時55分ということではっきりしています。しかし、葬儀の日付
については死亡日ほどはっきりしていないのです。
それなら、聖シュテファン教会の死者台帳にはどのように記述
されているのでしょうか。死者台帳には、1791年12月6日
と明記されています。
普通であればこれで決まりなのです。死者台帳が日付を間違っ
て記載されるはずがないからです。しかし、葬儀当日の天候が合
わないことと、モーツァルトが毒殺されたとする説を否定しよう
とする勢力によって、12月7日説が最近になって出てきたので
す。どうして、6日だと普通の病死ではないとされるかについて
は、これから述べていくことにします。
モーツァルトが亡くなったあと、疑わしいことがたくさん出て
きています。それは、モーツァルトの臨終のさいは看護を妹のゾ
フィーにまかせきりにし、目だった動きをしなかったコンスタン
ツェが、モーツァルトが死ぬと急にテキパキと動き出したことで
す。それは、まるでモーツァルトの死を待っていたかのようだっ
たといわれます。
それは、モーツァルトが死んでほどなくして、知らせを聞いて
ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵が姿を現したことに
よって、わかったのです。モーツァルトの死後、コンスタンツェ
が召使の誰かに命じ、男爵に連絡を入れたからです。そして、彼
はコンスタンツェと葬儀の段取りを決め始めたのです。彼は最初
から葬儀を取り仕切るつもりでやってきたのです。
EJ第1968号で述べたように、モーツァルトはコンスタン
ツェに、自分が死んだらアルブレヒツベルガーに一番最初に連絡
をとるようにいっています。アルブレヒツベルガーは宮廷付きの
オルガニストでモーツァルトの友人であり、モーツァルトから葬
儀などを依頼されていたのです。
しかし、コンスタンツェはモーツァルトの言いつけを無視し、
スヴィーテン男爵に連絡をとったのです。おそらく事前にコンス
タンツから話がいっていたのでしょう。スヴィーテン男爵は深夜
にもかかわらず、モーツァルトの家に駆けつけたのです。
それでは、スヴィーテン男爵とモーツァルトとの付き合いはど
の程度のものだったのでしょうか。
スヴィーテン男爵との付き合いはフリーメーソンを通じてのも
のであり、いくつか作曲や編曲の仕事をもらっています。しかし
最後にヘンデル作品の編曲の仕事を最後に1年半以上疎遠になっ
ており、とくに親しい付き合いではなかったのです。
コンスタンツェとしては、モーツァルトの死をいち早く伝える
べき人はたくさんいたはずです。親友のフォン・ジャカン、アロ
イジアの夫であるランゲ、何回も資金援助を受けた恩人のブフベ
ルク、それに『魔笛』を共に制作した仲間であるシカネーダーな
どです。しかし、コンスタンツェはなぜか、モーツァルトとあま
り接触のなかったスヴィーテン男爵を呼んでいるのです。遠くに
住んでいたとはいえ、モーツァルトの姉のナンネルにさえコンス
タンツェは最後までモーツァルトの死を伝えなかったのです。こ
れは妻として最低の行為と批判されても仕方がないのです。
もうひとつ、モーツァルトが死んだときコンスタンツェは、モ
ーツァルトの友人の1人であるヨーゼフ・ダイナーのところへ女
中を走らせ、モーツァルトを死装束を着せ替えるよう頼んでいま
す。12月5日の午前5時のことです。
なぜ、そんなに急ぐのでしょうか。夏であれば遺体の腐敗も考
慮して急ぐ必要がありますが、時期は厳冬の季節であってそんな
に急ぐ必要はまったくないのです。
それは何らかの理由で、モーツァルトの遺体をあまり多くの人
には見せたくなかったのではないかと思われます。したがって、
少しでも早く遺体に死装束を着せ、モーツァルトの死を多くの人
が知る前に葬儀を済ます必要があったのでしょう。
そのためには、あとで墓が掘り返される恐れのない最下等の葬
儀と共同墓地への埋葬一番都合が良かったのです。スヴィーテン
男爵は、深夜に駆けつけるや否やコンスタンツェに、第3等の葬
儀と共同墓地への埋葬を提案し、コンスタンツェは誰に相談する
ことなく、それに同意しています。
葬儀費用は8フローリン56クロイツァー――これは貧民のた
めの無料の葬儀の一つ上のランクの葬儀なのです。おそらく事前
にコンスタンツェは男爵に、借金が多く葬儀にお金をかけられな
いことを話していたものと思われます。何やらモーツァルトが死
んだらこうするということを前々からよく計画を練っていたフシ
が濃厚なのです。
既にご紹介しているモーツァルトの研究家藤澤修治氏のレポー
トによると、死の直前のモーツァルトは相当金銭的に潤っていた
としています。そのいくつかの根拠を示します。
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『レクイエム』作曲料の前金 ・・・ 225フローリン
『皇帝テイトゥスの慈悲』の作曲料・ 1125フローリン
『魔笛』の作曲料 ・・・・・・・・ 900フローリン
宮廷音楽家の報酬/5ヶ月分 ・・・ 2630フローリン
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4880フローリン
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これだけで4880フローリン――この他楽譜出版収入、ピア
ノや作曲の教授料などを加えると、ゆうに5000フローリンを
超える収入(1フローリン=約1万円)があったのです。これで
最下等の葬儀しか出せないはずはないのです。
コンスタンツェは、モーツァルトに親しい友人であれば、死の
直前のモーツァルトの懐具合を知っているので、あえて疎遠のス
ヴィーテン男爵に葬儀執行人を頼んだのではないかと推測できる
のです。しかし、最下等の葬儀を選んだのはお金のためではない
ある事情があったのです。 ・・・ [モーツァルト51]
≪画像および関連情報≫
・聖シュテファン大聖堂について
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ハプスブルク家のルドルフ4世はこの教会をゴシック様式に
全面的に建て替えることを命じ、1359年聖堂の中央部分
と両側の廊下部分の礎石が据えられました。南塔は高さが、
136.7メートルあり、1433年に完成。1469年に
は、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ3世がローマ法王を説得
して、それまでパッサウ司教区に属していたウィーンを、独
立の司教区に格上げしました。皇帝はこの大聖堂に埋葬され
ています。
http://info.wien.at/article.asp?IDArticle=11795
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