはたわいないおと
ぎ噺のかたちを取りながら、そこにフリーメーソンの思想が盛り
込まれている作品になっているからです。モーツァルトは音楽に
よってフリーメーソンの思想を伝えようとしたのではないでしょ
うか。           ・・・・  [モーツァルト68]


≪画像および関連情報≫
 ・イグナーツ・フォン・ボルンと『魔笛』の関係
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ボルンの名前は、現存のモーツァルトの手紙には登場しない
  が、二人が親しかったことを示すたしかな証拠は存在する。
  『魔笛』を作曲する前年の1790年の夏にモーツァルトが
  ドロテーアガッセのボルンの家を訪れたことが現在では判明
  している。ボルンがザラストロの原型であったとみる伝説が
  あるし、彼がこの台本の企画に手を貸したという説もある。
  エジプトの秘儀にかんするボルンの論稿がその祭儀の場面の
  ための素材の一つであることは明らかだ。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
  ―――――――――――――――――――――――――――

1990号.jpg
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2006年12月27日

一般の印象と異なるモーツァルトがいる(EJ1991号)

 今回のテーマ「モーツァルトをめぐる謎の解明に挑戦する」を
書き続けて今回でちょうど69回目です。このテーマは、明日の
28日に終了しますので、全70回になります。EJのテーマと
しては最長記録となります。何しろ書きはじめたのが9月19日
ですから、既に3ヶ月を超えています。
 この間、同じ内容をブログでも公開していますが、このテーマ
になってから、次のようなアクセス数になっています。私のブロ
グは今まで一日来訪者500人は記録したことはないのですが、
12月11日に491人を記録しました。あと一息です。世の中
にモーツァルト・ファンは多いものだと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――
  平均正味訪問者数 ・・・  350人〜 450人
  総ページビュー数 ・・・ 1000回〜1200回
      http://electronic-journal.seesaa.net/
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここまでモーツァルトについて書いてきて気がついたことが3
つあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.世間一般が認識しているモーツァルト像と実際のモーツァ
   ルトとはかなりのずれがあると思われること
 2.モーツァルトの伝記作家たちは、モーツァルトの生きた時
   代背景を十分考えて彼を評価していないこと
 3.モーツァルトは音楽の万人解放をめざして当時の封建領主
   体制と戦った改革者としての側面があること
―――――――――――――――――――――――――――――
 世間一般が考えているモーツァルト像とは一体どのようなもの
なのでしょうか。
 それは、映画『アマデウス』に登場するモーツァルト――トム
・ハルス演ずる、あのモーツァルトではないでしょうか。時とし
て、奇妙な振る舞いをするあのモーツァルトです。
 トム・ハルス演ずるモーツァルトは、私がここまで調べてきて
分かったモーツァルトとは大きく異なっています。映画『アマデ
ウス』の脚本家、ピーター・シェーファーは、サリエリを中心に
モーツァルトをとらえています。つまり、サリエリを通して見た
モーツァルト像なのです。話の中心はなかば狂人化したサリエリ
の回想というかたちをとっており、真のモーツァルト像に迫って
いないのです。「クラシック・ジャーナル」の編集長である中川
右介氏は、サリエリについて面白いことをいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 サリエリは、モーツァルトが永遠に語り継がれる偉大な音楽家
 であることを認識していた。それに比べて自分はどうか?宮廷
 音楽家としてポストに就いていた頃はちやほやされていたけれ
 ど、晩年は忘れられていた。当然、死ねば完全に忘れられる。
 それはいやだ。そこで、考えた。自分の名を永遠に残すために
 は、いっそ『モーツァルトの敵』になればいい。『モーツァル
 トを殺した男』になれば、モーツァルトが語られるたびに、そ
 の悲劇の最期をもたらした男として自分の名も永遠に残るであ
 ろう、と。そこで、自分がモーツァルトを殺した、と言い出し
 た。 ――中川右介著、『モーツァルト・ミステリーツアー』
                  ゴマブックス株式会社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 サリエリの狙いは見事に成功したといえます。モーツァルトの
死後200年以上経って映画『アマデウス』が制作され、そこで
多くの人がサリエリという音楽家がいたことを知る。そして、サ
リエリの音楽を聴いてみようというニーズが出てきて、CDまで
発売されているのです。
 それはさておき、モーツァルトは家族思いの大変真面目な青年
であって、映画のトム・ハルスが演ずるモーツァルト――奇妙な
クセのある大まかで浪費家のモーツァルトとは、大きく性格が異
なるのです。
 モーツァルトが几帳面な人間であったことは、彼の遺した膨大
な手紙によって知ることができます。現在のように電話もメール
もなかった時代において、手紙が唯一の連絡を取る手段だったと
はいえ、実に入念に書かれております。
 もうひとつ、1784年頃からモーツァルトは家計簿をつけて
いたことがわかっています。彼は金銭管理に気を配る人間だった
のです。そういう人間が浪費をするとはとても思えないのです。
浪費的性格の強いのは、むしろ妻のコンスタンツェの方であって
モーツァルトではないのです。
 ところが、そのコンスタンツェの方は、モーツァルトをどう見
ていたのでしようか。既出の藤澤修治氏の論文では、コンスタン
ツェの第2の夫であるニッセンによる『モーツァルト伝』の次の
一文を引用しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ・・・そして気だてのよい妻は大目に見ていたが、彼には数々
 の色恋沙汰があった。さらにくわえて、彼は極端から極端へと
 走った。また、決まった俸給はなく、詩人や巨匠にはごく普通
 のことだったが、よい夫とは言えず、お金儲けにはうとく、お
 金を数週間やりくりすることを知らなかった。彼にはお金の価
 値がまったくわかっていなかった。仕事が途切れているときに
 は、彼はしばしば妻や子供たちと苦しい生活を送らねばならず
 債権者の厚かましい催促に閉口していた。しかし、ルイドール
 (昔のフランス金貨)がいくらか手に入ろうものなら、事態は
 一変した。今や有頂天になってしまうのだ。モーツァルトは、
 シャンペンとトカワインに酔い、しまりのない生活をし、数日
 で以前と同じ経済状態になってしまった。
        ――ニッセン著、『モーツァルトの生涯』より
 ――――――――――――――――――――――――――――
 妻から見たモーツァルトの実像は、実際とは大きく異なってい
るのです。          ・・・・ [モーツァルト69]


≪画像および関連情報≫
 ・ゲオルク・ニッセンについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  経済状態が改善された後に彼女が行ったのは、嘗て母親が営
  んでいたような下宿開くことであった。そこに現れたのが、
  1793年2月に公使館参事としてウィーンにやって来たデ
  ンマーク人のゲオルク・ニッセンである。コンスタンツェは
  彼と同棲し、後に彼がウィーンjを離れる際に正式に結婚し
  ている。ニッセンは後にモーツァルトの伝記「モーツァルト
  伝」を書く人物であるが、コンスタンツェに残された2人の
  息子を母親以上に愛し良い父親となった。
  http://homepage3.nifty.com/classic-air/feuture/fueture_41.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

1991号.jpg
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2006年12月28日

コンスタンツェから見たモーツァルト像(EJ1992号)

 「死人に口なし」とはよくいったものです。昨日のEJの最後
にご紹介しているコンツタンツェから見たモーツァルト像――死
後に最も近い関係にあった妻からあのようにいわれてしまったら
その評価が歴史的に定着してしまいます。それに対して、死んで
しまったモーツァルトは何もいい返すことはできないからです。
 妻のコンスタンツェが述べたモーツァルトの実像をまとめると
次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.妻がいるのに、数々の色恋沙汰を抱えていたこと
  2.決まった報酬がないので、苦しい生活が長く続く
  3.お金儲けには疎く、金をやりくりする才覚がない
  4.金の入る予定があるとそれをあてにして浪費する
―――――――――――――――――――――――――――――
 1については後で述べるとして、「決まった報酬がない」とい
うのは事実に反するのです。1787年12月にモーツァルトは
宮廷音楽家の地位を手に入れ、年俸800フローリンを得ている
のです。この額はけっして多くはありませんが、これだけでも節
約すれば十分生活ができたのです。
 まして、モーツァルトには作曲などで別途収入があり、その額
は年俸にして2000フローリンを超えていたと考えられるので
す。これだけあれば、庶民レベルをはるかに超えた生活ができた
はずなのです。
 しかし、3の「お金儲けには疎い」ということについては、確
かにそういうところはあったと思います。コンスタンツェからい
わせると、一方に儲け話があるのに、わけのわからぬフリーメー
ソン活動などに金を注ぎ込むことに不満があったのでしょう。
 そのためかコンスタンツェはモーツァルトの死後、手紙を含め
て、フリーメーソンに関わる一切の資料を破棄してしまっていま
す。もっともこれは、秘密警察の摘発を恐れてやったことかも知
れませんが、少なくともコンスタンツェがこの運動に賛成してい
なかったことは確かなことなのです。
 しかし、4の浪費癖に関しては完全に事実と違う指摘をしてい
ます。むしろ浪費癖があったのは、コンスタンツェの方であると
いえます。それは、コンスタンツェが脚の治療と称してバーデン
に行き、連夜のパーティにふけっていたことで明らかです。前に
も述べましたが、コンスタンツェの病気は大したことはなく、も
しかすると仮病かもしれないという説もあるのです。
 もちろん妻のバーデンでの行状はモーツァルトの耳にも達して
いて、モーツァルトが注意を与えている次のような手紙も残って
いるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ぼくはきみがバーデンで楽しんでいるのはうれしい――もちろ
 んうれしいが、しかしきみはときどき安っぽく振る舞うけれど
 そういうことはぜひ慎んでもらいたいのだ。きみは××にあま
 りにもなれなれしくしすぎる。別な××とも、彼がまだバーデ
 ンにいたときだが同じだった。きみは以前、あまりにすぐ人の
 言いなりになる傾向があることをぼくに認めたことがあるね。
       ――1789年8月/モーツァルトの妻への手紙
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
−−―――――――――――――――――――――――――――
 手紙の中で「××」となっている部分は削除されており、人物
を特定できませんが、妻のバーデンでの行状にモーツァルトが悩
んでいたことは確かなようです。
 実は、コンスタンツェがバーデンでこのように振舞っていたの
にはわけがあります。それは、上記1のモーツァルトの「数々の
色恋沙汰」の件です。モーツァルトの女性関係についてはいろい
ろな説があるのですが、あったことは事実のようです。したがっ
て、コンスタンツェのバーデンでの行状は彼女の夫に対するあて
つけではないかといわれているのです。
 上記の手紙が出された1789年頃のモーツァルトとコンスタ
ンツェの夫婦仲は、かなり問題があったとする説が多く出てきて
います。これに対してモーツァルトはあれほど多くの手紙をコン
スタンツェに送っており、妻を気遣っているではないかという指
摘もあります。
 確かにコンスタンツェに対する手紙は数多くあり、モーツァル
トの妻に対する愛情を感ずるのは確かですが、これはむしろ気ま
ずくなってしまっている夫婦仲をさらに壊したくないというモー
ツァルトの気持のあらわれであるという見方もあるのです。
 その中に、コンスタンツェとして、どうしても許せない女性が
一人いたはずなのです。それが、コンスタンツェの姉でモーツァ
ルトの初恋の人、アロイジア・ランゲなのです。モーツァルトと
アロイジア・ランゲとの関係については、既出の藤澤修治の次の
論文に詳しいので、ぜひ参照されることをお勧めします。
―――――――――――――――――――――――――――――
  藤澤修治氏論文「モーツァルトの夫婦愛と永遠の恋人」
     http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part4.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトには謎がたくさんあります。モーツァルトの音楽
をこよなく愛するファンにとっては、そういうことをあからさま
にされることはけっして愉快なことではないでしょう。
 しかし、そういう事実に目を塞ぐことなく、歴史的背景を含め
てモーツァルトを取り巻く事情を十分掴んだ上で彼の音楽を聴い
た方が、一層モーツァルトの音楽が理解できると思います。まだ
まだ書くことはたくさんありますが、モーツァルトのテーマは、
これで終ります。長い間のご愛読を感謝いたします。
 なお、本号が今年お送りする最後のEJになります。新年は1
月5日から新しいテーマでお送りします。1998年10月15
日から続けているEJは、1月17日に2000号に到達いたし
ます。皆様、どうか良いお年を! ・・・ [モーツァルト70]


≪画像および関連情報≫
 ・藤澤修治氏の論文より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  探ってみれば、コンスタンツェがモーツァルトに対して腹に
  据えかねると思うようなことはいくつもあった。そんなとこ
  ろに自分の姉と夫に不倫があったと彼女は知ったのである。
  これでは、コンスタンツェの髪が逆立って、殺してやりたい
  ほどの感情を彼女が抱いたとしても不思議はない。こういっ
  たことも手伝って、やがて彼女は自分の母親にそそのかされ
  て夫の死に関与してしまうという、取り返しのつかない犯罪
  行為に手を染めたのである。
       http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part4.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

1992号.jpg
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2006年12月29日

EJバックナンバー『映画「マトリックス」(その5)』

2003年12月19日に配信したEJ1256号(全9回連載の内 第5回)を過去ログに掲載しました。
○ マトリックスの中の人間の研究(EJ1256号)
posted by 平野 浩 at 17:53| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月30日

EJバックナンバー『映画「マトリックス」(その6)』

2003年12月22日に配信したEJ1257号(全9回連載の内 第6回)を過去ログに掲載しました。
○ 単なるアクション映画でない証拠(EJ1257号)
posted by 平野 浩 at 05:00| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月31日

EJバックナンバー『映画「マトリックス」(その7)』

2003年12月24日に配信したEJ1258号(全9回連載の内 第7回)を過去ログに掲載しました。
○ ネオはなぜ空を飛べるのか(EJ1258号)
posted by 平野 浩 at 05:22| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする