2005年07月01日

なぜ、香港を捨ててパリに行ったのか(EJ1625号)

 「歌で中国人の心をひとつにしたい」――こう考えるテレサ・
テンの希望は、天安門事件によって無残にも踏みにじられること
になります。ショックが大き過ぎて、1989年6月24日から
予定されていた日本でのキャンペーンは中止せざるをえなくなっ
たのです。しかし、21日に予定されていたテレビ朝日の「郷ひ
ろみ宴ターテイメント」への参加は中止するわけにはいかず、香
港からの中継で参加しています。
 そのときテレサ・テンは黒いチャイナドレスに真珠のネックレ
スをしていましたが、これは明らかに天安門事件の犠牲者に対す
る喪装だったと思われます。歌った歌は「香港」――この歌の二
番の歌詞「心だけが帰るところはきっとこの街」のところで涙声
になり、あとは泣きながら歌っているのです。
 天安門事件のあと、テレサ・テンは香港の自宅を紫一色に塗り
変えています。気分の一新ということもあるでしょうが、199
7年に香港が中国に返還されると、人民解放軍がやってくること
を非常に恐れており、それを防ぐという意味もあっての改装とも
いわれています。紫という色は運がついてきて、自分を守ってく
れる――これはつねづねテレサ・テンがいっていた言葉です。
 そのため、テレサ・テンの邸宅は「紫の館」と香港の人々にい
われるようになったのです。しかし、テレサ・テンは、内心ひそ
かに恐れていた1997年の香港返還まで残念ながら生きること
はできなかったのです。
 1989年11月20日――テレサ・テンは香港をあとにして
パリに旅立ちます。それは単なる旅ではなく、生活と音楽活動の
拠点をパリに移すための決意の旅立ちだったのです。
 彼女はこの突然のパリ行きについては母親にも相談せず、一人
で決断しているのです。とりあえずのパリでの生活の拠点は、凱
旋門から10分くらいの距離にあるフォブール・サン・トノレ通
り230番地の家具付きワンルームだったのです。そして一年後
にモンテニュー大通りのアパルトマンを購入しています。本気で
長く住むつもりであったことがこれでわかります。
 なぜ、気に入っていた香港での生活を捨てて、パリに移ったの
かについて、有田芳生氏はテレサ・テンに何回も尋ねていますが
彼女は次のように答えています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 政府は全然信用できないですからね。もし、わたしが無視して
 自分のいい生活をそのままして(いたら)、多分そのあと大きな
 災難(が)来ると思います。
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このテレサ・テンのことばを聞くと、やはり彼女はやがて中国
政府が自分に対して、何らかの関与をしてくるのではないかと考
えていたことがわかります。確かに中国政府から見ると、大陸と
台湾の両岸で高い人気を持つ有名な歌手テレサ・テンは、政治的
に一番有効に利用できる存在であるからです。
 「香港にいては危ない」――テレサ・テンがそう考えたのは間
違いないとしても、それではなぜ、フランスなのでしょうか。テ
レサ・テンはフランス語がまったく話せないのです。
 有田氏の本を読んでわかったことですが、天安門事件が起こっ
た1989年という年は、フランス革命から200周年に当る年
なのです。フランス政府は、パスポートや身分証明書を持たない
者であっても積極的に中国からの政治亡命者を受け入れる方針を
明らかにしていたのです。
 これによって、パリは中国からの政治亡命者を大量に受け入れ
「民主中国陣線」(FDC)が結成されたのです。海外から中国の
民主化を推進する――それが目的だったのです。
 この組織のリーダーとしては、学生リーダーのウアルカイシや
チヤイ・リン(柴玲)、経済学者のイエン・チアー・チー(厳家
其)などが就任し、活発に活動を始めたのです。
 テレサ・テンのパリ移住がこのことと無関係であるとは思えな
いのです。彼女としては、自分もパリに住まいを移し、「民主中
国陣線」を何らかのかたちでバックアップしたかったのではない
か――そう思われるのです。
 彼らはフランスのマスコミと連携して声明を出したり、「人民
日報」の海賊版をFAXで送りつけるなど、さまざまな活動をは
じめたのです。実際にパリに居を構えたテレサ・テンは、彼らと
食事をしたり、集会に参加したりしてお互いに中国の情報を交換
しています。
 さらに具体的にテレサ・テンは「民主化支援コンサート」を開
こうと提案しています。「民主中国陣線」では、野外でやるか、
劇場でやるかが話し合われ、劇場でやる方がベターであるという
ことになったのです。会場はブローニュの森の北東角にあるパレ
・デ・コングレでやろうということになったのです。
 実際にコストが計算され、全部で120万フラン(約2640
万円)かかることがわかったのですが、それを支援してくれる新
聞社や団体はどこもなかったのです。
 しかし、「お金の心配はいらない」といっていた頼みの綱のテ
レサ・テンは最終的に「民主中国陣線」のコンサートプランには
乗らず、天安門事件に抗議するコンサート構想は幻に終わってし
まったのです。
 テレサ・テン自身が話していないので、本当の理由は推測する
しかないのですが、次の2つの理由からであると考えられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.テレサ・テンは屋外の無料コンサートを考えていたのに、
   民主中国陣線は劇場で有料開催にこだわったこと
 2.多数の死者が出た事件に対して、歌うという行為で抗議す
   ることに最終的に疑問を感じてしまっていたこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 民主中国陣線は組織としてうまくいっておらず、資金不足で焦
りがあり、そこがテレサ・テンと折り合えなかったのです。


≪画像および関連情報≫
 ・パリ時代のテレサ・テン
  平野久美子著、『テレサ・テンが見た夢』より。晶文社刊

1625号.jpg
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2005年07月04日

果たせなかった4回目の紅白出場(EJ1626号)

 「民主中国陣線」――テレサ・テンが自分の生活の拠点をパリ
に移してまで支援しようとしていた団体ですが、時間の経過と共
に彼女は次第に彼らと距離をおくようになっていったのです。
 それは「民主中国陣線」内部の度重なる内紛、腐敗などにある
のです。テレサ・テンをはじめ当初は大量に寄せられた資金を無
駄なことに費やしたり、持ち逃げする者まで現れ、メンバーは激
減してしまったのです。
 それにフランス政府自体が中国寄りの姿勢をとるに及んで、民
主中国を実現する運動は一層やりにくくなってきたのも事実なの
です。そもそも自らは海外の安全な場所にいて、そこから民主中
国を実現する運動をすること自体に無理があったのです。
 まして周りは中国の環境とはまるで違う自由の国フランス――
若者の中にはそれに目を奪われ、自分を見失ってしまう者も少な
からず出てきたのです。組織が衰退するのは時間の問題だったと
いえます。そして、こんなことがいわれるようになったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 共産党は40年かかって腐敗したが、パリの民主化運動組織は
 たったの4ヶ月で腐敗してしまった・・・と。
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 どうやらテレサ・テンは、パリに生活の拠点を構えて、資金は
日本で稼ぐことによって、民主中国化運動を支える計画を持って
いたようです。その時点でのテレサ・テンの音楽活動は、香港や
台湾でも年に1回程度しか歌っていないのですが、日本では年に
2曲程度の新曲を出しており、CM――金鳥の蚊取り線香/何日
君再来、メナード化粧品/あなたと共に生きてゆく――などにも
積極的に出るようになっていたのです。しかし、往時の勢いは既
になくなっていたのです。
 1993年10月24日――テレサ・テンはフランスを離れて
香港に戻ります。そのときパリで出会った14歳年下のステファ
ン・ピュエールなる恋人と一緒だったのです。そして、二度とフ
ランスの自宅に戻ることはなかったのです。
 このステファン・ピュエール――たいした人物ではなく、非常
に疑惑の多い男なのです。テレサ・テンはこの人物と出会ってか
ら、急速に運が傾き、生活自体が乱れていったのです。この頃の
テレサ・テンはしばしば体調を崩し、かなり痩せていたのです。
そして、ステファンとしばしばチェンマイに現れる頃には容貌が
一変し、相当老け込んでしまっています。
 有田氏の本によると、テレサ・テンはステファンと何度も別れ
ようとしたようです。本に次の一節があります。テレサ・テンと
ステファンの関係がよくわかります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  香港の自宅でのことだ。ある日の夜中、大喧嘩をした二人が
 二階から降りてきた。テレサは泣きながら「出ていけ」と叫ん
 だ。ステファンは家を出たが、十分ほどあとでチャイムが鳴っ
 た。外は大雨だったので、全身はすぶ濡れだ。その姿を見たテ
 レサはそれ以上怒ることはできなかった。激しい喧嘩が繰り返
 されるようになっても別れなかったのは、テレサが優しすぎた
 からである。
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
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 この時期になってもテレサ・テンは台湾に戻ると、軍への慰問
を無報酬できちんと続けていたのです。台湾政府はこの献身的な
テレサ・テンの軍への協力に非常に感謝していたのです。そのた
め、テレサ・テンスパイ説などが彼女の死後出てくる原因のひと
つとなるのです。
 テレサ・テンは寒さに弱いのです。そのため冬になると通常は
タイのプーケットで過ごすことが多かったのです。しかし、ここ
は雨が多く不満を持っており、代わりに見つけたのが北部のチェ
ンマイなのです。
 テレサ・テンが最初にチェンマイを訪れたのは、1994年8
月のことです。常用していたホテルは、インペリアル・メービン
ホテルであり、1995年までに3回利用しています。そして、
このチェンマイがテレサ・テンの最後の地になるのです。
 同じ1994年10月23日――テレサ・テンは日本に来てい
ます。24日に仙台市で行われるNHKの「歌謡チャリティコン
サート」に出演するためです。その目的は、その年の暮れに行わ
れる紅白歌合戦への出場を確実にするためといわれています。
 ここまでテレサ・テンは、1985年、1986年、1991
年と3回の紅白出場を果たしていますが、1994年の紅白にも
出場を狙っていたのです。この時点での日本におけるテレサ・テ
ンの人気には陰りが出ており、紅白出場で何とか劣勢を挽回した
いと考えていたのです。
 しかし、このときのテレサ・テンの体調は最悪であり、いつも
は決してわがままをいわないテレサ・テンは、この来日のときだ
けは決まっていたスケジュールを大幅に修正させたり、飛行機に
乗り遅れたりと、失敗の連続だったようです。後でわかったこと
ですが、テレサ・テンはステファンと大喧嘩して、日本に来てい
たのです。終始不機嫌だったのはそれが原因なのです。
 本番でテレサ・テンは「夜来香」と「時の流れに身をまかせ」
を歌ったのですが、いつもなら滑らかに出る声に張りはなく、明
らかに不調だったのです。そして、今考えると、これがテレサ・
テンの日本での最後の歌になってしまったのです。
 この最後の来日のとき、成田空港でラジオ番組用の収録が行わ
れています。このときの声は元気がなく、最後に「日本にまた来
たいです。テレサ・テンでした」としめくくっています。
 飛行機の出発時間がきたとき、トーラス・レコードの鈴木章代
さんは「身体に気をつけて。香港の空港にはステファンが迎えに
きているからね」と呼びかけています。
 これに対してテレサ・テンは、「ありがとう。行ってきます」
と言葉を返しています。これがテレサの見納めとなったのです。


≪画像および関連情報≫
 ・ステファンとのツーショット
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊

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2005年07月05日

テレサ・テン/メービンホテルで客死(EJ1627号)

 1994年12月31日――テレサ・テンはチェンマイのメー
ビン・ホテルにステファンと一緒に宿泊していたのです。結局、
この年の紅白歌合戦にテレサ・テンは選ばれなかったのです。
 この日ホテルの中庭には新年のカウントダウン用の会場が設け
られており、約300人ほどの宿泊客がカウントダウンを待って
いたのです。テレサ・テンとステファンも宿泊客と一緒にカウン
トダウンを見ていたといいます。
 午前0時に花火が上がり新年が告げられると、ホテルの総支配
人がテレサ・テンに一曲歌って欲しいといってきたのです。そこ
でテレサ・テンが歌ったのは、『梅花(メイフア)』という歌な
のです。この『梅花』という歌には台湾の悲しい歴史が秘められ
ているのです。
 1972年2月21日、米大統領ニクソンは訪中して毛沢東主
席と会談、カーター政権時代の1979年に米中の間に国交が樹
立されたのです。それと同時に米国は台湾との国交を断絶し、台
湾は国際的に孤立してしまうのです。
 台湾では意気消沈した国民を励まそうと、いろいろな歌が作ら
れています。そのひとつが『梅花』なのです。この歌は中国でも
流行したのですが、中国政府はこの歌を放送禁止処分にしている
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    梅の花、梅の花
    それはこの世に満ち溢れ 寒ければ寒いほど花開く
    ・・・・・・・・・・・
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 歌い終わると、会場から盛大な拍手と歓声がわきあがったので
す。そして、この小さな舞台での歌が、アジアの歌姫テレサ・テ
ンの最後の舞台になったのです。
 実は、テレサ・テンは12月30日の午前9時に喘息の発作を
起こし、ホテルに医師を呼んでいます。医師が部屋に入ると、寒
いほどエアコンがきいており、部屋にはタバコの煙が充満してい
たといいます。ステファンはヘビー・スモーカーで冷房を強くす
るのがつねであったからです。しかし、これは喘息患者には最悪
の環境なのです。
 医師は直ちにステファンにタバコをやめさせ、テレサ・テンを
チェンマイの市内で一番設備の整っているラム病院に入院させた
のです。医師の治療の結果、翌31日の大晦日になると、喘息の
発作は収まったので、退院したいと願うテレサ・テンの要望を受
け入れて、退院させています。その数時間後にテレサ・テンはホ
テル側の要請によって『梅花』を歌ったのです。
 いったん香港に帰ったテレサ・テンは4月に再びチェンマイに
やってきます。もちろん、ステファンも一緒です。この頃のテレ
サ・テンの身体の調子は一段と悪化しており、かなり咳が出てと
まらない状況だったといいます。このとき、テレサ・テンは、前
回発作を起こしたとき診てもらった医師のクリニックを訪ね、診
察を受けて薬を調合してもらっているのです。
 1995年5月8日――いつも通りにルームサービスで朝食を
とったテレサ・テンは、どこにも出かけず、一日中部屋に閉じこ
もっていたといいます。しかし、ステファンは夕方になってひと
りで外出しているのです。このときは、部屋に閉じこもってほと
んど外に出ないテレサ・テンと対照的にステファンはよく外に出
かけています。一体何をしに出かけたのでしょうか。
 そのあと、異変が起こったのです。午後5時15分頃になって
テレサ・テンは部屋のドアを開け、よろよろと少し歩いたところ
で突然倒れたのです。これを15階のカウンターの女子従業員が
見ており、責任者に通報します。
 テレサ・テンはすぐチェンマイラム病院に運ばれたのですが、
道路が渋滞しており、通常であれば10分で着く病院に30分も
かかってやっと到着したのです。直ちに緊急治療室に入れられた
のですが、テレサ・テンはそのときは既に死亡していたのです。
 病院長による手書きの死亡通知書には、次のように記述されて
いたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1995年5月8日 関係各位殿――テン・リー・ユン夫人は
 午後5時30分頃、病院到着前に死亡、病院ではすでに心臓停
 止、瞳孔は開いたままで、脳死の状態であった。一定の時間蘇
 生措置が試みられたが、生還せず。享年42歳。
  ――宇崎 真/渡辺也寸志著、『テレサ・テンの真実』より
  徳間書店刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そのとき、ステファンは外出中でしたが、彼は非常に不審な行
動をとっているのです。
 ステファンはこの日の夕方に外出しています。正確な時刻は不
明ですが、テレサ・テンが部屋から出てくる午後5時15分より
も前であることは確かです。
 ステファンがホテルに戻ってきたのは、午後6時30分頃とい
うことです。その時点でテレサ・テンは既に死亡していたのです
が、ホテルのマネージャーは本当のことがいえず、ステファンに
すぐに病院に行くよう求めたのです。それからステファンは部屋
に入り、1時間経過しても出てこなかったのです。
 マネージャーが電話して「危篤ですから、すぐ行くように」と
重ねていったのですが、それでも出てこないのです。仕方がない
ので、マネージャーは部屋を訪ね、すぐに行くよう求め、やっと
病院に行かせたのです。そのため、ステファンが病院に着いたの
は午後8時を回っていたといいます。午後6時30分から8時過
ぎまでの2時間近い空白の時間――ステファンはホテルの部屋で
一体何をしていたのでしょうか。
 しかも、ステファンは遺体解剖同意書には「解剖するな」と書
き入れています。そして、ホテルに戻ったステファンはテレサの
家族と連絡をとったのです。


≪画像および関連情報≫
 ・『梅花』の歌詞
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  梅の花 梅の花 それはこの世に満ち溢れ
  寒ければ寒いほど花咲く
  梅花の辛抱強さは私たちの広大な大中華を象徴する
  ごらんなさい あたり一面梅の花 土地があればきっとある
  氷雪風雨もおそれない
  それは私の国花です
  (館野雅子訳)
  ――有田・生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
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2005年07月06日

テレサ・テン/国をあげての盛大な葬儀(EJ1628号)

 1995年5月12日未明――TG636便でテレサ・テンの
遺体はチェンマイから台湾の中正国際空港に戻ってきたのです。
このとき、空港には200人を超える報道陣と、陸海空三軍の儀
仗兵が出迎えています。そしてこの日、テレサ・テンの葬儀を行
うための台湾政府葬儀委員会が発足しています。
 5月13日になると、遺体は台北にある中華テレビ局内に設置
された霊堂に安置され、棺にはテレサ・テンの好んだ色――紫の
布がかけられていたのです。そこにはテレサ・テンの肖像が掲げ
られ、堂内にはテレサ・テンの歌声が途切れることなく流されて
いたのです。この礼拝所にはその日だけで2000人を超える人
が足を運んでいるのです。
 5月22日に台湾政府は、テレサ・テンの葬儀を公葬(国葬に
準ずる)とすることに決定し、5月28日に実施すると発表して
います。そして、テレサ・テンには、次の褒章が授与されていま
す。一芸能人にはまさに異例のことといえます。
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      政府 ・・・・・・・ 華夏一等奨章
      軍 ・・・・・・・・ 陸海空軍褒章
      僑務委員会 ・・・・ 華光一等奨章
      総統 ・・・・・・・ 褒揚令 褒章
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 「華夏一等奨章」は日本でいうと国民栄誉賞のようなものに当
たりますが、芸能人に授与されるのははじめてのことです。
 5月28日の葬儀は、午前7時30分から親族だけの葬儀、午
前8時から友人や葬儀委員による追悼会、午前9時からは公葬、
午前11時から覆旗典例の順序で進められたのです。
 追悼会では、トーラスレコードの舟木社長が弔辞を読み、その
席には作詞家の荒木とよひさ、作曲家の三木たかしの姿もあった
のです。追悼会の最後にはテレサ・テンが残した詞に曲をつけた
「星願」が演奏されています。歌ったのは、テレサ・テンの声に
似ている李宝埼という歌手であり、歌は葬儀の2日前に完成した
といわれています。
 午前9時から11時までは公葬が行われています。台湾以外で
は、香港、日本、東南アジア各地、中には大陸から処罰覚悟で多
くのテレサ・テンファンが参列し、その規模は国家主席であった
蒋介石総統の葬儀に次ぐものとなったのです。
 午前11時からの「覆旗典例」について、有田氏は次のように
書いています。
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  午前11時過ぎ、「覆旗典例」がはじまった。総統府秘書長
 国民党中央委員会秘書長などの手によって棺が閉められ、中華
 民国旗(青天白日満地紅旗)、国民党旗(青天白日旗)がかけ
 られた。芸能人としてはじめてのことである。哀悼の演奏が行
 われるなかを連戦・行政院長、宗楚瑜・台湾省長らが焼香し、
 献花した。
  ――有田芳生著、『私の家は山の向こう』より 文藝春秋刊
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 こうしてテレサ・テンの棺は精鋭軍人に担がれ、車で金宝山霊
園に向ったのです。葬儀場周辺や沿道には3万人のファンが詰め
かけて、棺を見送っています。
 テレサ・テンは金宝山霊園の公墓に土葬されたのです。台湾で
は、土葬する場合の手続きが難しく、土地取得も必要なので、特
別の功労のあった人だけが許されるのです。
 チェンマイでテレサ・テンが死亡したとき、台湾の著名な霊園
が次々に土地提供を申し出たというのです。結局は金宝山霊園に
決まり、現在では台湾の観光スポットになっているのです。とく
に日本人はよくテレサ・テンの墓を訪れるといいます。
 テレサ・テンの葬儀の模様を見た日本人は、改めてテレサ・テ
ンが、台湾や中国、それに東南アジアをはじめとする華僑社会に
おいていかに影響力を持つ歌手であったかを思い知らされたと思
うのです。日本と他のアジアの諸国とでは、テレサ・テンの評価
に関して大きなギャップがあったからです。
 テレサ・テンの墓地のある金宝山霊園のパンフレットには、テ
レサ・テンについて次のように書いてあります。
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 テレサ・テンはわが国の芸能文化にその一生をささげたばかり
 でなく、国際的に傑出した芸術家でありました。彼女は常に努
 力を惜しまず、奇跡ともいえる芸術性を発揮して、歌謡界にお
 いて空前の成功をおさめました。と同時に、国を愛し、軍を敬
 い、軍人の士気を鼓舞する活動にも大いに貢献したのです。そ
 の甘美で優雅な歌声は、大陸はおろかアジア、世界の華人まで
 も魅了し、深い感動を呼びました。しかし、なににもまして重
 要なことは、彼女が純真にして善良な、誠実にして謙虚な人格
 の持ち主であったことです。であればこそテレサ・テンは、中
 国文化や中国歌謡を真に国際化することに成功した唯一の巨星
 となり得たのです。
 ――平野久美子著、『テレサ・テンが見た夢』より 晶文社刊
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 テレサ・テンが亡くなってから、彼女の突然死に関連していく
つかの疑惑が報道されています。エイズ死亡説、毒殺説、大麻疑
惑、スパイ疑惑など・・・です。死因に不審な点があるとされた
のは、チェンマイのテレビ局がテレサ・テンの遺体の上半身を無
神経にも放送したからです。それを英国のロイター通信社がそれ
を世界に配信したのです。とくに左の耳の下の赤い斑点があるこ
とは大きな話題となったのです。それに関して、ステファンにつ
いても数多い疑惑が出ています。
 そのほとんどは根拠のないものであり、改めて取り上げるまで
もないことですが、納得できない人も一部いることは確かです。
テレサ・テンのテーマはあと2回で終了する予定ですが、残りの
2回で、これらの疑惑について述べたいと思います。


≪画像および関連情報≫
 ・金宝山墓園
  テレサ・テンが眠るのは台北県北海岸の金宝山墓園。台北市
  内から車で1時間半ほどの小高い山にあり、海も一望できる
  眺めのよい墓地である。テレサのお墓の前には、ト音記号の
  形に美しく整備された花壇の中にテレサの銅像が静かにたた
  ずんでいる。毎年命日の5月8日には、この「テレサ・テン
  紀念公園」で、テレサを偲ぶ記念式典が開催される。

  http://www.tabitabi-taipei.com/youyou/200504/park.html

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2005年07月07日

ステファンにまつわる大麻疑惑(EJ1629号)

 テレサ・テンの足跡をたどると、ステファンと交際をはじめる
前と後とでは大きく運命が変わっていることがわかります。ステ
ファンと会う前は運気が非常に強く、多少の障害があっても跳ね
返して伸びる力があったのです。実際にテレサ・テンはステファ
ンに会う時点では世界的な歌手になっていたのです。
 しかし、ステファンと会ってからはしだいに運気が弱くなり、
仕事も少なくなっていったのです。持病の喘息もひどくなり、体
調は必ずしも万全ではなくなっています。さらに、テレサ・テン
にまつわる疑惑というものもこのステファンと無関係ではないの
です。
 1990年1月16日――あの勝新太郎が大麻不法所持で逮捕
されています。それからしばらく経って、トーラスレコードにと
んでもない情報が飛び込んできたのです。「テレサ・テンが大麻
を吸っている」というウワサです。
 この件についてトーラスレコードの舟木社長は、即座にパリに
飛んでテレサ・テンに会い、その疑惑について聞いています。し
かし、テレサ・テンはこれについて「絶対にやっていない」と強
く否定しているのです。
 ところが、ステファンには強い疑惑があるのです。それは、テ
レサ・テンが亡くなった年のチェンマイのメービンホテルにおけ
るステファンの不審な行動がそれを物語っています。
 テレサ・テンとステファンは、1994年の年末から1995
年にかけてチェンマイのメービンホテルに宿泊しています。既に
述べたように、そのときのテレサ・テンの体調は思わしくありま
せんでした。事実、1994年の年末にテレサ・テンは喘息の発
作を起こし、チェンマイラム病院に入院しています。
 実はそのときステファンは不思議な行動をとっているのです。
1994年8月に2人でチェンマイに行ったとき、テレサ・テン
はつねにステファンと行動をともにしており、どちらかが1人で
出かけることはなかったのです。
 しかし、1994年の暮れに行ったとき、テレサ・テンはほと
んどホテルに閉じこもっていたのに対し、ステファンは夕方にな
ると、1人でよく外に出かけていたのです。
 1995年4月にチェンマイに行ったときは、外に出かけるの
はステファンだけであり、それも出かけるのは夕方以降に限られ
ていたのです。ステファンは一体何のために、どこに行っていた
のでしょうか。
 既出の『テレサ・テンの真実』(徳間書店刊)の著者は、4回
にわたりチェンマイに取材をかけ、そのときのステファンの行動
を追跡しています。同書によると、ステファンが夜になると行っ
ていたのは、メービンホテルの近くのナイトバザールに店を出す
屋台だというのです。この屋台は、30代の女性と20代の小柄
な男性がやっていたといいます。
 屋台を見張っていると、外国人のツーリストたちがよくその屋
台に立ち寄っており、外国人が何かを話すと小柄な男がバイクで
どこかに出かけて、20分ほど経つと戻ってきてタバコのような
ものを渡すのを目撃したというのです。
 屋台の男女にステファンの写真を見せると、ステファンが屋台
によく来ることは認めたのです。それに彼らは、テレサ・テンも
一緒に来たことがあり、青物の野菜炒めをよく食べていたといっ
ています。
 この屋台について同書には、次のように書かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  あの客に渡したタバコ(?)は、本当は何だったのか。調査
 を進めた。チェンマイの麻薬捜査局によれば、この屋台は麻薬
 組織の末端の販売ルートの一つになっており、とくに外国人観
 光客が利用しているという。屋台には常備しておらず、注文が
 あるとバイク便で指定の時間、場所に届ける。
  ――宇崎 真/渡辺也寸志著、『テレサ・テンの真実』より
  徳間書店刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実はステファンが大麻を吸っていたことをホテル側は知ってい
たと思われるのです。かつてメービンホテルに勤務していたとい
うスタッフの一人は次のように証言しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昨年(1994年)15階のルームボーイとして働いていまし
 た。テレサさんの部屋のクリーンアップをしながら、ああ、こ
 の臭いは大麻だと直感しました。ほかの場所から臭ってきたな
 んてことはありません。とっても強い臭いですから。
                      ――前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ホテル側はステファンが大麻を吸っていた事実について従業員
に厳重に口止めしています。それでいて、従業員に次の命令を出
しています。これはテレサ・テンの死亡当日の作業記録です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   REMARK (テレサ)の夫の動静を注意して観察すること
                    ――前掲書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これで、ステファンがホテルに戻ってきて、なかなか病院に行
かなかった謎が少し解けるのです。それは、部屋にあったと見ら
れる大麻の処分と部屋にこもる大麻の臭いを何とかするため、時
間がかかったのではないかと考えられるのです。
 推測ですが、この件に関してはホテル側も関与している疑いが
あります。ホテルとしては、テレサ・テンはホテルの部屋で死亡
したのではなく、病院への移送中に死亡したことにしたかったの
です。それは、警察側の捜査が15階1502室に及ぶのを何と
しても避けたかったからです。
 それにホテル側はステファンの帰国を助けています。とにかく
ステファンには一刻も早く、ホテルをチェックアウトしてもらい
たかったわけです。


≪画像および関連情報≫
 ・ナイトバザールはメービンホテルの裏側にある。
 ・ナイトバザールは、市の中心部、チャーンクラーン通りの両
  脇の歩道に約900メートルに渡って夜のみ出現するショッ
  ピングスポットで、ここでの買い物はチェンマイ観光のハイ
  ライトのひとつと言ってもいいだろう。店は、移動式の屋台
  のような造りの幅2〜3メートルの小さなものが中心で、そ
  の数は膨大だ。扱っているものは、基本的にお土産用に大量
  生産された民芸品が多く、洋服なら洋服、銀製品なら銀製品
  というようにひとつのカテゴリのみを販売しているところが
  多い。同じものを売っている店が多数あるので、買い物をす
  る時には何軒かで値段を聞いて相場を確認してからにした方
  がいいだろう。
   詳細は−−−−−−−−−−−−
   http://www.sawadeechao.net/cnxgoods/goods.htm

1629号.jpg
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2005年07月08日

テレサ・テンの死因についての小説(EJ1630号)

 テレサ・テンにまつわる疑惑のなかで一番大きな疑惑は、やは
り、その死因ということになると思います。テレサ・テンの死因
は「喘息の悪化による呼吸不全」となっていますが、42歳の若
さであり、それがあまりにも突然なことであったために疑惑がふ
くらんだのです。
 ここに一冊の本があります。発刊されたのは、2004年12
月30日です。明らかにテレサ・テンの死後10周年を意識して
の発刊と思われます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    『何日君再来/ホーリーチュンツァイライ』
     ―いつの日きみ帰る/ある大スターの死−
      平路【著】 池上貞子【訳】 風涛社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このタイトルを見ると、誰でもこれがテレサ・テンのことを書
いていることはわかります。確かに本に書かれていることは、テ
レサ・テンのことそのものであり、それも彼女の死の原因に絞ら
れているのです。しかし、本のなかには「テレサ・テン」とは一
語も書かれていないのです。
 平路(ピン・ルー)は、1953年に台湾の高雄で生まれた女性
作家です。父親は山東省出身の外省人であり、境遇はテレサ・テ
ンと似ています。一応この本は「小説」というスタイルをとって
います。もう少し正確にいえば、テレサ・テンという大歌手の死
を題材とするミステリータッチの小説というべきでしょう。
 しかし、私の読んだ限りでは、小説というかたちをとっている
ドキュメンタリーという感じです。この本の訳者の池上貞子氏は
本書の構成について次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  本書『何日君再来』は、テレサ・テンの死のなぞについて、
 彼女についていた監視(スパイ)が、親しい上司へ推測を入れて
 報告するという設定で、所々に真偽の不確かなテレサ本人の手
 記と称する文章が入っているという設定だ。これは、男と女の
 言葉(文章)が入り乱れて放たれているという点では前作の『行
 道天涯』(邦題『天の涯までも――小説・孫文と宋慶齢』)と同
 じ手法であり、着眼点も表向きは華やかさや権威に包まれ、ス
 ポットライトを浴びた人の、活躍の場を失った後の女性として
 の孤独や寂しさなどにある。   ――池上貞子氏のあとがき
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ちなみに「彼女についていた監視(スパイ)」というのは、本を
読む限り台湾当局の監視員であるようです。本当にテレサ・テン
はこのようにつねに国から監視されていたのでしょうか。
 この本の著者である平路は、その冒頭でテレサ・テンの死には
次の3つの疑問点があるといっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  第1の疑問点:フランス人の男のアリバイが疑わしいこと
  第2の疑問点:遺体の首には、小さな針の穴があったこと
  第3の疑問点:テレサ・テンのパスポートについての疑惑
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「フランス人」というのは、もちろんステファンのことです。
彼の本名はステファン・ピュエールというのですが、本書のなか
では「ピュエル」と本名が使われています。著者は、暗に「ステ
ファンがテレサ・テンの死にかかわっている」ことを強調してい
るような感じです。
 これらの3つの疑問点については、ここで改めて繰り返すこと
はしませんが、この本を読んでわかることは、テレサ・テンとス
テファンの人間関係は相当ひどい状態になっていたことが鮮明に
わかるのです。もちろん、本の内容が真実であるという保証はあ
りませんが、他の情報源と照らしてみてもそういう状態になって
いても不思議ではないのです。
 いくつかの記述をひろってみることにします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 わたしはいつも彼女に「あの人を門口で待たしていていいんで
 すか」と言っていたのですが、彼女は全然気にしないで「ほっ
 とけばいいのよ、あんな人」と言っていました。
                  /ビデオ屋のおかみさん
 その後、物音が聞こえました。男性客がドアをたたいていて、
 キーを使っても開けられませんでしたから、おそらく、中から
 ロックしていたのでしょう。男性客は口汚くののしっていまし
 た。英語のスラングのようなものです。靴の先で荒々しくドア
 を蹴っていました。しばらく大騒ぎをしたあと、男性客はまた
 エレベータに乗り込んでいきました。
                    /最上階のフロア係
 ピュエルのあとについているとき、彼女は自分がしょっちゅう
 緊張していることに気がついた。あんた、自分がどんな罪を犯
 しているか、知っているの?彼女はピュエルに目配せし、そっ
 と壁に貼られた告示を指し示す。
 <麻薬は死刑、銃殺刑に値する罪である>
     ――『何日君再来/ホーリーチュンツァイライ』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この記述を読むと、チェンマイでもテレサ・テンとステファン
はよく喧嘩して、部屋に鍵をかけてステファンを入れなかったり
していた様子がよくわかります。それもステファンが大麻をやっ
ていることをテレサ・テンは知っていて、そのことを巡っていつ
も喧嘩をしていたのではないかと思われます。
 『何日君再来』――ちょっと変わった小説です。テレサ・テン
の死について関心のある人は読む価値があると思います。さて、
6月6日から7月8日まで、25回にわたって続けてきたテレサ
・テンのテーマ――いかがでしたでしょうか。
 『何日君再来』という歌については書いてみたいことが残って
います。しかし、それは改めて取り上げるとして、来週からは新
しいテーマを取り上げます。ご愛読感謝いたします。


≪画像および関連情報≫
 ・『何日君再来/ホーリーチュンツァイライ』風涛社刊
  平路(ピン・ルー)/略歴
  本名は路平。1953年台湾高尾生まれ。台湾大学心理学部
  卒業後、アメリカに渡り、アイオワ大学で統計学の修士号を
  とり、しばらく働きながら創作活動を行う。1994年に正
  式に台湾に戻り、執筆活動に励む。著書に『玉米田之死』、
  『何日君再来』ほか多数

1630号.jpg
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2005年07月11日

『吾妻鏡』の記述は正しいか(EJ1631号)

 今日から久しぶりに歴史のテーマ「源義経」を取り上げること
にします。しかし、まともに義経物語をやろうというのではない
のです。「源義経=成吉思汗論」をやろうというのです。
 実はEJでは一度この問題を取り上げています。私にとってこ
れは、昔から関心のあるテーマであり、次の期間、EJでは、4
回にわたって取り上げているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   1999年4月6日/EJ第113号
        〜1999年4月9日/EJ第116号
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、6年も経っておりますし、その頃EJを読んでいない
読者もたくさんおられるので、リニューアルし、内容を大幅に増
強して再び取り上げたいと思います。初期の頃からの読者も、ぜ
ひリニューアル版を読んでいただきたいと存じます。
 それに何よりも今年のNHKの大河ドラマは「義経」ですし、
同時進行すればイメージも湧くと思います。ところで、既に日本
がドイツ行きを決めている「サッカー・ワールドカップ2006
年ドイツ大会」――この応援歌(正確にいうと、ドイツに行くた
めの応援歌)をご存知でしょうか。
 実は「成吉思汗/ジンギスカン〜ドイツに行こう」というので
す。これは、日本代表のドイツ行きをバックアップしようと、日
本代表サポーターであるUTRUSが応援歌に選んだのが、ディ
スコ世代にはおなじみの楽曲「ジンギスカン」のカヴァーなので
す。ちなみにこの歌は、1980年に旧西ドイツのグループ「ジ
ンギスカン」の大ヒット曲です。
 このように直接は関係ないのですが、今年は義経と成吉思汗が
揃っているのです。そういうこともあって、「源義経=成吉思汗
論」を取り上げたいと思います。今日はその予告編のようなこと
からはじめたいと思います。
 源義経は、猜疑心の強い兄頼朝の不興を買って逃げ落ち、奥州
藤原氏に身を寄せます。しかし、義経の理解者である秀衡が亡く
なると、その子泰衡は頼朝のきびしい追及に屈して、自分が匿っ
ている義経とその一族に奇襲をかけるのです。これが世にいうと
ころの「衣川の戦い」です。
 義経とその一族は泰衡の奇襲に破れ、義経は妻子とともに自害
を遂げる――文治5年(1189年)4月30日のことです。こ
れは歴史上動かし難い史実として記述されており、どのような歴
史書もそうなっています。「源義経=成吉思汗論」は、その動か
し難い史実を正面から否定しようというのですから、それは容易
ならざることです。
 正史に反することを唱えるのは異説ということになります。学
問の世界に限らず異説を唱える者に対しては、世間の目は厳しく
なるものです。しかし、正史をアタマから信じ、異説を検証しよ
うともしない学者よりも、正史に疑いを持ち、その疑いを解決す
るために異説を立てる――そういう学者の方が真実をつかめるの
ではないかと考えます。
 義経自殺の根拠は『吾妻鏡』とされています。『吾妻鏡』は、
鎌倉幕府の手によって編纂されたれっきとした正史であり、数多
い史書の中でも一級史料とされているのです。ここに書かれた以
上、それは正しいのだというのが歴史学者の考え方なのです。日
本の学者は公文書に弱いのです。
 『吾妻鏡』は、源頼朝の挙兵から文永3年までの87年間の事
件を日記風に記録しているのです。それでは、文治5年4月30
日はどう書いてあるのでしょうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今日、陸奥の国に於いて泰衡が源予州を襲う。予州、持仏堂に
 入り、まず妻(22歳)と子(女子4歳)を害し、ついで自害
 す。                 ――『吾妻鏡』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「予州」とは義経のことです。伊予守だったのでそう呼ばれて
いたのです。義経は「判官」といわれますが、それは彼が検非違
使をしていたからです。検非違使とは、簡単にいうと、現代の裁
判官のような役職と考えればよいと思います。平安初期,嵯峨天
皇のとき設置された令外の官で、京中の治安維持のため置かれた
のが最初です。
 それはさておき、『吾妻鏡』の記述――ばかにあっさりしてい
ると思いませんか。実は、この『吾妻鏡』は、義経の死より80
年のちの文永年間に編纂されているのです。何しろ今から800
年も前の話です。それが本当に信じられる根拠というか、証拠が
あるのでしょうか。
 義経を討ったという報告は、当の泰衡が鎌倉に対して行ってい
ます。泰衡の飛脚は5月22日に鎌倉に着いており、この使者は
次のような泰衡の言葉を鎌倉に届けているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 4月晦日、民部少輔の館に於いて、予州を誅す。その首は追っ
 て送りまいらせます。              藤原泰衡
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 実際に義経の首は6月13日に頼朝のところに届けられていま
す。これについては改めて分析しますが、4月30日に起こった
事件を5月22日に報告し、首が6月13日に届くのは、当時と
しても非常に遅いのです。
 この報告がそれから80年後に編纂された『吾妻鏡』では「民
部少輔の館」が「持仏堂」に変わり、「予州を誅す」が義経自害
に変わってしまっているのです。これは果たして信じられること
なのでしょうか。
 泰衡にとって義経は少年時代に一緒に文武を学んだ仲であり、
亡父秀衡がこよなく敬愛していた人物なのです。しかも、泰衡は
父から、私の死後に鎌倉殿が攻めてくることがあれば、判官殿を
総大将にして戦うべしと遺言を授けられているのです。その泰衡
が果たして義経を裏切るでしょうか。・・・・・・・[義経01]


≪画像および関連情報≫
 ・義経主従が住んでいた衣河館(高館)/前に衣川、東は秀衡
  の屋敷、西は金鶏山に接する城郭構えの居館

1631号.jpg
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2005年07月12日

基本的条件は成立するか(1632号)

 私が「源義経=成吉思汗論」に興味を持ったのは、高木彬光著
『成吉思汗の秘密』(角川文庫)を読んでからです。この本は推
理小説というスタイルをとっており、名探偵神津恭介が登場する
のですが、そこに何らの殺人事件も起こらないのです。
 この小説は、神津恭介が病気で東大病院に入院し、退院までヒ
マをもてあましているという設定で、「成吉思汗は実は源義経で
あった」ということをヒマつぶしに神津に推理させる――そうい
うかたちをとってかねてからの自らの研究を神津の口を通して発
表しているのです。したがって、内容は真面目そのものです。
 作家高木彬光は、青森中学時代から義経伝説に興味を持ち、研
究を重ねていたのです。そして、当時江戸川乱歩が編集に当って
いた雑誌『宝石』に原稿を持ち込んで連載をはじめたのです。昭
和33年5月号から9月号までの5回にわたる連載です。『成吉
思汗の秘密』はこのようにして完成したのです。
 当時高木彬光は既に人気作家であり、多くの注文原稿を抱えて
いたのですが、この小説だけは持ち込み原稿なのです。それだけ
に意気込みが違うのです。また、この小説は、後から何回も加筆
されており、ある別の作家の小説との結びつきもあるのです。
 私はその小説を当時偶然に読んでおり、驚愕したのを今でもよ
く覚えています。それは次の小説です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    仁科東子著、『針の館』――カッパ・ノベルス
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 今回のテーマも関連する書籍をほとんどすべて集めており、総
合的に書き進めますが、その中心は高木彬光説を中心に述べてい
くつもりです。最近『成吉思汗の秘密』が光文社から復刊されて
いますが、それを読まれるのはEJのこのテーマが終わってから
の方が興味深いと思います。
 そろそろ本題に入っていきましょう。
 「源義経=成吉思汗」が成り立つためには、次の3つの条件が
成立する必要があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.義経と成吉思汗の両者はほとんど同じ年に生まれている
 2.義経が活動しているときは、成吉思汗は活動していない
 3.成吉思汗が活動しているときは、義経は活動していない
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1を検証してみます。
 源義経は平治の乱――すなわち、源平両族の勢力争いの時代に
生まれています。父は源義朝、母は常盤御前であり、3人兄弟の
3男として生まれています。歴史書によると、義経は平治元年の
生まれとされています。西暦では1159年です。
 問題は成吉思汗の方です。当時の蒙古は記録が完備しておらず
学者の推定でしかないのですが、1158年、1161年、11
62年という3つの説があるのです。はっきりしているのは、義
経と同年代であることです。したがって、1については、一応成
立すると考えてよいと思います。
 2と3を検証してみます。
 義経の命日は、文治5年4月30日――衣川の戦いのあった日
とされています。西暦では1189年です。年齢は31歳です。
それでは、成吉思汗はいつごろから活躍しているかについて調べ
る必要があります。
 大蒙古帝国は13世紀に突如として出現したのです。東は中国
全土を支配して元朝を開き、西はイラン、トルコから東ヨーロッ
パまでも呑み込んで世界最大の領土を誇ったのです。それを成し
遂げたのが成吉思汗なのです。
 その間日本では、鎌倉幕府が150年間続き、元弘3年(13
33年)をもって幕を閉じるのですが、幕府が倒れるキッカケに
なったのは、2回にわたる蒙古の来襲――文永の役、弘安の役で
あり、蒙古とは密接な関係があるのです。
 当時のモンゴル地方は、広大な草原地帯に多数の民族が入り乱
れて生活しており、遊牧民として移動するので、そこに統一国家
を築くのは至難のわざであったのです。
 成吉思汗という人物について記述されている書物は極めて限ら
れており、次の3つが根本史料とされています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.『元朝秘史』 ・・・ 13世紀にモンゴル語で編纂
 2.『集史』   ・・・ 14世紀にペルシャ語で編纂
 3.『元史』   ・・・ 中国が明代(14世紀)編纂
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら3つの史料によると『元朝秘史』には生年月日は明記さ
れておらず、『集史』は1155年生まれとしています。しかし
これは死亡した年とされる1227年/72歳からの逆算であり
死亡年齢がはっきりしていないので、根拠のないものです。
 この1227年の死亡についてははっきりしているのですが、
死亡年齢は『元史』では66歳、『集史』は72歳と相違してい
ます。『元史』の66歳を基にして生年月日を算出すると、66
歳は数え年であるので、生年月日は1162年ということになり
ます。1159年生まれの義経と3年の誤差がありますが、ほぼ
同年代の人物と考えてよいと思います。
 『元朝秘史』は、歴史書というよりも壮大なる叙事詩的物語と
なっており、テムジンが蒙古の諸部族からカン(汗)の位に推さ
れて成吉思汗になる1206年にいたるまでの歴史の記述は伝説
と文学の世界といえます。しかし、ここまでの分析により、「源
義経=成吉思汗」が成立する基本条件はクリアできたようです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

            前半生   後半生
       源 義経  史実    伝説
       成吉思汗  伝説    史実   [義経02]
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


≪画像および関連情報≫
 ・作家/高木彬光について
  1920(大正9)年に青森市で生まれた高木彬光(たかぎ
  ・あきみつ)は、1948(昭和23)年、江戸川乱歩の推
  薦で『刺青殺人事件』を刊行し、推理文壇にデビュー。その
  後、『能面殺人事件』『妖婦の宿』などの傑作長短編を相次
  いで発表し、一躍、本格推理小説の第一人者となる。神津恭
  介をはじめ、百谷泉一郎、近松茂道、霧島三郎、大前田英策
  墨野隴人の名探偵を登場させ、歴史推理小説『成吉思汗の秘
  密』、経済推理小説『人蟻』、法廷推理小説『破戒裁判』
  などの傑作を次々と発表、戦後の日本推理小説界を代表する
  作家として活躍。1995(平成7)年に逝去。

1632号.jpg
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2005年07月13日

最初から偽首とバレていた証拠(EJ1633号)

 殺人事件において犯人を殺人罪で起訴するには、他殺死体が必
要です。鎌倉の頼朝の側から考えてみましょう。秀衡の死後、頼
朝は何回も藤原泰衡に対して「義経を差し出せ」とプレッシャー
をかけています。
 文治5年5月22日にその泰衡から、「4月30日に義経を誅
す」との飛脚が届きます。そして、6月13日、その証拠として
義経の首が酒を浸した黒い漆塗りの桶に納められ、鎌倉に送られ
てきたのです。
 4月30日に義経を殺害し、5月22日に鎌倉にそのことを知
らせる手紙を届ける――これは遅すぎます。そして、義経を殺害
してから43日後にその首を届ける――これも遅いです。
 現在の鉄道の計算では、平泉から鎌倉までは約500キロあり
ます。その内訳は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        東京――鎌倉   48キロ
        東京――平泉  450キロ
        ―――――――――――――
                498キロ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 500キロを里に直すと、130里です。当時の旅は歩くこと
が中心になるので、かなり早く歩いていたのです。平均して1日
8里〜10里は歩けたはずです。1日8里歩いたとして17日、
1日10里なら13日で平泉から鎌倉まで行けるのです。それが
実に43日もかかっている――誰が考えてもこれは遅すぎます。
 それに証拠の義経の首ですが、次の2つの理由によって義経と
判別不能と考えられます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.義経の首は焼き首であったこと
      2.当時は太陰暦/2ヶ月遅いこと
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 泰衡が義経主従を襲ったとき、義経主従は屋敷に火を放ってい
るのです。そのため義経の首は焼き首になったのです。加えて、
当時の暦は太陰暦であり、現在の太陽暦で6月13日は8月の初
めに当るのです。炎暑のなかを43日――果たして焼き首は原型
を保っていられるでしょうか。おそらくそれは不可能であると考
えられます。
 異常に遅い報告と証拠の首のさらなる遅い到着――疑り深い頼
朝がそれをまともに信用するはずがないのです。その証拠に首が
届いてから1ヵ月後には泰衡討伐の大軍を平泉に差し向けている
からです。それは、泰衡による衣川の戦いそのものを偽戦と見抜
いていた証拠といえます。
 これに関して『大日本史』は次のように記述しています。『大
日本史』は、水戸光圀以来、250年にわたって、歴代の水戸藩
主が各時代の大学者だけを集めて編纂した397巻の大著作なの
です。たとえ1行の文章でも多くの学者の目にさらされ、検討を
繰り返して生まれたものであり、重みがあるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 世に伝う。義経は衣川の館に死せず、逃れ蝦夷に至ると。いわ
 ゆる義経の死したる日と、頼朝の使者、その首を検視したる日
 と、その間へだたること43日、かつ天時暑熱の候なるをもっ
 て、たとえ醇酒にひたし、またこれを函(かん)にすといえど
 も、この大暑中、いずくんぞ腐爛壊敗せざらんや。また誰か、
 よくその真偽を弁別せんや。しからばすなわち、義経死したり
 と偽り、しかして逃走せしらんか。
                   ――『大日本史』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経の首の検視の状況について、もう少し詳しく述べておくこ
とにします。
 泰衡の使者は新田冠者経衛、6月13日に首の入った桶を2人
の従僕に担がせて、鎌倉・腰越浦に到着したのです。頼朝は、和
田義盛、梶原景時に実検役を命じたので、義盛と景時は兜を着け
郎従20騎を従えて検視におもむいたのです。
 景時は「予州の首ではない。不審の点がある」と難色を示した
のですが、義盛はこれを制して「すでに焼き首となった以上は日
頃とは違って見える」として、それ以上の検視を行わず、その首
を藤沢に送って葬っているのです。
 これは、江戸末期に出た『義経勲功記』という本に出ているの
ですが、これから推察して、頼朝側は最初から偽首と知っていた
と考えられるのです。和田義盛は、智臣として名高い因幡守大江
広元から指示を受けており、偽首であることは想定内の出来事と
して処理したのです。頼朝側としては、目的は奥州平泉を取るこ
とにあったからです。
 私の推測ですが、頼朝としては、義経主従が蝦夷地に逃げて行
くのをあえて見逃したのではないかと考えます。頼朝が最も恐れ
たのは、秀衡が義経と組んで、義経を総大将として鎌倉に攻めて
くることだったのです。秀衡の率いる奥州平泉の財力と兵力に義
経の知略が加わると鎌倉が危ないと考えたのです。
 しかし、秀衡亡き後はたとえ義経が生き延びてもとくに恐れる
ことはないと考えたのです。したがって、首の検視にあえて異議
を唱えず首を葬れば、義経は正式に死んだことになり、鎌倉勢と
してはこれ以上義経を探し回る必要もなくなる――義経の兄とし
ての頼朝の本心はこんなところにあったのではないでしょうか。
 偽首にする以上、身代わりが必要になります。義経の身代わり
は、杉目太郎行信であるとされています。延宝年間の『可足記』
に次の記述があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 九郎判官の身代わりには一家の内、杉目太郎行信が致し、行信
 が首、鎌倉の見参に入候          −−『可足記』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 杉目太郎行信、義経によくも似ていたのです。  [義経03]

≪画像および関連情報≫
 ・藤原秀衡について
  藤原秀衡は、平泉を拠点にした、奥州藤原氏の三代目。後三
  年の役の後、藤原氏繁栄の基礎を築いた初代・清衡。続く二
  代・基衡の後を受け、秀衡の時代に藤原氏の栄華は頂点を極
  めた。幼少期の源義経を育て、長じて源頼朝と不和になって
  からも義経をかくまう。子の泰衡に義経を大将軍とするよう
  遺言を残して没す。東北の王者して奥州に君臨。

1633号.jpg
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2005年07月14日

衣川の戦いは偽戦である(EJ1634号)

 義経の身代わりといわれた杉田太郎行信についてはこういう話
があるのです。衣川の戦いにおいて、須賀川の城主である須賀川
刑部が手勢200騎を従えて敵を探していたのです。そのとき、
竜頭兜に緋縅の鎧を着た立派な武者が榎堂の方に行くのが見えた
のです。
 これぞ大将判官なりと考えた須賀川刑部が手柄にしようと追い
討ったのです。それほど義経に似ていたからです。しかし、捕え
てみると、杉田太郎行信だったというのです。『大木戸合戦記』
という本に次の記述があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  大将軍の首を頂戴しようとしてよくよく見れば、それは判官
 殿ではなく、母方の従弟である杉目太郎行信である。刑部おお
 いに驚くと同時に、判官殿にかわって討死する覚悟であるのを
 雄々しく思い、太刀を捨てて礼をなし、士卒を従えて引き返し
 た。              ――『大木戸合戦記』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで、義経を討ったとされる藤原泰衡という人物に注目する
必要があります。この泰衡は次の3つの点において大変評判が良
くないのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.父である秀衡の遺言を守らず、朝廷や鎌倉に屈して義経を
   討っていること
 2.泰衡は義経だけでなく、義経擁護を主張した弟の忠衡まで
   殺していること
 3.頼朝の命を果たしたのに泰衡追討の院宣が出ると頼朝に命
   乞いをしている
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 以上が正しいとされている歴史的事実ですが、よく調べると、
事実はかなり異なるのです。泰衡は父秀衡の遺言を忠実に果たし
ているという説があるのです。
 結論から先にいうと、「衣川偽戦」こそが秀衡の遺言だったの
です。自分の死期を悟った秀衡は一族を集めて次のようにいい遺
しています。なお、この席には源義経を呼んでいます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 1.自分の死後、必ず鎌倉殿は「判官失い奉れ」といってくる
   が、日本の名将判官殿に叛いてはならない。
 2.鎌倉殿から使者がきたら、まず、和睦をすすめる。それで
   もお許しがないときは、使者を斬り捨てよ。
 3.判官殿を大将軍と仰ぎ、白河、念珠の関を固め、奥州2国
   の大軍をもって一致協力してこれに当たれ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 秀衡はこういうと、全員に起請文を書かせ、血判を押させてい
るのです。さらに秀衡は、錦の袋に納めた遺書2通を出して、1
通は泰衡に、もう1通は義経に渡して、次のように述べているの
です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この錦の袋に納めたものは入道(秀衡)の遺書でござる。進退
 きわまるときに開いて見られよ。卿らの胸中は雲霧を払うがご
 とくひらけるであろう。             ――秀衡
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、秀衡の死後、その子孫たちは秀衡の言いつけ通りにし
ていないのです。最初に義経を主君と仰ぐことに異議を唱えたの
は、長男でありながら側室の子であるということで嫡男になれな
かった国衡です。
 これに対して、三男の忠衡は父の遺言を守ることにこだわった
のです。困ったのは泰衡です。泰衡は兄と弟の板ばさみになって
しまったからです。そこに、朝廷や鎌倉からは何回も「義経を差
し出せ」という矢の催促――窮した泰衡は義経を討つことを決断
したというのが、巷間伝えられている説です。三男の忠衡はこれ
に反発したので、忠衡も討たれたのです。
 確かに話の筋は通っています。しかし、これに反対意見を唱え
ている人がいます。それは、「源義経=成吉思汗説」研究の第一
人者といわれる佐々木勝三という人です。佐々木氏は、同じ研究
家の2人とともに昭和52年に次の本を出しておられますが、こ
れは貴重な文献です。この本は現在では入手不能ですが、幸い私
は入手しております。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
  『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』 勁文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鍵を握るのは秀衡の遺した遺書です。この遺書の現物は発見さ
れていないのですが、佐々木氏は上掲書の中で、青森県八戸市の
小田八幡宮に秀衡の復元遺書があると述べています。そこには、
次のように書かれているというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 敵の首を焼け首となして、これを君のニセ首となすべき御心得
 なさしめたまへ。高館を御立ちのきなさしめたまわば、南部大
 崎明神へ御参籠の上、大般若経御書写なされて二世の安楽の御
 為に奉納なさしめたまうべし。(以下、略)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 少し読みにくいですが、秀衡は明らかに偽戦を勧めています。
つまり、衣川の戦いという偽戦を行い、義経を討ったことにして
その焼き首を鎌倉に届けて時間を稼ぎ、義経を落ち延びさせよと
いっているのです。
 おそらく国衡が義経を主君と仰ぐことに反対したのは事実と思
われます。藤原氏として一致結束できないことを悟った泰衡は、
義経とともに遺書を開き、そこに書かれていることを忠実に実行
したものと思われます。
 したがって、泰衡は、義経はもちろんのこと、忠衡も殺してい
ないのです。            ・・・・・ [義経04]


≪画像および関連情報≫
 ・『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』序文より
  ――佐々木勝三氏
   従来の日本の歴史は、皇室を中心とした朝廷の歴史、もし
   くは権力者を中心とした支配者側の歴史が絶対とされてき
   た。本書は、成吉思汗という世界史上の一大権力者に焦点
   を当てながらも、悲運の英雄源義経を見守りつづけてきた
   みちのくの庶民から生まれた歴史なのである。

1634号.jpg
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2005年07月15日

金色堂に祀られていた泰衡の首(EJ1635号)

 平泉の金色堂といえば藤原家の廟所です。ここには、藤原家の
三代の将軍――清衡、基衡、秀衡の遺体が祀ってあるのです。し
かし、秀衡の遺言を守れず、藤原家を滅亡に導いた四代将軍泰衡
は、金色堂に祀ってもらえなかったとされています。
 しかし、これら3体の遺体のほかに首桶がひとつ入っているの
です。これは、秀衡の遺言を忠実に守ろうとして兄泰衡に殺され
た秀衡の三男忠衡の首と今までいわれてきたのです。
 明治18年に記述されたという『平泉志』の金色堂の章には次
のように記述されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 三壇中に藤原氏三代の棺を納む、遺骸各厳然として存在す。中
 央清衡、左基衡、右秀衡の棺側に忠衡の首桶あり。
               ――『平泉志』金色堂の章より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、この事実は、昭和25年までは誰一人疑う者はおらず
信じられてきたのですが、同年、朝日新聞社の学術調査団が、そ
れまで忠衡とされていた首を精査した結果、その首は泰衡である
ことがわかったのです。第四代泰衡はちゃんと金色堂に祀られて
いたのです。
 『吾妻鏡』によると、頼朝は泰衡の首を安倍貞任の例にならっ
て、泰衡の首の眉間部分に長さ八寸の鉄釘を打ちつけ、陣ヶ岡で
さらし首にしていますが、金色堂の中の首にはその傷口があった
のです。
 さらに、歯の消耗などから調べて、30歳程度の男性であるこ
とも判明しています。『吾妻鏡』によると、忠衡は23歳、泰衡
は31歳といわれているのです。したがって、首は泰衡のもので
あることが明らかになったのです。
 それでは、どうして首は忠衡といわれてきたのでしょうか。
 それは頼朝の怒りを恐れたからです。このことからも衣川の戦
いが偽戦であり、泰衡は忠実に父秀衡の命令を守ったということ
がわかります。
 それでは、忠衡はどうしたのでしょうか。
 佐々木勝三氏らの研究家たちは、義経の行方を追跡していく過
程で、藤原忠衡の子孫を発見しているのです。つまり、忠衡は殺
されていなかったのです。
 忠衡の子孫(長男)は久慈市の吉田に城を築いて吉田権之介奉
行と称し、その子孫は泉田を屋号としてきています。現在、岩手
県九戸郡野田村に「中野姓」を名乗っていますが、その屋号は、
「泉田」なのです。
 佐々木氏らは、同家を訪問して、その由緒書きを手に入れてい
るのです。その一部をご紹介しましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  我が大祖は元平泉の藤原清衡三代之孫秀衡の三男泉三郎忠衡
 なり。文治五年七月源九郎判官義経養匿のため、罪ありとして
 大軍を率いて来るは、鎌倉の兄源右兵衛頼朝なり。忠衡初め出
 羽にあり、のちに花巻に来たり、義経を守護し、死と称して義
 経の郎等の擬首を鎌倉に送った。(以下、省略)
 ――『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』 勁文社刊より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これによると、忠衡は義経主従と一緒に平泉から北上し、久慈
地方に来ているのです。中野家には義経の書いたとされる大般若
経が掛け軸となって残っているといいます。やはり、義経は自害
などしていなかったのです。
 泰衡の首が金色堂の秀衡の遺体に寄り添うように置かれている
のは、泰衡が父秀衡の遺言を忠実に果たして義経を最後まで護り
非業の死を遂げたという同情の念が遺族にあったからと考えられ
ます。史実のように、秀衡の遺命に叛いて義経を討ち、頼朝に媚
びようとしてその頼朝に殺され、さらし首になったとしたら、遺
族は金色堂に祀ることを許したでしょうか。
 ひとつ不審なことがあります。
 義経が平泉入りしたのは文治3年秋ですが、それから5年まで
の間、朝廷や鎌倉から何回も使者がやってきて「義経を出せ」と
責めたてているのです。こういう事態に対して義経が何の策も立
てずに高館に潜んでいたとは考えられないことです。
 このまま平泉に居座れば、藤原家にとんでもない迷惑をかけて
しまうと考えたはずです。藤原家は、朝廷や鎌倉の使者が来るた
びに酒食を出して丁重にもてなしたのですが、絶対に屋外には出
さなかったといいます。
 しかし、そのとき実は義経主従は平泉には、いなかったのでは
ないでしょうか。なぜなら、もし、義経を高館にかくまいながら
朝廷や鎌倉の使者を饗応していたのだとしたら、あまりにも大胆
不敵な振る舞いということになると思うからです。そしてそれは
非常にリスクの多い行為です。
 佐々木勝三氏らは、文治4年5月には既に平泉を脱出していた
と考えています。このとき、朝廷より第4回の勅使一行が平泉に
到着していたのです。衣川の戦いよりも一年以上前の話です。
 ところで、自害したことになっている義経は、平泉に隣接した
衣川村の雲際寺という寺院に位牌が祀ってあるといいます。それ
は次のように書かれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  損館通山源公大居士、文治五年閏四月二十八日源之義経
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この死亡日は『吾妻鏡』とは一致していないのです。それにこ
の法名は変わっています。法名には故人に何らかの縁のある文字
が用いられるのが通常ですが、そういうこととは無関係な文字の
羅列です。そこで、次の読み方があるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 館を捨てて(損館)、山を通って(通山)、遁世(居士)す
                 ・・・・・・・[義経05]
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


≪画像および関連情報≫
 ・平泉/中尊寺金色堂
  奥州に覇をとなえた藤原一族の権力の源泉は黄金にあったと
  いわれる。金色堂は天治元年(1124年)の造立で、中尊
  寺創建当初唯一の遺構である。

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2005年07月19日

義経北行説はなぜ消えないのか(EJ1636号)

 先週は、衣川の戦いが偽戦であって、源義経は郎党を引き連れ
平泉を後にして、蝦夷地に逃れている――多くの史料があり、こ
のことはもはや動かし難い事実であると考えられます。
 ちなみに「蝦夷地」とは、もともとは「アイヌ人の住む地域」
のことであり、北海道全般を指していたのです。当時北海道は、
まったくの未開の地であり、「蝦夷地に行く」ということは、異
域、異界――死の世界も異界である――に足を踏み入れることと
同意義だったのです。このことから、「義経生存説」は現代にい
たるまで、根強く生き続けることになるのです。
 しかし、この義経北行説を利用して名前を売る学者が横行した
のです。加藤謙斉という学者がいます。享保2年(1717年)
に出版された『義経実記』の著者です。
 この本で加藤謙斉は、義経の平泉脱出について具体的に述べた
あと、次のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経平泉脱出の経緯は、雑記小説などに記されているが、信用
 できない。しかし、義経が蝦夷地の方向に向ったことは、異国
 の文献によっても立証できるので確実である。
                     ――『鎌倉実記』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ここで「異国の文献」とは、「『金史』列将伝」(『金史』別
本)というのです。金国というのは、中国大陸の北方を支配して
いた実在の王朝なのです。その王朝を確立したのは女真族という
のですが、これも本当のことです。そして、『金史』はその女真
族の歴史書であり、これも実在するのです。
 しかし、『金史』別本というのは存在せず、その後多くの学者
によって、それが実際には存在しないことを指摘されています。
『金史』別本は、完全な捏造だったのです。
 こういうことが起こると、義経北行説そのものが疑わしい目で
見られてしまうのですが、義経北行説をまともに考察した学者も
たくさんいたのです。その中でも有名なのは、儒学者新井白石と
同じ儒学者である安積たん白との間で、享保6年から10年まで
の4年間にわたって行われたやりとりです。
 たん白が、「蝦夷地では内地の兜の鍬形によく似た物をアイヌ
たちが尊崇している」と問うと、新井白石は次のように答えてい
ます。現代ならメールで問答するところです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鍬形の件、確かに不思議でございます。蝦夷地南方に「ハイ」
 なる場所がございまして、源義経の居館跡が残っているとかい
 ないとか。この地方の人々は蝦夷地中では「ハイグル」と呼ば
 れ、気性が荒く武を好むゆえ恐れられているとか。「グル」と
 は、「党」という意味と聞いております。昔から「智者は死な
 ず」とも申します。案外、義経衣川自害の話より、蝦夷脱出の
 話が本当かも知れません。          ――新井白石
  森村宗冬著、『義経伝説と日本人』より。平凡社新書259
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 どうでしょうか。新井白石は、加藤謙斉のウソを完全に見破っ
ており、その上での議論であることを強調しておきます。そして
加藤謙斉の『鎌倉実記』の出た後は、義経生存説の舞台は中国大
陸の北方に設定されるようになり、その内容も荒唐無稽のものが
多くなっていったのです。
 そして、大きなゆり戻しがきます。明和7年(1770年)に
半田道時は、『伊達秘鑑』の「義経秀衡事跡」の項において、次
のように書いています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  源義経、平泉高館で自害のことは『吾妻鏡』『源平盛衰記』
 『義経記』に見えている。近年、義経蝦夷渡海や義経金国入国
 をうたった書が出ているが、これらは皆、牽強付会の妄説であ
 り、信ずるに足りない。         ――『伊達秘鑑』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このほか多くの反対説が出てくるのですが、それでも義経北行
説そのものは消えることはなく、根強く生き残っていくのです。
それは、反対説のほとんどが『吾妻鏡』や『源平盛衰記』などが
正しいと主張するだけで、数多い義経北行説の証拠を明確に否定
できないのにそれは妄論であり異説であると、どちらかというと
感情的な反対に終始したからです。
 江戸時代末期になると、ロシアの脅威が現実のものとなってき
ます。元文4年(1739年)に陸奥・安房の海上にロシア船が
あらわれています。これはおそらく偵察です。ロシアが正式に日
本に接触を求めてきたのは安永7年(1778年)のことです。
ロシア船がクナシリ島にやってきて、松前氏に対して通商を要求
してきたのです。
 ロシアの脅威が高まってくると、幕府にとって蝦夷地は国土防
衛上の重要な拠点となります。そのため、幕府は次の2つの対策
を行っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    1.探検隊による蝦夷地の正確な調査を実施
    2.アイヌを同化させ、蝦夷地を内地化する
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 当時蝦夷地は松前藩の管轄化に入っていたのですが、蝦夷地を
支配していたのはアイヌなのです。アイヌは自由の民であり、だ
からこそ自由に外国との交易に従事していたのです。
 しかし、国土防衛上、蝦夷地を自由の状態にはしておけないの
で、文化4年(1807年)に蝦夷地全体を幕府の直轄地化した
のです。これに伴い、アイヌを説得して和人へ同化させる政策を
実施することにしたのです。
 『義経伝説と日本人』の著者、森村宗冬氏は義経蝦夷渡海説は
アイヌの和人への同化手段として、また、和人の蝦夷地行きを促
すものとして利用されたといっています。・・・・ [義経06]


≪画像および関連情報≫
 ・ロシアの脅威
  天明6年(1786年)  ロシア船蝦夷地に来航
  寛政4年(1792年)  ロシア使節ラスクマン根室来航
  寛政7年(1795年)  ロシア人日本船の貨物強奪
  寛政9年(1797年)  ロシア人エトロフ島強行上陸
  文化元年(1804年)  ロシア通商を要求/レザノフ

1636号.jpg
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2005年07月20日

義経生存説が生まれた論拠(EJ1637号)

 「義経=成吉思汗論」のテーマはスタートしたばかりです。ど
うやら、泰衡の仕掛けた衣川の戦いは偽戦であって、義経主従は
文治5年4月以前に平泉を離れ、蝦夷地に落ち延びている――こ
こまでを実証してきたところです。確かに平泉から北方方面には
数多い義経の足跡が残されているのです。
 しかし、現在の歴史書には源義経は衣川の戦いで自害したこと
になっています。そして、これは史実に基づくものであり、それ
以外のすべての説は妄論であり、異論であるとされています。し
かし、これには長い間にわたって数多くの議論があり、その議論
に現在でも何ら決着がつけられていないのです。
 これから、源義経が成吉思汗であることを多くの証拠を上げて
実証していきますが、その前に義経が平泉を脱出したことさえ認
めない歴史学者がいかに多いかということを知っておくのも無駄
ではないと思うのです。そこで少し脱線しているのです。
 明治38年2月1日――その日付の「読売新聞」に『「アルタ
イ山頭の神鏡」発見』という記事が出たのです。それは、バイカ
ル湖辺アルクスク約50里、アルタイ山頭に近いアラールス・ス
カヤステープの一小村のラマ教の廟から一枚の鏡が発見されたこ
とを報じています。その鏡の裏には高砂の尾上松、爺と姥、鶴亀
の紋、そして、次の文字が書いてあったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          正三位藤原秀衡朝臣謹製
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そして、その記事は少し高揚感をこめて、次のようにしめくく
られているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 神鏡がいかなる理由で彼の地にあるのか。だれもが源義経のこ
 とを想起するであろう。神鏡が発見された以上、近年提唱され
 ている義経=成吉思汗説もまったく事実無根といえないのでは
 ないか。未だ正確な検証をした人はいないが、『決して牽強付
 会の説とはいえない』と或る人は物語っている。
            明治38年2月1日付、読売新聞より
  森村宗・著、『義経伝説と日本人』より。平凡社新書259
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この「読売新聞」の記事に対して鳥居龍蔵という学者が、2月
4日付の「読売新聞」で否定しています。1日と4日では鳥居自
身は、その神鏡を実際に見て検証しているはずはないのに、自信
を持って次のように反論しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鏡に「正三位藤原秀衡朝臣謹製」と記すのは、江戸時代に盛ん
 に行われたことです。アイヌを仲介とした北方交易によって大
 陸に入り、たび重なる交易によって彼の地に収まったのです。
            明治38年2月4日付、読売新聞より
  森村宗・著、『義経伝説と日本人』より。平凡社新書259
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 鳥居龍蔵をはじめとする、いわゆるアカデミズムの世界の歴史
学者たちは、あくまでも史実中心、文献を駆使して義経生存説の
誤りを指摘します。「文献にはこうある。史実はこうだ。したが
って、義経生存説は間違っている」という論法です。史実の主張
こそ任務と考えているからです。
 ですから、この「アルタイ山頭の神鏡」のように、少しでも義
経生存説を裏づけるものが出てくると、それを十分に検証するこ
となしに直ちに否定するのです。それはほとんどヒステリックな
反対ですらあります。
 確かに2月1日の「読売新聞」の記事には、義経=成吉思汗説
などは史実に基づかない妄論といわれているが、このような神鏡
のようなものが出てくると、一概に妄論とはいえないのではない
かとアカデミズムの頑迷固陋さを挑発するような高揚感があるこ
とは確かです。
 そこで鳥居龍蔵もカチンときて、ろくに検証もせずに即座に否
定したものと考えられます。これでは「ああいえば上佑」的な議
論といわれても仕方がないでしょう。『吾妻鏡』がいかに史実に
基づいているといっても、義経が死んだとされる日よりも80年
もあとで幕府によって編纂されたものなのです。そういうような
書籍に幕府にとって都合の悪いことを書くはずがないのです。
 金田一京助――義経生存説を明確に否定した国文学者です。金
田一も文献は駆使したが、自らアイヌへの実地調査を行い、その
研究を通して、どのようにして義経生存説が誤って伝えられたか
について、検証した学者です。鳥居のように頭ごなしに否定する
のではなしに、問題の根っこを明らかにすることによって、結果
として、義経生存説が間違いであると説いたのです。
 金田一京助は「義経に対する民衆の思いこみが、義経生存説の
勃興に寄与した」といっています。この金田一京助の主張に関連
して、『義経伝説――歴史の虚実』(中公新書)の著者である高
橋富雄氏は、次のように述べています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経の戦いを通して、大衆がみずからの戦いをたたかい、義経
 を守ろうとして、実はみずからも守ることになったのである。
 だとすれば、義経の敗北はみずからの敗北である。義経におけ
 る英雄の挫折は、とりも直さず、大衆みずからにおける英雄へ
 のねがいの挫折とならざるをえない。義経の正当証明が、その
 理念化が、事実を曲げてもまかの通らねばならなかった理由は
 ここにあった。― 高橋富雄著、『義経伝説――歴史の虚実』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 本来、義経生存説が間違いならば、それを裏付ける数多い例証
に対してきちんと反証するべきです。このような抽象的な論拠で
義経生存説は否定できないと考えます。それにしてもアカデミズ
ムは、なぜ頑なに義経生存説を否定しようとするのでしょうか。
 明日から、多くの例証を上げながら、源義経=成吉思汗説につ
いて、さらに深堀りしていきます。 ・・・・・・・[義経07]


≪画像および関連情報蔵
 ・義経生存説が出てくる根源
  義経生存説運動とは、民衆の敗者復活戦であり、自己肥大化
  幻想なのである。絶対多数の敗者である民衆が現実を認める
  ことを拒否し、挫折した弱い義経に己を重ね、義経に想像上
  のサクセスストーリーを歩かせることで自尊心を満足させて
  いた、といえばよかろうか。
  ――森村宗・著、『義経伝説と日本人』(平凡社新書)より

1637号.jpg
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2005年07月21日

藤原家富貴栄華の秘密(EJ1638号)

 藤原一族――奥州一帯を支配し、北の王者といわれていたので
すが、奥州一帯とはどこからどこまでを指すのでしょうか。この
ことをはっきりさせておく必要があります。
 奥州一帯――秀衡の時代には、陸奥国と出羽国を支配していた
のです。この陸奥国と出羽国は、現在の福島県以北青森県までを
指すのです。まさに北の王者です。
 ところで、秀衡は、1170年5月に朝廷から「鎮守府将軍」
に任命されているのです。鎮守府とは、陸奥と出羽、つまり奥州
を治める役所のことです。当時その役所は平泉にあり、秀衡は奥
州を支配する将軍に任命されたのです。EJ第1635号におい
て「四代将軍泰衡」という言葉を使いましたが、泰衡は紛れもな
く四代鎮守府将軍なのです。
 鎌倉の頼朝がどれほど秀衡を恐れていたかを示すエピソードが
あるのです。1184年のことです。奈良の東大寺を復興するさ
いに鎌倉の頼朝は1000両を寄進したのですが、鎮守府将軍の
秀衡は5倍の5000両を出したのです。鎌倉は秀衡の財力に圧
倒されてしまったのです。それにしても、藤原家はどうしてかく
も裕福なのでしょうか。
 藤原三代の栄華は、金色堂に代表されるように、莫大な黄金の
生産があってのことです。その黄金は、一体どこから採れたので
しょうか。
 奥州には大量の砂金を産出する河川があったといううわさはあ
ります。もし、それが本当であれば、その河川の上流には莫大な
量の山金が埋蔵されているはずです。しかし、金山の開発が進歩
した後の時代になっても奥州にそのような金山が発見されたとい
う記録はないのです。
 金山の本格的な開発は、江戸時代になってから、能楽師あがり
の大久保石見守にはじまるといわれます。佐渡の金山、伊豆の金
山、石見の銀山などは有名です。
 藤原家の古い書物によると、秀衡は宋朝の天子に一万五千貫の
黄金を贈り、その見返りとして、大量の経文や仏像を手に入れて
います。一万五千貫の金――これは純金56トンに相当するので
すが、尋常ならざる量です。
 これほどの金を経文や仏像を手に入れるためにポンと投げ出す
ということは、藤原家にはその十倍二十倍の金の蓄積があったと
考えるのが自然であると思います。たとえ豊富な山金が埋蔵され
ていたとしても、当時の原始的な採鉱技術で採取されていたとは
考えにくいことです。
 さらに、もし奥州に金山があったとすれば、奥州を平定した頼
朝はもっと裕福になってもいいはずです。しかし、そういう気配
はないのです。一体藤原氏の黄金はどこから来て、どこに消えて
しまったのでしょうか。
 藤原氏の金に着眼したのは、高木彬光氏なのです。彼は、小説
『成吉思汗の秘密』の中で、神津恭介に次のように語らせている
のです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「それではせっかく奥州を平定した頼朝が、むかし藤原氏の産
 出していた黄金を手に入れることができなかったというという
 のは、どこに原因があるのでしょうか」
 「その理由は、僕にいわせれば、一つしかありませんね。鉱脈
 が枯渇したとも思えない。技術が滅びたとも思えない。原料の
 供給が絶えたとしか解釈はできないのです。これは、僕の大胆
 な推理だけれども、藤原三代の富貴栄華の源泉は、その莫大な
 黄金の原産地は、北海道、樺太――というよりも、大陸のシベ
 リア地方ではなかったかと思うんですよ」。
     ――高木彬光著、『成吉思汗の秘密』(角川文庫)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これは驚くべき推理です。藤原氏は秀衡の時代までに、当時は
まったく未開拓のシベリア方面まで勢力を広げていたという仮定
に立つからです。そのために藤原氏は、津軽海峡、宗谷海峡、間
宮海峡を渡るレベルの航海技術をマスターしていなければならな
いということになります。
 もし、この仮定が事実だとすると、平泉から大陸にいたる北方
ルートがあったことになり、義経主従はそのルートを伝わって大
陸に渡ったことになるのです。秀衡が義経と泰衡に渡した錦の袋
には、その北方ルートを示す地図が入っていたのではないかと考
えられるのです。
 ところで、義経主従が大陸に渡ったという可能性が少しずつ出
てきていますが、そういうことを記述した文献があるのでしょう
か。それとも単なる推測なのでしょうか。
 それがあるのです。実は、『松前福山略記』という文書がある
のです。そこに次のように記述されています。さらに『新撰陸奥
国誌』にも似たような記述があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 文治五年五月十二日に源義経、藤原忠衡、武蔵坊弁慶、常盤坊
 海尊、亀井六郎など主従百人余蝦夷地渡海す・・・韃靼国に渡
 る。                ――『松前福山略記』
 文治五年義経十三壇林寺に来る。主従7人。十三より海に航し
 西蝦夷に住了にヲカムイ岬より満韃の地に渡る。
                 ――『新撰陸奥国誌』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 驚くべきことは、藤原忠衡が入っていることです。「主従百人
余」とありますが、これは奥州藤原氏一族と考えられるのです。
それに『新撰陸奥国誌』にある「十三」というのは、津軽半島の
半ばにある場所であり、ここは安東水軍で有名な安東氏の本拠地
なのです。実は、秀衡の弟の秀栄は十三に福島城を築いて城主に
なっているのです。壇林寺は秀栄が建造した寺なのです。
 「十三より海に航し」とは、安東水軍の船で蝦夷地に送り届け
ていることを示しています。このように大陸へはちゃんとルート
が存在していたのです。       ・・・・・・ [義経08]


≪画像および関連情報≫
 ・十三湖と安東水軍
  鎌倉時代のころ、本州北端に勢力を有していたのは、現在の
  青森県市浦村の十三湖付近を本拠地としていた「安東水軍」
  で有名な安東氏であるが、安東氏は、当時のえぞが島にも、
  えぞ探題として勢力を及ぼしたとみられる。その後、安東氏
  は、八戸方面から進出してきた南部氏との戦いに敗れえぞが
  島に逃れている。また、安東氏を擁した武田信広――武田は
  若狭の国から流れてきたといわれている――は、その蠣崎氏
  の養子となり、後の松前藩の始祖となったといわれている。

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2005年07月22日

一世を風靡した小谷部学説(EJ1639号)

 データを整理して先に進みます。1188年2月21日――文
治4年2月21日に義経追討の院宣が出されています。朝廷はこ
の院宣を出すのは内心反対だったのですが、鎌倉の頼朝に屈する
かたちで出したのです。ここで朝廷はひとつの細工をしているの
です。平泉の藤原泰衡に対して早飛脚で密使を送り、院宣が出た
ことを知らせたのです。
 その一方で朝廷は鎌倉への使者はわざと非常に時間をかけて、
4月9日に鎌倉に到着しているのです。つまり、義経追討の院宣
が出たことを知ったのは、鎌倉の頼朝よりも平泉の泰衡の方が早
かったと思われるのです。
 朝廷の密使から義経追討の院宣が出たことを知った泰衡は、直
ちに義経にそれを知らせ、かねてからの手はずの通り、義経主従
を平泉から脱出させたのです。文治4年4月中旬のことです。こ
れは、文治5年4月30日に義経が持仏堂で自害したことになっ
ている一年以上前のことになります。
 泰衡は忠衡に命じて百名前後の兵を整えさせ、義経主従とは別
に平泉を出発させています。義経主従と行動を共にさせるために
後を追わせたのです。義経と忠衡の向った先は、安東水軍の本拠
地である津軽半島の十三です。義経主従は、十三の壇林寺に文治
5年5月に到着しています。やがて、忠衡の兵も十三に到着し、
安東水軍の船で、十三から蝦夷地に渡っています。
 この文治4年4月から翌年の文治5年4月までの一年間、泰衡
は朝廷や鎌倉の矢面に立って、金品を贈ったり、接待したりと、
のらりくらりと時間稼ぎをやったわけです。その間に義経主従と
忠衡たちは準備を整えて、蝦夷地に向けて無事に出発することが
できたのです。すべては泰衡のお陰でなのです。
 以上の考察により、義経主従が少なくとも文治5年4月には死
んでおらず、北を目指して落ち延び、やがて蝦夷地に渡っている
ことがわかってきました。あとは、具体的に彼らはどこに行って
何をしたかについて考えていきます。
 シベリア地方のウラジオストック市の北部に「ハンガン岬」と
いうところがあります。地名の由来ははっきりとしていませんが
「判官」と結びつけている人もいます。
 このハンガン岬から東北に120キロ離れたところに、「スー
チャン」という場所があります。この「スーチャン」は中国語で
あり、「蘇城」と書くのです。ここには古い城跡があるので、そ
う呼ばれています。シベリア(沿海州)は1858年のネルチンス
ク条約でロシア領になるまでは清国の支配下にあったので、中国
語の地名が残っているのです。
 さて、この「蘇城」はどのような城であったのでしょうか。地
元民の間では次のいい伝えが残っているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昔、日本の武将が危難を避けて本国を逃れ、この地に城を築い
 た。武将はここで「蘇生した」というところから、「蘇城」と
 命名された。武将はこののち城を娘に任せ、自分は中国本土に
 攻め入って強大な王国を建てた。      ――地元の伝承
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この蘇城について、実際に現地に行って調査し、そのことを本
に書いた人がいます。小谷部全一郎という人です。「源義経=成
吉思汗説」を最も普及させた人物として有名です。
 この本は『成吉思汗は源義経也』のタイトルで、冨山房から大
正13年に発刊され、ベストセラーになったのです。EJを書く
に当ってこの本は不可欠なので、中央区立京橋図書館から借りて
現在手元にあります。(添付ファイル参照)
 小谷部全一郎は、江戸時代初期からの、いわゆる義経生存説を
基本とし、問題によっては独自の解釈を加えて「源義経=成吉思
汗説」を展開しています。自ら現地に足を運んで調査をしている
ので、強い説得力があります。
 初版発行が大正13年(1924年)11月10日で、12日
には再版、12月5日には6版を出すというベストセラーを記録
したのです。
 彼は、同書の中で、次のように述べて、歴史学者たちを挑発し
たのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 成吉思汗が義経の後身でないとする者があれば、それは蛙はお
 たまじゃくしの後身ではすないと主張するようなものである。
 また、成吉思汗を生粋の蒙古人とすることは、蜥蜴を龍なりと
 するようなものである。義経の衣川自害を主張する我が国歴史
 家の見解は、影を以って実体なりと強弁し、或いは形が少しば
 かり似ているからとして、鰌を指して「鯨である」というのと
 同じことである。            ――小谷部全一郎
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対して歴史学者は大同団結して反撃に出たのです。国史
学、東洋史学、考古学、民俗学、国文学、国語・言語学の第一級
の研究者がずらりと結集して、次の本によって、さまざまな角度
から小谷部説を批判したのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   『中央史壇』臨時増刊号
   『成吉思汗は源義経にあらず』――国史講習会発行
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 中でも金田一京助と中島利一郎の批判は激しかったのです。金
田一京助は、小谷部説は主観的であり、歴史論文は客観的に論述
されるべきものであるとし、この種の論文は「信仰」であると切
り捨てています。中島利一郎の反論はさらに激しく、小谷部論を
ひとつずつ考証して反論し、最後には、「粗忽屋」「珍説」「滑
稽」「児戯に等しい」という言葉を使って罵倒しています。
 小谷部全一郎は、8ヶ月後に『成吉思汗は源義経也――著実の
動機と再論』を出版し、反対論者たちに反論しています。
 しかし、どうして歴史学者たちはこの問題になると、かくも感
情的になってしまうのでしょうか。   ・・・・・[義経09]


≪画像および関連情報≫
 ・小谷部全一郎は、米国のエール大学に留学し、ドクター・オ
  ブ・フィロソフィーの学位を取得している。米国留学から帰
  国後、北海道でアイヌの子弟教育を行っている。博学で、努
  力家で、冒険家として有名な人である。金田一京助は、アイ
  ヌ語学の研究をしているので、小谷部とは面識があり、親し
  い間柄であるが、その所論はお互いに相容れない。

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2005年07月25日

ホンカイサマとクルムセ国(EJ1640号)

 古くからアイヌ民族のあいだに、次のような伝説が伝わってい
ます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昔、ホンカイサマは金色の鷲が飛ぶのを見て、その鷲に従い、
 昔先祖が往来した海を渡って、大きな川のあるクルムセ国にお
 行きなされた。             ――アイヌの伝説
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「ホンカイサマ」とは何でしょうか。
 このアイヌの伝説は、佐々木勝三氏の本にも出てきますが、そ
こでは「ホンカンさま」となっていました。アイヌ語に詳しい人
の話によると、アイヌ語には濁音というものはなく、「サ」の音
が出る前に「ン」という音があれば「イ」と発音するのです。し
たがって、「ホンカイサマ」と書いてあっても、発音は「ホンカ
ンサマ」になるのです。
 「ホンカンサマ」は、その読み方からしても「判官様」に通じ
るものがあります。佐々木勝三氏は、平泉から義経主従が北に逃
れたとされる道を実地踏査しているのですが、釜石市の近くで、
「ホンカンサマ」と呼ばれる神社―――「法冠神社」を発見して
います。神社の正確な場所は次の通りです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     法冠神社 ――― 釜石市大字片岸字室浜
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 法冠神社を建立したのは、室浜に住む山崎久右衛門氏の先祖と
いうことです。神社の由来は、山崎氏の説明によると、次のよう
なものだったのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この地は義経一行が、山越えに来て野宿、もしくは休息をした
 ところだと伝えられています。義経さまたちは、この山を越え
 て大槌のほうへ行かれたということです。その跡へ私の先祖が
 お宮を建てたのです。
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 一口にアイヌ民族といっても、次の2つの種族があるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  荒蝦夷(あらえぞ) ・・・ 北海道に留まっている種族
  熱蝦夷(にぎえぞ) ・・・ 北海道を脱出している種族
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「荒蝦夷」というのは、ずっと北海道におり、現在は網走地方
に少し残っているだけです。「熱蝦夷」というのは、もともとは
東北地方に住んでいたのですが、日本民族の勢力が北にのびるに
つれて、しだいに北へと圧迫され、北海道に逃げ込んで、釧路か
ら西の日高地方に住むようになった種族です。この種族は昔は勇
猛さを誇ったのですが、現在は少数民族になっています。
 注目すべきは、ホンカイサマ伝説は熱蝦夷にだけに伝わってい
るという事実です。小谷部全一郎の『成吉思汗は源義経也』に反
論するため、多くの歴史学者は実際にアイヌ種族を調べています
が、そのほとんどは荒蝦夷に会っていたのではないでしょうか。
荒蝦夷をいくら調べても義経の痕跡は出てこないのです。
 明治時代に熱蝦夷の酋長を調べたある学者によると、ホンカイ
サマはアイヌの祖先たちに弓矢の作り方と使い方を教え、それで
鳥獣を捕えたり、網で魚を取る技術を指導したのです。さらに手
工農作のことまで教えたので、ホンカイサマを命の親として神に
祭っているというのです。
 さらにその酋長の話では、やがてホンカイサマは蝦夷地から樺
太へ攻め入り、アイヌに害をなすその土地の酋長を殺し、そこか
ら海を渡ってクルムセの国に入ったというのです。そのさいに、
一族の智者、勇者、若者を動員し、金銀財宝を持って出陣してし
まい、戻ってこなかったために勇猛を誇ったアイヌ族は急速に衰
えたといわれています。
 さて、問題は「クルムセの国」はどこかということです。伝説
の部分をよく見ると、次の2つのヒントがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      1.昔、先祖が往来したことがある
      2.その国の近くに大きな川がある
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 結論からいうと、義経の時代には「契丹(きったん)」と呼ば
れていた地域ではないかと思われるのです。当時、新羅、高麗、
百済というのは現在の朝鮮半島のことであり、契丹は現在のウラ
ジオストックを中心とするシベリア地方をさします。
 大きな川とは、黒竜江であると思われます。この黒竜江の下流
は、昔から有名な砂金の産地なのです。したがって、秀衡時代の
藤原氏がこのシベリア地方と何らかの関係があるのではないかと
いうことは、あながち荒唐無稽なこととは思われないのです。藤
原氏の所有していたと思われる金は尋常ならざる量だからです。
 ホンカイサマがアイヌの大群を率いて大陸に渡ったとすると、
シベリアの原住民の中には、アイヌ民族と似た風俗が残っている
はずですが、その点はどうなのでしょうか。
 それがあるのです。シベリア西部に住んでいるウオグルという
民族がいるのです。この民族は男は多毛質であり、女は口のまわ
りに入墨をするなど、アイヌ族とよく似た風俗を持っています。
それに住居は丸太の掘立小屋であり、着ている着物の刺繍の模様
も、アイヌのものと酷似しているのです。
 ところで義経は、当時の大陸の状況についてどの程度の知識が
あったかです。推測ですが、私は義経は相当の知識を持っていた
と考えます。NHKの大河ドラマの『義経』の中に、屏風の絵を
前にして平清盛が、まだ幼い牛若に対して海の向こうの話を聞か
せるシーンがあり、印象に残っています。清盛は、都を一時福原
(神戸)に移してまで、海外との交易を考えていたのです。それ
が幼い義経の脳裏に刻み付けられたのです。・・・ [義経10]


≪画像および関連情報≫
 ・シベリア
  シベリアというのは、ロシア連邦のアジア地域、すなわち、
  ウラル山脈以東に広がる広大な地域をいい、シベリアという
  地名は単に地理的範囲を示すものであり、行政単位としては
  意味を持たない。
 ・黒竜江
  現・中国東北地方とソ連邦シベリアの国境を流れる大河。ロ
  シア人はアムール川と称している。全長は4350キロメー
  トルで世界第8位。流域面積は205万1500平方キロメ
  ートルで世界第10位。最上流部はモンゴル高原北東部のヘ
  ンテイ山脈で,ここよりオノン川とケルレン川の二つに分か
  れて流れ出す。オノン川は北東流してシルカ川に注ぎ,ケル
  レン川は東流してアルグン川に注ぎ,アルグン川は、北東流
  して漠河付近でシルカ川と合流する。この合流点より下流を
  黒竜江という。合流点からは大きな狐を描いて南東に流れ,
  松花江などの多くの支流を集めながら小興安嶺の北西端より
  北東流して間宮海峡に注いでいる。

1640号.jpg
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2005年07月26日

末松謙澄の源義経=成吉思汗説(1641号)

 明治12年(1879年)のことです。英国で日本人の手にな
る次の英文の論文が発表されたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 The Identify of the Great Conqueror Genghis Khan with
 the Japanese Hero Yoshitsune.
 − 大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人なること −
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この論文を書いた人は、末松謙澄――当時、ケンブリッジ大学
で、文学・法学を学ぶかたわら、一等書記官見習としてロンドン
の日本大使館に勤務していた青年なのです。
 この末松謙澄という人物はただ者ではないのです。文学・和歌
・漢詩・芸術などの造詣が深く、世界ではじめて『源氏物語』を
翻訳出版するなど大活躍しています。さらに、明治23年には第
1回の衆議院議員選挙に当選して政治の世界でも活躍し、内務大
臣や逓信大臣を務めているのです。
 さて、「成吉思汗=源義経」の英文論文を末松は師の福沢諭吉
のところに持っていったのです。福沢諭吉はこれを読んで「これ
は面白いので、誰か翻訳して書籍として出版したらどうか」と塾
生たちに勧めたのです。
 それを引き受けたのは塾生の内田弥八です。早速それを翻訳し
『義経再興記』というタイトルで明治18年(1885年)に出版
したのです。しかし、著者は「内田弥八」として出版してしまっ
たのです。タイトルの題字は山岡鉄舟、序文は漢学者の石川鴻齋
と土田淡堂が書いて、立派な本にしたのです。
 『義経再興記』は発売されると、大センセーショナルを巻き起
こし、本は売れに売れたのです。明治20年には7版を印刷、最
終的には10版までいったと思われるのです。
 末松説は、義経が蝦夷から大陸に渡ったという前提に立って、
義経と成吉思汗の類似点を例証しているのです。末松が指摘して
いることの多くは、ことばの類似性です。例えば、「成吉思汗」
という名前は「源義経」からきているというのがあります。「源
義経」は「ゲンギケイ」と読むことができますが、それが「ゲン
ギス」になり、やがて「ジンギス」になったとというのです。蒙
古語では、ゲ、ギ、ジの3字はほとんど明確な区別はないからで
す。「カン」は王位の総称です。
 さらに、成吉思汗は「ニロン族」の出身であること、父は「エ
ゾカイ」もしくは「エスガイ」と称し、母は「ホエルン・イケ」
と呼んでいたことを指摘しています。末松は、ここでいう「ニロ
ン」は「日本」のことであり、「エゾカイ」は「蝦夷の海からき
た」ことを意味しているというのです。
 この末松論文は当然のことながら、学問の世界からは激しい反
論の嵐がさらされたのです。確かに末松論文は内容的に不十分な
ところが多く、牽強付会の説として批判されたのです。牽強付会
とは、自説に都合の良いところだけをピックアップしてつじつま
合わせをするという意味です。
 しかし、この末松論文は決してムダなことではなかったといえ
ます。ひとつは、この論文が下敷きとなって、小谷部全一郎の本
が誕生したからです。小谷部に蒙古の実地踏査を決意させたのも
末松論文だったからです。
 もうひとつは、この末松論文が契機となって巻き起こった義経
生存説ブームに乗って、明治28年に博文館から『新撰日本小歴
史』という歴史教科書が発刊されたことです。同書の79ページ
に次の記述があります。これはまさに前代未聞のことといえるで
しょう。「義経、衣川で自害」という歴史の定説を覆しているの
ですから。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    泰衡終に義経を攻む。義経遁れて蝦夷に入る
            ―――『新撰日本小歴史』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 末松論文で注目すべきは、成吉思汗の母の名前とされる「ホエ
ルン・イケ」です。蒙古語で「イケ」は母、「ホエルン」は雲と
いう意味です。
 これだけでは別にどうということはないのですが、後に成吉思
汗は母親に対して、「センシ皇后」という名前を贈っています。
「センシ」というのは漢字なのですが、字が難しくてメールで送
れないのでカナにします。正しくは「ホエルン・イケ・センシ」
となるのです。
 こうなると連想されるのは「池ノ禅尼」です。池ノ禅尼は、平
清盛の養母です。平治の乱の直後に捕えられた源義朝の男の遺児
は一人残らず、殺されることになっていたのです。ところが、そ
のとき清盛を説得して、頼朝や義経たちの命を助けたのが池の禅
尼です。結果的にそれが平家一門の滅亡を招いたのですが、少な
くとも義経にとって池の禅尼は命の恩人なのです。
 もし、義経が成吉思汗であったとしたら、成吉思汗の母となる
女性は何者かということになりますが、そういう母親的存在の女
性に池ノ禅尼の名前を贈ることは考えられることです。
 しかし、義経=成吉思汗説を証明するのに、単にことばの面か
らだけやろうというのは限界があります。幅広い歴史書の分析に
実地踏査などを加えて、さまざまな情報から総合的に判断すべき
です。しかし、学問の世界の反論はそれを守っているとはいえな
いと思うのです。最初に結論ありきであって、その結論を守るた
めに、必ずしも理をもってせず、馬鹿にしたり、罵倒したりする
など、あまりにも感情的になり過ぎる点があると思います。
 ここまでそういう検討を加えた結果、少なくとも「義経は衣川
で自害」という歴史的定説にはかなりの疑問があり、義経一行は
北へ逃れたというのが事実ではないかと考えられるのです。学問
の世界の反論はあまりにも抽象的であり、実証的とはいい切れな
いからです。海を渡って大陸に入った義経一行はどのようにして
成吉思汗といわれるようになったのでしょうか。明日からこの問
題を考えていきます。        ・・・・・・[義経11]


≪画像および関連情報≫
 ・末松謙澄(1855〜1920)
  安政2(1855)年、行橋市前田生まれ。
  10歳の頃から仏山の私塾で漢学を学び、新聞社で活躍後、
  官界に入る。山縣有朋に文才を認めれて陸軍省へ。明治11
  年ケンブリッジ大学で文学・法学を修め、在学中、英訳「源
  氏物語」を出版。帰国後伊藤博文の次女と結婚。伊藤博文を
  支える要職(逓信大臣など)を歴任すると同時に、多くの著
  作を残している。特に「防長回天史」は維新の貴重な資料と
  されるなど、マルチな才能ぶりに驚かされる。


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2005年07月27日

大河兼任の乱の裏にあるもの(EJ1642号)

 史実によれば、源義経は1189年4月に自害したことになっ
ています。そして成吉思汗が歴史の舞台に登場するのは1206
年なのです。もし、源義経が成吉思汗であるならば、義経はその
17年の間、何をしていたのでしょうか。
 その前に、その当時の中国大陸の状況について知っておく必要
があります。成吉思汗があらわれる以前の大陸は、唐の時代から
五代の乱世を経て宋の時代になっていたのです。その宋の時代の
敵といえば、すべて北からやってきたのです。
 漢民族は自らは「中華」と称して、北方民族を「北狄」と呼ん
で軽蔑しながらも恐れていたのです。物資が乏しく生活が粗野な
北方民族は、物資豊富で文化の高い南方の農耕民族を狙って、絶
えず侵略戦争を繰り返していたのです。鮮卑、契丹、女真などの
民族がそうです。
 しかし、それらの民族の攻撃は、ことごとく撃退され、万里の
長城の外に追い返されていたのです。漢民族は敵を万里の長城の
外に追い出すと、深追いはしなかったのです。そのため、何回負
けても北方民族は生き残り、繰り返し攻めてきたのです。
 さて、義経一行は、現在のサハリン島(樺太)にいったん渡り、
それから、間宮海峡(タタール海峡)を渡ってアムール川の河口付
近に上陸していると考えられます。そして、その一帯を支配して
いた満州女直(女真系)ワンスンと戦闘をしています。1190年
のことです。
 当時の義経軍は義経主従と忠衡率いる100人程度の軍隊にア
イヌ人が加わっていたものと思われます。義経軍はこの満州女直
を打ち破り、沿海州の海岸に沿って南下します。そして、現在の
ウラジオストック近郊に達するのです。
 戦いというものは、勝ち進むにつれて敗者を軍に加えるので、
その人数が増えていくものですが、それに加えて義経軍にはさら
に200人ほどの援軍が加わっていた可能性があります。つまり
義経一行の後を追って、蝦夷地に渡り、義経軍と合流した一団が
あると考えられるのです。
 この、後から義経軍に加わったとされるのは、どういう一団な
のでしょうか。
 結論から先にいうと、それは大河兼任という秋田県北部の平泉
藤原氏直属の豪族であり、南秋田郡五城目町大川付近を本拠地に
して支配していた一族です。
 1189年12月、大河兼任とその一族は、奥州の同志を結集
し、7000騎の兵力で、出羽国海辺荘から河北、秋田城を経て
多賀城方面に向かい、一路鎌倉を目指したのです。1190年1
月のことです。そのとき大河兼任は自らを源義経と称して軍を挙
げているのです。情報が伝わりにくい当時のことであり、鎌倉方
から見れば、義経はまだ生きており、それが軍を率いて攻めてき
たと勘違いすることを見越しての戦略です。
 しかし、途中の八郎潟付近の志賀の渡しで、突然氷が解けると
いう事故により、多くの兵を水死させてしまうのです。それでも
進軍しながら兵を増強させ、約1万騎の軍勢で、鎌倉側と再三に
渡って合戦を行います。
 ところが、鎌倉勢の大軍に破れ、大河兼任は500騎ほど率い
て逃走し、平泉に陣を張って防戦するのです。しかし、衆寡敵せ
ず破れ、敗走します。そして、宮城県栗原郡にある栗原寺に逃げ
込むのですが、大内兼任はそこで討たれています。この栗原寺は
義経ゆかりの寺とされています。
 この大河兼任の乱は『吾妻鏡』に記述されています。大河兼任
が討たれた模様は、『吾妻鏡』の3月10日の項に次のように記
述されています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 大河次郎兼任、ひとり進退に迫り、花山・千福・山本等を歴て
 亀山を超え、栗原寺に出づ。ここに兼任、錦の脛巾を着け、金
 作りの太刀を帯くの間、樵夫等怪しみをなし、数十人これを相
 囲み、斧をもって兼任を討ち殺すの後、事の由を胤正(千葉)以
 下に告ぐ。よってその首を実検す云々。
              ――『吾妻鏡』の3月10日より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように、大河兼任は殺されています。しかし、この記述に
は不可解なところがあります。それは「錦の脛巾を着け、金作り
の太刀を帯く」の部分です。ずい分目立つ格好であり、逃亡中の
武士はそのような格好をするとは思えないのです。それになぜ樵
夫が登場し、斧で殺されなければならなかったのでしょうか。
 そのことから、これは明らかに大河兼任の替え玉であると思わ
れるのです。斧で殺されたのは、顔を潰してわからなくするため
ではなかったのでしょうか。
 しかし、『吾妻鏡』に「大河兼任死す」とあると、それは歴史
的事実とされてしまうのです。『東日流三郡誌』には次の記述が
残れているといわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 義経一行が十三湊を離れた一年ほど後に、大河兼任の一族二百
 名が義経一行の後を追って、安東水軍の船で出航した。
                 ――『東日流三郡誌』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 断っておきますが、『東日流三郡誌』には歴史書としては問題
があるといわれています。別説として、栗原寺の僧侶が大河兼任
の頭を丸めさせ、密かに津軽方面に逃がしたという説もあるので
す。大河兼任については諸説があり、これも伝説化されているの
です。いずれにしても、史実上は問題があるのですが、そうかと
いって『吾妻鏡』に書かれていることがすべて真実であるともい
えないのです。
 大河兼任であるかどうかは別として、義経の後を追って200
騎ほどの軍勢が海を渡り、当時西蝦夷にいた義経軍と合流してい
るのです。そして、300騎以上になった義経軍は安東水軍の船
でサハリン島を経て大陸に渡ったのです。・・・・・[義経12]


≪画像および関連情報≫
 ・大河兼任
  極寒の奥州を縦横無尽に駆け抜け、幕府軍を翻弄した豪傑。
  出羽の豪族で、奥州藤原氏に従う。奥州藤原氏が滅亡すると
  旧主の仇を討つと称して、配下の伴党ら7000人を従えて
  橘公業の拠点を襲撃、敵軍を全滅させている。
  次いで由利維平を滅ぼすと、今度は素早く北上し、津軽の宇
  佐美実政を敗っている。しかし、一迫にて源頼朝の命を受け
  千葉常胤、比企能員、足利義兼ら討伐軍と結城朝光ら奥州在
  留の御家人による鎮圧軍が反撃を開始。以後は連敗し、花山
  の栗原寺にて味方の樵夫たち数十人に包囲されて斧で殺され
  ている。

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2005年07月28日

ニコラエフスク/義経公園の亀石(EJ1643号)

 義経と忠衡軍が津軽の十三湊から安東水軍の力を借りて蝦夷地
に渡り、西蝦夷に行ったこと、それに義経の後を追って大河兼任
率いる200騎が同じルートで蝦夷地に渡って義経・忠衡軍と合
流したらしいことは、これまでの分析でわかってきました。
 しかし、そこから先は義経軍がどのルートをたどって進軍した
かについては、当然ですが、ほとんど確かな資料はないのです。
そこで、既にご紹介している小谷部氏の著書2冊、それを解説し
た佐々木勝三氏他2氏の共著に加えて、次の著書を参照し、推理
してみるしかないのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
   ドーソン著/佐口透訳、『モンゴル帝国史』全6巻
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 著者のドーソンという人は、アルメニア人のフィンランドの外
交官で、この本は彼が中近東に赴任していたときに『蒙古史』
タイトルで書き上げたものです。内容は公平・正確という評価が
高く、多くの読書人を魅了した名著なのです。この『モンゴル帝
国史』は、その新装版なのです。もちろん、この本の中でも「義
経=成吉思汗説」は、取り上げられています。
 旧版のドーソンの『蒙古史』は上下巻あわせて700ページの
大書ですが、成吉思汗の30歳前後から1193年頃までのこと
に関しては、たったの4ページしか費やしていないのです。それ
は情報がほとんどないことを示しています。
 1203年から1204年にかけて、成吉思汗はモンゴル部族
の長テムジン(鉄木真)として、モンゴル高原の中央部でケレイ
ト部族やタタール部族と戦闘しています。それなのに、1190
年から1202年まではユーラシア大陸の東端において、満州女
直や高麗軍と戦争した記録が残されているのです。なぜ、そんな
ところまで行って戦争しなければならないのでしょうか――これ
は大きな謎だったのです。
 しかし、源義経=成吉思汗と考えるとこの謎は一挙に解消して
しまいます。源義経率いる軍勢が、サハリン島の西北端から、大
陸のアムール川河口付近に上陸し、1190年〜91年にその地
を支配していた満州女直族のワンスンと交戦したと考えれば、話
がぴったり合うのです。
 この「満州女直」というのは、北東アジアの満州(現在の中国
東北地区)に住んでいたツングース系の民族で、「女真」ともい
うのです。この満州女直族を打ち破ったということは、その時点
で義経軍は、既に相当の規模であったことを意味します。
 もともと忠衡が率いていたのは、騎馬軍団で東北騎馬軍団とい
われていたのです。奥州は馬の産地であり、一戸から九戸までの
9つの牧場があったほどです。そういうわけで、藤原家の軍隊は
騎馬軍団なのです。
 この忠衡率いる100騎の騎馬軍団が義経に従っており、後か
ら合流したとみられる大河兼任率いる200騎の騎馬軍団、それ
にアイヌの一団を加えると、約300騎から〜400騎の軍勢に
なるのです。これが後にテムジン騎馬軍団になるのです。
 軍隊の人数は決して多くありませんが、これだけの手駒を持っ
ていれば、平家を相手にしてあれだけ見事な戦いをした義経であ
れば、十分に満州女直軍と戦えたであろうと推測できます。そし
て義経軍は打ち破った満州女直軍も加えて、沿海州(シベリア)
を海岸線に沿って南下し、現在のウラジオストック近郊まで達し
たと考えられるのです。
 ウラジオストック着いた義経軍は、1192年に休む間もなく
高麗チャガン軍と交戦し、これを破っています。その後、義経軍
はウラジオストック近郊に本拠地を築き、ここで兵を訓練し、体
制を整えています。義経軍はここで約10年の月日を過ごしてい
ます。次の飛躍のためには十分の期間です。
 ところで、現在「タタール海峡」といわれる海峡は、間宮林蔵
が樺太探検のさいに発見した海峡であり、日本では「間宮海峡」
と呼ばれています。
 調べによると、間宮林蔵の樺太探検の目的のひとつは義経伝説
の真偽の解明であったといわれているのです。彼は、アムール川
流域に住む人々に義経のことを聞いてまわっているのですが、そ
こに義経のいくつかの足跡を見つけているといわれています。
 間宮林蔵のこのときの実地踏査によって得られた情報は、ドイ
ツ人医師のシーボルトによる義経北行説と義経=成吉思汗説とし
て発表されています。シーボルトと間宮林蔵は友人関係にあり、
情報源は間宮林蔵であったことは間違いないと思われます。
 義経軍がウラジオストック近郊を本拠地にしたことを示す痕跡
は多く見られます。佐々木勝三氏は、ウラジオストックの北方に
あるニコラエフスクという町の商店で買ったという絵葉書を手に
入れています。大正7年に東部シベリアに出兵した人から贈呈さ
れたものであるというのです。
 その絵葉書には、「源義経墓」と書いてある亀形の台石のよう
なものが写っていたというのです。絵葉書の所有者は藤田伝助氏
といい、藤田氏は次のように述べています。
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 私は23歳の時、上等兵で伍長勤務、分隊長としてウラジオス
 トックに行きました。そして、ツルキンという地名の所に居り
 ました。ニコラエフスク市に行った時、商店で絵葉書を買いま
 したところ、義経(ぎけい)公園という公園の中に、「源義経
 墓」と書いてある亀形の台石が写真になっていたのです。
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 小谷部氏の本にもニコラエフスクにある義経公園の亀石の写真
が出ています。その亀石の上にかつて石碑が立っており、「源義
経墓」と書いてあったそうです。そのため、ここに居住する日本
人はこの公園のことを「義経公園」呼んでいたのです。帝政ロシ
ア時代にはまだ日本人が住んでいたのです。・・・ [義経13]


≪画像および関連情報≫
 ・小谷部氏の原文
  隻城子(ニコラエフスク)の市邑に、土俗の所謂義将軍の古
  碑と称するものあり、土人はこれを日本の武将の碑とも或は
  支那の将軍の碑とも傳ふ。居留日本人は一般にこれを義経の
  碑と称し、而して其の建てられたる市の公園を、我が居留民
  は現に之を義経公園と呼びて有名なるものなり。
  ――小谷部全一郎著『成吉思汗は源義経也』より 冨山房刊

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2005年07月29日

義経の痕跡残るウラジオストック近郊(EJ1644号)

 義経軍はウラジオストック近郊までやってきて、そこを本拠地
にして約10年間を過ごしていると考えられます。そうであると
すると、ウラジオストック周辺にその痕跡はかなり残っているも
のと思われます。
 その痕跡のひとつが、ウラジオストック北方のニコラエフスク
市にある義経公園です。ここにある亀石についてもう少し補足し
ます。昨日のEJで述べたように、その亀石は台座であって、そ
の上に石碑があり、「源義経墓」と彫られていたというのです。
 この亀石と石碑を目撃した日本人が何人かいるのです。大正7
年――第一次世界大戦の末期の頃ですが、ロシア革命に呼応して
連合軍の要請で日本はシベリアに遠征軍を送っているのです。そ
の中で、東部シベリアに出兵していた人たちの中に目撃者がいる
です。その一人である宮古市の刈屋清右衛門氏は、佐々木勝三氏
に次のように語っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ニコラエフスクの山中の盆地に、15メートルほどの小高い山
 があり、石垣が崩れたところがありました。そこに墓石があり
 竿石の長さは二尺五寸(約76センチ)ありましたが、3枚に
 割れていました。石垣が崩れるとき割れたのでしょうか。その
 3枚を合わせてみましたら、字が竿石いっぱいに彫られてあり
 ました。字は明らかに「大日本源義経墓」というようにつなが
 りました。              ――刈屋清右衛門氏
         ――佐々木勝三、大町北造、横田正二/共著
   『成吉思汗は源義経/義経は生きていた』より。勁文社刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ところで、この公園は現存し、亀石はまだあるようですが、石
碑の方は、ロシア側がハバロフスクの博物館に運び去っていると
のことです。この公園を訪れて台石を見た小谷部氏によると、台
石は硬質であり、その磨減の古さから考えて、600〜700年
の星霜を経たものであるとのことです。
 ところで、ハバロフスクの博物館に運ばれたという石碑はどう
なったのでしょうか。
 小谷部氏は、ハバロフスク博物館まで行こうとしたのですが、
治安に問題があるとのことで断念し、当時ウラジオストック派遣
軍司令部の中岡中佐に博物館に行って確認して欲しいと依頼した
のです。その中岡中佐から小谷部氏に対する報告文です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ハバロフスク博物館にある、いわゆる義経の碑と称するものは
 白色を帯びたる花崗岩の一種なり。この石碑の表面には厚くセ
 メントのしっくいを塗り、何物か彫刻しあるものを隠蔽せり。
 土人の言によれば大正10年日本軍がハバロフスク撤退後、過
 激派のなせることなりと。しかし、博物館長はこのしっくいが
 いずれのとき塗られしやおぼえなきと答えき。
               ――佐々木勝三氏の上経書より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ロシア人がしっくいを塗って文字を隠したのは明らかで、自国
に不利な文字がそこにあったものと考えられます。そこには「大
日本源義経」と書いてあったのですから。
 この地に義経公園があるということは、それはこの地に古くか
ら居留していた日本人にとって、義経がこの地に来たことを示す
何らかのあかしがあったからと考えられます。そして、おそらく
義経公園は古城跡の一部ではなかったかと思われます。
 それに、このニコラエフスク市は黒竜江のほとりにあり、それ
が、「大きな川のあるクルムセの国」の川ではないかと考えられ
ます。案外ニコラエフスクが「クルムセの国」ということも考え
られるのです。
 もうひとつ義経の城ではないかと思われるものに「蘇城(スー
チャン)」があります。EJ第1639号でご紹介した古城跡の
ことです。スーチャンもナホトカ、ウラジオストック、ニコラエ
フスクを結ぶ線の近くにあるのです。
 この地を支配していたのは、土着民のタモー族というのですが
このタモー族の伝説によると、蘇城は昔、イーポンの武将が築い
た城ということなのです。「イーポン」は「日本」を連想させま
すし、武将の名前はキン・ウ・チィというのですが、これは源義
経であると考えられます。
 さらに重要な痕跡と思われるものがあります。それは、既にご
紹介している「ハンガン岬」です。このハンガン岬――もう少し
正確にいうと、アメリカ湾とオリガーワンの中間にある泊地であ
るらしいのです。ハンガンではなく、「ハングアン」と発音する
そうです。シベリアの海岸には断崖絶壁が多く、船を着けるのに
適当な地点が少ないのですが、そういう意味でこの付近では重要
な泊地になっているのです。
 もっとも現在では名前は変更されているらしく、地図上では確
認できないのですが、シベリア出兵の当時はそういう名前で呼ば
れていたそうです。そういうところから、義経一行はこの泊地か
ら上陸したのではないかといわれているのです。なお、ハンガン
とスーチャンとは約120キロ離れているとのことです。
 これに関連する情報として、大正14年2月1日付の朝日新聞
に、こんな話が出ているのです。シベリア出兵当時、ニコラエフ
スクの近くでタタール人の芝居を見たところ、その巻狩の場面で
役者が笹竜胆(ささりんどう)の紋をつけた日本流の鎧兜であら
われたというのです。わけを尋ねたところ、昔から伝わっている
もので、誰が作ったかについてはわからないという返事だったと
いわれます。
 笹竜胆といえば、源氏の紋章です。それを蒙古武人が着けてい
たことになるのです。この笹竜胆の紋章は、ナホトカの一般住居
にもつけられており、これも義経ゆかりのものではないかと考え
られるのです。
 歴史学者たちは、こうした数々の証拠をどのように考えている
のでしょうか。          ・・・・・・ [義経14]


≪画像および関連情報≫
 ・笹竜胆/ささりんどう
  民家の建物の壁に笹竜胆/400年以上になる古い建物
  向って左はモンゴルの笹竜胆/右は源氏の紋章/笹竜胆

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posted by 平野 浩 at 05:05| Comment(3) | TrackBack(0) | 源義経=成吉思汗論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする