2006年11月01日

モーツァルトとホ長調の研究(EJ1953号)

 パミーナに対する大地の試練は、どのように行われていたので
しょうか。
 それは、タミーノの大地の試練のすぐあとで行われているので
す。楽曲ナンバー13「モノスタトスのクープレ」(EJ第19
50号参照)です。
 場面は心地よい庭園で時間は夜です。薔薇とさまざまな花壇の
あるところにパミーナは眠っています。薔薇は女性のフリーメー
ソンの入信式のシンボルなのです。女性フリーメーソン結社につ
いては『魔笛』と関係があるので、改めて述べることにします。
 夜はそのまま「反省の部屋」になり、夜はパミーナの母親の王
国です。そこに大地の化身であるモノスタトスが登場し、眠って
いるパミーナに対し、「これほどの魅力に鈍感でいられる男はい
ない」と歌い、パミーナを自分のものにしようとします。
 そうすると、奈落(大地)から夜の女王が姿をあらわし、モノ
スタトスを追い払うのです。夜の女王は、目を覚ました娘に対し
省略されることの多い例の打ち明け話(EJ第1947号参照)
をするのです。そして、短刀を渡してザラストロを殺せと娘に命
令します。
 短刀を手にして思案にくれているパミーナのところに再びモノ
スタトスがあらわれます。夜の女王の話を盗み聞きしていたので
す。そして、パミーナにいうことを聞かないと、その話をザラス
トロにばらすと脅迫しますが、パミーナはそれを拒否します。
 そこにザラストロがあらわれてモノスタトスを追い払います。
ここでパミーナの大地の試練は終了するのです。ザラストロの2
つ目のアリアがここで歌われることは既に述べましたが、このア
リアはモーツァルトにとっては大変珍しい曲なのです。
 それは、このアリアの調性がホ長調であることです。ホ長調は
シャープ(♯)が4つ付く調性であり、モーツァルトがめったに
使わない調性なのです。既出のジャック・シャイエは、これにつ
いて次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ホ長調はモーツァルトがそれまで用いてきた調性のうちでは、
 最もシャープの数が多いものであり、それも極度に倹約してい
 る。彼の全器楽作品の調性目録のなかで、この調性が見られる
 のは、1780年までに3度、1780年から1791年まで
 に2度であり、それもほとんどメヌエットのトリオのなかにあ
 る。それは、この曲が喚起している至福の楽園の牧歌的な清澄
 さを描くためにはとくに適していた――たとえ、それを用いる
 ことによって、モーツァルトがスコアの他の調性のさまざまな
 約束ごとを乱しているとしてもである。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 このザラストロのアリアは、大地の試練で悩み苦しむパミーナ
にとって最大の癒しとなる歌になっています。そこには賢者たち
の楽園の牧歌的な描写があり、夜の女王が訴える復讐を知らず、
友愛が支配しています。『魔笛』を鑑賞した人でも、ぜひ改めて
このアリアを聴き直してみる価値はあると思います。
 このアリアの最後の一節は、夜の女王の心の狭さを批判する警
句ともなっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   このような教えを喜ばない者は人たるに値しない
―――――――――――――――――――――――――――――
 このなかの「人」は「Mensch/人間」であって「Mann/男」で
はないのです。もはや両性の争いではなく、人類が問題なのだと
いうことを歌っているからです。まして復讐などはあってはなら
ないと歌うのです。
 次の試練は「空気の試練」です。この試練には、次の2つのこ
とが試されるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       1.ご馳走の誘惑を乗り越える
       2.高度のレベルの沈黙を守る
―――――――――――――――――――――――――――――
 タミーノとパパゲーノの空気の試練は、楽曲ナンバー16「3
人の童子の3重唱」からはじまるのです。3人の童子はこのとき
大地の試練を受けるとき、取り上げられていたタミーノの笛とパ
パゲーノの鈴を2人に返しているのですが、これには深い意味が
あるのです。
 タミーノにとって上記の1に関しては問題ではないものの、つ
らかったのは、2の「高度のレベルの沈黙を守る」ことだったの
です。「高度のレベル」とは、世間的な女性一般に対して沈黙を
守るだけでなく、自分が深く愛する女性――パミーナに対しても
沈黙を貫かなければならないことを意味していたからです。
 パパゲーノはご馳走にむさぶりついたのですが、タミーノはそ
れを拒否し、自分の手に戻ってきた笛を吹いたのです。笛に誘わ
れてパミーナが姿をあらわしたのですが、彼は彼女と話すことを
拒否し、沈黙を守ったのです。パミーナは、タミーノが試練を受
けていることを知らないので、タミーノが自分を嫌いになったも
のと思い込み、絶望感に襲われたのです。そして、タミーノは空
気の試練に合格するのです。
 これに対してパミーナに対する空気の試練は、タミーノとの別
れと苦悩、自殺の決意――そして、それを乗り越えたことがその
まま試練になっているのです。タミーノやパパゲーノと違う点は
彼らが試練と知って挑戦しているのに対し、パミーナはそれが試
練であるとは聞かされていないことです。
 これで、タミーノとパミーナは、気絶に続く2つの試練――大
地の試験と空気の試練という2つの試練をクリアしたことになり
あと最大の難関といわれる水と火の試練の2つを残すのみとなっ
たのです。この2つの試練をタミーノとパミーナは2人で受ける
こにとなるのです。   ・・・・――  [モーツァルト31]


≪画像および関連情報≫
 ・「沈黙」を守ることについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  フリーメーソンの入会者に対して「沈黙」は執拗に勧告され
  ている。その勧告とは彼らがロッジのなかで見たり聞いたり
  するすべてのことに対して沈黙を守るということである。秘
  密結社ということばが無意味なことばであってはならないか
  らである。しかし、『魔笛』のなかでは、男性が女性に対し
  て沈黙を守るということである。
  ―――――――――――――――――――――――――――

1953号.jpg
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2006年11月02日

パパゲーノの大地と空気の試練(EJ1954号)

 『魔笛』において演じられるフリーメーソンの通過儀礼――つ
まり、「試練」は、あくまでタミーノとパミーナを中心に描かれ
ており、パパゲーノとパパゲーナのそれはどちらかというと狂言
まわし的に表現されています。
 しかし、狂言まわしといっても、そこに原則論的なものは貫か
れていて、ちゃんと説明がつくのです。そこで、パパゲーノによ
る「水の試練」について見ていくことにします。
 タミーノが空気の試練を受けているとき、パパゲーノもその場
にいたのです。しかし、パパゲーノは、3人の童子が運んできた
ご馳走をたらふく食べ、試練に背を向けています。パパゲーノは
喉の渇きを訴えると、水差しを持った老婆がどこからともなく忽
然とあらわれるのです。
 パパゲーノは水が出てきたことに腹を立て、その水を老婆に浴
びせます。実はパパゲーノは葡萄酒しか飲まないので、水を屈辱
的な飲み物と考えており、飲むことを拒絶したわけです。
 しかし、「水」は女性のシンボルであり、パパゲーノはこれを
拒否してしまったので、彼はカップルを構成する機会を逸したこ
とになるのです。
 一方、パパゲーナの方は、パパゲーノから水を浴びせられたこ
とによって、結果として洗礼を施こされることになったのです。
これは、彼女にとっては、不完全ながら水の試練を受けたことに
なり、それだけパパゲーナはパパゲーノに近づきやすくなったこ
とを意味しています。しかし、試練が十分でないので、老婆のか
たちは変わらないのです。もちろんパパゲーノは、そんなことは
知らないでいるのです。
 しかし、パパゲーノは一回だけ老婆の姿でないパパゲーナを見
る機会があります。それはパパゲーノが大地の試練に失敗したと
き、弁者が登場し、パパゲーノの臆病さを責めたのです。「お前
は大地の暗い奥底を永遠にさまようがよい」と僧侶がいうと、パ
パゲーノは、「そんなことはどうでもよい。葡萄酒を飲ませてく
れ」とせがみます。僧侶は「それなら、飲ませてあげよう」とい
うと、大地から大きな葡萄酒があらわれたのです。パパゲーノは
われを忘れて葡萄酒を飲むのです。
 これはかたちを変えた大地の試練なのです。葡萄酒は「母なる
大地」の生産物のシンボルであるからです。興に乗ったパパゲー
ノは、夜の女王からもらった鈴――グロッケンシュピールを鳴ら
して有名なアリア――「かわいい娘か女房が」を歌います。
―――――――――――――――――――――――――――――
       可愛い娘か女房が
       欲しゅうてならぬ、パパゲーノは
       おお、そんなにやさしい小鳩がいたら
       さぞやおいらは楽しかろ!
       飲むもの、食うもの、みなうまく
       位でいえばお殿様
       賢者のように満ち足りて
       極楽浄土にいる気持
       かわいい娘か女房か
―――――――――――――――――――――――――――――
 この鈴の音を聞いて、小さな老婆が杖で大地を叩いて踊りなが
ら登場します。彼女は可愛いらしく、空気のように軽快なパパゲ
ーナの姿になっているのです。ジャック・シャイエによると、こ
れは葡萄酒の力によって幻覚として老婆がパパゲーナの姿になっ
ていると解説しています。
 その証拠にパパゲーノがわれを忘れてパパゲーナに抱きつこう
とすると、僧侶が中に入って2人を引き離します。試練が完了し
ていない――つまり、空気の試練が終わっていないというわけで
す。パパゲーノは絶望のあまり絶叫します。
―――――――――――――――――――――――――――――
  たとえ大地に飲み込まれても、あの娘のあとを追ってやる
―――――――――――――――――――――――――――――
 そうすると、たちまち大地がパパゲーノの足元から崩れ、彼は
地中に飲み込まれます。これによって、パパゲーノの大地の試練
は終了したのです。
 すっかり、絶望したパパゲーノは、首をつって自殺しようとし
ます。このとき、モーツァルトは喜劇の軽やかな調子を離れるこ
となく、苦悩の音楽を表現することに成功しています。オーケス
トラの激しい動き、多様な転調、短調の軽いタッチなどを駆使し
てです。パパゲーノの悲しさ、絶望感がよく出ています。
 彼は首吊りを実行に移そうとして、若干時間稼ぎをします。誰
かが引き止めてくれると考えたからです。
 しかし、誰も引き止めてくれないので、今度は5つの連続音の
出る小さな笛を何回も吹きます。これがよかったのです。笛は通
風楽器であり、タミーノの笛と同様に空気の試練の道具として機
能したからです。
 その効果はてきめんで、3人の童子はパパゲーノに呼びかけま
す。「パパゲーノ!鈴を鳴らしてごらん!」と。楽曲ナンバーの
21−Cです。鈴の音に誘導されて、老婆の姿でないパパゲーナ
が登場します。そして2人で歌われるのが、「パ・パ・パの二重
唱」といわれるナンバーです。
 この二重唱について、ジャック・シャイエは次のように書いて
います。本当に心温まる二重唱です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 無邪気でありながら非常に面白いこの有名な二重唱は、最も近
 いカデンツの和音からはみ出すことなく、また3つの区分のど
 の肉声でも転調することなく、130小節にわたってその面白
 さを保つという離れ業をやってのける。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 次は、火と水の試験です。・・・――  [モーツァルト32]


≪画像および関連情報≫
 ・通過儀礼による「気絶」について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  いかなる試練も一巡すると人格が完全に変容することになっ
  ている。すなわち、未来の選ばれた人は、まず古い生を死に
  次いで新しい生に生まれ変わるのである。このような観念は
  フリーメーソン結社が位階の称号を授与するたびに、(「知
  識」に一歩近づくことを表わしている)採りいれているもの
  だが、この結社独自のものではない。キリスト教を含むほと
  んどすべての宗教はそのことを知っている。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

1954号.jpg
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2006年11月03日

EJバックナンバー『本能寺の変(その7)』

2002年8月6日に配信したEJ919号(全11回連載の内 第7回)を過去ログに掲載しました。
○ 信長暗殺/細川藤孝フィクサー説もある(EJ919号)
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2006年11月04日

EJバックナンバー『本能寺の変(その8)』

2002年8月7日に配信したEJ920号(全11回連載の内 第8回)を過去ログに掲載しました。
○ 八切止夫意外史は注目に値する(EJ920号)
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2006年11月05日

EJバックナンバー『本能寺の変(その9)』

2002年8月8日に配信したEJ921号(全11回連載の内 第9回)を過去ログに掲載しました。
○ 朝廷は深く関与していた−−立花説(EJ921号)
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2006年11月06日

タミーノとパミーナの火と水の試練(EJ1955号)

 タミーノとパミーナについては、大地の試練と空気の試練は既
にクリアしています。しかし、パミーナは女性であることなどか
ら、タミーノと同じ試練の方法ではなく、別バージョンとなって
おり、本人はそうと意識していないのです。
 彼らに残っているのは、火と水の試練です。タミーノはその試
練を受け入れ、挑戦しようとしますが、パミーナは命令も許可も
受けていないので、その心構えはできていないのです。そのため
自分に背を向けてしまうタミーノに対して絶望感を抱いて自殺し
ようとします。
 それを引きとめたのは、3人の童子なのです。短刀で自殺しよ
うとするパミーナに対して次のようにいうのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 おお、不幸な人よ、おやめなさい。あなたの王子さまがこれを
 見たら、悲しみのあまり死んでしまいますよ。彼はあなただけ
 を愛しているのですから。         ――3人の童子
―――――――――――――――――――――――――――――
 3人の童子のこのことばを聞いて、パミーナは愕然とし、生気
を取り戻すのです。そして、3人の童子はパミーナをタミーノの
ところに連れていくのです。
 場面は変わって、タミーノに対する火と水の試練の現場です。
突如として2人の鎧を着た男が登場します。闇の中で黒い鎧を着
て、兜の上には火が燃えている――あるいは手に松明を持って登
場してくるのです。そして、男たちは次のように歌うのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   苦難に満ちたこの道をたどる者は、
   火、水、空気、土によって浄められる
   死の恐怖に打ち勝つことができるならば
   この地上から天界に舞い上がるであろう
   かくて、その者は心の目を開かれ、イシスの秘儀に
   全身を捧げることができるであろう
―――――――――――――――――――――――――――――
 「兜の上で火が燃えている」――不思議な兜ですが、モリエー
ルの「町人貴族」にも、この奇怪な兜――ここでは兜ではなく帽
子であるが――が登場します。第4幕第8場で、トルコ風儀式が
行われるのですが、そこに登場する回教僧のターバンの上には、
火のついたローソクが立ててあるのです。これも明らかに宗教的
な結社の儀式と思われます。
 2人の男は、要するに「火」と「水」の番人なのですが、彼ら
の歌は、ルター派教会の讃美歌「コラール」の旋律で歌われてい
る点に留意する必要があります。特定の宗教に依存しないはずの
フリーメーソンの儀礼において、なぜ、コラールが出てくるので
しょうか。これはモーツァルト音楽の音楽的装飾の領域における
謎とされているのです。
 ちなみに、コラールのメロディーは多くの場合単純で、歌うの
が容易なのです。それらは一般に韻を踏んだ詞を持つ、有節形式
(歌詞に1番、2番があること)です。初期のコラールの歌詞と
音楽は宗教改革以前の賛美歌や世俗歌からとられたのですが、い
くつかのコラールの旋律はマルティン・ルター自身によって書か
れたものもあるということです。
 さて、タミーノが「私のために恐怖の門を開け」と歌い、火と
水の試練への一歩を踏み出そうとしたとき、パミーナの声が聞こ
えてくるのです。彼女はタミーノと危険を共にしたいと願い出て
許されたのです。
 ここで重要なことは、パミーナが、自分が試練に立ち向かって
いることを認識している点です。それは女性がその資格において
入信式の試練を受ける許可を正式に受けていることを意味するか
らです。2人の鎧を着た男とタミーノの三重唱のかたちでパミー
ナがタミーノと一緒に火と水の試練を受けることが次のように歌
われるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   夜も死も恐れない女は、尊敬に値し、清められよう
―――――――――――――――――――――――――――――
 女性とフリーメーソン結社との関係については改めて述べるが
女性は正式には「火(男)」と「水(女)」――夫婦の2つの元
素によってしか清められることはないのです。しかし、パミーナ
は、既に見てきたように、本人はそれを認識していなかったもの
の、他の2つの元素「大地」と「空気」の試練を結果としてクリ
アしているのです。タミーナは、この三重唱によってはじめて、
夜の王国の女としての侮辱から解放されたことになるわけです。
 ここでパミーナはタミーノに魔法の笛を吹くよう進言するので
す。そして、実際に火と水の試練は、2人がそれを受けている間
タミーノの吹く笛の音色が響いているだけで終るのです。試練の
中身は何も明らかにされないのです。
 ジャック・シャイエは、魔法の笛について、次のように述べて
いるので、ご紹介しましょう。
―――――――――――――――――――――――――――――
 魔法の「笛」の存在は、この試練に新たな広がりをあたえてい
 る。この試練は、もはやたんに一定のプログラムの成就ではな
 く、一つの縮図であり、総括である。つまり、「笛」は、その
 中に4大元素を凝縮しているだけでなく、タミーノ(火)がパ
 ミーナ(水)を伴って、「大地」の奥に入り、そこで彼ら自身
 のシンボルである2つの元素「男」と「女」に直面するのは、
 その笛に息(空気)を吹き込むことによってである。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 音楽は神々の言葉を借りたものという考え方があり、笛は音楽
の魔術的な力を意味しています。そうであるとすると、このオペ
ラの題名はやはり『魔笛』なのです。―  [モーツァルト33]


≪画像および関連情報≫
 ・タミーノとパパゲーノの火と水の試練の音楽
  ―――――――――――――――――――――――――――
  宗教的金属楽器のわずかな珍しい和音――ティンパニーがた
  だちにこれはこだまの反響のように弱音で答えている――に
  かろうじて支えられて、魔法の笛は、技巧をいっさい排除し
  た厳粛な行進曲として鳴り響く。その間に、火山の門が左右
  に開き、次いでカップルの背後から閉じられる。われわれは
  試練には立ち会わない――このように秘密である――、そし
て音楽のなかでそれを強調するものは何もない。魔法の笛だ
  けが冷静に行進曲を続ける。やがて(演劇的慣習からすれば
  少し早すぎるが)、パミーナとタミーノが再び現われ、抱擁
  し合って舞台中央にとどまる。そのとき、笛の音が止み、オ
  ーケストラが再び鳴りはじめる。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

1955号.jpg
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2006年11月07日

フリーメーソン結社への女性の入会(EJ1956号)

 『魔笛』において、タミーノとパミーナの火と水の試練を見て
いると、フリーメーソンには女性も入会が認められることがわか
ります。火と水の試練をクリアしたタミーノとパミーナは最終的
に聖職者の衣装を着てあらわれるからです。
 モーツァルトの女性観をあらわすオペラに、『コシ・ファン・
トゥッテ』というのがあります。このオペラは次のような内容を
持つ作品です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪第一幕≫
  中世のナポリ。フェランドとグリエルモは軍人で友人同士。
 またドラベッラとフィオルデリジは姉妹。それぞれフェランド
 はドラベッラと、グリエルモとフィオルデリジは婚約者同士で
 ある。二人の男性は共通の友人である老哲学者ドン・アルフォ
 ンソと女性の貞節について賭をする。
  軍隊の出征を告げる太鼓。二人は偽って戦地に向かうことに
 なる。フェランドとグリエルモは賭で約束したとおり、変装し
 て互いの相手の婚約者の前にあらわれアタックする。女 中の
 デスピーナもドン・アルフオンソに買収され、彼に協力する。
 ≪第二幕≫
  はじめは固く拒否していた姉妹も次第にこころを動かしはじ
 める。デスピーナもこれに拍車をかけるようにけしかける。ま
 ずはフィオルデリジが陥落して、ついでドラベッラも相手を受
 け入れる。新しい恋人同士の結婚式が始まろうとする。
  そのとき太鼓が鳴って、軍隊が出征から帰ってくる。二人の
 男性は変装からもとの軍人にもどる。青ざめる姉妹。真相があ
 かされる。四人はもとのさやにおさまって、めでたしめでたし
 となる?
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/3174/cosi.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、このオペラは女性が偽りの愛の誘惑に負けるかどう
かという賭けがテーマなのです。しかも本当の恋人同士が入れ替
わるという仕組みになっていて、観客は二重の意味でモラルに反
した禁断のゲームを味あうことになります。
 それに、このオペラの題名は「女は皆こうしたもの」という意
味であり、そこには女性に対する軽蔑感が感じられます。モーツ
ァルト自身がそういう考え方であったかどうかはわかりませんが
18世紀の欧州社会全体が、表面的には女性に対して親切な態度
を装いながら、その奥底にそういう軽蔑感を包み隠していたこと
は間違いないと考えられるのです。
 カトリック教会をみればわかるように、いかなる宗教団体もそ
の初期の段階においては、多かれ少なかれ男性支配、少なくとも
男女分離の世界であったのです。すなわち、女性が入信式ないし
それに類するものに近づくことを絶対に排除したのです。
 カトリック教会においては、現在でも一部の例外として下位の
地位に就くことはあるものの、女性が聖職に就くことは基本的に
抑制されているのです。その点については、自由、平等、友愛を
掲げるフリーメーソン結社も例外ではないのです。
 フリーメーソン結社には、アンダーソン憲章というものがあり
ます。これはジェイムズ・アンダーソン(1680〜1739)
が起草し、1723年にロンドンで公表されています。各ロッジ
は、これをベースにしてロッジの規約を作成したのです。
 この憲章は二部から成っており、第一部では「フリーメーソン
の歴史」、第2部は「フリーメーソンの責務」と題する6ヶ条が
定められています。その第2部の第3条に「入会規定」として、
次の趣旨のことが記述されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪入会規定/第3条≫
  健全なる肉体と精神を持つ、神を信じる名声ある男性である
  こと。奴隷、女性、品行が悪いかあるいは汚名を受けた人は
  資格がない。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ロッジの中には、この入会規定に疑問を抱き、女性の加入を認
めるところも出てきたのです。この場合、正規の男性ロッジとは
別に女性だけのロッジを作り、それを「養子ロッジ」とするかた
ちをとったのです。しかし、そのロッジは男性ロッジよりも一段
低い位置に置いたのです。
 そういう中にあって、「モプス結社」と名乗るロッジが登場し
てきます。この結社は、男性の役員が義務的に存在していたもの
の、女性に広く門戸を開いた結社で、慈善事業の実行を使命とし
て活動したのです。
 しかし、英国の大ロッジは「ロッジは完全に男性によって構成
されていなければならない」とし、「男女混合ロッジ」や入会規
定において女性の入会を認めているロッジとは、いかなる関係も
持ってはならない――こういう厳しい根本原則を掲げて反対した
のです。その結果、非正規のフリーメーソンロッジがたくさん生
まれることになります。
 さらに1784年になると、錬金術師といわれるカリオストロ
が「エジプトの儀礼」という名称で、男女両性から成るフリーメ
ーソン結社を設立し、自らは男性ロッジ「偉大なるコプト人」と
いう称号を名乗り、妻のロレンツァ・フェリチァーニには「シバ
の女王」という名称を与えて、女性ロッジの「偉大なる女親方」
の地位に昇進させたのです。
 この「エジプトの儀礼」は、あくまでも男性ロッジと女性ロッ
ジを同格に位置づけていますが、男性ロッジの位階の数を3から
7に増やして、結果として男性ロッジを高い位階を持つ上位のフ
リーメーソン結社に位置づけたのです。
 このカリオストロの儀礼の考え方を『魔笛』の台本作家は取り
入れているフシがあるのです。『魔笛』は、結社への女性の入会
に関して一つの道を拓いているのですが、これについては明日の
EJで述べます。      ・・・・  [モーツァルト34]


≪画像および関連情報≫
 ・モプス結社の「モプス」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  「モプス」が何を意味するかはっきりとはわからないが、予
  言者「モプスス」ではないかと考えられる。ギリシャ神話の
  中にはこの名前を持つ予言者は2人いる。ヴィヴァルディは
  「モプスス」についてのカンタータを書いている。
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ・歌劇『コシ・ファン・トゥッテ』から

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2006年11月08日

フリーメーソン結社とフェミニスム(EJ1957号)

 フリーメーソンにおける「男性ロッジ」と「女性ロッジ」の対
立は、『魔笛』における「ザラストロ」と「夜の女王」との対立
と同じ構図であると考えることができます。
 夜の女王は闇の世界だけを統治しており、彼女の配下の3人の
侍女は夜の女王の結社に入信した者とみなすことができます。し
かし、彼女たちの性では絶対に通過できない永遠に不完全な入信
式を受けたことになるのです。これは女性ロッジに入信した女性
と同じ立場であるといえます。
 一方ザラストロは、「太陽の輪」を有し、神の殿堂を守ること
を使命としています。そして、自分たちこそが正規のロッジであ
るとして、闇の世界は認めないのです。闇の世界の存在は神の殿
堂を汚し、呪詛の雷鳴を招く根拠になっている――そう考えてい
るのです。夜の女王や3人の侍女がザラストロの神殿に近づくと
激しい雷鳴が轟くのはそのためです。
 しかし、『魔笛』におけるパミーナの扱い方は、女性にとって
ひとつの救いをもたらすものとなっています。なぜなら、闇の世
界の住人であったパミーナは、その世界から拉致されたとはいえ
彼女の功徳により、必要な試練を乗り越えて、最終的には聖職者
の地位を得ているからです。
 これは、女性ロッジに入会した女性であっても、男性ロッジに
入会した男性と同じように、ひとつずつ位階を乗り越えて最終的
に聖職者のポジションが得られる可能性を暗示しているものとし
て注目されるのです。
 モーツァルトならびに『魔笛』の台本作家は、モプス結社――
代表的な女性ロッジを意識してオペラを作っていると考えられま
す。モプス結社は女性の入信者に対して固有の儀礼を行っていた
のです。この儀礼を象徴するものは、『魔笛』の第1幕の前半に
おいて多く見られるのです。それは次の3つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         1.3人の侍女たちの殺す蛇
         2.パパゲーノが提供する鳥
         3.秘密を厳守させる南京錠
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1は「3人の侍女たちの殺す蛇」です。
 聖書の「創世記」において、蛇は女性を誘惑するための小道具
として使われています。蛇はエヴァに近づき、神が禁じていたに
もかかわらず、善悪の知識の木の実を食べるよう唆したのです。
 ジャック・シャイエは、モプス結社の入信式について、次のよ
うに述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 女性の入信式には聖書の「誘惑」への暗示が満ち溢れている。
 第1段階、すなわち「徒弟」位階へ加入するためには、未来の
 「姉妹」は蛇の絵を手に握っていなければならない。次の位階
 すなわち、「職人」位階では、彼女たちは、エデンの園の場面
 を追体験し、「叡知」の果実である林檎を食べなければならな
 い。この林檎は、真二つに割れていて、種が女性の数である五
 角星を表わしている。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 第2は「パパゲーノが提供する鳥」です。
 この場合、鳥は「軽薄さ」の象徴なのです。パパゲーノは自分
の食用に鳥を捕えているのではなく、夜の女王の命令によって鳥
を捕え、その鳥(軽薄さ)と引き換えに日々の食料と飲料を得て
暮らしているのです。このようなことでは、彼女たちが「完全な
知識」に近づくことはけっしてないのです。
 第3は「秘密を厳守させる南京錠」です。
 『魔笛』の第1幕の冒頭において、3人の侍女はパパゲーノが
蛇を殺したのは自分だとウソをついた罰として、口に南京錠をか
けて、喋らせないようにするシーンがあります。実は、この南京
錠もモプス結社の入信式に使われる道具なのです。
 この南京錠は、モプス結社の職人の位階において、秘密を厳守
させるための小道具なのです。儀礼においては、次のように行わ
れるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 導師は新会員を起き上がらせる。そして、先を聖なる槽の中に
 ひたしておいた鏝(こて)をとって、彼女の唇に五度触れさせ
 てから次のようにいう。「余が汝の唇にあてたものは、秘密厳
 守の封印である。汝はやがてその封印に秘められた教訓を学ぶ
 ことになろう」。
      ――ジャック・シャイエ著/高橋英郎・藤井康生訳
            『魔笛/秘教オペラ』より。白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 夜の女王と3人の侍女をよく見ると、ヴェールで顔を隠してい
ます。これは、女性が完全な「知識」に近づくことがないことを
示しているのです。彼女たちの行動には制約があり、明らかに限
界があるのです。
 タミーノとパパゲーノが夜の女王と3人の侍女から説得され、
その気になってザラストロの城に出かけようとする――そうする
と、3人の侍女は別れを告げて去って行こうとするシーンがあり
ます。タミーノはあわてて「道を教えてくれ」というと、侍女た
ちは3人の童子にその役割を譲って姿を消してしまいます。
 これは、侍女たちにはその性――女性の制約によって、ザラス
トロの城への案内ができないのです。そこで男性の3人の童子に
その役割をバトンタッチしたのです。3人の童子は女性歌手が歌
うことが多いですが、通過儀礼としては3人の童子はあくまでも
男性であることが必要なのです。
 このような観点から考えても、『魔笛』におけるパミーナの扱
いは異例であって、その後の女性ロッジの扱いについて重要なイ
ンパクトを与えたのです。  ・・・・  [モーツァルト35]


≪画像および関連情報≫
 ・3人の侍女と別れの場面
  ―――――――――――――――――――――――――――
  タミーノ :おっと、美しいご婦人方、教えてください。
  パパゲーノ:その城にはどう行くのですか。
  3人の侍女:若く、美しく、やさしく、賢い3人の少年が、
        あなた方の旅に見え隠れに付き合います。その
        少年たちが案内してくれるでしょう。彼らの助
        言に従えば、それで良いのです。
  ―――――――――――――――――――――――――――

1957号.jpg
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2006年11月09日

真の台本作家は誰なのか(EJ1958号)

 『魔笛』というオペラは、台本は取るに足らないおとぎ話であ
るが、その素晴らしい音楽によって、モーツァルトの代表的なオ
ペラになっていると考えている人が多いと思います。実際にこの
オペラは、劇としての意味はよく分からなくても、全編に流れる
優しい、親しみやすい音楽によって、観客として十分な満足感が
得られることは確かです。
 『魔笛』の台本作家は、エマヌエル・シカネーダーということ
になっています。しかし、ここまでの分析により、シカネーダー
は、演出は担当したものの、このオペラの真の台本作家ではない
のではないかと考えられるのです。
 なぜなら、『魔笛』では、明らかに台本も音楽もフリーメーソ
ン結社の通過儀礼を精緻に描いており、これほどの内容の台本を
シカネーダーに書けるはずがないからです。確かにシカネーダー
は、一時期フリーメーソンであったことがありますが、熱心な会
員ではなく、「職人」以上の位階に昇進できなかったのです。そ
の後、日頃の行いが良くないという理由で、レーゲンスブルグの
彼のロッジ「3つ鍵カール」から破門されているのです。そうい
う男が、これほどの精緻な台本を書けるはずがないのです。
 それなら、一体誰が『魔笛』の台本を書いたのでしょうか。
 確証はないものの、情報を総合すると、イグナーツ・フォン・
ボルンの指導を受けたモーツァルトがあくまで主体となって台本
作りに取り組み、それをシカネーダーやギーゼッケなどがサポー
トしたのではないかと考えられるのです。
 モーツァルトは「恩恵」ロッジに籍を置いていたとはいえ、自
分のロッジよりも、フォン・ボルンが主宰する同系統の「真の調
和」ロッジの方に熱心に出席しており、フォン・ボルンの影響を
大きく受けていたのです。したがって、『魔笛』の制作に当たっ
て、モーツァルトがフォン・ボルンの指導を受けたという可能性
は十分あるのです。
 この台本の解釈を巡って、演出上大きな間違いも出てくるので
す。確証がないのであえて名前を伏せますが、ある高名な指揮者
――音楽ファンでなくても誰でも知っている高名な指揮者は『魔
笛』の演出に当たって、「3人の童子」を「3人の精霊」と解釈
し、舞台上も女性に演じさせています。しかし、これは大きな間
違いということになります。
 確かに「3人の童子」は女声で歌われることが多いのですが、
舞台に出てくるときはあくまで男の子の格好をしていなければな
らないのです。なぜなら、「3人の童子」は、ザラストロ側の人
間であり、通過儀礼において一定の役割を果たしているのであっ
て、必ず男性でなければならない――その理由は既に述べた通り
です。しかるに、その高名な指揮者は、そういうことについて、
全く意を払っていないのです。
 1791年9月30日、『魔笛』は初演されています。その初
演を観る機会を持った観客は、その比類のない音楽の美しさとモ
チーフの豊富さに、それまでのモーツァルトの作品とは違った感
動を示したといいます。それは「熱狂」と呼ぶにふさわしい反応
示したのです。
 上演のたびごとにその熱狂さは増大し、このオペラは、初演以
来16晩連続して上演されたのです。モーツァルトは、最初の3
晩は指揮をとったのですが、そのときモーツァルトの身体はかな
り弱っていて、モーツァルトの弟子のジュスマイヤーが横に座っ
て譜面をめくっていたといいます。
 初演の日、観客は喝采の嵐のなかで、モーツァルトを熱心に呼
び求めたのですが、一向に姿をあらわさなかったというのです。
シカネーダーとジュスマイヤーは、劇場中を探して、隠れている
モーツァルトを探して舞台に立たせたといわれます。
 結局、『魔笛』は、1791年10月は24回上演されており
その売り上げ総額は、8443フローリンを計上したといわれて
います。入場料も安く、劇場も狭かったにもかかわらずこの額は
当時としては信じられない額であったのです。
 しかし、『魔笛』では、モーツァルトに大した収益はもたらさ
なかったのです。それは、シカネーダーがモーツァルトに約束の
謝礼金を支払わなかったからです。当時は、作曲家よりも劇場の
支配人の方が力は強かったからです。
 本来は他の劇場にスコアを売るときは、それはモーツァルトの
収入になるはずだったのに、シカネーダーはその約束を破り、約
束の金を払わなかったのです。
 映画『アマデウス』では、『魔笛』の初演の演奏の最中にモー
ツァルトが倒れた設定になっていますが、実際はそうではなく、
初演以来の上演のたびに、『魔笛』が人気を集めつつあったとき
モーツァルトは、もはや寝床から起き上がるのは困難になりつつ
あったのです。
 そういうときでも、モーツァルトは『魔笛』の公演は気になっ
ていたらしく、ベットでしきりと時計を見ては、「ちょうど夜の
女王が出てくる時刻だ」などとつぶやいていたというのです。そ
れほど、モーツァルトにとってこのオペラは、今までのオペラと
は違う特別な思い入れがあったものと考えられます。
 『魔笛』に関しては、その解釈を巡って諸説があるため、その
演出は大変難しいのです。それは指揮者や演出家がどれだけこの
オペラを知っているかによって、その演出の出来栄えが大きく異
なってくるからです。
 そういう意味で注目されたのは、2005年のザルツブルク音
楽祭での『魔笛』の公演――リッカルド・ムーティの指揮による
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏です。
 次の年にモーツァルト生誕250周年を控えているので、意欲
的な演出が注目されたのですが、期待通りのユニークな演出が行
われて話題となっています。グラハム・ヴィックの演出です。
 ヴィックの『魔笛』の演出は大方の意表をつくものであり、賛
否両論があります。この演出の詳細については、明日のEJでお
知らせしたいと思います。  ・・・・  [モーツァルト36]


≪画像および関連情報≫
 ・『レクイエム』と『魔笛』について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『レクイエム』と『魔笛』のあいだには、いくつかの類似点
  がある。アインシュタインは、メーソン的要素が、教会の葬
  儀に浸透していただろうと考えている。バセットホルンとト
  ロンボーンを演奏する冒頭部『レクイエム』の厳粛な曲の流
  れは、オペラの方の厳粛な場面を想起させるし、また、「妙
  なるラッパ」のなかのいくつかの言葉は、『魔笛』の言葉に
  似ている。
      ――キャサリン・トムソン著/湯川新/田口孝吉訳
   『モーツァルトとフリーメーソン』より。法政大学出版局
  ―――――――――――――――――――――――――――

3人の童子.jpg
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2006年11月10日

意表をつくヴィックによる新演出(EJ1959号)

 2005年のザルツブルグ音楽祭においては、モーツァルト生
誕250周年の前年ということで、モーツァルトについては、3
つのオペラ――『魔笛』、『ポントの王ミトリダーテ』、『コシ
・ファン・トゥッテ』が新演出で演奏されたのです。
 そのうち、『魔笛』に関しては、次の指揮者、演出者によって
演奏されています。
―――――――――――――――――――――――――――――
              モーツァルト作曲/歌劇『魔笛』
     リッカルド・ムーティ指揮/グラハム・ヴィック演出
            ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
―――――――――――――――――――――――――――――
 2005年の『魔笛』の新演出の模様のご紹介は、広島大学大
学院文学研究科論集/第65巻による河原俊雄氏の論文に基づい
ています。
 『魔笛』では、序曲が終わって第1幕の幕が上がると、うっそ
うとした奥深い森の中のシーン。そこに、いきなり、タミーノが
「助けてくれ!」と叫びながら、舞台の奥から飛び出してくるの
です。その後から、巨大な蛇がタミーノを追いかけてきます。
 演出によりますが、多くの場合、大蛇は中に人が入ったぬいぐ
るみで、ぜんぜん怖さを感じないのです。まさに子供騙しそのも
のです。いかにもシカネーダーらしい演出といえます。
 ところが、ヴィックの演出はぜんぜん違うのです。幕が上がる
と、そこは森の中などではなく、小さな部屋――すなわち、タミ
ーノの部屋なのです。そこには、熱帯魚の水槽があり、サーフボ
ードが置いてあり、PCまであるのです。
 そこに蛇が登場してきます。それも小さな青大将ぐらいの蛇な
のです。しかし、タミーノは大げさに救いを求めます。「助けて
くれ!」「助けてくれ!」と。そして、ベットの上で気絶してし
まうのです。
 もっとも、蛇の好きなことは別として、舞台の上で明らかにぬ
いぐるみとわかる大蛇が出てくるよりも、自分の部屋に青大将程
度の大きさの蛇があらわれたときの方が怖いとは思います。しか
し、気絶までするのは大げさではありますが・・・。
 それでは、蛇を退治するために登場する3人の侍女はどこから
出てくるのかというと、壁からスルリと出てくるのです。衣装は
部屋の壁紙の柄や色と同じなのです。3人の侍女は蛇を退治する
と、気絶しているタミーノを眺め、あれやこれや美少年を賛美し
て、触りまくるのです。
 それならば、パパゲーノはどこから出てくるのでしょうか。そ
れは東京ガスのCMのように洋服ダンスから出てくるのです。例
のガス・パッ・チョです。毛皮のようなタッチの緑色の長いコー
トを着て、どことなく、ヒッピー風のスタイルで登場します。
 こういう展開でわかるように、ヴィックは『魔笛』の台本で指
定されている状況をできる限り、日常的な世界に置き換えようと
しているわけです。
 それでは、パミーナの肖像画を見せられてアリアを歌う場面は
どうなっているのでしょうか。ヴィックは肖像画をパミーナのポ
スターにしているのです。そのポスターを部屋の床の上に広げて
見入るタミーノ。そして、思わずアリアを歌う。10代後半の年
齢のタミーノであれば、あってもおかしくはないといえます。一
目惚れです。
 どちらかというと『魔笛』では、最初からタミーノを神々しい
特別な青年としてとらえ、オペラの主役にして、王子が数々の苦
難を乗り越えて理性と道徳と叡知を身に着けてザラストロの後継
者となるプロセスを画く演出をするのが多いのです。
 しかし、ヴィックの演出では、タミーノを若くて未熟な青年と
して突き放し、客観的に見ているところがあります。この演出は
正しいのです。10代後半の若者は未熟であって当然であり、そ
ういう若者が、最終的にザラストロの後継者になるということが
観客に素直に納得できるかどうか。それは、以後のさまざまな試
練を彼が乗り越える演出にすべてがかかっているといえます。
 タミーノの未熟さ、軽薄さは、音楽の付かないパパゲーノとの
次の対話でよく表現されています。『魔笛』の台本は、もともと
そのように表現されているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 タミーノ :君は陽気な人なんだね。誰なのか教えてくれる?
 パパゲーノ:誰なのかだって。ばかな質問だね。あんたと同じ
       人間さ。それじゃ、今度はこっちが誰なのかって
       聞いたら?
 タミーノ :そうしたらこう答える。王家の血筋の者だって。
―――――――――――――――――――――――――――――
 タミーノにとっては、「王子」とは自分を他人と識別できる唯
一の社会的属性だと思っています。しかし、同然のことながら、
それはパパゲーノにとっては何の意味もないことなのです。王子
である前に人間である――これが重要なのです。
 これと関連あるやり取りが、弁者とザラストロの間で行われて
いるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 弁者   :・・・私はこの若者のことが心配なのです。もし
       もです。もしも苦痛に打ちひしがれ、精神に見捨
       てられ、厳しい戦いに屈するようなことにでもな
       ったら、彼は王子ですよ。
 ザラストロ:それ以上だ。彼は人間だ。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「王子である以前に人間である」――タミーノとパパゲーノと
のやり取り、弁者とザラストロとのやり取り、ともに同じことを
いっています。この意味において、パパゲーノはザラストロの考
えは同じであり、タミーノにそれを気づかせる存在となっている
のです。ヴィックの演出はそのあたりのことを意識してやってい
ると考えることができます。 ・・・・  [モーツァルト37]


≪画像および関連情報≫
 ・ザルツブルグ音楽祭について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ザルツブルク・フェスティヴァル/ザルツブルク音楽祭は、
  オーストリアのザルツブルグで開かれる音楽祭である。毎年
  夏に行われる。モーツァルトを記念したフェスティヴァルと
  して、世界的に知られている。ウィーン・フィルを始め、世
  界のトップオーケストラ、歌劇団、指揮者が集うこのフェス
  ティヴァルは、世界でもっとも高級かつ注目を浴びる音楽祭
  であるが、あくまで演劇部門が大きなウェイトを占めており
  本来ならば「音楽祭」と呼ぶのは不適当(原語であるドイツ
  語名称は「ザルツブルクの祝祭」という意味でしかない)で
  あるが、日本では慣習上「音楽祭」と呼称している。ここで
  も、以降は便宜上「音楽祭」と呼称する。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ヴィック新演出の『魔笛』第1幕.jpg


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2006年11月11日

EJバックナンバー『本能寺の変(その10)』

2002年8月9日に配信したEJ922号(全11回連載の内 第10回)を過去ログに掲載しました。
○ イエズス会が『変』に関与した理由と根拠(EJ922号)
posted by 平野 浩 at 04:49| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月12日

EJバックナンバー『本能寺の変(その11)』

2002年8月12日に配信したEJ923号(全11回連載の内 第11回)を過去ログに掲載しました。
○ ≪黒衣の宰相≫天海僧正は光秀である(923号)
posted by 平野 浩 at 04:54| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月13日

「ザラストロの国をどう描くか」(EJ第1960号)

 グラハム・ヴィッツの『魔笛』の新演出について、論評を続け
ることにします。『魔笛』を演出するさい、一番問題となるのは
ザラストロの王国をどのように描くかです。
 『魔笛』におけるザラストロの王国は、そこはフリーメーソン
の世界であり、理想の国――神々の国という描き方をするのが一
般的です。そうでないと、その国の一員になるのを目指して厳し
い試練を受けることとの整合性がとれなくなるからです。
 しかし、『魔笛』の台本で設定されているザラストロの王国は
必ずしも理想の国とはいえないようです。ヴィックと一緒にドラ
マトゥルギー(作劇)を担当しているデレック・ヴェーバーは、
ザラストロの王国について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 タミーノはザラストロの世界に入り込む。そこでは1人の誘拐
 された娘が選ばれた者をおびき寄せるためのおとりとして監視
 されている。その社会は上辺はきれいだが、その下には汚い暗
 黒の世界があり、その世界なくしてはこの社会は存続すること
 はできず、その社会には奴隷集団を引き連れたモノスタトスの
 ような人物が棲んでいる。    ――デレック・ヴェーバー
            ――広島大学大学院文学研究科論集/
            第65巻による河原俊雄氏の論文より
―――――――――――――――――――――――――――――
 あえていうまでもないことながら、上記の文中にある「誘拐さ
れた娘」とはパミーナのことであり、「選ばれた者」はタミーノ
を意味しています。確かに奴隷制度に支えられているザラストロ
の王国には大きな矛盾があります。このザラストロの王国の持つ
矛盾について次のような表現があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ザラストロは、アメリカ合衆国の北部では人権を唱えながらも
 同時に南部では216人の奴隷を所有し、そこに何ら非道徳性
 を感じなかったジョージ・ワシントンに等しい。
               ――上記河原俊雄氏の論文より
―――――――――――――――――――――――――――――
 それでは、ヴィックはザラストロの国をどのように表現したの
でしょうか。
 第2幕が始まると、観客はあっと驚きます。それは、ザラスト
ロの国の住民が全員老人――それもかなり高齢の老人ばかりだか
らです。点滴を受けている老人、本を読んでいる老人、居眠りを
している老人、ぼんやり虚空を見つめる老人――まさに老人のオ
ンパレードなのです。
 その中にあって、舞台の中央では鎧を着た2人の若い男が黙々
とシャベルで穴を掘っているのです。彼らは、ザラストロの高齢
社会を支えている労働者なのです。彼らがいないとこの社会は成
り立たないのですが、若者の人数が圧倒的に足りないのです。2
人という数がそれを示しています。
 これは、明らかに現代の社会――いやごく近未来の社会そのも
のといってよいと思います。そこには未来に対する夢もなく、迫
り来る死の恐怖を免れるために宗教にしがみつく――そういう宗
教社会をヴィックは『魔笛』の中で、ザラストロの国として描き
出したのです。
 それでは、ザラストロの国の入り口にある3つの門はどのよう
に表現されたのでしょうか。
 ザラストロの3つの門――「自然」「叡知」「理性」のそれぞ
れの門は、いかめしい感じがするのですが、ヴィックは、客席か
ら見て、右側の門の上には「鳥かご」、中央の門の上には「地球
儀」、そして左側の門の上には「積み上げられた書籍」が置くと
いう演出をしています。
 結局、タミーノに扉を開くには、「積み上げられた書籍」が置
いてある左の門だったのです。これは、まだ多くのものが欠けて
いた10代後半のタミーノに対して、熱心に勉学に取り組み、知
識を増やすことをザラストロの国では求めていたことを示してい
るのです。しかし、そのようにしてたどりついた社会が老人ばか
りの高齢社会だったというわけです。
 このヴィック演出の『魔笛』を見た観客をギョッとさせるシー
ンは他にもたくさんあるのです。そのひとつに、第1幕の後半に
タミーノが魔法の笛を吹くと、森の中からたくさんの動物が出て
くるのですが、それらの動物のいくつかを狩猟姿のザラストロや
その配下が射殺するシーンです。これは、ザラストロの国が持っ
ている危険な一面をヴィックは知らせているものと思われます。
 もうひとつは、タミーノとパミーナの火と水の試練――これを
ヴィックは、なんとロシアン・ルーレットに変えてしまっている
のです。タミーノとパミーナは、互いに抱き合いながら、銃を頭
に当てて、引き金を引くのです。1発目は「カチッ」という音が
して空砲、続いて2発目も空砲だったのです。これで試練は終り
です。このヴィックの演出について、河原俊雄氏は次のように述
べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 試練などといっても、それ自体何の意味もないし価値もない。
 ロシアン・ルーレットと同じ。しかし命がけであることには変
 わりがない。炎の試練や水の試練を2人でくぐり抜けるぐらい
 の心理的な恐怖と危険はある。しかし、この試練自体に何らか
 の特別の意味があるわけではない。その主張は明快だ。神秘的
 なものや高速なものを具体的で現実的なものに読みかえる。こ
 の姿勢は一貫している。   ――上記河原俊雄氏の論文より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この火と水の試練は、最も厳しい、死に直面する試練といいな
がら、オペラでは実に簡単に済んでしまうことに違和感を覚える
観客もいるはずです。ただ、フルートが単純なメロディをかなで
るだけです。おそらく演出上最も難しいシーンであると思うので
す。それをロシアン・ルーレットに変えてしまうとは・・・驚く
べき新演出です。      ・・・・  [モーツァルト38]


≪画像および関連情報≫
 ・ザルツブルグ音楽祭/2006のブログより
  ―――――――――――――――――――――――――――
  2006年のザルツブルグ音楽祭で最後に聴いたプログラム
  は、アーノンクール指揮のウィーンフィル、モーツァルトの
  後期三大交響曲でした(2006年8月25日)。交響曲第
  39番。1−4楽章を通じて早めのテンポで統一感があり、
  テンポを変えながら起承転結を作る演奏とは異なる解釈。古
  学奏法は、ピリオド奏法で、どちらかと言うと音が小さくな
  りがちと理解していましたが、古学奏法で耳に優しいながら
  もウィーンフィルは大音響を奏でていて、衝撃的な演奏。特
  筆すべきは第3楽章。曲の印象を左右するティンパニの4音
  大き目で乾いた3音に続き、4音目はばちを反対にクルリと
  回して軽く打つ演奏に固唾を呑んでしまいました。
http://blogs.yahoo.co.jp/classicstation2006/4745434.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

第1960号.jpg
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2006年11月14日

酷評のヴィック『魔笛』新演出(EJ1961号)

 グラハム・ヴィックの演出では、夜の女王はどこから現われる
のでしょうか。
 3人の侍女は壁から、パパゲーノは洋服ダンスから現われたの
ですが、夜の女王はベットの下から登場したのです。それも、ネ
グリジェ姿で現われたのです。そして、タミーノにすがるように
威圧するように「娘を助けてくれ!」と懇願したのです。客席か
らはクスクス笑う声が聞こえたといいます。
 『魔笛』というオペラは、演出する立場から考えてみると、要
素として次の4つがあることがわかります。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.メルヒェン的要素    3.ユートピア的教義
  2.民衆・大衆劇要素    4.偉大なる愛の物語
―――――――――――――――――――――――――――――
 これらの要素のどれに重点を置き、それらをどのように組み合
わせてオペラを演出するかということになります。そのさい、欠
かせないのが、ザラストロの国をどのように描くかなのです。
 ハリー・クプファーという旧東ドイツ出身の演出家がいます。
彼の演出としては、ワーグーナーの楽劇『指輪』の演出が有名で
すが、非常に多くのオペラを演出しているのです。
 そのクプファーの新演出による『魔笛』では、ザラストロの国
を旧東ドイツの政治体制を持つ官僚社会として演出しています。
その時点で東ドイツはまだ崩壊していないのです。これについて
河原俊雄氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ベルリンのコーミッシェ・オーバーでの70年代80年代のク
 プファーの演出では、ザラストロの世界を旧東ドイツの政治体
 制を戯画化した官僚社会と規定し、タミーノはその社会に洗脳
 されて最後にはそこに所属することになる。パミーナはそのタ
 ミーノの姿を見て戸惑い、最後には踏みとどまり、一緒にはそ
 の社会に入らない。クプファーの演出では、ザラストロの世界
 は明らかに理想的な世界ではなく、非人間的な世界である。
            ――広島大学大学院文学研究科論集/
            第65巻による河原俊雄氏の論文より
―――――――――――――――――――――――――――――
 90年代になって東ドイツが崩壊すると、クプファーはザラス
トロの世界を共産主義が支配する官僚社会からコンピュータの支
配する管理社会に変えているのです。
 それまでの『魔笛』におけるタミーノという役柄は、神の国に
入る「選ばれし者」として神格化する傾向があったのですが、ク
プファーは、タミーノをして自らの位階を上昇させる出世欲にし
か関心がなく、自らの社会のありようには無批判な人物としてと
らえています。
 タミーノを神格化しないという点ではヴィックも同様ですが、
彼は決してタミーノを、クプファーのように否定していないので
す。ヴィックはタミーノをまだ世間のことを知らない、どこにで
もいるハイティーンとしてとらえているのです。
 ヴィックは、ザラストロの世界を来るべき高齢社会として演出
しているのですが、ザラストロはタミーノを「選ばれし者」とし
てパミーナと一緒に自分の世界に引き入れようとします。ザラス
トロはやがて「選ばれし者」――すなわち、救世主が現われて、
この衰退しきった社会を救ってくれると考えているのです。
 この点については、夜の女王も同じなのです。彼女もタミーノ
を「選ばれし者」としてとらえており、ザラストロとの間で自分
の娘であるパミーナをからめて、タミーノの争奪戦の様相を演じ
ているのです。
 「選ばれし者」――救世主といえば、映画『マトリックス』を
連想します。機械化軍団に追い詰められてどうにもならなくなっ
たザイオンにおける人間社会――彼らはひたすら救世主を求め、
その役割をネオが演ずる――あの映画『マトリックス』に大変似
ていると思います。事実、ヴィックの演出の評価にはその点を指
摘した評論家はたくさんいるのです。
 はっきりいって、このヴィック演出の『魔笛』の評判はさんざ
んのものです。2005年8月4日付、ツァイト紙に掲載された
評論家C・シュパーンの批評は、ヴィックの新演出の『魔笛』を
「ファンタジー・ショウ」であると断じ、皮肉たっぷりに次のよ
うに述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 舞台の上では金切り声の寄せ集めがひっきりなしに動き回り、
 舞台の下のオーケストラ・ボックスでは本物の輝きが瞬く。
           ――C・シュパーン/河原氏の前掲論文
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、C・シュパーンは、リッカルド・ムーティの指揮によ
るウィーン・フィルの演奏はいうことはないほど素晴らしいが、
ヴィックの演出とはまるで合っていないということをいいたかっ
たものと思われます。
 フランクフルト・アルゲマイネ・ツァイテュング紙上で、J・
シュピノーラは、ヴィック演出を次のように批評しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 時代に沿った魔法の等価物を彼は求めた。その魔法について彼
 はほとんどわかっていないように思える。その結果、気の抜け
 た代用品以上のものは見つけられなかった。ヴィックの演出は
 『マトリックス』や『ハリー・ポッター』のファンタジー美学
 を真似したのだが、映画はそれをもっとうまくやれる。
          ――J・シュピノーラ/河原氏の前掲論文
―――――――――――――――――――――――――――――
 J・シュピノーラはかねてから『魔笛』の演出は、何らかの明
確な主張を持っている者がやるべきであるといってきた人ですが
ヴィックのこの演出には不満であったと思われます。
 このように『魔笛』には、さまざまな解釈とそれに基づく演出
が考えられるのです。・・・・・・・・  [モーツァルト39]


≪画像および関連情報≫
 ・ヴィック新演出のその他の批評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  いずれの論調も厳しい。酷評といってもいい。しかしこれら
  の新聞評に共通するのは、映画『マトリックス』のイメージ
  を借用したという点に対する批評である。しかし、映画『マ
  トリックス』と『魔笛』を重ねるということがヴィックの演
  出の眼目ではない。これはあくまでも枠組みの設定なのだ。
  その枠組みの中で彼が表現したいくつかの重要なメッセージ
  についてはいずれの批評もまったく言及していない。
                   ――河原氏の前掲論文
  ―――――――――――――――――――――――――――

1961号.jpg
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2006年11月15日

『レクイエム』とモーツァルトの死(EJ1962号)

―――――――――――――――――――――――――――――
 ちょうど今、僕の忠実な召使の一世殿が持ってきてくれた値の
 はる蝶鮫を一切れ食べたところだ。今日はなんだか食欲がある
 ので、できればもう少し何か買って来てくれるよう、彼を使い
 に出した。 ――アントン・ノイマイヤー著/
礒山稚・大山典訳 『ハイドンとモーツァルト/現代医学のみ
          た大作曲家の生と死』 より。東京書籍刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは、1791年10月8日にモーツァルトが、バーデンに
温泉治療に行っているコンスタンツェに出した手紙です。文中に
「一世殿」とあるのは従僕のダイナーのことです。手紙の内容が
本当かどうかはわかりませんが、これを見る限りではこの時点で
モーツァルトは食欲もあって大変元気だったようです。ところが
モーツァルトは、それから58日後の12月5日に亡くなってい
るのです。35歳の短い生涯だったといえます。それにしても何
が原因の急死なのでしょうか。
 20回にわたって、『魔笛』の謎について分析しましたが、今
日からこのテーマの最後として、「モーツァルトはなぜ早死にし
たか」について述べていきます。
 モーツァルトの死と不思議な依頼人によって彼が死の直前まで
書いていた「レクイエム」とは不思議な関連があるのです。映画
『アマデウス』では、仮面をつけたサリエリがモーツァルトを訪
ねてきて「レクイエム」の作曲を依頼する話になっていますが、
これは事実ではないのです。
 モーツァルトに「レクイエム」の依頼をしてきたのは、フラン
ツ・ヴァルゼック伯爵であるといわれています。しかし、依頼者
の名前は依頼者の希望によって伏せられており、モーツァルトの
友人でホルン奏者のライトゲープを通し、ブフベルクの仲介によ
り依頼がもたらされたのです。相当高額の手付金を支払う条件で
あり、完成時期についても厳しい注文はなく、モーツァルトにと
って悪い仕事ではなかったのです。
 ヴァルゼック伯爵は若くして亡くなった妻を悼むために鎮魂の
ミサの作曲をモーツァルトに依頼したのです。しかし、モーツァ
ルトは、依頼を受けた当時『魔笛』の作曲を行っており、その他
プラハでの戴冠式のためのオペラ『皇帝ティトスの慈悲』を書く
仕事もあって忙しかったのですが、コンスタンツェの積極的な勧
めもあって引き受けたのです。
 ヴァルゼック伯爵がなぜ自分の名前を隠して依頼したかについ
ては理由があります。ヴァルゼック伯爵は、シュトゥパハ城に住
んでいて、ここに客を招いて室内楽の夕べをよく催したのです。
そういう折に、そのとき演奏された曲の作曲者をお客に問い、当
てさせることを好んだといわれます。
 したがって、妻の鎮魂ミサを演奏するとき、作曲者を隠してお
くことによって、それを当てさせる楽しみのために依頼者の名前
を伏せたのではないかと考えられています。実は、モーツァルト
の財政の危機をたびたび救っているブフベルクの家の持主はヴァ
ルゼック伯爵であり、そのつながりでモーツァルトへの作曲の依
頼があったのです。
 しかし、この「レクイエム」はいろいろな意味でモーツァルト
を精神的に不安定にしたのです。な゛゜なら、モーツァルトは、
「レクイエム」の作曲に驚くほど熱心に真剣に取り組んだのです
が、そうすると必ず体調が悪くなり、不快な気分になることが多
くなったからです。そういうモーツァルトの様子を心配してコン
スタンツェは夫から譜面を取り上げたこともあるのです。
 ヴァルゼック伯爵の使者はときどきモーツァルトの前に現われ
て「レクイエム」の進行状態を聞きにきています。忙しさに追わ
れてなかなか「レクイエム」を完成のできないモーツァルトは、
催促の使者の影に次第に怯えるようになっていきます。
 1791年6月のある日、モーツァルトとコンスタンツェは、
ウィーンのプラーター公園を散策中にモーツァルトはコンスタン
ツェに次のようにいったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 僕は自分のために「レクイエム」を書いている。僕はもう長く
 ない。きっと毒を盛られたんだ。その考えを振り払えない。
                     ――モーツァルト
―――――――――――――――――――――――――――――
 この話の真偽はわかりませんが、モーツァルトはその毒の名前
までいったというのです。その毒の名前は「アクア・トファナ」
――18世紀によく知られた毒薬です。『モーツァルトとコンス
タンツェ』の著者であるフランシス・カーは、「アクア・トファ
ナ」について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この毒薬は、17世紀にシチリアの女性テオファニア・ディ・
 アダモとその娘のナポリのジュニアが発明したのである。16
 59年、ローマで大勢の男が死ぬという事件があった。ローマ
 警察が死因を究明したところ、彼らはその妻たちによって毒殺
 されたことが判明したが、この大量殺人に使われた毒薬がじつ
 はアクア・トファナだった。毒薬の発明者である2人の女性は
 その年ローマで逮捕された。   ――フランシス・カー著/
     横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より。
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 アクア・トファナは白砒素、アンチモン、酸化鉛の混合物なの
です。すぐに死にいたることはなく、徐々に効果をあらわし、自
然の苦痛のように診断される特徴を持っているのです。
 しかし、モーツァルトは死の数ヶ月前から、しきりと毒を盛ら
れたというようになっていたのです。ちょうどそれと時期を同じ
くして「レクイエム」の作曲に取り組んでいたので、とくにそう
いう妄想を抱くようになっていたのです。モーツァルトは誰が毒
を盛ったと考えていたのでしょうか。・  [モーツァルト40]


≪画像および関連情報≫
 ・死とレクイエムについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  キリスト教では死者のためのミサ曲であるレクイエムが用い
  られる。死者の霊が最後の審判に当たって、天国に入れられ
  ることを願う目的で行なうミサのことである。レクイエムと
  いう言葉は、カトリック教の式文が「彼らに永遠の安息を与
  えたまえ」で始まることから取られた。死者が天国に入れる
  ように神に祈る典礼であって、死者の霊に直接働きかけるも
  のではない。したがって、鎮魂曲、鎮魂ミサという呼称は適
  当ではない。
  http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/199006.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2006年11月16日

反対派が送り込んだジュスマイヤー(EJ1963号)

 モーツァルトほどの大音楽家になると、音楽を目指す若者が弟
子として入門したいと大勢申し出るはずです。しかし、当のモー
ツァルトは極力弟子はとらない方針でやってきたのです。
一曲でも多くの曲を作曲して曲を残したい――モーツァルトはそ
う考えていたからです。
 モーツァルトは、若いときから死と正面から向き合う独特の死
生観を持っており、漠然とではあるものの、自分の人生は短いと
悟っていたふしがあります。したがって、弟子の指導に時間を取
られるよりもその時間に作曲したいと考えていたのです。
 そのため、モーツァルトは宮廷などに職を得ることによって、
定収入を得ようと必死になったのです。幸いモーツァルトにとっ
ては、皇帝ヨーゼフ2世のバックアップがあったのです。少なく
とも、1790年2月20日にヨーゼフ2世がなくなるまではそ
の方針でやってこれたのです。
 モーツァルトは、ヨーゼフ2世に代わって皇帝を襲位したレオ
ポルト2世に対して、宮廷の副楽長を与えてくれるよう請願書を
出しています。その理由として、サリエリ楽長は教会音楽には精
通していないが、自分は若い頃から教会音楽の様式を熟知してい
るので、副楽長としてやっていける――こういう主張を請願書に
盛り込んでいたのです。
 このモーツァルトの要求は、彼の実力からいっても当然過ぎる
ものだったのですが、モーツァルトは宮廷のエスタブリッシュメ
ントたちに警戒されていたのです。それにレオポルト2世はヨー
ゼフ2世と違って、音楽についての関心も低く、サリエリ楽長の
一派にまかせ切りだったのです。そのため、モーツァルトの請願
書は無視されてしまったのです。
 宮廷の副楽長の地位が得られないとわかったモーツァルトは、
弟子を取ることを決意して、ブフベルクに依頼の手紙を出してい
ます。それに応じて弟子として志願してきたのが、24歳の美青
年で、後でいろいろと問題になる次の弟子です。
―――――――――――――――――――――――――――――
      フランツ・クサヴァー・ジュスマイヤー
―――――――――――――――――――――――――――――
 その頃モーツァルトが疑心暗鬼になっていたことがあります。
それはモーツァルトの締め出しの動きが、単に宮廷からの追い出
しに止まらず、自分の周辺にまで及んでくる気配だったのです。
具体的にいうと、モーツァルトとコンスタンツェの間を意図的に
引き裂こうとする反対派の動きです。
 というのは、コンスタンツェには浪費癖があり、人づきあいに
にも問題があって、モーツァルトとしては、彼の反対派がそこに
つけ込んでくることを恐れていたのです。
 それは、コンスタンツェを残してモーツァルトが少し長い旅に
出るときなどに、モーツァルトが妻に対して送った異常ともいえ
る内容の次の手紙を見ればわかると思います。ここでいう長い旅
とは、1789年にリヒノフスキー侯爵に要請され、同行せざる
を得なかった2ヶ月間にわたる北ドイツへの旅のことですが、こ
れについては、EJ第1939号をご覧ください。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ねぇ、お前、ぼくから、たくさんのお願いがあるんだよ。第一
 に、淋しがるな。第二に、からだに気をつけ、春の外気に気を
 許すな。第三に、独りで出歩くな。一番いいのは、全く出歩か
 ないこと。第四に、僕の愛情を確信すること。ぼくはお前のか
 わいい肖像を目の前に置かないでお前に手紙を書いたことは一
 度もない。
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
−――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトはこれ以外に妻の親戚や自分の友人に、ときどき
家に行って、コンスタンツェの様子を見てくれるよう頼み、コン
スタンツェ自身には手紙で、どういう人が訪ねてきたかについて
出来るだけ頻繁に手紙で知らせるよう書いています。頼んだ人が
本当に行ってくれているのか知りたかったのでしょう。
 最愛の妻を心配する夫の行為といえなくはありませんが、少し
常軌を逸しているといっても過言ではないと思います。そこには
コンスタンツェの軽率な言動をモーツァルト反対派につけ込まれ
ることを恐れていたものと考えられます。
 モーツァルトは、弟子に応募してきたジュスマイヤーにいくつ
かの質問をしています。「今まで誰かに教わったことはあるか」
という問いに対して、ジュスマイヤーは「自己流」と答えている
のですが、モーツァルトはそれをうそと見抜いたのです。ピアノ
の弾き方を見れば自己流では絶対にできない相当の腕前であった
からです。そういうことから、モーツァルトはジュスマイヤーは
反対派から送り込まれたスパイと考えていたふしがあります。
 ジュスマイヤーはモーツァルトの弟子になると、作曲の手伝い
をしたり、写譜をしたりして、モーツァルトをサポートしていま
す。モーツァルトには他にも何人か弟子はいたのですが、現在で
もジュスマイヤーの名前が残っているのは、彼がモーツァルトの
未完の「レクイエム」を補筆完成させたことにあるといえます。
 さらにもうひとつ、ジュスマイヤーはモーツァルトの指示を受
けて、コンスタンツェのバーデンでの脚の治療のサポートをして
います。しかし、このコンスタンツェの病気というのが今ひとつ
はっきりしないのです。
 モーツァルトの作品がますます輝きを増して、『魔笛』が大成
功しているにもかかわらず、モーツァルトが依然として多額の借
金をしなければならなかったのは、コンスタンツェの病気の治療
費の支払いが巨額であったことが原因であるといわれています。
 それもウィーンから25キロ離れた郊外にあるバーデンでの温
泉治療であり、馬車代や宿泊代など、多額の費用がかかったので
す。モーツァルトはこともあろうに妻の治療のサポートにジュス
マイヤーを同行させているのです。・・  [モーツァルト41]


≪画像および関連情報≫
 ・「レクイエム」にからむ2人の人物
  ―――――――――――――――――――――――――――
  CD業界には不思議な偶然が重なることがある。今回もまさ
  にそう。モーツァルトのレクイエムに絡む二人の作曲家の珍
  しい作品が同時期に登場することになったのである。ジュス
  マイヤーとアイブラー。有名なのはもちろんジュスマイヤー
  で、現在彼は“モーツァルト・レクイエムの補筆完成者”と
  して世界中で知られる。だが、彼の作品がCDとして登場す
  ることはきわめて珍しい。もちろんレクイエムのCDは現在
  存在しない。そしてもうひとりはアイブラー。モーツァルト
  のレクイエムの補筆完成を最初に依頼されながら、断念した
  人である。
      http://www.aria-cd.com/oldhp/yomimono/vol30.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2006年11月17日

モーツァルトは病死か毒殺か(EJ1964号)

 モーツァルトの死の原因は何か――これは今日においても大き
な謎となって残っています。それは、死亡年齢が35歳という当
時でも信じられないほどの若死にだったからです。
 もちろん公式には「病死」ということになっています。妻のコ
ンスタンツェの第2の夫のニッセンは、モーツァルトの最後の病
を次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 彼が病床に伏した死病は、15日間続いた。それは両手足に腫
 張をきたし、ほとんど動かせなくなることから始まった。その
 後、突然の嘔吐が続いたこの病気は急性粟粒疹熱と言われた。
 死の2時間前まで、彼は意識があった。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 「急性粟粒疹熱」というのは病名ではないのです。当時ウィー
ンでは、ウィルス性感冒が流行していて、この流行感冒にかかる
と、発熱時に激しい発汗があり、小水泡様の部分的に化膿した皮
膚発疹がしばしば生ずるので、それを「急性粟粒疹熱」といった
のです。したがって、これは病名ではなく、病気の結果生ずる症
状なのです。それなら、病名は何でしょうか。
 モーツァルトの臨終の場にいたのは、医師のクロセット、妻の
コンスタンツェ、コンスタンツェの妹のゾフィーの3人であった
といわれます。
 したがって、ニッセンが『モーツァルト伝』を記述するとき、
モーツァルトの臨終の模様の詳細を妻から聞いて書いていると誰
でも考えますが、実はニッセンは妹のゾフィーから聞いているの
です。なぜなら、ニッセンがコンスタンツェに何度聞いても、彼
女はなぜか口を閉ざして何も話さなかったからです。
 それでは、クロセットという医師が診断しているのに、なぜ正
式な病名を書いていないのでしょうか。死亡診断書と聖シュテフ
ァン教会事務局の死者台帳には「急性粟粒疹熱」と書かれている
だけなのです。
 ところで、モーツァルトが死亡したのは、1791年12月5
日午前0時55分です。その前にモーツァルトが人前に出たのは
11月18日、フリーメーソンの会合だったのです。そのときは
とくに外見上モーツァルトに何の異常もみられなかったのです。
しかし、それから2日後の11月20日にモーツァルトは流行性
感冒を患って床につき、その2週間後に亡くなったということに
なっています。
 12月5日に亡くなっているにもかかわらず、ウィーンの市民
がモーツァルトの死を知ったのは、12月7日になってからなの
です。同日付の「ウィーン新聞」は次のように伝えています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 今月4日から5日にかけての晩、当地において、皇王室付き宮
 廷作曲家ヴォルフガング・モーツァルト氏が死去した。彼はま
 れに見る音楽的才能によって、すでに幼少よりヨーロッパ全土
 にその名を知られており、卓越した天賦の才能を首尾よく発展
 させ、それを一貫して使い続けることによって、最も偉大な巨
 匠への階段を昇り詰めた。そのことは広く愛され、賛美された
 彼の作品が証明している。これらの作品は、彼の死によって高
 貴なる音楽がこうむった取り返しのつかない損失の大きさを示
 している。――1791年12月7日付「ウィーン新聞」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 1791年といえば、3大交響曲、歌劇『魔笛』などの成功に
よって、モーツァルトはウィーンの話題の中心だったはずです。
そのモーツァルトの死が、2日も遅れて報道されること自体がお
かしいといえます。
 まして、モーツァルトの葬儀はその前日の6日に終っていて、
市民は誰ひとりとして葬儀には参加できなかったのです。いや、
ウィーン市民どころか、後で述べる理由によって、妻のコンスタ
ンツェをはじめ、モーツァルトの近親者も霊柩馬車に乗って途中
まで行ったものの、途中で降りてしまい、誰も墓地まで行ってい
ないのです。これは明らかに異常なことです。
 そうこうしているうちに、1791年12月12日付のベルリ
ンの「音楽週報」に次のような記事が載ったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトが亡くなった。彼はプラハから病気のまま帰国し
 それ以来ずっと患っていた。彼は浮腫とみなされており、先週
 末、ウィーンで死去した。死後体がふくれたので、毒殺された
 のではないかと考えられている。
       ――1791年12月12日付「音楽週報」より
―――――――――――――――――――――――――――――
 これが毒殺説が広まった発端なのです。もちろん「音楽週報」
の通信員は確たる根拠を持ってこれを書いたのではないのです。
ただ、死体の状況がどこからともなく伝わってきて、それを毒殺
に結びつけたに過ぎないのです。
 それに18世紀の社会的風潮として、有名な人物が突然死した
りすると、それを不自然な死因と結びつけてしまう傾向があった
のです。そのため、この記事を発端として、毒殺説は拡大して後
世に伝えられることになったのです。
 病死説と毒殺説――真相はどちらなのでしょうか。
 この結論は現代においてもまだ出ていないのです。そこでEJ
では、いろいろな情報を基にして、この後その謎に迫っていきた
いと考えています。次のような詩の一節があります。タイトルは
「モーツァルトの死に寄せて」です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 人類と音楽の名誉にかけて望みたい。このオルフェウスが自然
 死を遂げたのであることを!――ヨハン・イーザック・フォン
                       ・ゲルニング
――――――――――――――――・・  [モーツァルト42]


≪画像および関連情報≫
 ・映画『アマデウス』の原作
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ロシアの文学者プーシキンはこの説を題材に戯曲「モーツァ
  ルトとサリエーリ」を書き、この戯曲が成功したために(映
  画『アマデウス』もこの作品に基づいています)「モーツァ
  ルト毒殺説」は非常にポピュラーなものとなりました。その
  ため、この毒殺(犯人はサリエーリ)を真実であるかのよう
  に受けとめている人もいるようですが、これはあくまでも、
  フィクションで、信憑性も低いとされています。しかし、モ
  ーツァルト最後の作品が「レクイエム(鎮魂曲)」で、実際
  にこの曲がモーツァルトの追悼ミサに使われたというのは非
  常に因縁めいた話ではあります。「神に愛された」作曲家は
  自分の死も音楽で飾る宿命にあったということでしょうか。
       http://www.ocn.ne.jp/music/mozart/intro.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

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2006年11月18日

EJバックナンバー『ウィーン・フィル(その1)』

2002年12月18日に配信したEJ1011号(全9回連載の内 第1回)を過去ログに掲載しました。
○ ウィーンにおけるオザワの評価(EJ1011号)
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2006年11月19日

EJバックナンバー『ウィーン・フィル(その2)』

2002年12月19日に配信したEJ1012号(全9回連載の内 第2回)を過去ログに掲載しました。
○ ウィーン歌劇場は伏魔殿である(EJ1012号)
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2006年11月20日

病死と判定する証拠がないのか(EJ1965号)

 モーツァルトは病死か毒殺か――常識的に考えてみても病死で
あるという人が多いと思います。いや、偉大なる音楽家モーツァ
ルトを生み出したヨーロッパ社会、とりわけ彼が活躍したウィー
ンの人たちにとっては、名誉にかけてもモーツァルトの死が自然
死であって欲しいと考えるのは当然のことです。
 しかし、なぜ、毒殺説が消えないのでしょうか。それは病死と
断定できない何かがあるからです。それに当時のモーツァルトを
取り巻いている環境にも、毒殺を疑う根拠がぜんぜんないわけで
はないのです。
 そういうわけで、病死の真贋について最初に調べてみることに
します。それによって、病死とは断定できないものとは何かが明
らかになると思います。
 モーツァルトの死を病死とする根拠を調べてみると、ある高名
な医師――ウィーン医学界の第一人者による医学的鑑定書の存在
です。その医師の名は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      グルデナー・フォン・ローベス博士
―――――――――――――――――――――――――――――
 この博士による鑑定書とは、ジーギスムント・ノイコムなる人
物に宛てた手紙なのです。期日は1824年6月10日になって
います。ノイコムがどのような人物かは後で述べることにして、
手紙の一部をご紹介しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトの病と死について私が知っていることのすべてを
 貴殿にお知らせするのは、私の喜びとするところであります。
 モーツァルトは秋も深まった頃、リウマチ熱に冒されました。
 この病気は当時私たちの間にひろく流行し、多くの人がかかっ
 たものです。私が彼の病気について聞き知りましたのは、彼の
 病状がすでにかなり悪くなってから二、三日後のことでした。
 私はあれやこれやを斟酌して彼を訪問することをしませんでし
 たが、ほとんど毎日顔を合わせていたクロセット博士から、そ
 の様子を聞き及んでおりました。博士はモーツァルトの病気を
 危険なものとみなし、最初から憂慮すべき結果を、とくに脳で
 の発症を恐れていました。ある日彼はザラーバ博士と会い、モ
 ーツァルトは絶望的状態であり、発症を阻むことはもはや不可
 能であると明言しました。ザラーバ博士はこの所見をただちに
 私に知らせてくれました。そして、事実、モーツァルトはそれ
 から二、三日たって、脳の発症の通例の症状で、死去したので
 す。(中略)・・・私は死後身体を見ましたが、この病例によ
 く見られる兆候以外のものは何ひとつ認められませんでした。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 このグルデナー・フォン・ローベス博士は、実際には生前モー
ツァルトを一度も診察しておらず、医師のクロセットから聞いた
話としてこの手紙を書いているのです。しかし、死後モーツァル
トを見ている記述があるところからして、おそらくは公の検死官
であったと思われるのです。しかし、これについては確証がとれ
ていないのです。
 当時ウィーンで施行されていた医事衛生法では検死は義務づけ
られているのですが、検死を行う検死官はその土地の外科医もし
くは軍医と定められており、内科医は検死はできなかったはずな
のです。グルデナー医師とクロセット医師はともに内科医であり
内科医の2人が検死をしたとは思われないのです。したがって、
誰も検死していないというのが本当だったと思われます。
 それでは、この手紙の受取人であるジーギスムント・ノイコム
とは何者でしょうか。
 ノイコムは、かつてのハイドンの弟子であり、毒殺犯人である
との噂の高かったサリエリの嫌疑をはらすために、「論争ジャー
ナル」という雑誌に論文を書いたのですが、その材料としてグル
デナー博士の所見というか鑑定が必要であったのです。
 要するにノイコムの立場は、サリエリの嫌疑をはらすというと
ころにあり、毒殺説の反証――すなわち、モーツァルトは病死で
あるという証拠が欲しかったわけなのです。したがって、彼の論
文の中で使われているグルデナー博士の鑑定もモーツァルトが病
死したという客観的な証拠とはならないはずです。
 それでは、モーツァルトの最期を看取ったとされるクロセット
医師とは、どういう人物だったのでしょうか。
 クロセット医師について書く前に、モーツァルトが亡くなった
とき、そばに誰がいたのでしょうか。このこと自体がはっきりと
していないのです。EJ第1965号で述べたように、臨終の席
にいたのは妻のコンスタンツェと妹のゾフィー、それにクロセッ
ト医師の3人ということになっています。
 しかし、諸説があるのです。その席にジュスマイヤーがいたと
いう説もあるし、コンツタンツェはいなかったというものまであ
るのです。はっきりしているのは、間違いなくいたのは、コンツ
タンツェの妹のゾフィーだけなのです。
 コンスタンツェが夫の臨終の場にいなかったのではないかとい
う説が出てきたのは、コンスタンツェの第2の夫であるニッセン
がモーツァルトの伝記において、モーツァルトの臨終の模様をゾ
フィーからの手紙に基づいて記述しているからです。なぜなら、
コンスタンツェはモーツァルトの臨終の模様をニッセンがいくら
聞いても一切話そうとしなかったからです。
 しかし、コンスタンツェは少なくとも臨終の場には立ち会って
いたはずです。コンスタンツェとゾフィー、そしてクロセットの
3人でモーツァルトの死を看取っています。ところが、その直後
にコンスタンツェはその場から姿を消しているのです。そして、
その後の葬儀や埋葬に関しては、コンスタンツェは間違いなく参
加していないのです。コンスタンツェのこの行為は、一体何を意
味しているのでしょうか。・・・・・・  [モーツァルト43]


≪画像および関連情報≫
 ・トーマス・フランツ・クロセット博士
  ―――――――――――――――――――――――――――
  クロセットは、臨床講義におけるデ・ハーンの後任教授で、
  当時世界的に有名であった臨床医マクシミリアン・シュトル
  の下で腕を磨くために1777年、ウィーンにやってきた。
  彼は1783年に「腐敗熱」に関する論文をものにし、まも
  なく師シュトルを代講をするようになったのみならず、彼に
  代わって治療にもあたった。それによって彼は「すべての学
  識ある医師たちの満足と一般大衆の尊敬を得た」のだった。
  1787年5月23日にシュトルが亡くなると、彼はウィー
  ンで最も高名にして人望ある医者となり、皇帝一家までもが
  対診医として幾度となく彼を招いたという。1797年には
  ついに彼はウィーン大学医学部の客員メンバーとなった。
  マティーアス・フォン・ザラーバ博士は、クロセット博士の
  友人であり、同じシュトルの門下生である。
  ―――――――――――――――――――――――――――

1965号.jpg
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2006年11月21日

クロセットは正しく診断したのか(EJ1966号)

 クロセット博士は、当時のウィーンでは臨床医師としてかなり
有名な人であったようです。はっきりとした記録があるわけでは
ないが、モーツァルトの友人のひとりであったようです。このク
ロセットは、1789年にモーツァルト家を訪れていますが、そ
のときは、コンスタンツェの脚の感染症の往診だったようです。
 その頃コンスタンツェは脚の具合が悪く、その治療と称して、
バーデンへの温泉治療を何回も行い、モーツァルト家の家計の足
を引っ張っていたのです。
 しかし、クロセット医師の診断では、コンスタンツェの脚は妊
娠に伴ってあらわれる静脈炎であり、少なくとも温泉療法を何回
も行うほどの重症ではないことははっきりしているのです。しか
し、人の好いモーツァルトは妻のいうことを真に受けて、大金の
かかる温泉治療に何度も行かせたり、クロセット医師にも往診を
頼んでいるのです。
 ここでモーツァルトの亡くなる前の晩、すなわち、1791年
12月4日のことです。モーツァルトが苦しみ出し、その様子が
尋常ではなかったので、モーツァルトを看護していたゾフィーは
必死になってクロセット医師のところに駆けつけたのです。しか
し、彼は家を留守にしていたのです。
 そのときクロセットは、ある劇場で観劇中だったのですが、ゾ
フィーはそのことを聞いて劇場まで行ったのです。そして、観劇
中のクロセットに、モーツァルトの様子がおかしいので診察して
やって欲しいと頼み込んだのです。
 しかし、返事は冷たいものだったのです。クロセットは「劇が
終わってから行くから・・」といったそうです。時刻は午後8時
頃であったと思われます。当時ウィーンではオペラや芝居は、午
後7時頃から始まるのが通例でしたから、ゾフィーがクロセット
に往診を依頼したのは、劇が始まって1時間ほど経過した頃だっ
たはずです。
 何度頼んでもクロセットが聞き入れてくれないので、ゾフィー
は家に戻ってクロセット医師を待つことにしたのです。しかし、
待てど暮らせどクロセットはやってこなかったのです。
 劇が終るのは午後9時頃と考えられるので、それからすぐモー
ツァルトの家に駆けつければ、遅くとも午後10時には着いてい
るはずなのですが、クロセットがモーツァルト宅にやってきたの
は、日付が変わった12月5日――つまり、モーツァルトの死の
直前であったのです。おそらくクロセットは劇が終ってから友人
と食事をし、酒を飲んで、それからモーツァルト宅にやってきた
ものと思われます。
 ピアニストで、熱烈なるモーツァルトの崇拝者であるヴィンセ
ント・ノヴェロという人がいます。彼はモーツァルトの死後、妻
のメアリーと一緒にモーツァルトの関係者――コンスタンツェや
息子のフランツ・クサーヴァー、妹のゾフィー、かつての恋人ア
ロイジアなどを訪ねて克明にメモをとったのです。
 後年、このノヴェロ夫妻の手記をまとめて「モーツァルト巡礼
――1829年ノヴェロ夫妻の旅日記」という本が出版されてい
ます。モーツァルトの伝記としては、コンスタンツェの第2の夫
であるニッセンのものがありますが、その中身は省略や誤りが多
くあり、とくに謎の多いモーツァルトの臨終から死・埋葬につい
ての記述は、ほとんど書かれていないのです。
 むしろニッセンの伝記よりも、ノヴェロ夫妻の手記は夫妻が直
接関係者に会ってビンセント自身が書いているので、内容が正確
であり、モーツァルトについて書くときよく引用されています。
 以下は、ノヴェロ夫妻が直接ゾフィーに聞いて、ヴィンセント
・ノヴェロが、メモをしたモーツァルトの臨終の様子です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 医者はやって来るとゾフィーに、酢を入れた冷水でモーツァル
 トの額とこめかみを冷やすように命じた。彼女は、病人の手足
 が、炎症を起こしてむくんでいるので、急に冷やすのはよくな
 いのではないでしょうか、と言ったが、医者が強く命じたので
 濡れたタオルを当てると、途端にモーツァルトは軽く身ぶるい
 して、間もなく彼女の腕の中で息を引き取った。この時部屋の
 中にいたのは、モーツァルト夫人と医者と彼女だけだった。死
 んだのは二階の表通りに面した部屋だった。
 ――藤澤修治氏論文「モーツァルトの遺品」より
       http://homepage3.nifty.com/wacnmt/part6.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによると、モーツァルトが息を引き取ったのは、コンスタ
ンツェではなく、ゾフィーの手の中だったのです。一体コンスタ
ンツェは何をしていたのでしょうか。
 ゾフィーによると、モーツァルトに対するクロセットの処置は
短く、ひどくそっけないものだったというのです。それは、何と
か助けようという態度ではなく、もうだめだという諦めが医師に
あったのではないかと考えられます。
 モーツァルトの死因がアクア・トファナによる毒殺ではないか
という説が一方にありながら、病死説がそれを押さえ込んでいる
のは、高名で優秀な医師であるクロセットがモーツァルトの最後
を看取ったという事実があるからなのです。
 もし、死因がアクア・トファナによる中毒であるならば、クロ
セットほどの医師がそれを見逃すはずがないからです。しかし、
クロセット自身がそのとき相当酒を飲んでおり、時刻は深夜――
当時の薄暗いランプの光で、アクア・トファナによる中毒の特徴
――歯茎に浮かぶ青い線や皮膚の色の変化などが短い診断で判断
できるものとは思われないからです。
 おそらくクロセットは、昨日のEJでご紹介したグルデナー博
士による何らかの脳内発症による死亡と考えていたのでしょう。
まさか医師としては、アクア・トファナによる毒殺などは考えな
いと思われるので、死因を間違ってとらえたのではないかと考え
られます。脳に異常をきたすにしては、モーツァルトの意識は死
の直前まではっきりしていたのです。・  [モーツァルト44]


≪画像および関連情報≫
 ・ヴィンセント・ノヴェロによるコンスタンツェ像
  ―――――――――――――――――――――――――――
  コンスタンツェの顔は、ニッセンの伝記で描かれている人物
  像と似ていない・・・。彼女が有名な夫について語るときの
  話しぶりは、彼にきわめて近く、親しい人間の中に私が当然
  期待したほど熱っぽいものではなかった。
                ――ヴィンセント・ノヴェロ
                    フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

1966号.jpg
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2006年11月22日

モーツァルトの本当の死因は何か(EJ1967号)

モーツァルトの伝記作家たちが上げているモーツァルトの死因
は次の10種類に及びます。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.尿毒症         6.ブライト病
   2.リューマチ性熱     7.水銀中毒
   3.結核          8.粟粒疹熱
   4.甲状腺腫        9.脳の炎症
   5.水腫         10.悪性チフス熱
―――――――――――――――――――――――――――――
 この中で死亡診断書に記述されているのは、「(急性)粟粒疹
熱」です。粟粒疹熱とは、高い発熱によって生ずる毛穴の炎症と
膨張であり、ある病気の結果生ずる症状のひとつであって、病名
ではないことは既に述べた通りです。
 モーツァルトの謎の死と埋葬に新説を打ち出した『モーツァル
トとコンスタンツェ』の著者、フランシス・カーはモーツァルト
の死因について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 提出された死因のひとつひとつを検査すると、その死因のすべ
 てが、現われた症候と相いれない、ひとつあるいはそれ以上の
 要素を含んでいることが確認できる。モーツァルトが示した症
 候でわかっているものは、からだのむくみ、関節の炎症、熱、
 頭痛それに嘔吐だけである。実際の死因は、肝炎でこじれた尿
 毒症と充分考えていいかもしれない。患者が、モーツァルトの
 ように、昏睡状態で死んだ場合、尿毒症は、医師がまず考える
 と思われる5つの原因のうちのひとつである。
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 昏睡状態で患者が死んだとき、医者が考える5つの原因のうち
のひとつは「尿毒症」――他の4つの原因とは「脳卒中」「てん
かん」「外傷」「過剰な薬剤」の4つです。この最後の「過剰な
薬剤」がすなわち毒薬なのです。モーツァルトは、死の2時間前
に昏睡状態になっているのです。
 要するに、これが原因であるという決め手がないのです。した
がって、ひとつの原因ではなく、いくつかの原因が重なった結果
ではないかとも考えられます。したがって、何らかの方法で毒薬
を飲まされていて、体力がなくなり、それにプラスして何らかの
病気――とくにリュウマチ熱を発症したとも考えられます。そう
なると、病死か毒殺かで白黒をつけることは困難になると思われ
るのです。
 モーツァルトの死因について多くの医学関係者が指摘している
のは「リュウマチ熱」ですが、普通であれば成人がこの病気にか
かって急死することは稀なことなのです。しかも、モーツァルト
が35歳になってはじめてこの病気を発症した場合でないと、急
死は考えられないのです。ところが、モーツァルトは小さいとき
に少なくとも三度はこの病気にかかっており、免疫はできていた
と考えられるので、リュウマチ熱だけが原因で死亡した可能性は
きわめて低いといえます。
 ここで、モーツァルトの担当医のクロセットやザラーバは、脳
での発症を危惧していたことを思い出していただきたいのです。
脳での発症とは、頭部における沈着、つまり「脳合併症」のこと
なのです。
 クロセットもザラーバも、マクシミリアン・シュトルの門下生
ですが、シュトルは当時主流であった体液病理学の第一人者なの
です。体液病理学によると、リュウマチ性疾患によって頭部に何
らかの物質が沈着し、それが脳合併症を起こす可能性があること
を指摘しており、クロセットやザラーバがそれを疑ったのは当然
のことであるといえます。
 ザルツブルグ・モーツァルティウムを卒業し、優れたピアニス
トでもあるアントン・ノイマイヤーは、同時に優れた内科医でも
あるのですが、彼はこれに関連して次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで、当時主流であった体液病理学を思い起こしてみる必要
 がある。それによれば、リウマチ性疾患の諸症状は、病因とな
 る――今日なら毒性の、といわれるだろう――物質がさまざま
 な器官組織へ沈着することによって生み出されるとされた。そ
 のような物質のひとつが関節に集中して沈着すると、急性関節
 リュウマチの、あのような症状があらわれるのである。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 この場合、ノイマイヤーが沈着する物質にわざわざ「今日なら
毒性の、といわれるだろう」という注釈をつけたことは意味深な
ことです。モーツァルトが、かなり前から何らかの毒物を飲まさ
れていて、そういう毒性のある物質が脳に沈着した可能性をほの
めかしているのです。
 モーツァルトの直接の死の原因は瀉血療法にあるという指摘を
する医師もいます。瀉血とは、人体の血液を外部に排出させるこ
とで、症状の改善を求める治療法のひとつです。体液病理学では
炎症性の疾患にこの療法をよく行うのですが、今日ではこの療法
は限定的にしか行われないのです。
 モーツァルトには、体液病理学を専門といるクロセットとザラ
ーバという2人の医師が付いていたため、もちろん何回も瀉血療
法を受けていたことは確かであり、ゾフィーの手紙によると、最
後の晩もクロセットはモーツァルトに瀉血を行っているのです。
 しかし、瀉血による血の喪失は、熱と発汗で衰弱していたモー
ツァルトに致命的な打撃を与えたはずであり、それが死への引き
金になったものと思われます。
 モーツァルトの死因は、毒薬の投与とそれが頭部に沈着する病
気の合併症が疑われるのです。・・・・  [モーツァルト45]


≪画像および関連情報≫
 ・マクシミリアン・シュトルツ博士の治療法
 ――――――――――――――――――――――――――――
 私の治療法は、以下のようなものであった。すなわち、必要と
 あらば、あらかじめ瀉血を施した後で、多量の食塩水を与え、
 次に催吐剤を投じる。これをときどき繰り返す。患者が嘔吐し
 たら、体内を空に保つようにする。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
 ――――――――――――――――――――――――――――

第1967号.jpg
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2006年11月23日

EJバックナンバー『ウィーン・フィル(その3)』

2002年12月20日に配信したEJ1013号(全9回連載の内 第3回)を過去ログに掲載しました。
○ オーケストラが指揮者を拒否する事件(EJ1013号)
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2006年11月24日

ゾフィーはなぜ臨終の席にいたのか(EJ1968号)

 モーツァルトの臨終の席の主役は、どう見てもコンスタンツェ
ではなく、妹のゾフィーです。モーツァルトはゾフィーの腕の中
で息を引き取っています。ゾフィーはどのような経緯でモーツァ
ルトの臨終の席にいることになったのでしょうか。
 1791年12月4日の話です。モーツァルトの亡くなる1日
前の話です。そのときゾフィーは、母のセシリアと一緒に生活を
していたのです。ゾフィーは11月の後半にモーツァルトが病床
から起き上がれなくなってからは、姉のコンスタンツェを励ます
ため、毎日のようにモーツァルトの家に行っていたのです。
 12月4日にいつものようにモーツァルトの家に行くと、モー
ツァルトはゾフィーに対して「今晩は一日自分に付き添っていて
欲しい」と頼んだのです。ゾフィーは、今晩は戻れなくなるので
母の面倒を一番上の姉であるヨーゼフ・ホーファーに頼んでくる
からといって家に戻ろうとしたのです。
 そのとき、コンスタンツェが家の外まで追いかけてきて、次の
ことを頼んでいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 聖ペテロ教会の司祭様のところに行って、司祭様に来てもらう
 ように頼んでちょうだい。それも、偶然のようにして来て欲し
 いと頼んで欲しいの。         ――コンスタンチェ
―――――――――――――――――――――――――――――
 ゾフィーは姉のいう通りに教会に行って頼んだのですが、司祭
の返事は次のように冷たいものでした。
―――――――――――――――――――――――――――――
 あの音楽家さんは、カトリック教徒としてはいつも芳しくない
 方でしてね。ですから、行くのはお断りします。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトが司祭から疎まれていたのは、おそらくモーツァ
ルトがフリーメーソンとして、かなり派手に活動をしていたから
ではないかと思われます。
 ゾフィーがモーツァルトの家に戻ってきたときは、かなり遅い
時間になっていたはずですが、そのときの模様をゾフィーはニッ
センに宛てた手紙で次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ジュスマイヤーがベットのそばにいました。有名な「レクイエ
 ム」が毛布の上に置いてあり、モーツァルトはジュスマイヤー
 に自分が死んだら、どうやって書き終えたらいいか自分はこう
 考えているからと言って説明していました。それからあの人は
 姉さんに自分が死んだことをアルブレヒツベルガーに知らせる
 までは秘密にしておくように言いきかせました。というのは、
 この方に神と世のつとめがすべて任されていたからです。
             ――フランシス・カーの前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 驚くべきことは、この時点でモーツァルトはまだ元気であり、
仕事をしていたということです。しかも、モーツァルトは自分が
今晩死ぬということを自覚していたようです。ゾフィーに今晩は
泊まってくれと頼んだのも自分が明日まで持たないことをモーツ
ァルト自身がよくわかっていたからなのでしょう。
 実は、ゾフィーが母の面倒や教会との掛け合いをして走り回っ
ている間に、モーツァルトは病床で「レクイエム」の試演をやっ
ていたのです。その試演に参加していたのは、次の3人です。
―――――――――――――――――――――――――――――
         ベネディクト・シャック
         フランツ・ホーファー
         フランク・ゲルル
―――――――――――――――――――――――――――――
 シャックは、そのとき公演中の『魔笛』でのタミーノ役ですが
彼がソプラノを、ヴァイオリン奏者のホーファーはテノールを、
『魔笛』でザラストロ役をやっているゲルルはバスを、そしてモ
ーツァルト自身がアルトを担当して「レクイエム」の試演をやっ
たのです。
 しかし、リハーサルが始まって、「デイエス・イラエ」までは
進んだのですが、「ラクリモサ・ディエス・イラ(涙の日)」の
描写になったとき、モーツァルトは泣き出してしまって、そこで
中止になったのです。
 それにしても死の直前まで、モーツァルトは意識はしっかりし
ており、最後の最後まで「レクイエム」の完成を目指していたの
です。しかし、モーツァルトは午後11時頃に意識がなくなって
昏睡状態に入り、12月5日午前〇時55分にこの世を去ってい
ます。クロセット医師がモーツァルト家にやってきたのは、おそ
らく日付けの変わった5日早々であったと思われます。
 クロセットは、モーツァルトに対して瀉血を行い、依然として
熱が下がらないので、ゾフィーに額を冷やすように命じたところ
ゾフィーは次のように反対しています。それは、クロセット医師
がさんざん遅れてやってきて、あまりにも誠意のない治療をした
ことも手伝ってのことと思われるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 病人の手足が炎症を起こしてむくんでいるし、急に冷やしても
 大丈夫なのですか。             ――ゾフィー
―――――――――――――――――――――――――――――
 おそらくクロセットはゾフィーの言葉にはカチンときたに違い
ないのです。この高名な医師に対して素人が何をいうか――クロ
セットは強引に「やれ!」とゾフィーに命じたのです。
 そうしたところ、モーツァルトは痙攣を起こし、ゾフィーの腕
の中で息を引き取ったのです。瀉血で最後の体力を奪われていた
ことが死の原因だったと思われます。以上がモーツァルトの病死
説の全貌です。       ・・・・  [モーツァルト46]


≪画像および関連情報≫
 ・モーツァルト作曲/レクイエム
  ―――――――――――――――――――――――――――
   1曲:入祭唱        8曲:涙の日
   2曲:キリエ        9曲:主イエス・キリスト
   3曲:怒りの日      10曲:賛美の生け贄と祈り
   4曲:奇しきラッパの響き 11曲:サンクトゥス
   5曲:恐るべき御稜威の王 12曲:祝福されますように
   6曲:思い出したまえ   13曲:神の小羊よ
   7曲:呪われたもの    14曲:聖体拝領唱
   8曲:涙の日
  ―――――――――――――――――――――――――――

1968号.jpg
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2006年11月25日

EJバックナンバー『ウィーン・フィル(その4)』

2002年12月24日に配信したEJ1014号(全9回連載の内 第4回)を過去ログに掲載しました。
○ オザワとウィーン・フィルの歴史(EJ1014号)
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2006年11月26日

EJバックナンバー『ウィーン・フィル(その5)』

2002年12月25日に配信したEJ1015号(全9回連載の内 第5回)を過去ログに掲載しました。
○ まるで亡命音楽家のような小澤征爾(EJ1015号)
posted by 平野 浩 at 20:49| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月27日

モーツァルトは誰に毒を盛られたのか(EJ1969号)

 モーツァルトの毒殺説が出てきた最初のキッカケは、当のモー
ツァルト自身が口にしたからだといわれています。それは、17
91年6月のことで、コンスタンツェとウィーンのプラーター公
園を散策中のことだったといわれています。
 モーツァルトの伝記作家たちは、このプラーター公園における
モーツァルトによる告白を次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1791年6月、モーツァルトは、コンスタンツェとウィーン
 のプラーター公園を散策中、自分は毒を盛られたと言い、「だ
 れかがぼくにアクア・トファナを飲ませた」と語った。
                    フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
      ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 しかし、彼の不快な気分は眼に見えてつのり、彼を陰気な憂鬱
 へと陥らせた。妻はそれを感じとり、気が重かった。彼の気を
 紛らわせ、元気づけるために、彼女はある日彼とともにプラー
 ター公園を馬車で走った。彼らが公園で2人きりで座った時、
 モーツァルトは死について語り始め、僕は自分のために≪レク
 イエム≫を書いているんだ、と言い張った。感じやすい夫の目
 に涙が浮かんだ。「僕にはよく分かる」と彼は続けた。「僕は
 もう長くない。きっと毒を盛られたんだ!この考えを振り払え
 ないんだよ」。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 この頃モーツァルトは2つの気分に支配されていたようです。
『魔笛』やフリーメーソン関係の曲を書いているときはとても元
気なのに、『レクイエム』の作曲をはじめると、なぜか元気がな
くなって、うつ状態になってしまうのです。
 しかし、そうかといってうつ病とは考えられない――このよう
に医師のアントン・ノイマイヤーはいうのです。それは精神異常
を示す兆候――食欲不振とか、それによる体重の減少、睡眠障害
などが当時のモーツァルトには何も見られないからです。
 もし、モーツァルトが本当に毒を盛られたとしたら、それは遅
効性のある毒であり、少しずつ効いてくる毒を飲まされていたと
いうことになります。問題はそういう毒薬を誰が盛ったかという
ことです。モーツァルトの身近にいる人でないと、それを果たす
ことはできないと考えられます。
 ところで、例のプラーター公園でのモーツァルトの告白を『モ
ーツァルトは誰に殺されたか』の著者、真木洋三氏は次のように
より踏み込んで書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトの没後7年目の1798年、プラハのニーメチェ
 ックは、最初のモーツァルト伝を出版したが、その伝記による
 と、彼が妻に毒殺を打ち明けた場所は、プラター公園であった
 という。
 「誰が、毒を盛ったの?」
 コンスタンツェは驚いてモーツァルトに詰め寄った。彼はひと
 呼吸もふた呼吸も置いて、呟くように言った。
 「お前、気がついてなかったのか?」
 「なんのこと?」
 「とぼけるのもいい加減にしろ、お前のほれ・・・」
 お抱え道化師さ、と言おうとして彼は顔をそむけ、ゆっくりと
 歩き始めた。彼女の顔から血の気が一挙に引いた。
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 「お抱え道化師」とは誰のことでしょうか。
 オペラ好きの人であれば、「お抱え道化師」と聞いてすぐ頭に
浮かぶのはリゴレット――歌劇『リゴレット』のタイトル・ロー
ルです。モーツァルトは、コンスタンツェに宛てた手紙で、よく
この言葉を使っているのです。1791年6月にバーデンで温泉
治療をしているコンツタンツェに宛てた手紙の最後に次のように
使っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
    お前のお抱え道化師に、ぼくからよろしく
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで「お抱え道化師」といわれているのは、モーツァルトの
弟子のジュスマイヤーのことなのです。そうすると、ジュスマイ
ヤーによってモーツァルトは毒を盛られたことになります。その
ような可能性は考えられるのでしょうか。
 確かにジュスマイヤーであれば、モーツァルトの食べ物に毒を
盛ることは可能です。しかし、ジュスマイヤーにモーツァルトを
殺す動機が見つからないのです。
 そこで考えられるのは、コンスタンツェのジュスマイヤーとの
不倫疑惑です。真木洋三氏はそれを前提として、モーツァルト毒
殺の推理を組み立てているのです。それならば、ジュスマイヤー
はコンスタンツェと一緒に暮らすことを夢見てモーツァルトを毒
殺したのでしょうか。
 確かに不倫疑惑は否定できないし、あっても不思議はないので
す。コンスタンツェの脚の病気は妊娠に伴うものであり、頻繁に
温泉治療が必要なほどの重症ではないといわれます。それをコン
スタンツェは、モーツァルト家の家計の厳しい中で2年以上も続
けて行ない、モーツァルトを苦しめたのです。モーツァルトの借
金の主要な原因はコンスタンツェのこの病気治療にあるのです。
 その温泉治療のバーデンでは、ジュスマイヤーが付き添ってい
たのです。モーツァルトの命を受けてです。しかし、ジュスマイ
ヤーが宮廷貴族が送り込んだスパイと考えた場合は、少し事情が
違ってきます。       ・・・・  [モーツァルト47]


≪画像および関連情報≫
 ・コンスタンツェのジュスマイヤーの不倫疑惑
  ―――――――――――――――――――――――――――
   モーツアルトの弟子がなぜ自分の師匠を毒殺しなければな
  らなかったのでしょうか。実は、モーツアルトの妻コンスタ
  ンチェと弟子のジュスマイアーは不倫をしていたのではない
  かと疑われています。モーツアルトは、もともとコンスタン
  チェの姉のアロイジアにプロポーズをしていましたが、結果
  的にふられてしまいました。それでもモーツァルトは、コン
  スタンチェと結婚した後も、アロイジアにずっと好意を寄せ
  ていたようです。それを不満に思ったコンスタンチェは若い
  弟子のジュスマイアーと不倫をしてしまったというのです。
  しかし、コンスタンチェはジュースマイアーにモーツアルト
  の殺害を依頼したわけではなく、むしろ、自分の不倫相手が
  夫を殺害してしまったのを知って、罪の意識から葬儀に参加
  できなかったのではないかと推論できます。
  http://www2.ocn.ne.jp/~lemonweb/story_pages/s_page4.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――

1969号.jpg
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2006年11月28日

ジュスマイヤーとは何者か(EJ1970号)

 フランツ・ジュスマイヤー――モーツァルトの弟子であったこ
の男はどういう人物なのでしょうか。
 ジュスマイヤーは1766年にオーストリアのシュヴァーネン
シュタットで生まれる――父に音楽の手ほどきを受け、1779
年〜84年、クレムスミュンスター修道院で学んでいます。
 この修道院では、オペラやジングシュピールがよく上演された
ため、グルックやサリエリのオペラを研究する機会に恵まれ、修
道院のための教会音楽や舞台音楽を大量に作曲するなど、それな
りの音楽的才能を発揮しています。
 1790年にモーツァルトの弟子になりますが、そのときジュ
スマイヤーは24歳であり、なかなかの美青年だったといわれま
す。モーツァルトは、ジュスマイヤーを自分の仕事のアシスタン
トとしてに使うよりも、むしろコンスタンツェの面倒をみさせて
いたといわれます。
 コンスタンツェが脚の治療と称してバーデンに行きたがるとき
も家計が苦しいにもかかわらずそれを許し、ジュスマイヤーを世
話役として同行させたのも、わがままなコンスタンツェの面倒を
ジュスマイヤーに押し付け、作曲に専念するための自分の時間を
作りたかったというのがモーツァルトの本音だったと思います。
 なぜなら、そのときモーツァルトは「自分にはもうあまり時間
がない」ことを本能的に知っていたように思われます。その当時
モーツァルトが書いていたオペラは、歌劇『皇帝ティトゥスの慈
悲/K621』です。
 この当時のモーツァルトの心情を理解しようと思うなら、この
オペラ『皇帝ティトゥスの慈悲/K621』について知る必要が
あります。ところがかなりのモーツァルトファンでも、『魔笛』
は知っていても、『皇帝ティトゥスの慈悲』については知らない
人が多いのです。
 このオペラは『後宮からの誘拐』に似ています。『後宮からの
誘拐』は実は当時の皇帝ヨーゼフ2世に対して愛と寛容を訴える
ものだったのですが、『皇帝ティトゥスの慈悲』は同じ愛と寛容
を皇帝レオポルト2世に対して訴えるものなのです。レオポルト
2世はモーツァルトに対して、どちらかというと冷たい人であっ
たからです。
 『皇帝ティトゥスの慈悲』とは、人間関係が複雑に入り組んで
いるオペラです。EJ風に要約してみます。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ローマ皇帝ティトにはセストという親友がいる。ティトはセ
 ストの妹のセルヴィアを愛しており、求婚するが、セルヴィア
 はセストの友人アントニオを熱愛していたので、ティトの求婚
 を断わる。そこで、ティトは先帝の娘であるヴィテリアと結婚
 することを決意するが、ヴィテリアはセストを愛している。
  セストはヴィテリアにそそのかされて、皇帝ティトの暗殺を
 企てるが失敗する。ティトは親友のセストを何とか救ってやろ
 うと理由を聞くが、セストはヴィテリアを庇って黙秘する。
  ローマ元老院はセストに死刑を言い渡し、刑が執行されるこ
 とになった。しかし、ヴィテリアは正式に皇妃の座につくこと
 になるが、その席で群集の面前でかかる悪事を企んだのはセス
 トではなく自分であると告白してセストの命を救う。
  皇帝ティトは、愛がすべての原因であることを悟り、この事
 件にかかわったすべての者を許すと言明する。しかし、セスト
 は、皇帝は許しても自分の良心は許してくれないと罪に伏すこ
 とを願い出る。しかし、ティトは悔い改めたその心こそ変わら
 ない忠誠よりも尊いとしてセストを許すのである。
  この皇帝ティトの深い慈悲に、ティトを除いた全員が「永遠
 の神」を称える大合唱が歌われ、オペラの幕が閉じる。
―――――――――――――――――――――――――――――
 このオペラの最後の大合唱は、モーツァルトの持っているエネ
ルギーが天に向かって噴出するかのような大迫力に満ちたものに
なっています。おそらくモーツァルトは、自らが皇帝ティトにな
り代ったような気持ちで作曲したものと思われます。
 この『皇帝ティトゥスの慈悲』の作曲と同時平行して『魔笛』
の作曲も進めていたモーツァルトは、『皇帝ティトゥスの慈悲』
の一部をジュスマイヤーにまかせているのです。そこがあとでこ
の作品の弱点ともなるのですが、モーツァルトにとっては、『魔
笛』の方が大切だったと思われます。
 1791年7月26日に、コンスタンツェは6番目の子供を出
産するのです。男の子です。モーツァルトの子供は6人ですが、
結局2人しか育っていないのです。このとき、モーツァルトは、
ジュスマイヤーを呼び出して次のようにいっているのです。真木
洋三氏の本から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ジュスマイヤーが彼(モーツァルト)に呼ばれた。弟子は緊張
 し切っていた。
 「あの子は、わたしの子ではないよ」
 「でも、先生の子なのは、たしかです」
 「莫迦なこと、言うんじゃない。十か月前、君は、コンスタン
 ツェとずっと一緒だった。わたしは、昨年、9月23日、フラ
 ンクフルトへ出発した。しかも、9月はいちどもバーデンには
 行っていない」。
  ジュスマイヤーの顔色は蒼白となった。両手がかすかに震え
 ている。
 「なにもかも知っているよ。きみが特別の仕事のために、わた
 しのところへ来たのも・・・」
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 「特別の仕事のために」とは何を意味しているのでしょうか。
ジュスマイヤーは誰かの命によって送り込まれたスパイだったの
でしょうか。        ・・・・  [モーツァルト48]


≪画像および関連情報≫
 ・『皇帝ティトゥスの慈悲』について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  『皇帝ティトゥスの慈悲』が音楽的に弱々しい作品だという
  のは絶対に正しくない。そこには最高の技術を持った名匠の
  美しい音楽がみちみちているのである。問題は、すべてテキ
  スト自体が、真の人間の感情と劇的な形を持つような作品を
  生み出す可能性を、まったくといってよいほど殺してしまっ
  ていることなのだ。―スタンリー・サディー著/小林利之訳
         『モーツァルトの世界』より。東京創元社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

1970号.jpg
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2006年11月29日

モーツァルトの4男をめぐる謎(EJ1971号)

 昨日のEJでも述べたように、モーツァルトとコンスタンツェ
の間には6人の子供が生まれましたが、次のように次男と四男の
2人の男子しか育っていないのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   次男 ・・・・・    カール・トーマス
   四男 ・・・・・ フランツ・クサーヴァー
―――――――――――――――――――――――――――――
 EJ第1932号で、2人の男の子のうちの四男、「フランツ
・クサーヴァー」の名前を覚えておいて欲しい――そのように私
は書きました。モーツァルトのテーマがはじまってちょうど10
回目のときでしたが、やっとそれが何を意味するかについて書く
ところまできました。
 モーツァルトの弟子であるジュスマイヤーのフルネームは、次
のようにいうのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     フランツ・クサーヴァー・ジュスマイヤー
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトの四男もフランツ・クサーヴァー――すなわち、
フルネームは次のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
  フランツ・クサーヴァー・ヴォルフガング・モーツァルト
―――――――――――――――――――――――――――――
 なぜ、モーツァルトは四男にこのような名前をつけたのでしょ
うか。真木洋三氏の本から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトの眼には涙が光った。すべり落ちる涙を振り払っ
 て、微かな、つぶやくような声で彼は続けた。
 「きみの名前をつけて、あの子は、フランツ・クサーヴァー・
 ヴォルフガング・モーツァルトとしよう。こんなことになるだ
 ろうと思って、去年の9月30日付でコンスタンツェはこの住
 所に引っ越したことにしてある。世間的には、わたしの子とな
 るだろう。だが、・・・」
 「先生、お許し下さい!」
 ジュスマイヤーは両頬に涙を迸らせて、両膝をついて涙に咽ん
 でいた。彼はキリストのかくれている場所を、わずかの金に釣
 られて役人に告げ、キリストを裏切ったユダの立場に自分が立
 たされているのを知った。
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 もちろんこれは四男の名前に着眼した真木洋三氏の推理です。
確たる証拠があるわけではありませんが、あってもおかしくない
説得力を持った説であると思います。
 真木洋三氏はもうひとつジュスマイヤーは、しかるべきところ
から意図的に送り込まれたスパイであると推理しています。映画
『アマデウス』では、サリエリが女中をスパイとして送り込むと
いう設定になっているので、あり得ないことではないのです。
 それなら、ジュスマイヤーは誰から送り込まれたスパイなので
しょうか。
 おそらくそれはサリエリであろうと思われます。何をもってそ
う判断するかというと、ジュスマイヤーはモーツァルトの死後、
コンスタンツェの前から姿を消し、サリエリの弟子になっている
のです。
 この事実からジュスマイヤーとサリエリは事前に繋がりがあっ
て、サリエリの特命を受けてモーツァルト家に入り込み、モーツ
ァルトに毒を盛る――まさかコンスタンツェと不倫を働くという
のは特命でないと思うが――そういう疑いが出てくるのです。サ
リエリのモーツァルト服毒説はこういう観点から出てくるのであ
れば、あってもおかしくない話なのです。
 実際問題として、サリエリらの宮廷貴族の一派は、『フィガロ
の結婚』をはじめとするモーツァルトのオペラの公演を物理的に
妨害して失敗させようとしたことは動かし難い事実です。貴族た
ちにとってモーツァルトは危険な存在だったのです。
 しかし、それでいながら、サリエリはモーツァルトの音楽を高
く評価していたのです。1791年4月17日にはサリエリが自
ら指揮して、モーツァルトの交響曲第40番ト短調を演奏してい
ます。サリエリはこの曲がとても好きだったといわれます。
 『魔笛』に関して、モーツァルトはコンスタンツェへの手紙に
おいて次のように伝えてもいるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 昨日13日の木曜日・・・6時に、僕はサリエリとカヴァリエ
 リを馬車で迎えにいき、彼らを桟敷席に案内した。2人がどん
 なに感じよかったか、僕の音楽だけでなく、台本も何もひっく
 るめて全部をどれだけ気に入ってくれたか、お前には信じられ
 ないだろうよ。(中略)サリエリは、序曲から最後の合唱まで
 一心に聴き、見ていたが、彼からブラヴォーとか、ベッロ(素
 敵だ)とかいう言葉を誘い出さない曲は、一曲もなかった。彼
 らは僕の好意に対し、ほとんどきりのないくらい礼をいった。
 ――アントン・ノイマイヤー著/礒山稚・大山典訳、『ハイド
    ンとモーツァルト/現代医学のみた大作曲家の生と死』
―――――――――――――――――――――――――――――
 これほどモーツァルトを買っていたサリエリがモーツァルトを
殺すはずはない――これはひとつの説得力のある意見です。サリ
エリとしては、宮廷音楽家としては最高の地位を得ており、モー
ツァルトを恐れる必要は何もなかったからです。しかし、貴族と
してみた場合は、モーツァルトはやはり危険分子なのです。
 サリエリは、ジュスマイヤーを弟子として迎え入れただけでな
く、四男のクサーヴァー・モーツァルトの面倒まで見ているので
す。もし、四男ががジュスマイヤーの子供だとした場合、これは
何を意味しているのでしょうか。・・・  [モーツァルト49]


≪画像および関連情報≫
 ・フランツ・クサーヴァー・モーツァルト
  ―――――――――――――――――――――――――――
  フランツ・クサーヴァー・モーツァルトはドイツのピアニス
  トで作曲家。モーツァルトの生き残った2人の子供のうちの
  次男(実際には四男)。母コンスタンツェの意向もあり、ヴ
  ォルフガング・アマデウス・モーツァルト2世として活動。
  しかし、生まれた直後に父親が他界したため、父から直接、
  卓越した音楽教育などを受けた事実はない。アントニオ・サ
  リエリとヨハン・ネボムク・フンメルに師事。《ディアベリ
  の主題による50の変奏曲》に、フランツ・リストなどとと
  もに名を連ねている。ピアノ・ソナタやポロネーズ、ロンド
  変奏曲などの作品があり、作品は洗練され、繊細であるが、
  ウェーバーやシューベルトと同世代にもかかわらず、作風は
  ウィーン古典派の域を出ない。    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

1971号.jpg
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2006年11月30日

『レクイエム』の補作をめぐる問題(EJ1972号)

 宮廷貴族のスパイであるジュスマイヤーが弟子としてモーツァ
ルト家に入り込み、あろうことか妻のコンスタンツェと不倫を重
ね子供までつくってしまう――それをモーツァルトは知っていて
すべてを許す――普通こういうことは考えられないことですが、
『皇帝ティトゥスの慈悲』と重ねあわすと、なんとなく理解でき
るような気がするのです。モーツァルトは、自分が皇帝ティトゥ
スになったつもりで、寛容と慈悲の精神をもってコンスタンツェ
やジュスマイヤーを許したのでしょうか。
 いずれにせよはっきりしていることは、子供が生まれた時点で
ジュスマイヤーとコンスタンツェの仲は既に破綻していたという
事実です。それは、ジュスマイヤーがモーツァルトの死後、速や
かにモーツァルト家から姿を消しているからです。
 夫を亡きものにして一緒に暮らすのではなく、目的が達せられ
たので姿を消すというのであれば、ジュスマイヤーのスパイ説は
真実味を帯びてきます。ジュスマイヤーは、モーツァルト家から
姿を消して、サリエリの弟子になっているからです。
 ジュスマイヤーがコンスタンツェの前から姿を消したのであれ
ば、それなら彼はぜ未完の『レクイエム』の補作を行なったので
しょうか。これには少し複雑ないきさつがあるのです。
 モーツァルトの死後、『レクイエム』の依頼主のヴァルゼック
伯爵からコンスタンツェのところに使者が来て、『レクイエム』
の総譜を渡せといってきます。
 既にジュスマイヤーは姿を消していて、補作をやってもらう人
がいない。もし未完のままスコアを渡すと、残金がもらえないの
で、コンスタンツェはなんとか完成させようとします。そこで、
モーツァルトの友人のヨーゼフ・アイブラーに『レクイエム』の
補作を依頼するのです。
 アイブラーはいったんは引き受けておきながら、何ひとつ作業
を行なわないまま、補作を投げ出してしまったのです。なぜ、投
げ出したかは今もってわかっていないのです。
 ヴァルゼック伯爵からの催促は激しさを増すばかりで困り果て
たコンスタンツェは死にもの狂いでジュスマイヤーを探し、彼が
サリエリの弟子になっていることを突き止めたのです。
 コンスタンツェは人を介してジュスマイヤーに補作を依頼した
のです。ジュスマイヤーはモーツァルトとの約束でもあったので
補作を引き受け、完成させます。そして、モーツァルトの没後、
2年が経過した1793年になって、『レクイエム』は、ヴァル
ゼック伯爵に手渡されたのです。そしてその『レクイエム』は、
1793年12月にヴァルゼック伯爵の作品として、邸内の礼拝
堂において演奏されたのです。
 しかし後になってコンスタンツェが『レクイエム』のコピーを
楽譜出版会社のブライトコップフ・ウント・ヘンテル社に売りつ
けたので、『レクイエム』はモーツァルトの作品として正式に認
定されたのです。
 しかし、ジュスマイヤーも黙ってはいませんでした。1800
年2月8日になって、ジュスマイヤーはブライトコップフ・ウン
ト・ヘンテル社に対して『レクイエム』の後半のほとんどは自分
の補作であることを通告したのです。ジュスマイヤーの心境とし
ては、こうすることによってのみ自分の名前が後世に残る――そ
のように考えたのです。
 それは、ジュスマイヤーの考えた通りとなり、モーツァルトの
『レクイエム』の補作者としてフランツ・クサーヴァー・ジュス
マイヤーの名前は今日に残っているのです。そして、ジュスマイ
ヤーはそれから3年後に37歳の若さでこの世を去っています。
 ジュスマイヤー版の『レクイエム』は、その後何回かにわたっ
て修正が行なわれていますが、やはり作曲者のモーツァルト自身
から直接指示を受けてのジュスマイヤーの補作には、多くの問題
があるとはいえ、一定の価値が認められています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1971年、フランク・バイヤーによって、ジュスマイヤーの
 補作であるオーケストレーションの改訂が行われた。そのあと
 イギリスの音楽学者リチャード・モーンダーにより続唱の涙の
 日(ラクリモサ)の第9節以下のジュスマイヤーの補作がカッ
 トされ、代わって入祭文の一部を入れ、最後にモーツァルトが
 スケッチのまま残したアーメンのフーガをつけ加えるという大
 手術が行われた。完全にジュスマイヤーの作と思える、サンク
 トゥスとベネディクスも切り落とされてしまった。
   ――真木洋三著、『モーツァルトは誰に殺されたか』より
                       読売新聞社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここまで宮廷貴族の送り込んだスパイとしてのジュスマイヤー
によるモーツァルト毒殺説について述べてきましたが、もう1人
疑わしい人物がいます。
 それは他ならぬモーツァルトの妻であるコンスタンツェその人
です。モーツァルトに遅効性の毒を盛るには、モーツァルトの身
近にいる者以外は無理ということになります。そうなると、コン
スタンツェかジュスマイヤーしかいないことになります。
 コンスタンツェを疑う理由はいくつもあるのです。それは死亡
から埋葬までの一連のプロセスに多くの疑惑があるからです。フ
ランシス・カーは次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 モーツァルトが死んだ正確な日時は1791年12月5日の午
 前1時5分前であることはわかっている。しかしその後は、わ
 れわれは闇、疑惑、矛盾の中に投げ込まれてしまう。特にその
 中で際立つのはコンスタンツェだが、それは彼女が肝心なとき
 にいなかったり、黙して語らずといった不可解な行動による。
                  ――フランシス・カー著
      横山一雄訳『モーツァルトとコンスタンツェ』より
                       音楽之友社刊
―――――――――――――――・・・  [モーツァルト50]


≪画像および関連情報≫
 ・モツレクに関するブログより/ゆきのじょうさん
  ―――――――――――――――――――――――――――
  モーツァルトのレクイエムには、フォーレやヴェルディには
  ない問題が生じています。それは本作品が全くと言って良い
  ほどの未完成品であるということです。モーツァルトの死後
  レクイエムは弟子たちによって完成版がつくられることにな
  ります。最終的にまとめたのがフランツ・クサヴァ・ジュス
  マイヤー(1766〜1803)です。特に「ラクリモーザ」
  より後はモーツァルトの自筆譜すら残っていないため、様々
  な仮説、憶測が流れることになります。それらの主張を乱暴
  に一言で言ってしまえば「モーツァルトが書きたかったレク
  イエムはこういうものではない」ということだと思います。
  http://www.kapelle.jp/classic/your_best/mozart_requiem.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

1972号.jpg
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