したが、この指揮者のことを文章でいろいろ語るよりも、手っ取
り早く彼の音楽について知る方法があります。それは、次のCD
を聴くことです。
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オットー・クレンペラー指揮/フィルハーモニア管弦楽団
『皇帝円舞曲/巨匠クレンペラーの世界』
TOCE−55436/2002年7月26日発売
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このCDには「皇帝円舞曲」のほか「ウィーン気質」のワルツ
や「こうもり序曲」など、ヨハン・シュトラウスの誰でも知って
いる名曲がたくさん収録されているので、クレンペラーの音楽を
知る格好の一枚です。
しかも、これらの曲はカラヤンが最も得意とするものであり、
収録されているCDは山ほどあります。ぜひ、カラヤンとクレン
ペラーを比較してみていただきたいと思います。
このクレンペラーの「皇帝円舞曲」についての宮下誠氏の、い
ささか大袈裟ながら的を射ている批評をご紹介します。
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同じく素晴らしいのはヨハン・シュトラウスのワルツ集、特に
『皇帝円舞曲』であろう。カラヤンのシュトラウス演奏をプロ
イセン・ドイツ風と言って批判する向きがあるが、カラヤンの
柔軟で、聴きようによっては軟弱かつ快楽追求主義的なシュト
ラウスなどに較べれば、クレンペラーのそれの方が遥かにプロ
イセン・ドイツ風である。カラヤンの指揮した軍隊音楽よりも
遥かに軍楽らしく響く。そして中盤以降、音楽はいよいよ巨大
になってゆき、地球的規模を超えて宇宙的な偉容を見せるよう
になる。考えてみればこれは恐ろしいことで、ポピュラーへと
漸次変容してゆくシュトラウス的な音楽機構が、クレンペラー
の中では交響曲の残骸、それも廃墟的なノスタルジーと英雄的
な厳粛さに置き換えられてしまっているのだ。これは質の悪い
冗談でしかないが、恐らくは確信犯的犯行だろう。
――宮下誠著
『カラヤンがクラシックを殺した』/光文社新書380
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このCDのオーケストラを見て、あれっと思った方もおられる
と思います。フィルハーモニア管弦楽団――そうです。EMIの
プロデューサーであるウォルター・レッグの肝入りで、ほとんど
カラヤン専属の録音オーケストラ化した楽曲です。
実はクレンペラーは、その奔放な生活ゆえにヨーロッパの孤児
になってしまい、指揮するオーケストラもなく雌伏の日々を送っ
ていた時期があるのです。その1951年に初めて振って成功を
収めたのがフィルハーモニア管弦楽団なのです。
ウォルター・レッグは、常任のポストを持っていないクレンペ
ラーに目をつけ、指揮をやらないかと持ちかけたのです。クレン
ペラーはこの申し入れを受託し、数々の名演を残しています。上
記のCDに収録された演奏もそのひとつです。このフィルハーモ
ニア管弦楽団は、途中財政難に陥り、解散の危機に見舞われます
が、クレンペラーは楽員と協力してこの危機を乗り越え、ニュー
・フィルハーモニアとして再起させているのです。そして、クレ
ンペラーは晩年チューリッヒに居を構えて、死ぬまでこのオーケ
ストラの指揮を続けたのです。
クレンペラーの音楽の本質は何でしょうか。
それは現実にあるスコアであり、楽譜であり、音符なのです。
つまり、スコアに書かれていることがすべてなのです。そして、
クレンペラーには音楽をできる限り正しいかたちで演奏しようと
する異常なほど高い使命感があるのです。
このクレンペラーの考え方が何回も演奏するうちに楽員にもわ
かってきたのが、フィルハーモニア管弦楽団だったのです。オー
ケストラも共演者も次第に彼の要求に応えるようになり、数々の
名演を産み出したのです。
宮下氏は、クレンペラーの音楽とカラヤンの音楽の違いについ
て、次のように述べています。
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それはカラヤンとは似て非なるものだ。そこには聴衆も演奏者
も存在しない。時代への、そして大衆へのおもねりもなければ
阿諛追従もない。権力欲もなければ、卑屈な自己理解も存在し
ない。あるのは透徹した眼差しと、それに対峠させられる音楽
だけである。(一部略)そして何よりクレンペラーは常に怒っ
ている。思うようにセーブできない自分の欲望に対して、そし
て下らない聴衆のあまりに浅い音楽理解に対して、或いは「大
衆」の小市民主義的安穏に対して、更には時代の暗澹たる進み
行きに対して、彼は常に怒りをもって立ち向かった。彼の知的
で明敏な感受性は時代の不幸と絶望を見抜いている。それを音
楽の力でどうにか組み伏せ、束の間とはいえ、より良き世界を
夢見るのだ。 ――宮下誠著
『カラヤンがクラシックを殺した』/光文社新書380
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この宮下氏の批評を読むと、音楽を聴くということの本質は何
なのかということを考えさせられます。音楽を聴くという行為に
は次の2つがあります。
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1.書物を読むように威儀を正して音楽を聴き込む
2.音楽をBGM的にとらえて音楽に身をゆだねる
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現代の音楽の聴き方は、CDをiPodのような機器に収録し
シャッフル的に聴きながら、ケータイでメールを書いたりする、
そんな聴き方が主流のようです。宮下氏はそういう音楽のとらえ
方を「カラヤン風」として、強い批判を浴びせてるような気がす
るのです。 −―[カラヤンの謎/65]
≪画像および関連情報≫
●カラヤン音楽に代表される現代的病理/宮下誠
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踏み外してならないのは、私がカラヤンについて書いたこと
はカラヤン一人の責任ではないと言うことだ。私はここまで
カラヤンについて書いてきたが、本書冒頭近くに断ったよう
に、私の関心はむしろカラヤンの音楽に代表される現代的病
理が、いわば「象徴としてのカラヤン」として現代にはびこ
っているという見まがいようのない事実にある。カラヤンの
罪は重いが、しかしそれを産み出し、是認し、受け容れた近
代社会もまた同様の罪に問われなければならない。そこには
私たちも含まれていることを忘れるべきではない。カラヤン
は私たちと共同して、出口の見えない精神的貧困と絶望的思
い上がりへといよいよ深く沈潜してゆくのだ。
――宮下誠著
『カラヤンがクラシックを殺した』/光文社新書380
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クレンペラーの名盤







