2009年07月06日

●「クレンペラーの音楽の本質」(EJ第2606号)

 EJ第2605号で、オットー・クレンペラーについて述べま
したが、この指揮者のことを文章でいろいろ語るよりも、手っ取
り早く彼の音楽について知る方法があります。それは、次のCD
を聴くことです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  オットー・クレンペラー指揮/フィルハーモニア管弦楽団
  『皇帝円舞曲/巨匠クレンペラーの世界』
     TOCE−55436/2002年7月26日発売
―――――――――――――――――――――――――――――
 このCDには「皇帝円舞曲」のほか「ウィーン気質」のワルツ
や「こうもり序曲」など、ヨハン・シュトラウスの誰でも知って
いる名曲がたくさん収録されているので、クレンペラーの音楽を
知る格好の一枚です。
 しかも、これらの曲はカラヤンが最も得意とするものであり、
収録されているCDは山ほどあります。ぜひ、カラヤンとクレン
ペラーを比較してみていただきたいと思います。
 このクレンペラーの「皇帝円舞曲」についての宮下誠氏の、い
ささか大袈裟ながら的を射ている批評をご紹介します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 同じく素晴らしいのはヨハン・シュトラウスのワルツ集、特に
 『皇帝円舞曲』であろう。カラヤンのシュトラウス演奏をプロ
 イセン・ドイツ風と言って批判する向きがあるが、カラヤンの
 柔軟で、聴きようによっては軟弱かつ快楽追求主義的なシュト
 ラウスなどに較べれば、クレンペラーのそれの方が遥かにプロ
 イセン・ドイツ風である。カラヤンの指揮した軍隊音楽よりも
 遥かに軍楽らしく響く。そして中盤以降、音楽はいよいよ巨大
 になってゆき、地球的規模を超えて宇宙的な偉容を見せるよう
 になる。考えてみればこれは恐ろしいことで、ポピュラーへと
 漸次変容してゆくシュトラウス的な音楽機構が、クレンペラー
 の中では交響曲の残骸、それも廃墟的なノスタルジーと英雄的
 な厳粛さに置き換えられてしまっているのだ。これは質の悪い
 冗談でしかないが、恐らくは確信犯的犯行だろう。
                       ――宮下誠著
    『カラヤンがクラシックを殺した』/光文社新書380
―――――――――――――――――――――――――――――
 このCDのオーケストラを見て、あれっと思った方もおられる
と思います。フィルハーモニア管弦楽団――そうです。EMIの
プロデューサーであるウォルター・レッグの肝入りで、ほとんど
カラヤン専属の録音オーケストラ化した楽曲です。
 実はクレンペラーは、その奔放な生活ゆえにヨーロッパの孤児
になってしまい、指揮するオーケストラもなく雌伏の日々を送っ
ていた時期があるのです。その1951年に初めて振って成功を
収めたのがフィルハーモニア管弦楽団なのです。
 ウォルター・レッグは、常任のポストを持っていないクレンペ
ラーに目をつけ、指揮をやらないかと持ちかけたのです。クレン
ペラーはこの申し入れを受託し、数々の名演を残しています。上
記のCDに収録された演奏もそのひとつです。このフィルハーモ
ニア管弦楽団は、途中財政難に陥り、解散の危機に見舞われます
が、クレンペラーは楽員と協力してこの危機を乗り越え、ニュー
・フィルハーモニアとして再起させているのです。そして、クレ
ンペラーは晩年チューリッヒに居を構えて、死ぬまでこのオーケ
ストラの指揮を続けたのです。
 クレンペラーの音楽の本質は何でしょうか。
 それは現実にあるスコアであり、楽譜であり、音符なのです。
つまり、スコアに書かれていることがすべてなのです。そして、
クレンペラーには音楽をできる限り正しいかたちで演奏しようと
する異常なほど高い使命感があるのです。
 このクレンペラーの考え方が何回も演奏するうちに楽員にもわ
かってきたのが、フィルハーモニア管弦楽団だったのです。オー
ケストラも共演者も次第に彼の要求に応えるようになり、数々の
名演を産み出したのです。
 宮下氏は、クレンペラーの音楽とカラヤンの音楽の違いについ
て、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 それはカラヤンとは似て非なるものだ。そこには聴衆も演奏者
 も存在しない。時代への、そして大衆へのおもねりもなければ
 阿諛追従もない。権力欲もなければ、卑屈な自己理解も存在し
 ない。あるのは透徹した眼差しと、それに対峠させられる音楽
 だけである。(一部略)そして何よりクレンペラーは常に怒っ
 ている。思うようにセーブできない自分の欲望に対して、そし
 て下らない聴衆のあまりに浅い音楽理解に対して、或いは「大
 衆」の小市民主義的安穏に対して、更には時代の暗澹たる進み
 行きに対して、彼は常に怒りをもって立ち向かった。彼の知的
 で明敏な感受性は時代の不幸と絶望を見抜いている。それを音
 楽の力でどうにか組み伏せ、束の間とはいえ、より良き世界を
 夢見るのだ。                ――宮下誠著
    『カラヤンがクラシックを殺した』/光文社新書380
―――――――――――――――――――――――――――――
 この宮下氏の批評を読むと、音楽を聴くということの本質は何
なのかということを考えさせられます。音楽を聴くという行為に
は次の2つがあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.書物を読むように威儀を正して音楽を聴き込む
   2.音楽をBGM的にとらえて音楽に身をゆだねる
―――――――――――――――――――――――――――――
 現代の音楽の聴き方は、CDをiPodのような機器に収録し
シャッフル的に聴きながら、ケータイでメールを書いたりする、
そんな聴き方が主流のようです。宮下氏はそういう音楽のとらえ
方を「カラヤン風」として、強い批判を浴びせてるような気がす
るのです。           −―[カラヤンの謎/65]


≪画像および関連情報≫
 ●カラヤン音楽に代表される現代的病理/宮下誠
  ―――――――――――――――――――――――――――
  踏み外してならないのは、私がカラヤンについて書いたこと
  はカラヤン一人の責任ではないと言うことだ。私はここまで
  カラヤンについて書いてきたが、本書冒頭近くに断ったよう
  に、私の関心はむしろカラヤンの音楽に代表される現代的病
  理が、いわば「象徴としてのカラヤン」として現代にはびこ
  っているという見まがいようのない事実にある。カラヤンの
  罪は重いが、しかしそれを産み出し、是認し、受け容れた近
  代社会もまた同様の罪に問われなければならない。そこには
  私たちも含まれていることを忘れるべきではない。カラヤン
  は私たちと共同して、出口の見えない精神的貧困と絶望的思
  い上がりへといよいよ深く沈潜してゆくのだ。
                       ――宮下誠著
    『カラヤンがクラシックを殺した』/光文社新書380
  ―――――――――――――――――――――――――――

クレンペラーの名盤.jpg
クレンペラーの名盤
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2009年07月03日

●「カラヤンとフルトヴェングラーの音楽の違い」(EJ第2605号)

 カラヤンの音楽のどこがいけないのでしょうか。宮下誠氏は次
のように述べて、「カラヤンは断罪されなければならない」とい
うのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (カラヤンの音楽は)緊張に耐えられない人間を慰撫し、目前
 にある恐怖、絶望、倦怠、無力感から目を逸らさせ、現状の表
 面的な「幸せ」を全肯定的に是認し、考えようという精神を麻
 痔させ、美というパッケージングで混沌とした世界の現状を瞞
 着するカラヤンの音楽は、聴き手の精神的自律に魔法を掛け、
 いわば休眠状態にしてしまう力を持っている。
                       ――宮下誠著
    『カラヤンがクラシックを殺した』/光文社新書380
―――――――――――――――――――――――――――――
 カラヤンの音楽には確かにそういうところはあると思います。
しかし、だからといって、なぜ、それは「罪」なのでしょうか。
そもそも「音楽を聴く」という行為の本質はどういうことなので
しょうか。
 宮下氏は、音楽を聴くという行為を宗教のようなものと考えて
いるフシがあります。そういう観点に立って、カラヤンの音楽は
快楽的であり、軽すぎることを批判しているのでしょうか。
 この「音を聴くこと」については、脳科学者の茂木健一郎氏が
きわめて興味深いことをいっているので、これについては来週の
EJでご紹介したいと考えています。
 宮下氏は、こうしたカラヤンの音楽をフルトヴェングラーとク
レンペラーのそれに比較して、その違いを際立たせようとしてい
ます。まず、フルトヴェングラーについて、宮下氏は次のように
述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 フルトヴエングラーの産み出す音楽は、緊憲を常に内在させな
 がらも、決して構造的、構築的ではない。歌わせるところは思
 い切り歌わせ、音楽が前へ前へという推進力を内在させるとこ
 ろでは、身を委ねるようにして、その力に喜んで与(くみ)す
 る。忘我の境地という言葉があるが、フルトヴェングラーの演
 奏にはそのようなものがアウラ(オーラ)のごとく伴い、それ
 が聴くものにも感染し、なんとも言えない高揚感と、宗教的法
 悦感、恍惚感を与える。           ――宮下誠著
    『カラヤンがクラシックを殺した』/光文社新書380
―――――――――――――――――――――――――――――
 カラヤンは、音楽の全体構造をきちんと意識して、その全体の
枠組みからはみ出すことなくきちんと美しく演奏する――そうい
うところがあります。音楽の組み立てが計算し尽くされており、
そこに人工的な美を感じてしまうのです。
 きっと宮下氏は音楽はそういうものでないし、そうあるべきで
はないといいたいのでしょう。この主張は少し納得できるものが
あります。しかし、それが「罪」というのはいささか大袈裟では
ないかと考えます。
 しかし、フルトヴェングラーのそれは、全体的構造にとらわれ
ず、歌わせるところはとことん歌わせ、音楽全体に強い前進力と
いうか推進力のようなものが漲っているのです。それは音楽の全
体構造から見ると、明らかに矛盾があるのですが、音楽の強さが
聴き手にその矛盾に気付かせることなく、それと知らないうちに
「向こう側の世界」に誘うオーラがあるというのです。
 したがって、もし、フルトヴェングラーの「第9交響曲」を実
演で聴いたなら、それはおそらく「稀有な体験」として、聴き手
に大きな印象を残すはずである――このように宮下氏は、フルト
ヴェングラーを絶賛しているのです。
 それなら、クレンペラーの音楽はどうなのでしょうか。
 フルトヴェングラーと違って、クレンペラーについては何も述
べていないので、少しご説明する必要があると思います。
 フルトヴェングラー、クレンペラー、カラヤンの年代を次に比
較してみます。クレンペラーは、フルトヴェングラーと同年輩で
すが、フルトヴェングラーよりも約20年長生きしています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   フルトヴェングラー 1886年〜1954年
   クレンペラー    1885年〜1973年
   カラヤン      1908年〜1989年
―――――――――――――――――――――――――――――
 オットー・クレンペラは、ドイツ出身のユダヤ人であり、後年
イスラエル国籍になっています。ドイツ、オーストリア圏の古典
派・ロマン派から20世紀の音楽までの幅広いデパートリーを持
つ指揮者です。晩年の録音で聴くことができるように、アンサン
ブルや音色・情緒的表現などの表面的な美しさよりも、遅く厳格
なテンポによって、楽曲の形式感・構築性を強調するスタイルで
よく知られています。
 このクレンペラー、相当変わった人だったようで、いろいろな
逸話が残っているのです。こんな話があります。
 あるリハーサルのときのことです。ごく控えめにクレンペラー
の「社会の窓」が開いていることをそっと注意した女性奏者に対
して、クレンペラーは如何にも意外そうに次のようにいったとい
うのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 そのこととベートーヴェンの音楽との間に一体どういう関係が
 あるんだね?                ――宮下誠著
    『カラヤンがクラシックを殺した』/光文社新書380
―――――――――――――――――――――――――――――
 クレンペラーの音楽はフルトヴェングラーとはぜんぜん違うの
です。彼の音楽には熱狂も陶酔もない。つねに醒めた意識で音楽
の持つ構造を、低音を基礎に音高の低いものから順に冷厳冷徹に
積み上げてゆくのです。彼の音楽には、フルトヴェングラーの忘
我の境地などないのです。    −―[カラヤンの謎/64]


≪画像および関連情報≫
 ●アンチ・モラリストのクレンペラーの逸話
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ある劇場でモーツァルトのオペラ『魔笛』を上演したときの
  こと。クレンペラーは3人の侍女・3人の少年を歌う女性歌
  手達といちゃつきたいと思った。そしてそのうちの1人に対
  し行き過ぎた行為に出た。歌手からの苦情を受けた劇場支配
  人は、クレンペラーに対し「このオペラハウスは売春宿では
  ございません」と注意しようとしたが、間違えて「この売春
  宿はオペラハウスではございません」と言ってしまった。そ
  れを聞いたクレンペラーは、納得してその場を立ち去った。
                    ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

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オットー・クレンペラー
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2009年07月02日

●「現代人の音楽の聴き方とカラヤンの音楽」(EJ第2604号)

 現代人のクラシック音楽の聴き方に問題がある――宮下氏はこ
のようにいいたいのです。それは音楽をどのようにとらえるかに
よって違ってきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 音楽を、耳の快楽、感覚の歓び、と考える向きには、カラヤン
 の音楽は最上のアミューズメントを提供するだろう。そのよう
 な聴き方があっても良いし、むしろ今日ではそのような聴き方
 が一般であろう。私はそのような音楽の聴き方をする人に「そ
 れは違う」とまで言うつもりはない。素直に書けば、「間違っ
 ている」と思うし、今日の音楽の大半(「クラシック音楽」だ
 けではなく「文明社会」に蔓延する音楽全般)は、そのような
 聴き方に迎合しているが故に根本的に「間違っている」と私自
 身は考えているが、音楽の聴き方は聴き手一人一人の、これま
 でに生きてきた経験によって深く価値づけられたものであり、
 そうやすやすと変えることができるものでもないだろう。
                       ――宮下誠著
    『カラヤンがクラシックを殺した』/光文社新書380
―――――――――――――――――――――――――――――
 確かに、iPodやウォークマンで電車の中や歩きながら音楽
をBGM的に聴く現代人は、音楽はリズミカルなものや軽いもの
を好んで聴くと思われます。そうなると、どうしてもロックやタ
ンゴやポップスが中心になるはずです。人にもよりますが、一般
的に時間が長くて重い内容の交響曲などはあまり聴かないと思わ
れます。しかし、そういう音楽の中にクラシック音楽を持ち込ん
だのはカラヤンの功績なのです。
 音楽を美しく、軽くして、誰でも聴きやすくする、しかもベル
リン・フィルやウィーン・フィルなどの一流オーケストラを使っ
て音楽のレベルは落とさない――これがカラヤン風なのです。前
回取り上げた『アダージョ・カラヤン』などは、iPodなどに
入れて聴いた人が多いはずです。
 もっとも宮下氏は、いわゆる通俗的な名曲のカラヤンの演奏に
ついては次のように絶賛しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 『ウイリアム・テル』序曲をはじめとしたロッシーニの序曲集
 や組曲『ペール・ギユント』を代表とするエドゥアルト・グリ
 ークの小品集、『フィンランディア』や『悲しきワルツ』をは
 じめとしたシベリウスの管弦楽曲、ヴェルディらのオペラ序曲
 集などなど―一部略―カラヤンはこのようなショーピース的楽
 曲に、格別の才能を示す。率直に言って大指揮者とあろうもの
 が通俗名曲にかまけている暇はないと思うのが当然の判断と思
 うが、カラヤンは大衆の趣味晴好に合わせて、定評のある、し
 かしすでに手垢の付いた陳腐な「名曲」をクリーニングし、ヴ
 イーン・フィルハーモニーやベルリン・フィルハーモニーとい
 う極上のオーケストラをキリキリと締め上げて、最良の演奏を
 提供した。それは批判のしようのない見事な仕上がりだ。
                       ――宮下誠著
    『カラヤンがクラシックを殺した』/光文社新書380
―――――――――――――――――――――――――――――
 これでわかることは、宮下氏はいわゆる通俗名曲を大衆的嗜好
として馬鹿にしていることです。したがって、そういう曲を誰よ
りもうまく演奏するカラヤンを一応褒めながらも、そんなことは
大指揮者のやるべきことではないと、結局は批判しています。
 この点については私は宮下氏とは全く違う考え方を持っていま
す。通俗名曲は、宮下氏は「手垢の付いた陳腐な」という形容詞
を使っていますが、それらの小品集は、クラシック音楽の人口を
広げるのに重要な役割を担っていると思うのです。なぜなら、そ
ういう曲を聴いてクラシック・ファンになる人が多いからです。
 カラヤンは、大指揮者があまり手をつけないそういう通俗名曲
に対しても手を抜かず、入念にリハーサルをして極上の名演に仕
上げているのです。通俗名曲は、聴衆が曲の細部まで知っている
ので、指揮者としてはかえって気を使うものであり、それを名演
に仕上げるのは大変なことなのです。
 宮下氏はカラヤンが通俗名曲でない難しい曲でもそれを聴きや
すく仕上げる独特な能力を持っているとして、次のように述べて
います。
―――――――――――――――――――――――――――――
 全ての音楽的構造素材を音高のちょうど中間辺りに集中させる
 ことで、いわば最大公約数的な聴き手の期待に応える、わかり
 やすい平均的音像を産み出した点でカラヤンの功績は計り知れ
 ないほど大きいし、カラヤンのスコアリーディングの天才を証
 して余りある。何故なら、楽譜という抽象的な記号の無秩序と
 も言える集積から、その音楽の持つ個性的特徴を取り出し、整
 理し、「これだ」という集合的幻想を現出させるのは、私たち
 が普通に考えるより遥かに繊細な感受性と鋭敏な感覚、醒めた
 知性、そしてそれをオーケストラやソリストに共有させ得るカ
 リスマ性が要求されるからだ。        ――宮下誠著
    『カラヤンがクラシックを殺した』/光文社新書380
―――――――――――――――――――――――――――――
 カラヤンは聴き手の求めるものを的確に掬い上げて、それを最
上のかたちで提供できる能力を持っている――独特なスコアの読
み取りによって、この曲はこうあるべきであるという基準のよう
なものを素早く掴み取る嗅覚の鋭さとセンスの良さは余人の追随
を許さないものがあると、宮下氏はこういっているのです。
 また、宮下氏は、第2次世界大戦後の音楽的大衆がカラヤンに
そのような音楽を産み出すよう強いたのではないかともいってい
るのです。カラヤンはそれに答えたのだ、と。
 しかし、そうであるならば、カラヤンの音楽のどこがいけない
のでしょうか。なぜ、断罪されなければならないのでしょうか。
これについては明日のEJで考えることにします。
                −―[カラヤンの謎/63]


≪画像および関連情報≫
 ●クラシックの聴き方について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  クラシックをハイブローなものとして、つま自らの中流階級
  的意識のアクセサリーとして聴くのは論外としても、かなり
  年季の入った聴き手の(必ずしもすべてとは言わない)多く
  が持つ融通の利かないクラシック至上主義も、どこかクラシ
  ックは特別だという聴き方をしてはいないか?クラシックは
  高尚だという聴き方をしてはいないか?
                       ――宮下誠著
    『カラヤンがクラシックを殺した』/光文社新書380
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●カラヤンとバーンスタインの写真出典
         ――リチャード・オズボーン著/木村博江訳
      『ヘルベルト・フォン・カラヤン』下巻/白水社刊

カラヤンとバーンスタイン.jpg
カラヤンとミトロプーロスとバーンスタイン
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2009年07月01日

●「アンチ・カラヤン/宮下誠氏の主張」(EJ第2603号)

 カラヤンの音楽は、それを高く評価する人がいる一方で、その
音楽作りに疑問を抱く人もいます。基本的に音楽は「好き嫌いの
芸術」であり、好きな人と嫌いな人もいて不思議はないのですが
そういう次元とは違う次元で、カラヤンの音楽には問題があると
明確に主張をする人がいるのです。
 宮下誠氏――国学院大学文学部教授がそのひとりです。宮下氏
は、次の本を上梓して全編アンチ・カラヤン論を展開します。と
いってもカラヤンの音楽を貶めようとして書いているわけではな
いと宮下氏は断わっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
  宮下誠著
  『カラヤンがクラシックを殺した』/光文社新書380
―――――――――――――――――――――――――――――
 宮下氏は、この本の中でカラヤンの音楽について、次のように
述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 上辺を取り繕い、貴族主義的で鼻持ちならぬ高踏的高みから聴
 き手に臨み、小馬鹿にしながらも、心地よく前進的で、甘さに
 も事欠かない音楽で適度に慰籍し、そのような音楽のあり方に
 よって世界を無批判に是認し自己を是認し、「美」という20
 世紀には凡そ相応しからぬ媚薬で聴衆を知的怠慢へと誘う。彼
 の音楽は麻薬的である。その意味で非凡であり、誰にも真似の
 できないものとなった。しかし、その音楽は、決定的に無自覚
 的であり、その意味で犯罪的なのだ。     ――宮下誠著
    『カラヤンがクラシックを殺した』/光文社新書380
―――――――――――――――――――――――――――――
 なかなか格調高き筆致ながら、よくぞここまでいいもいったり
カラヤンの音楽をコテンパンに批判しています。これなら、アン
チ・カラヤン派の人に喝采を浴びるはずです。
 しかし、「カラヤンがクラシックを殺した」という本のタイト
ルにしても、「犯罪的」という言葉にしても、いささか常軌を逸
している感じがします。もともと宮下氏の専門は「20世紀の西
洋美術史」であり、音楽は専門外のはずです。
 そうであっても、クラシック音楽の聴き手としては、相当多く
の曲を聴き込んでおられることは確かであり、過激な主張ながら
最後まで読んでみたのですが、一読の価値は十分あったと思って
おります。
 せっかくカラヤンをテーマに取り上げたのですから、宮下氏の
カラヤン批判論をしばらくご紹介しようと思います。なお、宮下
氏は、まだ47歳という若さながら、2009年5月23日に急
逝されたそうです。謹んでお悔やみ申し上げます。
 『アダージョ・カラヤン』というCDがあります。カラヤンの
死後に発売され、日本だけでこの1タイトルで90万枚を売り上
げ、全世界で500万枚を上回るメガヒットになった話題のCD
です。CDデータを示しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
   『アダージョ・カラヤン』/CD:UCCG-9700 \2,500
   ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
   ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
―――――――――――――――――――――――――――――
 このCDについての宮下氏のコメントを紹介することからはじ
めましょう。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「癒し系」という言葉はいつごろ誕生したのだろう。この言葉
 自体が世界の、或いは人類の絶望的状況の深刻さを逆説する。
 このアルバムはカラヤンの死後にリリースされ、世界的ヒット
 を飛ばしたオムニバス。これくらいつまらないアルバムも珍し
 い。美しさの極みだが、カラヤンの名誉のために即刻回収処分
 すべきだ。                 ――宮下誠著
    『カラヤンがクラシックを殺した』/光文社新書380
―――――――――――――――――――――――――――――
 『アダージョ・カラヤン』のように、ひとつのテーマに基づい
て複数の楽曲を集めた音盤のことを「コンピレーション」という
のですが、真性のクラシック・ファンはこういうアルバムを毛嫌
いする傾向があるのです。果せるかな、アンチ・カラヤンの宮下
氏にかかると上記のようにボロクソの批評になるのです。
 『アダージョ・カラヤン』について書かれているブログはたく
さんありますが、「ノーチラスのある部屋」というタイトルのブ
ログのこのCDの批評をご紹介しましょう。
 このブログのオーナーは、まず一般論としてこのCDに関心を
示すものの、きっとクラシックファンからは馬鹿にされるだろう
と次のように予測してみせます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 一般的には帝王カラヤンに最強のベルリンフィルが、アダージ
 ョなどのスローテンポで穏やかな楽曲だけ集めたCDと聞けば
 間違いなく最高のBGMになると思うだろう。(一部略)だが
 クラシック好きの人から見たら、まずコンピレーションなどと
 いうのがダメ。さらにカラヤンのように魂がなく表面的に華麗
 な演奏を繰り広げる人が、一般人に分かりやすいアダージョを
 手がける自体で論外、クラシックの奥の深さからもっとも遠い
 表層的な一枚となってしまうだろう。このCDが最高、なんて
 いった瞬間軽蔑の目が飛んできそうだ。
http://gyoza1992.cocolog-nifty.com/gyoza/2006/04/the_very_best_o_7cfe.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 宮下氏によって代表されるクラシック・ファンの心理を実によ
くわかっている人なのです。そういうことは十分承知していて、
このCDは素晴らしいといっています。そのコメントは、「関連
情報」に掲載してあります。
 このようにカラヤンは死してなお多くの音楽ファンに影響を与
えているのです。        −―[カラヤンの謎/62]


≪画像および関連情報≫
 ●『アダージョ・カラヤン』の紹介
  ―――――――――――――――――――――――――――
  でもこのCD、私には最高だ。どんなにシロート向けといわ
  れようが、何も分かっていないといわれようが、これぞ最高
  のクラシック入門CDだし、アートといっても芸能といって
  もどちらとも取れる楽しさと深さを兼ね備えている。(一部
  略)そしてその演奏。とにかく音が厚く、綺麗な音しか出さ
  ない。魂を感じないという言い方があるのも理解できるけど
  これほど綺麗で華麗ならそれでいいではないかともいえる。
  桃源郷といってもいい美しさで、これを朝かけているとオー
  ディオの前から離れることが出来ず、会社に行くのが辛くな
  ってしまうほど。美しさが快感としかいいようがない。
             ――「ノーチラスのある部屋」より
  ―――――――――――――――――――――――――――

宮下誠氏の本/アダージョ・カラヤン.jpg
宮下誠氏の本/アダージョ・カラヤン
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2009年06月30日

●「ツィルクス・カラヤーニとは何か」(EJ第2602号)

 カラヤンの音楽論に入る前に、ベルリン・フィルハーモニー・
ホールについて述べておくことにします。これはカラヤンがその
実現に向けて、設計者に力を貸したことから、「カラヤン・ホー
ル」などとも呼ばれています。
 このホールの建設が決まったのは、1954年の終わりのこと
です。そのときオーケストラは、創立75周年を迎えようとして
いたのですが、戦後10年にもなるのに、このドイツで最も有名
なオーケストラは、いまだにティタニア・パラストを改装した仮
のホールをコンサート会場として使っていたのです。
 このホールの設計をしたのは、ハンス・シャロウンという20
世紀最大のドイツ人建築家だったのですが、その当時は無名に近
い存在だったのです。シャロウンは戦後ベルリン市建築家に指定
され、爆撃で破壊された市街を復興する仕事を行ったのですが、
その翌年に選挙によって選ばれた西ベルリン市議会によって解雇
されているのです。
 そこで、個人事務所を開設したシャロウンは、斬新なデザイン
の設計作品を数々のコンペに出品し、数多くの入賞作品を出して
いますが、ほとんどは建築までいかなかったのです。しかし、ベ
ルリン・フィルハーモニー・ホールの設計については、唯一の例
外で建築が決定したのです。カラヤンが後押ししたからです。
 カラヤンは、このハンス・シャロウン設計によるベルリン・フ
ィルハーモニー・ホールの設計をコンペの審査委員会に提出して
いますが、カラヤンは次のように書き添えています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 応募作品のなかで、とくに抜きんでた作品が一点ある。演奏者
 を中央に配すことを原則とした設計である(作品番号は忘れた
 が、全体が白く座席の部分が金色の模型だ)。この設計はいく
 つかの点で優秀と思われる。壁面の配置が音響的にすぐれてい
 るうえ、何より印象的なのは聴き手が音楽に完全に集中できる
 点だ。現存するホールのなかで、この設計ほど客席の問題を巧
 みに解決している例を、私は知らない。私も補佐役のヴィンケ
 ルも、オーケストラを中央に配するこの設計は、いかなる既存
 のホールにもまして、ベルリン・フィルハーモニーの音楽スタ
 イルにふさわしいと考える。このオーケストラの第一の特徴は
 遠くまで届く音と、音楽のフレーズの初めと終わりにおける特
 別な呼吸にある。したがってこの設計は、本番にもリハーサル
 にも理想的な場を生みだすことだろう
         ――リチャード・オズボーン著/木村博江訳
      『ヘルベルト・フォン・カラヤン』下巻/白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、この設計には反対者も多かったのです。とくにクナッ
パーツブッシュとヨッフム、それにマスコミには反対者が多かっ
たのです。彼らは、設計者のシャロウンを無視して、「このホー
ルはカラヤンがおのれの自己顕示欲を満たすため個人的に注文し
たものである」ときめつけたのです。
 しかし、これは間違いです。設計はあくまでシャロウン本人の
ものであり、カラヤンはその採用に力を貸しただけなのです。も
ちろん建築段階ではいろいろ問題が出て、カラヤンは音響効果な
どについて意見は出していますが、彼が設計にまで口を出したと
いうのは、正しくないのです。
 1963年10月15日、ホールはやっと完成し、そのこけら
落とし公演には、カラヤンの指揮で、ベートーヴェンの第9交響
曲が演奏されています。
 ホールの中央に舞台を置き、舞台の周囲を観客が取り囲むスタ
イル――これはサーカスの舞台そっくりであり、完成後そのホー
ルは「ツィルクス・カラヤーニ/カラヤン・サーカス」と呼ばれ
るようになったのです。
 1983年1月、サントリーの佐治敬三社長夫妻はこのベルリ
ン・フィルハーモニー・ホールを訪れています。その前年サント
リーは、赤坂・六本木地区再開発事業に参加しており、その事業
の一環として、クラシック音楽専用のコンサートホールを建設す
ることを決めていたのです。
 基本計画は既にできており、それによると、客席数2000の
世界的水準の音響を誇るホールをメーンとして、これに観客数が
400程度の固定席のない小ホールを組み合わせるというもので
あったのです。
 カラヤンと佐治社長とは面識があり、そのコネクションを生か
して、普段は誰も入れないフィルハーモニーの録音セッションを
聴かせてもらうというのが訪問の目的だったのです。
 当初佐治社長は、このカラヤン・ホールのようなワインヤード
型にするかどうか迷っていたのです。そこで、サントリーホール
の制作計画にカラヤンが強い関心を示したので、2回目の会談が
持たれたのです。そのときの会談の模様を既出の小松潔氏が次の
ように書いています。佐野氏というのは、佐治社長に同行した親
友の建築家、佐野正一氏のことです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ところが、それまで黙って闘いていた佐治社長が質問した。
 「一つだけ聞きたいのですが、カラヤンさんはなぜワインヤー
 ド型がいいのでしょう」。佐野氏との話が白熱してきたなか、
 これにはマエストロも面食らったようで、きょとんとした後、
 にっこり笑って説明を始めたそうだ。「いまやレコードやCD
 がたくさんあり、家に立派な音響装置があれば、すばらしい音
 楽が聴ける。だが、コンサートに足を運んでくれる聴衆は特別
 だ。その聴衆と演奏者が一体となれるのが、ステージを聴衆が
 取り囲むこの方式なのだ」。それを聞いた佐治社長はたいそう
 納得した様子で、「ほなそうしまひょ」と言い、サントリーホ
 ールをワインヤード型にすることが決まった。まさに鶴の一声
 だった。                  ――小松潔著
     『カラヤンと日本人』より/日経プレミアシリーズ刊
  ――――――――――――― −―[カラヤンの謎/61]


≪画像および関連情報≫
 ●ベルリン・フィルハーモニー・ホールについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  このフィルハーモニーホールは、もともとベルリン市の文化
  センター構想の一環として生まれたものであるが、当時17
  00万マルクという莫大なコストがかかっている。室内楽ホ
  ールも作られる予定であったが、財政事情によりなかなか進
  行しなかった。次にホールの造りであるが、ホールは普通、
  壇上の前にしか客席はなかったが、少しでも客を収容するこ
  とができるよう、360度客席を設けたのだ。いわゆるアリ
  ーナ形式である。外観がサーカスのテントに似ていることか
  らカラヤンサーカスと呼ばれる。   ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ツィルクス・カラヤーニ.jpg
ツィルクス・カラヤーニ
posted by 平野 浩 at 04:17| Comment(0) | TrackBack(0) | カラヤンの謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月29日

●「BPOは本妻/VOPは愛人」(EJ第2601号)

 「カラヤンのテーマはいつまで続くのですか」――EJの読者
からの質問です。次回のテーマについての要望もいただいていま
す。熱心に読んでいただき感謝しております。
 カラヤンのテーマを書き始めたのが2009年4月1日ですか
ら、そろそろ3ヶ月になります。回数は今回でちょうど60回で
すから、そういう声が出ても不思議ではないと思います。しかし
まだ書くべきことが少し残っています。麻生首相ではないですが
このテーマは「そう遠くない日に」終わります。
 今回のテーマは「カラヤンの謎」になっています。カラヤンと
いう存在を一般の日本人が知るのは、第2次世界大戦後のことで
す。しかし、1954年にカラヤンが一人で来日したときは、彼
の名前は音楽関係者や一部のマニアしか知らなかったのです。N
響のメンバーですら知らなかったのですから、当然のことです。
 ところが、1957年にベルリン・フィルを率いて来日したと
きはカラヤンは日本で有名人になっていたのです。このとき日本
は神武景気が始まり、1956年の日本の「経済白書」には「も
はや戦後ではない」という有名な言葉が載ったのです。
 しかし、そのとき、カラヤンという指揮者がどうして当時の世
界最高のオーケストラであるベルリン・フィルやウィーン・フィ
ルの頂点に立ったのかということが全く見えていなかったと思い
ます。とくに興味があったのは、ナチ党――ヒトラー政権との関
わりです。ここは謎に包まれていたのです。
 今回の「カラヤンの謎」では、そのあたりのことを明らかにし
たかったのです。その目的は、60回かけて果たすことがてきた
と考えています。1960年以降のカラヤンについては、多くの
人が知っています。したがって、このことをEJで取り上げるま
でもないでしょう。
 今回のテーマを書くにあたって多くの本を参照しましたが、次
の3冊はとくに役に立ちました。既に何回もお知らせしています
が、敬意をこめて改めてご紹介させていただきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
  中川右介著
     『カラヤンとフルトヴェングラー』/GS幻冬舎新書
  リチャード・オズボーン著/木村博江訳
   『ヘルベルト・フォン・カラヤン』上巻・下巻/白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 中川氏の本は、新書版で読みやすいのですが、リチャード・オ
ズボーン氏の本は、上巻が600ページ、下巻が497ページで
であり、両方で1000ページを超えます。しかし、この本は大
変面白いのです。まさにエピソード満載なのです。したがって、
1960年以降、カラヤンが死亡するまでのことに興味のある人
は、オズボーン氏の下巻を読まれることをお勧めします。
 オズボーン氏は、日本語訳の発刊に際して、日本の読者に次の
一文を寄せています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヘルベルト・フォン・カラヤンは、9回にもわたって日本を訪
 れている。その最初は1954年に、NHK交響楽団を指揮し
 てコンサートをおこなったときで、最後は1988年に、ベル
 リン・フィルハーモニーを率いて訪日したときだった。彼は日
 本を愛し、その国民と聴衆に、そして画期的なテクノロジーの
 力に、最高の敬意を抱いていた。そのテクノロジーについては
 盛田昭夫氏との長年にわたる友情が、彼に多くの啓発をあたえ
 た。私だけでなく、カラヤンもまた、この伝記が日本語に訳さ
 れなかったなら、「心残り」であったろう。訳出は骨の折れる
 難作業だったにちかいない。本書をとおして、カラヤンにとっ
 て最大の、そしてきわめて耳の肥えた聴衆である日本の方々に
 新たな視点と新たな興味をもっていただければ幸いである。
 2001年5月          リチャード・オズボーン
―――――――――――――――――――――――――――――
 さて、冒頭に「まだ書くべきことが少し残っている」と書きま
したが、それは何でしょうか。
 それはカラヤンの音楽論です。EJ第2594号で、ダニエル
・バレンボイムのフルトヴェングラー音楽論をご紹介しましたが
カラヤンをテーマに取り上げた以上、カラヤンの音楽論について
最後に触れる必要があると思うのです。
 カラヤンは、ベルリン・フィルとウィーン・フィルの2大オー
ケストラに君臨したのですが、この2つのオーケストラの関係に
ついて、カラヤンは面白いことをいっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ベルリンとは結婚生活を営み、ウィーンとは恋愛関係にある 
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは実に意味深な発言です。カラヤンにとって、ベルリン・
フィル(BPO)は本妻であり、ウィーン・フィル(VPO)は
愛人のような関係である――こういっているのです。これは、B
POは寄りかかることのできる壁を与えてくれたが、VPOは与
えてくれなかったといっているのでしょうか。
 実はカラヤンは、1989年4月に本妻のベルリン・フィルと
正式に「離婚」しているのです。その4〜5年前からカラヤンは
ウィーン・フィルと録音するようになったのですが、その作品は
チャイコフスキーの交響曲、4番、5番、6番。そのうちの交響
曲第6番「悲愴」は、ベルリン・フィルのそれとはまったく異な
る仕上がりになっているのです。
 ベルリン・フィル盤は、人工的な美と完成度を極めているのに
対し、ウィーン・フィル盤はより人間的な仕上がりになっている
ことです。興味のある人は、2つの盤を聴き比べてみるのも一興
であると思います。
 カラヤンが老境に達してからのウィーン・フィルとの録音は、
いずれも名盤といわれているのです。それらのカラヤンの作品は
いずれも心に訴えてくるものがあるといわれます。
                −―[カラヤンの謎/60]


≪画像および関連情報≫
 ●CDの音に驚くカラヤン/カラヤン盛田昭夫邸を訪問
  ―――――――――――――――――――――――――――
  音楽が流れだした。巨匠カラヤンははっと眉をつりあげた。
  耳に入ってきたのは、つい先日、ザルツブルグのスタジオで
  演奏したばかりの、自分の指揮による曲だったのだ。実は、
  ザルツブルグに行く機会があったソニーの技術者たちが、そ
  の地でカラヤンが練習中だった曲を、PCM録音機を使って
  スタジオでこっそり録音していたのだった。カラヤンは二重
  に驚いた。ひとつは、自分の練習時の録音がなぜここにある
  のかという驚き、さらに大きな驚きとは、信じられないほど
  鮮明な音が見知らぬ機械から再生されたことであった。
  カラヤンは大の機械好きであり、録音技術そのものにも興味
  を持ち、自分のスタジオでみずから編集したりするほどだ。
  「これはまったく新しい音だ、将来を拓く音だ」カラヤンの
  感激は、そこに居合わせた技術者たちの感激でもあった。
   ――森 芳久著、『カラヤンとデジタル』/ワック出版部
  ―――――――――――――――――――――――――――

中川右介/オズボーン.jpg
中川右介/オズボーン
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2009年06月26日

●「帝王カラヤンの2回の来日の影響」(EJ第2600号)

 1957年にカラヤンがベルリン・フィルを率いて来日したと
き、カラヤンが日頃オーケストラに対してどのようにリハーサル
をしているのかの一端がわかったのです。
 カラヤンは、N響に対し、リハーサル場として東京・高輪のN
響の練習所を貸してくれと申し入れてきたたのです。そのとき、
外山雄三氏はしめたと思ったそうです。カラヤンは、リハーサル
を他人が聴くのを非常に嫌うので有名なのですが、N響の練習所
を使わせてやるのだから、潜り込めると思ったからです。
 外山氏が練習所に潜る込んだとき、カラヤンはシューベルトの
未完成交響曲の第2楽章、最初のピチカートの部分をやっていた
のですが、なかなかOKを出さないのです。「もっと、ピチカー
ト、もっとピチカート」と叫んで何度もやらせていたのです。
 これは、カラヤンの音楽づくりに関係があることなのです。こ
れについて小松氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 弱音の出し方、ピチカートやトレモロの練習にはマエストロの
 芸術性がよく出ているように思われる。ピアノのマークがいく
 らあろうと、あくまで自分の耳に届くようにと求めたのは有名
 な話だ。     ――小松潔著、『カラヤンと日本人』より
                  日経プレミアシリーズ刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 カラヤンはこのようにスコアの指定を無視して、自分の考える
ように音を変えることがよくあるといいます。最弱のピチカート
をはっきりと耳に届くよう音を高めたり、高らかにトランペット
を鳴らしたいときはトランペットを追加したりすることはよくあ
ることなのです。だから「カラヤン節」といわれるのです。
 カラヤンは、自分の指揮ぶりを多くの映像で残していますが、
そのなかにいくつかリハーサル風景もあるのです。その中でカラ
ヤンがウィーン・フィルに対して、ピチカートについて次のよう
に指示している部分があるのです。何のことかわかりますか。
―――――――――――――――――――――――――――――
      空気が水晶のように振動するように
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは水晶振動子のことをいっているのです。水晶振動子は電
子部品であり、高い周波数を発するのです。いかにもカラヤンら
しい指示の出し方ですが、ウィーン・フィルの団員は理解できて
いるのでしょうか。
 実は、この初のベルリン・フィルの来日のとき、カラヤンは、
ウィルヘルム・シュヒターを副指揮者として連れてきているので
すが、シュヒターは、1959年2月〜1962年3月までN響
の常任指揮者を務めているのです。この人事は来日前に、あらか
じめカラヤンと有馬氏の間で決められていたといいます。シュヒ
ターの功績については関連情報を参照してください。
 いずれにせよ、カラヤン率いるベルリン・フィルの来日公演は
大成功だったのです。これについてカラヤンの伝記作家のリチャ
ード・オズボーンは、次のようなワサビのちょぴり効いた一文を
書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 日本ツァーは、カラヤンにとってもベルリン・フィルにとって
 も大成功だった。プログラムはカラヤンが1956年にアメリ
 カで演奏したものとほぼ同じだったか、一曲だけは省かれた。
 オネゲルの『典礼風』である。「町は焼け落ち、瓦礫はなおも
 くすぶっているが、夜が明けると、何も知らない鳥たちが廃墟
 の上で楽しげにさえずりはじめる‥省いたのは賢明だった。広
 島と長崎の廃墟では、鳥すらも鳴かなかったのだから。
         ――リチャード・オズボーン著/木村博江訳
      『ヘルベルト・フォン・カラヤン』下巻/白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 1959年にカラヤンは、今度はウィーン・フィルを率いて来
日しています。実はこのとき私は明治生命保険相互会社に入社し
て2年目だったのですが、当時内幸町にあったNHKに2泊3日
泊まり込んで切符を手に入れ、東京公演のひとつに参加している
のです。今から50年前のことです。
 このときのウィーン・フィルのコンサート・マスターは、あの
有名なボスコフスキーであり、ヴィオラにはヴェラー四重奏団の
メンバーであるヘルムート・ヴァイスがいたのです。
 私は聴けなかったのですが、当時N響のコンサートマスターの
岩淵龍太郎氏は、そのときのモーツァルトの40番がとくに印象
に残っているというのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 コンサートマスターはあのボスコフスキー。ヴィオラにはワイ
 スらがいた。40番の出だしではカラヤンがヴィオラに簡単に
 一振りしただけ。さすがに出だしはばらばらで、一瞬あれって
 思ったのですが、気がつくと合っている。ウィーン・フィルっ
 てこんな演奏をするのかと思いました。
          ――小松潔著、『カラヤンと日本人』より
                  日経プレミアシリーズ刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 カラヤンが得意とする音の揺らしのテクニックです。いずれに
してもカラヤンが連れてきたベルリン・フィルやウィーン・フィ
ルの演奏は、当時の日本の音楽家にとっては非常に参考になった
と思われます。
 このカラヤンの来日以後、カラヤンはN響を客演しなくなった
のです。自分はもはやベルリン・フィルの首席指揮者であり、そ
う安々と客演はしないと決めているのか、それとも多忙で客演で
きないのかのいずれであると思われるが、小松氏によると、前者
であるといいます。
 しかし、カラヤンは、日本の録音技術の高さを高く評価してお
り、また、日本人のクラシック好きをよく認識しているので、以
来何度も来日しているのです。  −―[カラヤンの謎/59]


≪画像および関連情報≫
 ●ヴィルヘルム・シュヒターについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  シュヒターのN響での功績といえば、N響を徹底的に鍛え上
  げ、演奏能力を飛躍的に伸ばしたことにある。岩城宏之の弁
  によると、「ローゼンストックさんの何十倍も怖い人」を裏
  付けるかのように、シュヒターの指導は厳格に厳格を極め、
  練習のみならず実演、果ては放送録音にまで究極の完璧さを
  求め続けた。厳格な練習は「蒸発した楽員が出た」などとい
  う奇怪な噂までもたらすこともあったが(実際、退任まで実
  に3分の1の楽員が入れ替わったと言われている)、練習の
  甲斐もありN響の実力は目に見える形で向上。その一種の結
  晶として1960年にはN響初の世界一周演奏旅行が挙行さ
  れたのであった。          ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ヴィルヘルム・シュヒター.jpg
ヴィルヘルム・シュヒター
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2009年06月25日

●「指揮もできるピシネスパーソン」(EJ第2599号)

 ベルリン・フィルの芸術監督の地位を手中に収め、それに加え
てウィーン国立歌劇場の芸術監督の地位も併せて獲得する直前に
なっているカラヤンにとって、あと残っているのは、ザルツブル
グ音楽祭の芸術監督の地位だけです。
 ザルツブルグ音楽祭については、カラヤン自身がザルツブルグ
の出身者であるにもかかわらず、フルトヴェングラーによって音
楽祭から外されたというカラヤンの無念さがあります。
 この頃のカラヤンは、権力の仕組みというものがよく見えてき
ており、かつてのように自分の才能だけを頼りに押し進める手法
は繰り返さなかったのです。
 真の権力は政治家の手にある――このように悟ったカラヤンは
直接音楽祭の運営に当たるフォン・アイネム、シュー、ネーアー
ではなく、任免権を握るピュトン男爵、文化顧問のヨーゼフ・カ
ウト、そして州知事のヨーゼフ・クラウスに交渉の相手を絞った
のです。
 州知事のヨーゼフ・クラウスは、後のオーストリア首相になる
人物なのですが、1950年代半ばにおけるザルツブルグに関す
る問題の最終決定権者だったのです。当時のクラウスの重要任務
は新祝祭劇場の建設計画を推進することであり、1953年には
委員会が設立されています。その委員会には、もちろんフォン・
アイネム一派も入っていたことはいうまでもないことです。
 しかし、この新祝祭劇場の建設計画の実際の指揮権を握ってい
たのは、著名な演出家のヘルベルト・グラーフや劇場建設の長老
クレメンス・ホルツマイスターだったのです。
 カラヤンは、クラウスに近づき、新祝祭劇場建設計画に協力す
るかたちでザルツブルグ音楽祭の主導権を握ろうとしたのです。
カラヤンは、ザルツブルグ音楽祭をあのバイロイト音楽祭を超え
るものにしたいという野望を持っており、これについて、フォン
・アイネム一派はかねてから強硬に反対していたのです。
 リチャード・オズボーンは、カラヤンが新祝祭劇場建設に関し
て、その規模や舞台設計などの設計に関する重要な部分で具体的
な意見を述べる立場にいたことを示唆する一文を書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 カラヤンはホルツマイスターに「奥行きが足りない。これでは
 背景投写ができない」と言いました。ホルツマイスターは「背
 景投写って何です?」と聞き返しました。舞台の高さが足りな
 いという人はよくいます。だが、カラヤンはいかにも彼らしく
 時代を先取りして、新しい舞台美術の手法を頭においていまし
 た。それは「光で彩色する」方法で、ワーグナーにはとくに重
 要でした。実際に発破の専門家を呼んで、山を爆破するのが可
 能かどうか訊ねたのも彼だったと思います。「なんだ、あんな
 小さな丘ですか」とその男は言いました。「吹き飛ばすのは朝
 飯前ですよ!」 ――リチャード・オズボーン著/木村博江訳
      『ヘルベルト・フォン・カラヤン』上巻/白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 クラウス知事の後押しによって、カラヤンをザルツブルグ音楽
祭の芸術監督に迎えることは、1955年の終わりまでにほぼ決
まったのです。これを受けて、カラヤンはピュトン男爵に宛てて
次の文書を送っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
   ザルツブルグ音楽祭への提案/1957〜60年
―――――――――――――――――――――――――――――
 この提案の中には、クラウス知事が容易には呑めない問題が含
まれていたのです。それは、次のような問題です。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1.音楽祭へのウィーン・フィルの独占の解消
    2.アーティストのギャラの増額と待遇の改善
    3.「耳の肥えた聴衆」を会員制で増やすこと
―――――――――――――――――――――――――――――
 新祝祭劇場の莫大な予算によって政治的窮地に追い込まれてい
るクラウス知事としては、これ以上予算が増えることに対しては
難色を示したのですが、カラヤンはこれに対して頑として譲らな
かったのです。
 これらの一連のカラヤンの主張や動きを見ていると、彼がいか
に先見性のある人物であったかがわかります。1950年代半ば
といえば、LPレコードが出はじめた時代であり、それが普及・
拡大し、これらの新しいテクノロジーによって、それまでの文化
的エリートが想像もしなかったかたちで、多くの人が手軽に芸術
に接することができる現代のような時代を既にカラヤンは予見し
ていたのではないかと考えられるのです。
 したがって、カラヤンは「ビジネスもこなせる指揮者」という
よりは、「指揮もできるビジネスパーソン」といわれるのです。
確かに音楽をビジネス化する事業家としてカラヤンは無敵であり
彼の右に出る人はいなかったのです。
 しかし、指揮者としてのカラヤンは、1954年まではフルト
ヴェングラーと対決し、それを打ち負かしてその座を奪うことに
費やされたといえます。確かにフルトヴェングラーの死後、19
54年以降のカラヤンは、音楽界を支配できるすべての地位を得
たものの、今度はフルトヴェングラーの遺した偉大なる業績との
戦いに死ぬまで明け暮れることになったのです。結局、カラヤン
の人生は終始フルトヴェングラーとの戦いであったといっても過
言ではないのです。
 1956年6月、カラヤンはウィーン国立歌劇場芸術監督に就
任し、同じ年の10月、ザルツブルグ音楽祭の芸術監督への就任
も決まったのです。これで、ベルリン・フィルの芸術監督とあわ
せて、ドイツにおける3つの重要ポストはすべてカラヤンの手に
収められたのです。
 カラヤンは、これらの3つのポストを手にした後の1957年
にはベルリン・フィルを、1959年にはウィーン・フィルを率
いて来日したのです。      −―[カラヤンの謎/58]


≪画像および関連情報≫
 ●カラヤン時代のザルツブルグ音楽祭
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1956年、カラヤンが音楽祭芸術監督に就任した。カラヤ
  ンは音楽祭の諸改革や新機軸を次々と打ち出し、1957年
  からはウィーン・フィル以外のオーケストラも呼ぶことにな
  り、その手始めとして彼の手兵のベルリン・フィルが音楽祭
  に初出演した。また、祝祭大劇場の建築を主導し、1960
  年に完成、カラヤン指揮の「ばらの騎士」でこけら落としが
  行われた。従来の祝祭劇場は1963年にに改装された。カ
  ラヤン以外にも、戦前から出演していたベームを初め、ヨー
  ゼフ・カイベルト、ズービン・メータ、ロリン・マゼール、
  クラウディオ・アバド、ジェームス・レヴァイン、小澤征爾
  ら時代を代表する顔ぶれでその地位を揺るぎないものとした
  のである。             ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

カラヤンとレッグ.jpg
カラヤンとレッグ
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2009年06月24日

●「カラヤンはなぜ『帝王』と呼ばれるか」(EJ第2598号)

 ところで、カラヤンはなぜ「帝王」と呼ばれるのでしょうか。
 中川右介氏によると、音楽家で「帝王」と呼ばれた人は、カラ
ヤン以外にはマイルス・デイヴィスしかいないのです。それでは
「帝王」とは何なのか。中川氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 マイルスを「帝王」と呼ぶ場合はその音楽的才能と人気に対す
 る尊称であるのに対し、カラヤンの場合は、才能と人気への尊
 称というよりも、彼が世界のクラシック音楽業界の主要ポスト
 を独占し、人事権を持ち、利権を握り、世俗的・実質的な意味
 で音楽界に君臨していたからだった。カラヤンは「有能なビジ
 ネスマン」とよく評された。くだいていえば、「商売上手」と
 いうことであり、芸術家に対しては決して褒め言葉ではない。
 カラヤンがそう評されるのは、もちろん、本人に責任がある。
 実際、彼は商売上手であり、権力欲が強かった。
                      ――中川右介著
     『カラヤンとフルトヴェングラー』より/幻冬舎新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 カラヤンの力の源泉は何かというと、それは世界最高のオーケ
ストラであるベルリン・フィルの音楽監督――首席指揮者兼芸術
総監督という地位です。何しろその任期は終身契約であり、それ
がベルリン・フィルの伝統なのです。
 この地位をカラヤンは、1955年4月に事実上手に入れてい
るのです。次に狙うものは何でしょうか。それは、ウィーン国立
歌劇場芸術監督の地位です。しかし、この地位はカール・ベーム
が既に手に入れており、当面その地位を取るのは困難であると思
われたのです。
 ところが、このベームという人は、指揮者としては申し分ない
才能に恵まれていたのですが、経営・管理能力については問題の
ある人物であり、新設する国立歌劇場の運営に関しても計画性が
まるでなかったのです。
 新ウィーン国立歌劇場は、1955年11月にこけら落としが
が行われたのですが、それから年末までの新歌劇場にとって一番
重要な時期にベームはウィーンにいなかったのです。ザルツブル
グのモーツァルト生誕200年祭に出席し、シカゴで指揮するた
めに長期間ウィーンを留守にしていたのです。
 もちろんウィーン国立歌劇場の音楽監督であっても、きちんと
手だてを講じていれば問題はなかったのですが、彼はそれをやっ
ていないばかりか、一流キャストがいつでも歌える状態に仕上げ
て待機していたベルクの歌劇『ヴォツェック』を自分以外の者に
指揮をさせることを禁じて出掛けてしまったのです。
 これに対してウィーン市民が反発したのは当然のことです。そ
して、ベームがウィーンに戻ってきたのは、1956年2月28
日のことだったのです。記者に囲まれたベームは次の発言をして
ウィーン市民をさらに激怒させてしまったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私は、ウィーン歌劇場のために、自分の仕事を棒に振るつも
 りはない。             ――カール・ベーム
―――――――――――――――――――――――――――――
 シカゴから帰国したベームは、2日後にウィーン国立歌劇場の
指揮台に立ったのですが、とうてい演奏ができないほど歌劇場は
大混乱に陥り、その翌日辞任したのです。そのときの様子をオズ
ボーンは次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 彼が歌劇場のピットに姿を現わしたとたん、ブーイングと嘲笑
 の嵐が起こり、『フィデリオ』はしばらく始められなかった。
 (ベームが待ては待つほど、ブーイングは激しさを増した。歌
 劇場の運営を補佐していたエゴソ・ゼーフェルナー副監督は、
 舞台脇の特別席から「始めろ! 始めるんだ⊥と叫んだが、そ
 の声も怒号にかき消された)。その晩、序曲『レオノーレ』第
 3番のみごとな演奏が終わるとベームは大喝采を浴びた。ウィ
 ーンっ子たちはこう言っていたのだ。「私たちはあなたの指揮
 が大好きです、ベームさん。でも歌劇場の監督としては、あな
 たは失格です」。彼は翌朝辞任した。
         ――リチャード・オズボーン著/木村博江訳
      『ヘルベルト・フォン・カラヤン』上巻/白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 カール・ベームの突然の辞任――カラヤンにとっては、絶好の
チャンス到来だったのですが、カラヤンと親しい歌手のシュワル
ツコップとウォルター・レッグは、この任務は引き受けない方が
良いとカラヤンに進言したのです。
 反対の理由として、国家の資金で国家が運営する官僚組織、メ
ンバーの大半が盛りを過ぎている給与制の団体、敵意を持った組
合、気まぐれなマスコミ、他のいかなる都市にもない独特の所有
意識を持った聴衆などを上げ、反対したのです。
 ウィーン国立歌劇場側は早速カラヤンに接触してきたのです。
もはやカラヤンしか適任者はいなかったからです。担当者はベー
ムを任命したエルンスト・マルベー――その交渉の内容について
オズボーンは次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 このときもカラヤンは、提示というより主張に近い形で、一連
 の極端な提案をおこなった。マルべーは、そのほとんどに賛同
 した。まず第1に、すべての出し物をドイツ語でおこなうとい
 うウィーン歌劇場の伝統に明らかに終止符を打つべきときがき
 ている。そのかわりこれは、公開市場で国際的なトップ・アー
 ティストの争奪戦に参入することを意味する。イタリアものに
 かんしては、カラヤンはスカラ座との共同制作を提案した。競
 争が激化している状況のなかで、費用の分担は賢明な方法だと
 彼は説いた。   ――リチャード・オズボーンの前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
                −―[カラヤンの謎/57]


≪画像および関連情報≫
 ●カール・ベームの演奏について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ベームの身振りはいつもごく控えめで、お世辞にも「格好良
  いバトン・テクニック」とは言えない。カラヤンとは異なり
  外面的効果と縁を切った、音楽の要求する内容を指揮にこめ
  ることに没頭していたからである。そのカラヤンが「ベーム
  85歳の誕生祝賀会」に出席した際に、“禅の高僧が矢を射
  る時、「私が矢を飛ばす」とは言わず「矢が飛ぶ」と言う。
  すなわち「無為の為」である。これと同じく、ベームの指揮
  は「音楽が湧く」と言える。つまりベームによって、音楽が
  奏ではじめるのである。”と、ベームの指揮を評している。
  ベームの臨席のもとでの発言なので、ベーム自身も納得して
  いると考えられる。         ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

カール・ベーム.jpg
カール・ベーム
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2009年06月23日

●「フルトヴェングラーの後継者になる」(EJ第2597号)

 カラヤンのはじめての来日の印象はN響の団員や共演者たちに
とって、あまり芳しいものではなかったようですが、実はそのと
きの演奏が素晴らしいものであったことが後でわかるのです。
 当時のN響のコンサートマスターであった岩淵龍太郎氏は、約
50年後にそれを認めています。当時の演奏記録がCDで甦った
のを聴いたときです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これが自分たちの演奏なのか、と正直驚きました。あの感動が
 再び蘇りました。当時の日本の音楽家たちは、現代の方が想像
 されるよりも随分高いレヴェルの演奏をしていたのです。曲目
 は、1988年にサントリーホールでも演奏したあの「悲愴」
 交響曲。モノラルとはいえ、非常に凡帳面で真摯な演奏であり
 各パートの音が鮮明に伝わってくる。    ――岩淵龍太郎
          ――小松潔著、『カラヤンと日本人』より
                  日経プレミアシリーズ刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 この「悲愴」交響曲の演奏については、『カラヤン/N響ライ
ブ1954』で聴くことができます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 カラヤン/N響ライブ1954/モノラル
 チャイコフスキー:交響曲 第6番 ロ短調 作品74《悲愴》
 NHK交響楽団、指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時、カラヤンの音楽が素直に日本に受け入れられなかったの
は、日本ではフルトヴェングラーの影響力が非常に大きかったか
らです。
 そのフルトヴェングラー派の代表格は、近衛秀麿氏という人物
です。近衛文麿首相の弟で、ベルリン・フィルを日本人として初
めて振った指揮者であり、近衛管弦楽団というオーケストラを率
いていたのです。
 この近衛秀麿氏とカラヤンを招聘した有馬大五郎氏とは「相容
れない仲」だったというのです。日本のフルトヴェングラー/近
衛秀麻呂対カラヤン派有馬大五郎――この対立構造は、日本にも
「フルトヴェングラー対カラヤン」の確執があったことを示して
いるのです。
 ここで、カラヤンが率いるベルリン・フィルの米国ツァーにつ
いて触れておく必要があると思います。
 米国でのオープニング・コンサートは、1955年2月27日
にワシントンで開催されたのです。ワシントンの聴衆は、礼儀正
しく、友好的であったのです。演奏が終わると、指揮者とオーケ
ストラに嵐のような喝采が送られ、カーテンコールが繰り返し行
われたのです。
 しかし、次の公演地のフィラデルフィアでは、はるかによそよ
そしい雰囲気であったのです。とくにフィラデルフィア管弦楽団
との歓迎パーティーでは、1921年にハンガリーから米国に移
住した首席指揮者であるユージン・オーマンディはカラヤンとの
握手を拒否したのです。
 そのときオーマンディーは、ザルツブルグでウィーン・フィル
を指揮することが決まっていたので、カラヤンはこれを無礼な行
為として受け取り、彼はけっしてオーマンディーを許さなかった
といいます。したがって、オーマンディーのザルツブルグ行きは
その一回だけで終わったのです。
 次のニューヨークでのコンサートは、次のビラに迎えられるこ
とになったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  今晩カーネギー・ホールでナチ政権の音楽独裁者が演奏
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、公演そのものには影響はなかったのです。3月2日付
けの「ニューヨークタイムス」紙は次のように伝えています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 フォン・カラヤン氏は大袈裟な身ぶりなどせずに、暗譜で指揮
 をおこなう。彼は自分の仕事にかんする職人の知識と、演奏す
 る音楽にかんする芸術家の理解をそなえている。
      1955年3月2日付「ニューヨークタイムス」紙
         ――リチャード・オズボーン著/木村博江訳
      『ヘルベルト・フォン・カラヤン』上巻/白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ボルティモアでは、ユダヤ人の団体から「無言の抗議」を受け
たのです。「無言の抗議」とは、チケットの不買運動と、チケッ
トを買い占めてコンサートには行かないやり方です。
 米国ツァーの最後の3日間は、再びニューヨークだったのです
が、抗議行動は一層はげしくなっていたのです。とくに3月30
日は夜通しカーネギーホールの外でデモを続けていた一団があっ
たのですが、これは同時期に議会に提出されていたマッカラン・
ウォルター移民法に抗議する一団だったのです。
 ベルリン・フィルの米国ツァーは、大体こんな具合であったの
ですが、若干のトラブルはあったものの、当時の状況から考えて
成功であったといってよいと思います。
 懸案の米国ツァーを成功させたということによってカラヤンは
正式にフルトヴェングラーの後継者に決まったのです。1955
年4月5日、カラヤン48歳の誕生日のことだったのです。この
伝達は、ティブルティウス議員によってベルリン市議会を代表し
て行われたのです。オーケストラもこの決定には異議を唱える者
はいなかったのです。
 そのあとカラヤンは、ロンドンのEMIスタジオにおいて、ヨ
ハンシュトラウスの喜歌劇『こうもり』を録音しています。実は
この1955年盤の『こうもり』は、この作品の名盤中の名盤と
いわれているのです。このときのキャストはレッグが自ら選んで
いるのですが、まさしく重量級です。「関連情報」の批評をごら
んください。          −―[カラヤンの謎/56]


≪画像および関連情報≫
 ●1955年盤の『こうもり』のオズボーンの批評
  ―――――――――――――――――――――――――――
  レッグがオルロフスキー公爵にテノールを配したのは異例だ
  ったが、その他の配役は手堅かった。ニコライ・ゲッダがガ
  ブリエル・フォン・アイゼンシュタインを、リタ・シュトラ
  イヒがアデーレを、エーリヒ・クンツがファルケを歌い、フ
  ランツ・ベーハイムが酔っぱらいの看守フロッシュのせりふ
  役で喜劇の才能を発揮している。同じ作品でカラヤンが19
  60年にウィーンで録音した盤は、雰囲気が豊かで名盤とさ
  れているが、この1955盤のような躍動感や粋そのものと
  いった感じは欠けている。かなり誤って解釈されてきた『こ
  うもり』に再び「勢いと、気迫と、生気」を呼び戻したのは
  1975年のカルロス・クライバーのレコードだった。
         ――リチャード・オズボーン著/木村博江訳
      『ヘルベルト・フォン・カラヤン』上巻/白水社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

カラヤン/N響ライブ1954.jpg
カラヤン/N響ライブ1954
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2009年06月22日

●「N響は子羊のように大人しい/カラヤン」(EJ第2596号)

 カラヤンが初来日したときの話を続けます。N響の補強として
ウィーンから招かれた奏者は、リハーサルでのカラヤンの怖さを
知っていたので、緊張していたのですが、カラヤンは意外にも団
員を怒鳴りつけるようなことはしなかったのです。
 しかし、それは事前に有馬氏がカラヤンに対して「N響の団員
はナイーブなのが多いので、あまり叱らないでくれ」と注文をつ
けたせいかもしれないのです。
 しかし、当時のN響の団員はナイーブどころではなく、経験不
足の指揮者にはいろいろ注文を付けて立ち往生させる「無法者集
団」といわれていたのです。そのことについて、オズボーンは次
のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 団員の9割以上が日本人で占められるNHK交響楽団は、当時
 は無法者の集団と評判が立っていた。二流の迷指揮者(レッグ
 の言葉)など生きたまま朝食にされてしまうといわれていた。
 カラヤンは朝食後のコーヒーのみならず、その先まで生き延び
 た。「彼らは子羊のように大人しかった」と、カラヤンは『ジ
 ャパン・タイムズ』の記者に語っている。彼はこのオーケスト
 ラがベルリン・フィルハーモニーやフィルハーモニア管弦楽団
 と同レベルだとは言わなかったが、その熱心さと反応のよさを
 ほめた。「私の要求をこれほど素早く把握する楽団は、はじめ
 てだ」と彼は言った。
    ――『ジャパン・タイムズ』/1954年5月11日付
         ――リチャード・オズボーン著/木村博江訳
      『ヘルベルト・フォン・カラヤン』上巻/白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 当時カラヤンの名前は、日本の音楽評論家やレコード業界では
知られた存在でしたが、演奏家にはあまり知られていなかったの
です。とかく演奏家は世界の音楽事情に疎かったのです。
 そういうわけで当時のN響のメンバーにとってカラヤンの評判
はあまり良いものではなかったのです。「カッコをつけているイ
ヤな奴」という印象だったのです。それならば、なぜ、N響のメ
ンバーは、いつものように「生きたまま朝食」にしなかったので
しようか。彼らは子羊のようにおとなしくカラヤンにしたがって
いたからです。
 カラヤンはリハーサルでN響の団員を叱りはしなかったものの
そのリハーサルは妥協のないものだったのです。それに加えて何
となく、抵抗できない威厳があって、逆らえない雰囲気というか
オーラのようなものがあったからです。
 それにN響のメンバーが一番面食らったのは、あの目をつぶっ
て行う指揮法です。大太鼓の網代啓介氏などは「あんな棒じゃ、
太鼓はたたけない」と不平をもらしていたそうです。とにかくN
響の団員はカラヤンには抵抗があったようです。
 当時N響のコンサートマスターであった岩淵龍太郎氏はカラヤ
ンの印象を次のように語っているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 今振り返ると、(カラヤンは)オーケストラの鍛え方を熟知し
 ていました。ただ、もう一回、日本に来て振って欲しいという
 気にはなれませんでした。キザであまり好きでないという印象
 でした。       ――小松潔著、『カラヤンと日本人』
                  日経プレミアシリーズ刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 その岩淵氏はこんな話も披露しています。カラヤンの来日から
2週間遅れる1954年4月16日に20世紀最高のヴァイオリ
ニストの一人であるヤッシャ・ハイフェッツが来日したのです。
カラヤンと違って戦前に2回来日しているので、日本人にはお馴
染みのヴァイオリニストだったのです。
 4月18日に東京帝国劇場(帝劇)で、ハイフェッツのコンサ
ートが開かれたのですが、そのときの聴衆には山田耕筰、近衛秀
麿、吉川英治氏などの有名人に交じって来日中のカラヤンと岩淵
氏もいたのです。
 岩淵氏によると、このコンサートに誘ったのは、カラヤン自身
だったというのです。ところがそのカラヤンが途中で「帰ろう」
といい出したのです。ちょうど前半のプログラム、ブラームスの
ヴァイオリンソナタ第3番の演奏の途中だったです。
 「なぜですか」と英語で聞くと、「私には興味がない」とドイ
ツ語で答えたのです。ハイフェッツといえば、世界のヴァイオリ
ンの巨匠です。その巨匠の演奏を切って捨てるとは・・岩淵氏は
カラヤンの帝王ぶりを垣間見た思いがしたといいます。ちなみに
当日のコンサートは大成功であり、各新聞は「聴衆、名演奏に酔
う」という大きな見出しをつけていたのです。
 カラヤンについては、4月7日と8日の両日、ベートーヴェン
のピアノ協奏曲第4番の独奏を担当した園田高弘氏は、後に日本
経済新聞の「私の履歴書」で、カラヤンが達者なフランス語でピ
アノのレッスンをしてくれたこと、渡欧のために親切な推薦状を
書いてくれたこと、ピアノがうまかったことを書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 オーケストラのトゥッティ(総奏)から間奏まで、全部、第二
 ピアノで伴奏してくれ、非常に上手であった。 ――園田高弘
―――――――――――――――――――――――――――――
 それは当然のことです。ここまで読んでいただいた読者ならご
存知のように、もともとカラヤンはピアニストになりたかったの
ですから、ピアノはお手のものであったのです。当時N響に入団
したばかりの指揮者の外山雄二氏もカラヤンのピアノについて次
のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 カラヤンはピアノが非常にうまく、オペラでも何でも、全部弾
 くわけでもないのに曲の肝がわかる、そんな弾き方だった。
―――――――――――――――――――――――――――――
                −―[カラヤンの謎/55]


≪画像および関連情報≫
 ●園田高弘氏が批評するカラヤンの音作り
  ―――――――――――――――――――――――――――
  正直なところ、演奏にはどうしても共感できはなかった。非
  常にスマートな音響の作り方だが、パリで衝撃を受けたベル
  リン・フィルの先代常任指揮者、フルトヴェングラーのよう
  なヴァムジーク(根源的な音楽)の力がそこからは感じ取れ
  なかった。                ――園田高弘
            ――小松潔著、『カラヤンと日本人』
                  日経プレミアシリーズ刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

園田高弘.jpg
園田高弘
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2009年06月19日

●「カラヤンはじめての日本訪問」(EJ第2595号)

 フルトヴェングラーの亡くなったとき、ベルリン・フィルの後
継者としてカラヤン以外に当時誰が考えられたかについて、中川
右介氏が推理しているので、ご紹介することにします。
 ベルリン・フィルの音楽(芸術)監督は、カラヤンのあとクラウ
ディオ・アバドが継ぎ、現在はサイモン・ラトルが務めています
が、いずれもドイツ人ではないのです。
 しかし、当時の状況では、ドイツ・オーストリア人以外の人が
候補に上がることは考えられないのです。そうであるとすると、
チェリビダッケも対象外になりますが、彼の場合は、戦後の19
45年以来の実績があり、フルトヴェングラーも買っていたので
例外的存在であったといえます。
 もうひとつの除外条件――フルトヴェングラーと同年齢か、年
上は後継者としては考えられないということです。これによって
オットー・クレンペラー、フリッツ・ライナー、フリッツ・ブッ
シュ、エーヒッヒ・クライバーも外れるでしょう。
 ただひとり有力候補がいたのです。それは、カール・ベームで
す。年齢的にも、キャリアの点でも、実力の点でも、すべて合格
といえます。しかし、再建されるウィーン国立歌劇場のポストに
就くことが既に決まっていたのです。
 ポストを持っていない巨匠としてはハンス・クナッパーツブッ
シュも候補者として上げられます。戦前はバイエルン州立歌劇場
総監督をしていましたが、現在は何もしていなかったのです。音
楽の実力はあるが、大勢の人をまとめる力には欠けるものがあっ
たといわれます。
 ヨゼフ・カイベルト――年齢はカラヤンと同じです。1950
年にはハンブルグ・フィルの音楽監督、1951年からは、バイ
エルン州立歌劇場の音楽監督を兼任し、1952年はバイロイト
音楽祭にも出演しています。そういう意味でカイベルトは当時の
有力候補といってよいでしょう。
 オイゲン・ヨッフムも候補者として上げられるでしょう。フル
トヴェングラーが死去したときは、バイエルン放送交響楽団とい
う新しいオーケストラの首席として実績を上げていたのです。そ
の他、カール・ミュンヒンガー、ギュンター・ヴァントも十分候
補者としての資格があったといえます。
 しかし、フルトヴェングーの死後に開かれたベルリン・フィル
の理事会では、これらの音楽家の名前は、ほとんど検討もされな
かったのです。理事会は、カラヤンの要求を呑むか否かしか頭に
なかったのです。明らかにカラヤンの勝利です。仕事を外されて
もめげずにカラヤンがコツコツと積み上げてきたことが実を結ん
だといえます。
 それは、カラヤンが早くからレコードというものをメディアと
してとらえ、ドイツ国内はもとより、広くヨーロッパの各地にま
でカラヤンという指揮者の存在とその演奏の実力を伝えていたと
いう点において、上記にあげた著名な指揮者の誰よりも知名度の
ある指揮者であったということがいえるからです。
 しかし、当時の日本では、このカラヤンという46歳の指揮者
のことはあまり知られていなかったのです。カラヤンがはじめて
来日したのは、1954年4月2日のことです。そのとき、カラ
ヤンが一人で日本にやってきたのです。
 どういう経緯でカラヤンは日本の地を踏んだのでしょうか。
 それは、有馬大五郎、NHK交響楽団事務長の働きかけによる
ものです。有馬氏は声楽家をめざし、ウィーンに留学していたの
ですが、そのとき、ウィーン音楽アカデミーで20歳そこそこの
カラヤンと知り合いになっていたのです。
 この有馬大五郎氏は結核にかかって声楽家を断念し、ドイツ語
を磨いて作曲や哲学を学び、ウィーン大学で博士号をとっている
のです。その後、有馬氏は日本に西洋音楽を伝えめるため、オー
ケストラのマネージャー兼教育者として日本の音楽界で着々と地
位を固めていたのです。
 N響の事務長の有馬氏は、N響にハクを付けるため、ヨーロッ
パで人気上昇中のカラヤンを日本に招いたのです。したがって、
カラヤン来日の目的は、約1ヵ月にわたってN響を振ることだっ
たのです。
 カラヤンは日本にやってきて、有馬氏の顔を見ると「ドクター
・アリマ!」と呼んだそうです。カラヤンは有馬氏がウィーン大
学で博士号をとっていることを知っており、そう呼びかけたので
す。こういうことについては、カラヤンはきちんとやる人物だっ
たのです。
 カラヤンは、帝国ホテルに宿を取り、ハイネックのセーターで
当時内幸町にあったN響の練習所に歩いてやってきたのです。つ
い直前まで、サンタモリッツでスキーをしてやってきたため、顔
は日焼けして真っ黒であったといわれています。
 最初の曲はブラームスの交響曲第1番だったのです。指揮台に
立ったカラヤンは、いきなり、次のように指示したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
           低弦から入れ!
―――――――――――――――――――――――――――――
 これにはN響の団員は驚いたのです。それまで、ジョセフ・ロ
ーゼンストック(1936年8月〜46年までの専任指揮者)か
らは「ツザンメン!/zussammen」 といわれているので、完全に
面食らったのです。
 カラヤンの意図は、低弦、すなわちコントラバスから入ること
によって、微妙に音の入りをずらし、ドイツ的、重厚な音づくり
を狙ったのです。
 実はそのときのN響のメンバーの中に4人の奏者――ヴァイオ
リン(コンサートマスター)、クラリネット、オーボエ、ハープ
の奏者をウィーンから招いていたのです。彼らはリハーサルでの
カラヤンの怖さを知っていたので、譜面台を高くして顔を見られ
ないようにするなど、緊張していたというのです。
               ―――[カラヤンの謎/54]


≪画像および関連情報≫
 ●来日前のカラヤンの評価について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  やはりドイツ系の指揮者ではフルトヴュングラーのイメージ
  が強く、(カラヤンのレコードは)評価もそれほど高くあり
  ませんでした。演奏は良かったと思うのですが、ひとつには
  (カラヤンが指揮したオーケストラである)フィルハーモニ
  ア管弦楽団がレコーディングのための新しいオーケストラで
  あるために、…(中略)…どうも胡散臭い存在として見られ
  ていたことも影響していたようです。…(中略)…カラヤン
  の日本での評価と人気が確立したのは、やはり昭和29年に
  N響に客演してからでしょう。――歌埼和彦編/音楽之友社
         『証言――日本洋楽レコード史/戦後編1』
  ―――――――――――――――――――――――――――

有馬大五郎(1952年).jpg
有馬大五郎(1952年)
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2009年06月18日

●「バレンボイム音楽論/フルトヴェングラー」(EJ第2594号)

 カラヤンについて書き始めてから、今回で53回になります。
フルトヴェングラーが亡くなるまでの記述でこんなにかかってし
まったのです。しかし、今まで一番見えていなかった部分を明ら
かにできたと思っております。
 フルトヴェングラーとカラヤン――22歳も年齢差のある2人
であるのに、ライバル同士としてドイツにおける音楽界の頂点を
目指して激しく競り合ってきたのです。普通なら、先生と弟子と
いう関係ですが、この2人はそうはならなかったのです。
 といって、カラヤンの方がフルトヴェングラーに楯ついたとい
うよりは、フルトヴェングラーがカラヤンを一方的に嫌っていた
という感じなのです。カラヤン自身は、自分がどうして嫌われて
いるか、きっとわからなかったと思います。
 カラヤンは、フルトヴェングラーとトスカニーニに影響された
といっており、音楽の考え方、音楽表現に関してフルトヴェング
ラーに尊敬の念を抱いていたのです。つまり、当時フルトヴェン
グラーは好き嫌いの激しい「帝王」であったのです。
 ところで、フルトヴェングラーは音楽に対してどのような考え
方をもった指揮者だったのでしょうか。
 このことについて書く前に、何はともあれ数少ないフルトヴェ
ングラーの指揮ぶりを少し見ていただきたいのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    http://www.youtube.com/watch?v=rRNCUMhkhNQ
―――――――――――――――――――――――――――――
 多くの人がフルトヴェングラーについて書いていますが、この
ところ心境著しい指揮者のダニエル・バレンボイムは自著で次の
ように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 フルトヴェングラーには、音楽は進化しなければならないとい
 う心に深く根ざした信念があった。音楽とは音である。そして
 音はたんに〜である(sein)″のではなく、〜になる(we
 rden)≠フでなくてはならない。こうした認識により、彼の音
 楽はつねに新たなものであり、けっしてたんなるレパートリー
 というようなものではなかった。フルトヴェングラーはリハー
 サルで発見し、推敲したものを夜のコンサートで呼びおこすこ
 とだけを目的にリハーサルをおこなっていたのではなかった。
 フルトヴエングラーにとって、ベートーヴェンの交響曲はまる
 で昨日作曲された曲と同じように真新しく、生命力あふれるも
 のだったのだ。 ――ダニエル・バレンボイム著/蓑田洋子訳
      『バレンボイム音楽論/対話と共存のフーガ』より
                  アルテスパブリッシング
―――――――――――――――――――――――――――――
 一般論ですが、指揮者にとってはじめて振る曲は準備が大変で
あろうことは容易に想像できます。しかし、何回も振っていると
それはその指揮者のデパートリーのひとつになり、はじめて振る
ときに比べると相当の余裕ができる――普通はそう考えます。
 しかし、フルトヴェングラーは「音楽は進化しなければならな
い」と考えているのです。したがって、同じベートーヴェンの交
響曲を「それは既にある」ものではなく、進化して「〜になる」
ものと考えてそのつど挑んでおり、その交響曲はフルトヴェング
ラーにとっては、まるで昨日作曲されたように新しく生命力に溢
れているものであったとバレンボイムはいっているのです。
 そのため、オーケストラの団員にとって、フルトヴェングラー
の指揮する作品は「いつものように」とはいかなかったのです。
バレンボイムは次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 フルトヴェングラーは慣例とは無縁の人だった。たとえば、彼
 の後継者のヘルベルト・フォン・カラヤンが指揮をとったとき
 には、団員たちはカラヤンが望んでいることをたちどころに理
 解して、それを実行した。フルトヴエングラーの場合には、す
 べてが毎回異なっていた。フルトヴエングラーは予測のできな
 い人物だった。彼が従っていたのは自己の内的必然性だった。
         ――ダニエル・バレンボイム著/蓑田洋子訳
      『バレンボイム音楽論/対話と共存のフーガ』より
                  アルテスパブリッシング
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで、フルトヴェングラーは「瞬間の巨匠」といわれるこ
とがあります。フルトヴェングラーがスコア上に導き出してくる
のは「どのように」ではなく、「どこで」なのです。
 ここにはアクセントが必要であり、ここは絶対にアクセントは
付けてはならない――これはフルトヴェングラーの好みではなく
彼自身が考える音楽上の必然性からくるものであったのです。彼
は自己の内的必然性にしたがってそのようにいっていたのです。
したがって、それが同じ曲でもそのつど変わることはよくあった
というのです。そのあたりがカラヤンと違う点なのです。
 バレンボイムは、いわゆる音楽の巨匠たちは、歳月を重ねるう
ちに、自分自身の課題を解決すると考えられる何らかの着想に出
会うと、以後はそれにこだわる――そういう傾向があるというの
です。しかし、フルトヴェングラーにはそういうところがまった
くないとバレンボイムはいうのです。そういう意味で彼の音楽は
「自由」であったといえるのです。バレンボイムは、彼のフルト
ヴェングラー論を次の言葉でしめくくっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 多くの音楽家たちは自分の生き方と同じやり方で音楽を創造す
 る。ところがフルトヴェングラーは、自分が音楽を創造するの
 と同じやり方で人生を生きようとした。あまり楽な生き方では
 ないが、人はそうすることを望みそうできなければならない。
 そのときにはじめて、ものごとのあり方がこんにちしばしばみ
 られるものとは変わるかもしれない。
               ――バレンボイムの前掲書より
―――――――――――――――― ―[カラヤンの謎/53]


≪画像および関連情報≫
 ●バレンボイムとワーグナーの音楽について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  2001年7月7日、バレンボイムはエルサレムにおいて、
  イスラエル音楽祭の一環として、ベルリン国立歌劇場を指揮
  して、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の一部を
  上演した。場内は騒然となり、バレンボイムは数名のイスラ
  エル人から「ファシスト」のレッテルを貼られた。イスラエ
  ルにおいてワーグナーの音楽はタブー視されていた。バレン
  ボイムは30分をかけて、聴衆に向けてヘブライ語で、ワー
  グナーの楽曲をとり上げる理由を述べ、反対派には、とにか
  く音楽を聴いてくれるように説かなければならなかった。バ
  レンボイムは別な機会に「トスカニーニもイスラエルでワー
  グナーを指揮している」と、改めてイスラエルでワーグナー
  を取り上げた意義を強調していた。  ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

バレンボイム音楽論.jpg
バレンボイム音楽論
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2009年06月17日

●「国王崩御。新王に栄えあれ!」(EJ第2593号)

 ベルリン・フィルのインテンダントであるヴェスターマンは、
フルトヴェングラーが危篤に陥った時点でチェリビダッケと話し
合いを持ったのです。1954年11月29日のことです。
 ヴェスターマンとしては、チェリビダッケと楽団員とのトラブ
ルは深刻化しているものの、戦後の苦しい時期を共に過ごし、力
を合わせて数多くの素晴らしい演奏をした仲間として、何はさて
おき、チェリビダッケと最初に話し合いをすべきであると考えた
のです。そして、フルトヴェングラーの後任を引き受ける意思が
あるかどうかを打診したのです。これはチェリビダッケにとって
は最後のチャンスだったのです。
 しかし、チェリビダッケはそのあたりのことを十分認識してお
らず、従来の主張を繰り返したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 私にぜひ後任になってくれというのであれば、オーケストラの
 人事に関する全権をいただきたい。老齢になった団員には即刻
 辞めてもらう必要がある。       ――チェリビダッケ
                      ――中川右介著
     『カラヤンとフルトヴェングラー』より/幻冬舎新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 なぜ、チェリビダッケは強気に出たかですが、楽団員の中には
チェリビダッケを支持する団員も少なからずいたのです。おそら
くその時点でフルトヴェングラーの音楽に対する考え方を最もよ
く理解し、フルトヴェングラーの指揮法をマスターしていたのは
チェリビダッケしかいなかったのです。それにチェリビダッケは
ベルリンの聴衆には圧倒的な人気があったのです。
 ヴェスターマンは、フルトヴェングラーの死を伝える総会にお
いて、前日チェリビダッケから聞いた条件を説明したのです。こ
れによって、総会は大荒れになり、すんでのことでチェリビダッ
ケを指揮者として拒否する決議が出るところだったのです。この
時点でチェリビダッケの芽は消えたのです。
 フルトヴェングラーが亡くなったとき、カラヤンはローマに滞
在していたのです。そのカラヤンのもとにウィーンから一通の電
報が届いたのです。電文には次のように書かれていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        国王崩御。新王に栄えあれ!
―――――――――――――――――――――――――――――
 電報は匿名だったのです。発信地がウィーンであることからし
て、ウィーン・フィルの関係者ではないかと思われたのです。カ
ラヤンが思案していると、ドアがノックされたのです。ドアを開
けると、マネージャーのマットーニが夕刊を手に立っていたので
す。カラヤンは新聞をひったくるようにして読むと、それはフル
トヴェングラーの訃報を伝えていたのです。
 そのとき電話が鳴ったのです。大手の音楽事務所、コロンビア
・アーティスツのアンドレ・マーチンス副社長だったのです。同
社はベルリン・フィルの米国ツァーの主催団体だったのです。
 彼の言によると、今回のベルリン・フィルの米国ツァーは、指
揮者がカラヤンでないときは中止するとベルリン・フィル側に伝
えたので、承知しておいて欲しいというものだったのです。
 続いて、ヴェスターマンからも電話が入ったのです。もちろん
米国ツァーを引き受けて欲しいという依頼だったのです。ヴェス
ターマンの選択肢はひとつしかなかったのです。それに対してカ
ラヤンは次のように答えています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 喜んでお受けする。ただし、ドクトル・フルトヴェングラーの
 後任として音楽監督に就任できるのであれば、アメリカ・ツァ
 ーを引き受けましょう。          ――中川右介著
     『カラヤンとフルトヴェングラー』より/幻冬舎新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 カラヤンとヴェスターマンとの約束は、あくまで米国ツァーの
指揮をとることだけであり、それ以上は何も話し合っていないの
です。しかし、カラヤンは音楽監督まで要求してきたのです。カ
ラヤンはここで一気に勝負に出たのです。
 ヴェスターマンは追い詰められたのです。この米国ツァーは西
ドイツ政府の企画である。しかし、その主催元は指揮者がカラヤ
ンでなければ中止するという。カラヤンは引き受けてもいいが、
音楽監督の就任が条件であると主張する――答えはひとつしかな
かったのです。
 ヴェスターマンは、この件を総会に諮ったのです。1954年
12月13日、2名の役員と5名の評議員がとりまとめたオーケ
ストラの意見として次の声明が出されたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の団員一同は、ヘルベル
 ト・フォン・カラヤン氏が、ベルリン・フィルハーモニーの伝
 統を守ることのできる芸術家であると信ずるにいたった。オー
 ケストラはその総裁であるフォン・ヴェスターマン博士に交渉
 を依頼し、期間はまだ未定であるが、フィルハーモニーのおも
 だったコンサートおよびツァーの指揮に、ヘルベルト・フォン
 ・カラヤンを招くべく働きかけをおこなう。この決議は満場一
 致で可決された。――リチャード・オズボーン著/木村博江訳
      『ヘルベルト・フォン・カラヤン』上巻/白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 レースは終わったも同然でしたが、重要な交渉は残っていたの
です。決議文の中に「期間はまだ未定」とありますが、ここが最
も重要なところだったのです。なぜかというと、カラヤンは「終
身契約」を望んでいたからです。
 音楽監督としてのカラヤンの権限と終身契約の問題は容易には
決着しなかったのです。結局最初の契約が締結されたのは、交渉
開始から一年が経過した1956年4月25日のことだったので
す。このようにしてカラヤンはドイツ最高のオーケストラ、ベル
リン・フィルを手中にしたのです。 ―[カラヤンの謎/52]


≪画像および関連情報≫
 ●フルトヴェングラーの葬儀/中川右介氏の記述を参考
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1954年12月4日、ハイデルベルグの教会でフルトヴェ
  ングラーの葬儀が行なわれている。ベルリンに埋葬して欲し
  という市当局の要請を遺族は断っている。地理的には東ドイ
  ツ内にあるベルリンは、いつまた封鎖されるかわからなかっ
  たからである。教会の葬儀でモーツァルトの『フリーメース
  ンのための葬送曲』を演奏したのは、ベルリン・フィルのメ
  ンバーで、指揮はヨッフムであった。弔辞を読んだのはベー
  ムであり、墓地に埋葬されるとき、ベートーヴェンの葬式用
  トロンボーン音楽を演奏したのは、ウィーン・フィルのメン
  バーだったのである。その様子の一部は次のユーチューブの
  動画で見ることができる。
  http://www.youtube.com/watch?v=66JSpAss6v8&NR=1
  ―――――――――――――――――――――――――――

フルトヴェングラーの葬儀.jpg
フルトヴェングラーの葬儀
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2009年06月16日

●「後継者はカラヤンかチェリビダッケか」(EJ第2592号)

 フルトヴェングラーが亡くなる直前にカラヤンとチェリビダッ
ケが相次いでベルリン・フィルを指揮しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1954年11月21日と22日 ・・・ カラヤン
 1954年11月25日〜28日 ・・・ チェリビダッケ
―――――――――――――――――――――――――――――
 カラヤンが指揮したのはベルリン・フィルの定期公演であり、
曲目はカラヤン自身が選びぬいた次の2曲だったのです。もうそ
の時点では、フルトヴェングラーの死が近いことは、妻のエリー
ザベト・フルトヴェングラーにはわかっていたと思われます。
―――――――――――――――――――――――――――――
    ◎ ヴォーン・ウイリアムズ作曲
     『トマス・タリスの主題による幻想曲』
    ◎ ブルックナー作曲
     『交響曲第9番』ニ短調
―――――――――――――――――――――――――――――
 このときのカラヤンの演奏はなぜか鎮魂歌の雰囲気が漂ってい
たのです。カラヤンが指揮した2曲に対するハンス・ハインツ・
シゥッケンシュミットの批評をそれぞれ記しておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ◎『トマス・タリスの主題による幻想曲』(ウイリアムズ)
  音にたいする非常に洗練された感覚のみが、『タリスの幻想
 曲』の印象派的な陶酔の奥にある秘密を見きわめることができ
 る。だが、それこそヘルベルト・フォン・カラヤンの強みなの
 だ。彼は独特の感性を活かしながら、音色の特性を起点として
 音の絵画を完成させることに第一の主眼をおいている。
 ◎『交響曲第9番』ニ短調(ブルックナー)
  カラヤンはいま、呼吸を制御するこつとでもいうべきものを
 会得している。彼は作品のテンポをつかみとり、どこで緊張さ
 せどこで弛緩させるべきかを心得、大きな構成を明確にするこ
 とができる。そのためアダージョ楽章の山のような巨大さも一
 目で見渡せるようになる。
        ――ハンス・ハインツ・シゥッケンシュミット
         ――リチャード・オズボーン著/木村博江訳
      『ヘルベルト・フォン・カラヤン』上巻/白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対してチェリビダッケは、明らかにフルトヴェングラー
の最後を意識して次の曲を演奏しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
    1954年11月26日
    ◎ブラームス作曲/『ドイツ・レクイエム』
    1954年11月28日/29日
    ◎ラヴェル作曲/『道化師の朝の歌』
    ◎ティーセン作曲
    『ヴァイオリンとオーケストラのための幻想』
    ◎バルトーク作曲/『オーケストラのための協奏曲』
―――――――――――――――――――――――――――――
 これらのコンサートはいずれも大成功を収めているのです。し
かも、聴衆は熱狂したのです。しかし、そのリハーサルでは団員
と大きくもめています。それはチェリビダッケとベルリン・フィ
ルのリハーサルのときにはいつものことであったのですが、26
日のリハーサルのときは、直前に指揮したカラヤンと比較した批
判が出たので、チェリビダッケは団員と修復不能なほど対立して
しまったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ある団員が「カラヤンはもっと能率よく練習した」と言った。
 チェリビダッケは、その発言に激怒した。激しい言葉の応酬が
 あった。「あなたにブラームスが指揮できるわけがない」「田
 舎オーケストラが何を言うのか」      ――中川右介著
     『カラヤンとフルトヴェングラー』より/幻冬舎新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 カラヤンは、1954年9月と11月の3回にわたるベルリン
・フィルの指揮で、団員の気持ちを掴んでいたのです。これは、
チェリビタッケを意識したカラヤンの作戦だったといえます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 カラヤンは最大の支持者を得た。オーケストラの団員たちであ
 る。彼らは、カラヤンの合理的で無駄のないリハーサルのやり
 方に感銘を受けた。カラヤンは、オーケストラに演奏の自由を
 与え、決して無理強いはしなかった。団員たちは、カラヤンが
 気に入った。「チェリビダッケより、ずっとやりやすいじゃな
 いか」との声が広がっていった。      ――中川右介著
     『カラヤンとフルトヴェングラー』より/幻冬舎新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 ベルリン・フィルの前からフルトヴェングラーが消えてしまっ
たとき、そこにはベルリン・フィルに関係の深い2人の指揮者が
いたのです。チェリビダッケとカラヤン――この2人です。
 チェリビダッケは、この10年間に400回以上のコンサート
を指揮してそのほとんどを成功させているのです。しかし、気性
が荒く、楽団員に厳しく当たり、年配者や気に入らない団員はク
ビにすると公言し、リハーサルではつねに団員とトラブルを起こ
している指揮者です。
 これに対して、カラヤンは、戦前を含めてもたったの10回し
か指揮していない、ベルリン・フィルの団員にとっては、未知の
指揮者なのです。
 ベルリン・フィルはどちらの指揮者を選ぶのでしょうか。実績
ということを中心に考えると、文句なしにチェリビダッケという
ことになるはずです。聴衆の立場から考えても、コンサートを成
功させているだけに当然チェリビダッケであろうと考える人が多
かったのです。しかし、ヴェスターマンは何の躊躇もなく、カラ
ヤンを選んだのです。       ―[カラヤンの謎/51]


≪画像および関連情報≫
 ●チェリビダッケの立場に立った評伝
  ―――――――――――――――――――――――――――
  チェリビリダッケがベルリン・フィルに面と向かって「凡庸
  な田舎オーケストラ」と罵ったのも、何人かの団員がチェリ
  ピダッケに面と向かって「あんたにはブラームスなんか全然
  指揮できないんだ」となじったからであった。そこまで言わ
  れて甘んじる指揮者がいるだろうか。「規律を失っている」
  との彼の非難は正鵠を射ていないだろうか。紛争の一方の当
  事者だけを非難することは控えねばならない。さらに、この
  ときチェリピグッケは、死期間近のフルトヴュングラーの容
  態を知っており、それを知る者の負担と動揺は、いかばかり
  だったかを思わずにはいられない。
      ――クラウス・ヴァイラー/相澤啓一訳/春秋社刊
               『評伝/チェリビダッケ』より
  ―――――――――――――――――――――――――――

ベルリン・フィルを指揮するチェリ.jpg
ベルリン・フィルを指揮するチェリ
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2009年06月15日

●「フルトヴェングラーの死/難聴に絶望」(EJ第2591号)

 1953年9月、カラヤンが11年ぶりにベルリン・フィルを
指揮したときのことです。カラヤンは、ベルリン・フィルのイン
テンダントであるゲルハルト・フォン・ヴェスターマンと重要な
会談を行っているのです。この会談は、後のカラヤンの運命を決
める重要なものになったのです。
 実は1954年にフルトヴェングラーが率いるベルリン・フィ
ルが米国ツァーを行う計画が検討されていたのです。これについ
てフルトヴェングラー自身は結論を先延ばしにし、なかなかOK
を出さなかったのです。
 一番フルトヴェングラーが懸念したことは、かつてのシカゴ交
響楽団事件の二の舞になる恐れです。米国には、フルトヴェング
ラーが率いるベルリン・フィルの米国公演を目の敵にしている勢
力がおり、不愉快な目に遭う可能性が高かったのです。
 それに今回の米国公演は西ドイツ政府の肝煎りで行われる一種
の政治行事になる可能性があり、フルトヴェングラーとしては政
治に関与することは避けたかったという思いもあったのです。
 これをもう少し詳しくいうと、この米国ツァーは時のドイツ首
相アデナウアーが企画したものなのです。ソ連によるベルリン封
鎖のさいに米国軍が物資を空輸してくれたことに対する返礼とし
て、ドイツ最高のオーケストラが最高の指揮者とともに米国を訪
問する政治的なイベントだったのです。
 それだけに、ベルリン・フィルの理事会としては、国の威信も
かかっており、将来の重要なマーケットにもなる米国公演を何と
しても実現させたかったので、話を進めていたのです。
 しかし、フルトヴェングラーが倒れたことによって、理事会と
しては不安が広がっていたのです。そこでインテンダントのヴェ
スターマンは、カラヤンに次のことを打診したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 フルトヴェングラーに万一のことがあった場合、アメリカ・
 ツァーの指揮を引き受けていただけますか。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヴェスターマンとしては、カラヤンにはあくまで米国ツァーの
代理だけを依頼しており、ベルリン・フィルの音楽監督までは頼
んでいないのです。これはフルトヴェングラーへの忠誠心であり
フルトヴェングラーが存命中は、あくまで万一の場合の米国ツァ
ーの指揮の依頼のみという姿勢だったのです。
 そのあたりのことはカラヤンは十分承知しており、ヴェスター
マンの提案を受け入れています。そして、ほぼ一年後の1954
年9月23日と11月21日と22日の両日に、ベルリン・フィ
ルを客演する契約をしているのです。
 さて、フルトヴェングラーが亡くなったのは1954年11月
30日です。しかし、フルトヴェングラーにとって最後の年にな
る1954年の仕事は実に過酷なものだったのです。
 1954年のフルトヴェングラーの最初の仕事は、3月12日
のロンドンでのフィルハーモニアへの客演です。その後空路でベ
ネズエラに向かっています。19日と21日にカラカスでその土
地のオーケストラを指揮しています。そして、その5日後の3月
26日にはチューリッヒでのコンサートを客演しているのです。
 さらに30日にはシュトゥットガルト、4月のはじめにハンブ
ルグでベルリン・フィルと合流し、そのままベルリンに向かって
4月4日から6日までベルリン・フィルのコンサートを行い、そ
の後、ウィーンでウィーン・フィルのコンサートを5回行ってい
るのです。
 4月25日から3日間連続でベルリン・フィルのコンサートを
行った後、ベルリン・フィルを率いてツァーに出ています。28
日のハノーファからはじまり、ビーレフェルト、ケルンとドイツ
国内を回ったあと、パリ、リヨン、ジュネーブ、ローザンヌ、ミ
ラノ、フィレンチェ、ペルージャ、ローマ、トリノ、ルガーノ、
チューリッヒ、フライブルクなどのヨーロッパの各地を回り、再
びドイツに入り、バーデンバーデン、カールスルーエ、マンハイ
ム、カッセルを経てベルリンに戻ったのです。
 休む間もなく5月23日から25日まで連続でベルリンでコン
サートを行い、30日にはウィーンに出掛けてウィーン・フィル
を指揮しています。まるで、今までコンサートを行った各地の聴
衆に別れを告げるかのように、狂ったようにコンサートを続けた
のです。きっとフルトヴェングラーにはこれが「最後のコンサー
ト」になることがわかっていたに違いないのです。
 それから、7月の後半からザルツブルグ音楽祭に取り組んだの
です。フルトヴェングラー最後のザルツブルグ音楽祭ということ
になります。ウェーバーの『魔弾の射手』とモーツァルトの『ド
ン・ジョバンニ』をそれぞれ5回ずつ指揮しています。いずれも
長いオペラであり、指揮台に立っているだけでも大変なのです。
 その合間を縫ってバイロイト音楽祭で『第9』を演奏し、さら
にルツェルン音楽祭にも出演しています。そして、またザルツブ
ルグに戻り、残りのオペラとコンサートを指揮しています。
 9月6日にブザンソンで放送管弦楽団を指揮し、フルトヴェン
グラーはベルリンに戻っています。9月19日と20日の両日、
ベルリン・フィルのコンサートで、自作の交響曲第2番とベート
ーヴェンの交響曲第1番を指揮しています。このコンサート終了
後の夕食会で、フルトヴェングラーは友人に「ベルリンで指揮す
るのはこれが最後になる」と語ったといいます。
 フルトヴェングラーはそのあとウィーンに行っています。そし
て、EMIの録音のためにウィーン・フィルを指揮して『ワルキ
ューレ』を演奏しています。これが最後の演奏であり、最後の録
音になったのです。
 それからフルトヴェングラーはスイスの自宅に戻り、交響曲第
3番の作曲をはじめたのですが、風邪を引いて熱が下がらなくな
り、入院を勧められたが断って11月30日に亡くなっているの
です。治療を拒否したのは、耳がよく聞こえないことに絶望した
のが原因と思われます。      ―[カラヤンの謎/50]


≪画像および関連情報≫
 ●フルトヴェングラーの補聴器/エバーハルト・フィンケ氏
  ―――――――――――――――――――――――――――
  一つ記憶に鮮やかに残っているリハーサルがあります。この
  日のリハーサルは、補聴器を試すだけのために設けられたの
  でした。オーケストラの中にマイクが置かれ、彼のベルトに
  受信機が取り付けられました。音量の調節がそこでできるよ
  うになっていて、レシーバーは耳の中にあり外からは見えま
  せんでした。初めて補聴器を付けるとそれまで何年も聞かな
  かった雑音が急にはっきり聞こえすぎるといわれていますが
  フルトヴュングラーの場合もそうでした。いずれにせよ、彼
  は受信機のボタンをいじっていましたが騒音と雑音しか聞こ
  えなかったようです。15分後に手で諦めたという動作をし
  「ありがとう、皆さん、もう充分です、さようなら」と言っ
  たのです。それが、オーケストラが聞いた彼の最後の言葉で
  した。――クラウス・ラング著、『チェリビダッケとフルト
               ヴェングラー』/音楽之友社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

耳がよく聞こえないフルトヴェングラー.jpg
耳がよく聞こえないフルトヴェングラー
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2009年06月12日

●「フルトヴェングラー倒れる」(EJ第2590号)

 1952年のバイロイト音楽祭――それは始まる前から暗雲が
漂っていたといえます。その原因は、カラヤンがバイロイトの新
しい盟主であるヴィーラント・ワーグナーと音楽祭の運営や演出
上の問題で大きくもめていたことです。
 ヴィニフレッド・ワーグナーの2人の息子の兄であるヴィーラ
ントは、物事を正しく判断ができる人物ですが、弟のヴォルフガ
ングは猜疑心の強い人間で、兄はカラヤンに騙されており、音楽
祭を乗っ取られるのではないかと疑惑の目で見ていたのです。
 もうひとつカラヤンを苛立たせた原因のひとつは、音楽祭でカ
ラヤンが指揮する『トリスタンとイゾルデ』のライブ録音がEM
Iの反対によって中止になったことです。EMIがやらない理由
は、「EMIには『トリスタンとイゾルデ』は2ついらない」と
いうものです。『トリスタンとイゾルデ』は既にフルトヴェング
ラーによって、スタジオ録音されていたからです。
 これに対し、ウォルター・レッグはEMIの上層部に噛みつい
たのですが、承認されなかったのです。カラヤンは、売り言葉に
買い言葉で「それならどこで録音してもいいんだな」とレッグに
いったのですが、カラヤンに録音させるレコード会社のあてはな
く、結局録音しないことになったのです。
 カラヤンにとって面白くないことばかりです。そのバイロイト
音楽祭の混乱の模様について、中川右介氏は次のように書いてい
るのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 音楽祭は、険悪な雰囲気で始まり、終わった。カラヤンはオー
 ケストラの配置の入れ替えを求めたり、リハーサルで主演クラ
 スの歌手をしめ上げるなど、偉いのは自分だとアピールするか
 のごとくに、暴君ぶりを発揮した。まるで、衝突するのを自ら
 望んでいるかのようだった。彼自身、何のために、誰と闘って
 いるのか分からなかったが、とにかく、カラヤンのまわりは、
 すべて敵になっていた。          ――中川右介著
     『カラヤンとフルトヴェングラー』より/幻冬舎新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 カラヤンがバイロイト音楽祭で悪戦苦闘している頃、ザルツブ
ルグでフルトヴェングラーが倒れたのです。『フィガロの結婚』
のリハーサル中に倒れ、病院に担ぎ込まれた時点では意識不明で
あったのです。意識は間もなく回復したのですが、このとき治療
に使った抗生物質が原因で、難聴になったのです。実際に楽器を
演奏しない指揮者にとって耳は重要な器官であり、それ以後、そ
れはフルトヴェングラーにとって重い負担となったのです。
 フルトヴェングラーが指揮台に復帰したのは1952年11月
29日のことです。復帰コンサートのオーケストラはウィーン・
フィルだったのです。
 フルトヴェングラーは、12月7日から3日間にわたってベル
リン・フィルを指揮すると、イタリアのトリノに向かっているの
です。RAI交響楽団とのコンサートのためです。「RAI」と
いうのは、イタリア国営放送のことであり、トリノを本拠地とす
るオーケストラです。
 実はそのコンサートの聴衆のなかにチェリビダッケがいたので
す。チェリビダッケは開演前のあわただしい時間帯にフルトヴェ
ングラーを訪ねて挨拶をしています。ここで2人はごく一般的な
会話しか交わしていないのです。時間がなかったのか、ベルリン
・フィルの話は何も出ないで終わっています。
 フルトヴェングラーは時間が来ると「それでは終演後にでも」
といって握手をして別れていますが、チェリビダッケは終演後に
訪ねてこなかったのです。そのときどうしてチェリビダッケがフ
ルトヴェングラーを訪ねなかったかについて、その理由はわかっ
ていないのです。
 フルトヴェングラーとしては、コンサートの評価を聞きたかっ
たのです。当日の演奏には多くの問題点があり、会えばチェリビ
ダッケとしてはそのことに触れることになるので避けたのか、も
ともと挨拶自体の目的が「お別れ」であったのでこなかったのか
いずれにせよ、開演前のこの短い会話が、フルトヴェングラーと
チェリビダッケの最後の会話になってしまったのです。1952
年12月19日のことです。
 1953年夏のザルツブルグ音楽祭において、フルトヴェング
ラーは、一年前の音楽祭で途中キャンセルしたことを償うように
真剣に取り組んでいます。しかし、耳がよく聞こえないことや、
集中力の衰えにより、かつてのような演奏はできなくなっていた
のです。そんな事態になっても、フルトヴェングラーは、音楽祭
の主導権は他の者には渡さないつもりだったのです。驚くべき執
念であるといえます。
 一方、カラヤンは、ザルツブルグから追い出され、バイロイト
音楽祭の主導権を取ったものの、肝心のワーグナー家とのトラブ
ルによって、1952年をもってバイロイト音楽祭と決別してい
たのです。したがって、1953年のカラヤンの音楽祭シーズン
の出番はほとんどなかったのです。
 しかし、カラヤンはそういう空き時間を利用してロンドンのE
MIのスタジオにこもって、フィルハーモニア管弦楽団を指揮し
て、レコーディングに専念したのです。
 そういう1953年9月8日のことです。カラヤンはベルリン
において、ベルリン・フィルの指揮台に立ったのです。カラヤン
がベルリン・フィルを指揮するのは、1942年11月以来のこ
とであるので、実に11年ぶりのことであったのです。バルトー
クの『オーケストラのための協奏曲』とベートーヴェンの交響曲
第3番『英雄』というプログラムだったのです。
 ベルリン・フィルとしても、カラヤンが本当にフルトヴェング
ラーの代役が務まるかどうかを見極める必要があったし、カラヤ
ンとしても団員に自分の実力を認めさせる必要があったのです。
このときのコンサートはそういう意味で双方にとって重要なコン
サートだったのです。       ―[カラヤンの謎/49]


≪画像および関連情報≫
 ●1953年9月8日の公演評/カラヤン/ベルリン・フィル
  ―――――――――――――――――――――――――――
  新聞評にはこうある。「《英雄》では「思わせぶりなところ
  や尊大さはみじんもなく、肥大化した自尊心や英雄崇拝は排
  除されていた。透徹した冷静な演奏を土台にして、美意識と
  構築力を結合させていた」。「バルトークの《オーケストラ
  のための協奏曲》では、オーケストラが「カラヤン指揮のも
  とで新境地を開いた。今までにない新しい演奏スタイルに順
  応した」とある。だが、プロの耳には新鮮に聴こえたものも
  一般の聴衆には物足りなく感じたようだ。拍手は控え目なも
  のだったという。            ――中川右介著
     『カラヤンとフルトヴェングラー』より/幻冬舎新書
  ―――――――――――――――――――――――――――

フルトヴェングラーとチェリビダッケ.jpg
フルトヴェングラーとチェリビダッケ
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2009年06月11日

●「『感情を害したプリマドンナ』という表現」(EJ第2589号)

 1952年4月2日、フルトヴェングラーは、ベルリン・フィ
ルのインテンダント代理エルンスト・フィッシャーに宛てて次の
手紙を送っているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 チェリビダッケとカラヤンには時間の許す限り、彼らが求める
 数のコンサートをすべて承知してやってください。
              ――クラウス・ウム・バッハ著/
  斎藤純一郎/カールステン井口俊子訳『異端のマエストロ/
   チェリビダッケ/伝記的ルポルタージュ』/音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 これはどういう意味でしょうか。
 あれほどカラヤンを嫌っていたフルトヴェングラーが、チェリ
ビダッケはともかくカラヤンにもベルリン・フィルとの仕事を増
やしてやれといっているからです。
 フルトヴェングラーとしては、ベルリン・フィルの自分の後継
者としてチェリビダッケを推薦していたのですが、チェリビダッ
ケは、音楽家としての能力は高いが、楽団を統率し、まとめ上げ
る力には問題があると考えて、直接会ったときや手紙でたびたび
忠告していたのです。
 しかし、彼は自分の言動を改めずベルリン・フィルの団員から
もクレームが出ていたのです。そこで、フルトヴェングラーは、
ベルリン・フィルの首席指揮者に復帰した1951年1月にチェ
リビダッケに手紙を書いて、繰り返しその点についてアドバイス
したところ、チェリビダッケからはそれに抗議する手紙が届いた
のです。その手紙の内容について、フルトヴェングラーは第三者
に次のように話しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 チェリビダッケから手紙を受け取りましたが、どうも理解でき
 かねます。私は腹蔵のない率直な意見を書いたのです。友とし
 て。ところが彼はまるで感情を害したプリマ・ドンナのような
 返事を書いてきました。  ――クラウス・ウム・バッハ著/
  斎藤純一郎/カールステン井口俊子訳『異端のマエストロ/
   チェリビダッケ/伝記的ルポルタージュ』/音楽之友社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 「まるで感情を害したプリマ・ドンナのような手紙」−−この
表現はこれ以上ない侮蔑的な表現であると思います。この時点で
フルトヴェングラーとしては、チェリビダッケを後継者にするこ
とを諦め、彼を追い落とすためにカラヤンに仕事を与えよという
サジェッションをしたと考えられるのです。
 カラヤンに関わるすべてのことについて自信を失いつつあった
フルトヴェングラーとしては、もはやベルリン・フィルの後継者
はカラヤンしかいないと考えたものと思われます。
 1952年5月、カラヤンはフィルハーモニア管弦楽団を率い
てベルリンに降り立ったのです。その前の週にはフルトヴェング
ラーがソリストにユーディ・メニューインを迎えて、ベルリン・
フィルを指揮して3回のコンサートを行っていたのです。演目は
ベートーヴェンの作品が中心であり、とくに交響曲第7番は2回
も取り上げられています。
 なぜ、フルトヴェングラーは、交響曲第7番を2回も取り上げ
たのでしょうか。
 推測に過ぎないことですが、これは次の週にカラヤンがやって
くることを知っているフルトヴェングラーがあえてやったものと
思われます。
 というのは、1947年の暮にカラヤンがフルトヴェングラー
にザンクトアントンで会ったとき、ベートーヴェンの交響曲第7
番の緩徐楽章のテンポの取り方について指導を仰いだことがあり
そのことをフルトヴェングラーが覚えていたのではないかと思わ
れるのです。(EJ第2583号)
 そういうわけで、ベルリンの聴衆に自分と直接比較をさせるの
であればカラヤンも同じ曲を振ったらどうかというフルトヴェン
グラーの挑戦ではなかったと思われるのです。
 そのことを知ってか知らずか、カラヤンはその挑戦には乗らず
ベルリンでは、ブラームスとチャイコフスキーの作品に演目を絞
り、演奏が行われたのです。コンサートホールは、ティタニア・
パラストだったのです。ツァー全体の棹尾の曲は、カラヤンが最
も得意とするチャイコフスキーの交響曲第5番だったのです。
 その夜は、フィルハーモニアとベルリン・フィルの合同でパー
ティーが行われたのです。ベルリン・フィルの歓迎の意を表して
いたのです。
 そのとき、カラヤンは別の席でベルリン・フィルの幹部と話し
合っていたのです。ベルリン・フィルとしては、フルトヴェング
ラーの指示にしたがい、カラヤンを迎え入れようとしていたので
す。しかし、話し合いは順調には進まなかったのです。それは、
ベルリンにやってきてときどきコンサートを振るレベルの客演で
はなく、ツァーをカラヤンが望んだからです。カラヤンとしては
ここで自分を安売りする気持ちはなかったのです。
 しかし、フルトヴェングラーとカラヤンとの確執はかたちをか
えてまだまだ続くのです。それは、EMIでの『トリスタンとイ
ゾルデ』の録音をめぐる話です。フルトヴェングラーは以前から
『トリスタンとイゾルデ』の録音を希望し、これについてEMI
としても異存はなかったのです。
 しかし、EMIのウォルター・レッグが想定していた指揮者は
カラヤンだったのです。フルトヴェングラーとレッグの関係は、
例の『魔笛』事件以来冷え切っており、とうてい修復不能な状態
だったのです。
 ところが、そういう二人の仲をとりもったのは、イゾルデを歌
うキルステン・フラグスタートだったのです。彼女は「自分の良
さを引き出してくれるのはフルトヴェングラー以外にはいないし
プロデューサーはレッグが最適であるといって、2人を説得した
のです。             ―[カラヤンの謎/48]


≪画像および関連情報≫
 ●ベルリンでのフィルハーモニアのコンサートについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  ベルリンにて、5月30日
  苦しみのはてに待ち望んでいた目標、テイクニア・バラスト
  でのコンサートがついに実現しました。コンサートは大成功
  でした。オーケストラは神々のように演奏し、フォン・Kも
  まさに立派でした。ウォルターはコンサートが終わると、私
  を振り向いて「どうだい、やる価値はあったろう?」と言い
  ました。ぅなずかないわけにいきませんでした。(ウォリッ
  ク宛のコーベットの手紙)
         ――リチャード・オズボーン著/木村博江訳
      『ヘルベルト・フォン・カラヤン』上巻/白水社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

カラヤンの練習風景.jpg
カラヤンの練習風景
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2009年06月10日

●「カラヤンの存在を否定できなくなる」(EJ第2588号)

 1951年のザルツブルグ音楽祭において、フルトヴェングラ
ーの指揮で『魔笛』を演奏したオーケストラ――ウィーン・フィ
ルとそのメインの歌手陣――エーリッヒ・クンツ、イルムガルト
・ゼーフリート、マルン・ルス、エリーザベト・ヘンゲン、セー
ナ・ユリナッチ、ジョージ・ロンドン、エリザベート・シュヴァ
ルツコップなどの歌手を使って、同じ『魔笛』をカラヤンの指揮
で録音したのです。レッグの仕掛けです。
 これを知ったフルトヴェングラーは激怒したのです。なぜなら
自分がザルツブルグで練り上げてきた成果をカラヤンが横取りし
たことになるからです。俺はカラヤンのリハーサル指揮者みたい
じゃないか――こういってフルトヴェングラーは怒ったのです。
 フルトヴェングラーは、レッグに対して、抗議の手紙を書いた
のです。しかし、レッグはフルトヴェングラーとは『魔笛』を録
音する契約はないが、カラヤンとは契約を結んでいる――EMI
がその契約を履行するのに誰を指揮者にして、どういうキャスト
で録音しようが自由であるとして反論したのです。
 今までのフルトヴェングラーであれば、EMIに対し「カラヤ
ンか、フルトヴェングラーか」の二者択一を迫り、カラヤンを外
さないのであれば、今後EMIとのビジネスはいっさい断ると宣
言するところです。
 しかし、フルトヴェングラーは、ここでも自信がなくなってい
たのです。レッグとカラヤンは結び付きは強いようであるし、も
しかすると自分の方が切られる――このように、カラヤンの存在
は少しずつフルトベングラーにとって強い存在になって行ったの
です。皮肉なことにカラヤンにそうした力をつけさせたのは、他
ならぬフルトヴェングラー自身であることにフルトヴェングラー
は気がついていなかったのです。
 1951年、フルトヴェングラーにとってそれはおそらく最も
忙しい年になっていたのです。しかし、そのときベルリン・フィ
ルの理事会は困惑していたのです。どうしてかというと、実質的
な首席指揮者であるフルトヴェングラーがベルリン・フィルを振
る回数が大幅に減少していたからです。1950/51年のシー
ズンでは、フルトプェングラーがベルリンでベルリン・フィルを
指揮したのは、1950年10月に2回、12月に3回、195
1年2月に2回の合計7回だけだったからです。
 それに1951年春には、フルトヴェングラーからベルリン・
フィル理事会に次の手紙が届いたので、さらに危機意識が高まっ
たのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  来年は作曲に専念したいので、指揮活動は休もうと思う
                ――フルトヴェングラー
―――――――――――――――――――――――――――――
 ベルリン・フィルの理事会としては、フルトヴェングラーをベ
ルリンにつなぎとめておくためには、もはや正式な契約による音
楽監督・首席指揮者に就任してもらうしかないという結論に達し
たのです。そして、1951年3月に理事会は、フルトヴェング
ラーに次の手紙を出したのです。これは理事会としては最後の手
段であったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 いつの日かきっと我々のもとに戻ってくださると信じて、5年
 間辛抱して待ってきました。カラヤンをベルリンにたびたび招
 くという方向に進み始めれば、もうそれを止めることはできな
 くなります。               ――中川右介著
     『カラヤンとフルトヴェングラー』より/幻冬舎新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは、かつてゲーリングがとった手法です。フルトヴェング
ラーをベルリンに引き寄せるにはカラヤンを呼ぶことが一番良い
のです。フルトヴェングラーは作曲活動を諦めてベルリンに戻る
しかなかったのです。
 フルトヴェングラーは、かかる事態になったのはチェリビダッ
ケのせいであると考えたのです。しかし、ここはまた彼の力を借
りるしかないので、フルトヴェングラーはチェリビダッケに次の
要旨の手紙を書いて協力を要請したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (私は)首席指揮者に復帰するが、とても全責任を一人では負
 えないので、今までどおり、貴方にも、かなりのコンサートを
 振って欲しい。その地位は、他の客演指揮者とは異なる、ひと
 つ上のものになるだろう。         ――中川右介著
     『カラヤンとフルトヴェングラー』より/幻冬舎新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 チェリビダッケはそのとき病気をしてメキシコで療養中であっ
たのですが、フルトヴェングラーには「好きなようになさってく
ださい」という返事を出しているのです。
 そして、1952年1月、フルトヴェングラーは、ベルリン・
フィルとの契約書にサインしています。そのさい、フルトヴェン
グラーは、チェリビダッケのコンサートを増やすよう理事会に要
請しているのです。
 しかし、ベルリン・フィルとしてはあんまりチェリビダッケを
多く使いたくはなかったのです。したがって、チェリビダッゲは
フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュに続く第3の指揮者
としての扱いだったのです。フルトヴェングラーのいう「他の客
演指揮者とは異なる、ひとつ上のもの」という約束は果たされる
ことはなかったのです。こういうフォローはフルトヴェングラー
の最も苦手とするものであったのです。
 このことに加えて、フルトヴェングラーがチェリビダッケに対
して、「今後、オーケストラやドイツ音楽界についての言動を慎
しむように」と書き送った手紙によって、フルトヴェングラーと
チェリビダッゲの人間関係は、さらに悪化していくことになって
しまうのです。そこで、フルトヴェングラーはなんとカラヤンの
客演を増やすよう要請したのです。 ―[カラヤンの謎/47]


≪画像および関連情報≫
 ●フルトヴェングラーVSカラヤン
  ―――――――――――――――――――――――――――
  このドラマを三幕に分けてみよう。第一幕、ベルリンでの権
  力争い。フルトヴュングラーはベルリン・フィルの首席指揮
  者である。フルトヴュングラーを揺さぶるためゲーリングは
  1938年以降ベルリン国立歌劇場にカラヤンを送り込む。
  第二幕、ウィーンでの権力争い。フルトヴュングラーはウィ
  ーン・フィルの首席指揮者である。1950年のバッハ年に
  カラヤンはフルトヴュングラーの《マタイ受難曲》にウィー
  ン合唱協会を譲らず、ウィーン交響楽団と共に対位旋律を奏
  でる。終幕である第三幕、ベルリン。フィルをめぐるカラヤ
  ンとフルトヴュングラーの権力争い。この三者、誰も生き延
  びられないのではなかろうか。  ―クラウス・ラング著/
  斎藤純一郎/カールステン井口俊子訳『チェリビダッケとフ
             ルトヴェングラー』/音楽之友社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

指揮するチェリビダッケ.jpg
指揮するチェリビダッケ
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2009年06月09日

●「磁気テープとLPの登場による革命」(EJ第2587号)

 バイロイト音楽祭はベートーヴェンの『第9交響曲』で始まる
のです。ヴィーラントは『第9』はフルトヴェングラーに振らせ
るのがベストと考えて、再度フルトヴェングラーに会って、説得
を試みたのです。なぜなら、フルトヴェングラーは、1951年
のバイロイト音楽祭でオープニング・コンサートを指揮する契約
を既に結んでいたからです。
 しかし、ヴィーラントのこの申し出に対して、フルトヴェング
ラーは最初は断っています。そこでヴィーラントは、次のように
いって重ねて説得を試みたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 バイロイト音楽祭で最初に音を出すのには、カラヤンではなく
 貴方でなければならない。         ――中川右介著
     『カラヤンとフルトヴェングラー』より/幻冬舎新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 フルトヴェングラーとしては、「カラヤンが出るなら自分は出
ない」といいたかったのです。しかし、今回ばかりは少し自信が
なかったのです。もし、断られたら屈辱的であるし、逆にヴィー
ラントがそれを受け入れ、「それではカラヤンは断りますが、オ
ペラもすべて振ってくれますね」といわれたら困るからです。な
ぜかというと、同時期にザルツブルグ音楽祭が開催されるからで
す。これら2つの音楽祭をメインとしてかけもちすることは不可
能であったからです。
 カラヤンとヴィーラントはそこまで読み切って、フルトヴェン
グラーに最初に音を出す役割を頼んだのです。これについて、バ
イロイト友好協会のメモには次のように記されているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ヴィーラントは再びフルトヴェンダラーと交渉したが、彼は3
 度「イエス」と言い、5度「ノー」と言ったあと、1951年
 の音楽祭をフォン・カラヤン氏のバイロイトにではなく、リヒ
 ャルト・ワーグナーのバイロイトにすることを条件に、最終的
 に「イエス」と言った。
         ――リチャード・オズボーン著/木村博江訳
      『ヘルベルト・フォン・カラヤン』上巻/白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 このようにして、ザルツブルグ音楽祭で敗れたカラヤンは、バ
イロイト音楽祭でメインの座を固めたのです。カラヤンはもとも
とフルトヴェングラーとことを構えようという気持ちは一切なく
むしろ別のことに強い関心を持っていたのです。
 その別のこととは、磁気テープとLPの登場についてです。カ
ラヤンは、1950年1月のドイツ・ツァーの記者会見において
これを「2つの奇跡」と呼んで強い関心を示したのです。しかし
カラヤンがタッグを組んでいるレッグのEMIは、LPの開発に
なかなか乗り出そうとはしなかったのです。
 1951年にこんなことがあったのです。カラヤンがウィーン
・フィルを指揮して録音したモーツァルトの交響曲第39番が、
1951年4月に3枚組のSP盤で発売されたのです。ところが
その同じ月に同じ交響曲を同じオーケストラで録音したカール・
ベームのレコードがデッカからLP盤で発売されたのです。レコ
ード会社もかなりえげつないことをやるものですが、EMIとし
ては完敗だったのです。
 LPレコードは、米国のコロンビア(CBS)が開発促進を行
い、1948年にはじめて登場したのです。CBSは、12イン
チ/33・3分の1の回転方式をとったのに対し、RCAは19
49年3月、7インチ/45回転のEPを出しています。
 これら2つの巨大企業が覇を競っているときに、デッカはCB
S側について主導権を握ったのです。そしてデッカは、初LPを
1949年夏に米国で販売したのです。カラヤンと親しいEMI
のLP技術について、オズボーンは次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 EМIが、遅ればせながらもいくぶん自己満足ぎみに、LPが
 実現した長時間録音とビニール樹脂による「雑音のない盤面」
 を自慢しはじめたころには、再浮上したドイツのライバル会社
 ドイツ・グラモフォンは新たに開発したプレス加工技術と音質
 管理システムにより、雑音のなさと信頼性の点で、他社を大き
 く引き離していた。実際にドイツ・グラモフォンは、1950
 年代の初めにカラヤンをハノーファーの新工場に招き、自分た
 ちのプレス技術とEMIの技術とをその場で比較してみせた。
         ――リチャード・オズボーン著/木村博江訳
      『ヘルベルト・フォン・カラヤン』上巻/白水社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 1950年夏のザルツブルグ音楽祭――そこにはカラヤンの姿
はなく、フルトヴェングラーは実質的な音楽監督として振舞った
のです。そのとき『魔笛』が上演されています。
 ウォルター・レッグは、『魔笛』を観るとともに、ある目的の
もとに関係者の間を歩き回っていたのです。1950年という年
は、磁気テープが使えるようになったため、オペラの全曲録音が
可能になったのです。
 そこで、ザルツブルグ音楽祭の『魔笛』に出演したウィーン・
フィルとメイン・キャストで、モーツァルトの歌劇『フィガロの
結婚』が6月と10月の2回に分けて、レコーディングが行なわ
れたのです。もちろん指揮者はカラヤンです。
 ところが、『フィガロの結婚』の録音が10月31日に終わっ
たのにもかかわらず、オーケストラもメンバーも解放されなかっ
たのです。
 どうしてかというと、同じオーケストラとほぼ同じメンバーに
よって、そのまま『魔笛』が録音されたからです。これは、ザル
ツブルグ音楽祭で上演された『魔笛』が録音されたのと同じ意味
を持っていたのです。これは、理不尽にもザルツブルグ音楽祭か
らカラヤンを追放したフルトヴェングラーに対するレッグとカラ
ヤンの仕返しだったのです。    ―[カラヤンの謎/46]


≪画像および関連情報≫
 ●LPとEPについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  LPレコードは米国人ーター・ゴールドマークが開発、19
  48年6月21日にコロンビア社から最初に発売された。直
  径12インチ――30センチで収録時間30分。それ以前の
  レコードよりも長時間再生できるので、LP――ロング・プ
  レイと呼ばれ、SPより音溝が細いことから、マイクログル
  ーヴとも呼ばれた。また、回転数から33回転盤とも呼ばれ
  る。EPレコードLPと同じ材質・音溝で、RCAビクター
  が1949年に発売した。直径17センチで、収録時間5分
  EPは、エクステンディド・プレイという意味であり、回転
  数から45回転盤とも言う。     ――ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

ザルツブルグ中央駅.jpg
ザルツブルグ中央駅
posted by 平野 浩 at 04:16| Comment(0) | TrackBack(0) | カラヤンの謎 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする